友立ち~海の真心~

先日、館山でジャック・マイヨールの親友だった方のお話を拝聴することができました。貝のお話やダイビングのお話、また生き方や体験談など本当に愉しいお話をたくさんいただきました。

人は生き方が”からだ”からにじみ出ているものです。

何を大切にして生きているのかは、一目で雰囲気で語りますが話を聴けばその深いところに沈んでいる愛情すらも実感できます。友人というものは、友人の何を愛していたかでその人の目指す生き方が何を目指しているのかを教えてくれるように思います。

私も尊敬する方々がいますが、その尊敬する方々の生き方の中にこそ自分が憧れた夢があります。その夢を継いでいくのが友立ちなのかもしれません。

お話の中で特に印象に残ったものがあります。

生前、ジャック・マイヨールさんはこのままコンピューターが進んで人類が方向を誤れることをとても心配し警鐘を鳴らしていたそうです。そして人類がもしも間違わないのなら、便利さや快適さの半分を自ら手放す勇気が要ると仰っていたそうです。

親友の方がこの話を選んでくださったのも、私たちの志事が子ども第一義の理念で三つ子の魂百までに関係するからです。私たちの目指している今の生き方の本質を理解してくださったようで、とても嬉しい気持ちになりました。

本来、志事はどこまでの広さで世界とするか、またどこまでの深さで物事を決めるか、そしてどれだけ遠いところを見つめて日々を歩むか、つまりは生き方の実践にその人の志した全体像が出てくるものです。世間の評価ではたとえそれはちっぽけで変なことをしているように見えているとしても、その人が夢や愛をどれだけ深く沈めているかでその本当の偉大さが顕れるのでしょう。

人間に対する深い愛はまるで海そのもののようです。

深海に潜る真のダイバーの方だからこそ、その深く潜っているところにあるものの存在を伝えることができるのではないかと感動しました。不思議なご縁をつないでくださった存在のすべてに改めて感謝します。

今日からまたいつもの志事に精進させていただきますが、大切なメッセージを受け取りそれを磨き続けて醸成し、明日の現場実践に活かしていきたいと思います。

ありがとうございました。

真心の在り処

論語や君子というものを考えるとき、それは一般には政治やリーダーの学問であると言われます。しかし一度、そういう世間の評価を外して本当は何だろうとじっとそのものをそのままに見つめていると別の視点が顕れます。そもそも論語とは、そして君子とは一体何かということです。

それを少し深めてみたいと思います。

まず孟子の中に「君子三楽」という話が出てきます。そこにはこうあります。

孟子曰、「君子有三楽、而王天下、不与存焉。父母俱存、兄弟無故、一楽也。仰不愧於天、俯不怍於人、二楽也。得天下英才、而教育之、三楽也。君子有三楽、而王天下、不與存焉。」

意訳ですが、「君子には三つの楽しみがある。それは別に天下の王になることではない。まず一つ目の楽しみは父母が健在で兄弟も健やかであること。そして二つ目の楽しみは、天に恥じることのない真心で生きることができること。最後の三つ目の楽しみは天下に役立つ人たちを見出しその持ち味を活かせるようにすることだ。これは別に天下の王になることと関係がない。」と言います。

父母兄弟が和合し共に慈しみ、正直に素直な日々を謙虚に送れ、周囲を見守り活かせる安心基地の存在になること。孟子の描く君子像とはこのようなものです。

そして孔子はどう考えるのか、私には孔子の「志」について語る同志との問答の中に君子本来の姿が顕れているように思います。そこにはこうあります。

「顔淵季路侍、子曰、盍各言爾志。子路曰、願車馬衣輕裘、與朋友共、敝之而無憾、顔淵曰、願無伐善、無施勞、子路曰、願聞子之志、子曰、老者安之、朋友信之、少者懐之。」

意訳になりますが、「孔子は顔淵と子路と一緒に歩んでいる中であるとき彼らに質問をしました。”あなたたちの志を聴かせてくれないか”と。子路はそれに対してこう言いました。”馬でも馬車でも衣装でもなんでも朋たちと全て分かち合い、たとえそれをなくしたり壊されたりしても怒ることがない人になりたいです”これを私は志しますと。そして顔淵は言います。”他人には善いことをしそれを思うこともなく、他人の苦労をそっと取り払いまた思うこともない自分になりたいです”これが私の志ですと。そして孔子は最後に自分の志を言います。”年寄たちからは安心され、友人たちからは信頼され、若者からは慕われるような人になりたいものだ”と」

彼らが目指した君子とは一体どういったものか、それを感じるのです。

人は何かを成し遂げないから君子になれないのではなく、その日々の自己の心がけ次第で君子になれるようにも思います。人として当たり前のことができない苦しみを抱え、人は人生航路をそれぞれに歩んでいきますがその修行は日々のあちこちで訪れます。

その道の同行行脚の中で仲間と共に目指す仁人の実践、真心を盡すご縁をいただけることは何よりも有難い志のように思います。志の意味も、何か夢かなにかと勘違いすることがありますが彼らにとっての志とは思いやりのある人になりたいと願う自己の実践です。だからこそ道とはなんと深淵で奥深い美しい世界であるかと私には感じます。

学べば学ぶほどに本当に教えてくださっているのは、知識でもなく智慧でもなく、能力でもなく技術でもない、その真心の在り処だったのかもしれません。先生が居るということ、同志や仲間との御縁があるということはそれだけで何より有難いものです。

ご縁を大切に日々を学び直して急がずに休まずに心を廣く歩んでいきたいと思います。

教えるよりも助けること

競争原理の中の教育の刷り込みには、利己的なものがあるように思います。この利己的な教え方によって刷り込まれると、すぐに自他に厳しく当たってしまい甘やかすことを過度に嫌うようになるものです。

例えば、先生は子どもに何でも自分一人でできることを目的に教え込みます。自分一人でできなければすぐに叱られ、こんなこともできないのかと何度も何度も教え込まれます。先日もある子どもが、周りの子どもができないから手伝っていたら先生から自分のことをやりなさいと叱られたと言います。そしてできない子には自分でやりなさいと叱ったそうです。

自分でできないから助けていたらそれではこの子がダメになると言います。結局、大人になってみて組織を見て観ると同じような現場ばかりに出くわします。できないから助けている人と、できないのはその人のせいだと自分でやれとツケ放す人がいます。

もしもチームで仕事をする場合はツケ放しても効果はあまりありません。それよりも助けてあげた方がお互いの結束が強くなり、信じる力も高まり信頼関係が深まっていきます。できない人をみては教えてあとは厳しくツケ放している人は、結局は一人で仕事を持って誰にも渡せず孤独になっていたりしますがそれはそれまで受けてきた教育の刷り込みではないかと感じるのです。

本来、人は教えるよりも助けてあげた方ができるようになります。最初はみんな誰もができないからこそ助けてもらい、安心した中でいろんなことを試すようになります。最初から頭ごなしにこんなこともできないのかとツケ放し、何回も言っただろうと言葉で教え、さらにはもう自分でするからしなくていいと言ってしまえば元も子もありません。そうなれば全部一人でやらないといけないですがそんなことは所詮無理です。それは「教え込むことに問題がある」と自分の刷り込みに気付くしかないように思うのです。

人は競争原理の中で、なんでも一人でできるようになるように教え込まれるからそのように自他に厳しすぎて孤独になって完璧を目指すようになるのかもしれません。人はみんな不完全ですから、できないところはお互いに助け合いフォローする方が和合し協力し楽しく倖せに人間らしく生きていけるように思います。

自分が受けてきた教育をそれが世間の常識だと他人に押し付ける前に、自分はどうありたいか、本当はどうありたいかと自反慎独し周囲のために思いやりや真心でありたいと願えばその刷り込みも実践を積み重ねることで取り払われるようにも思います。

人はやられてきたことをその時は辛く嫌だと思っていても、それを我慢して仕方ないと肯定してしまえば知らず知らずに自分もまた他人にそのまま同じことをやってしまいますから、自分の中で一つ一つ内省をして振り返り改善に転じていくしかありません。

教える人は助けてもらっていないという人が多いですが、真実は今まで自分の得てきたもののすべては”他人様から助けていただいた御蔭様で得た力”ですから、それをどのように御恩返しをして活かすかはその人の決めた生き方次第です。

きっと教えようから助けように変われば、もっと可能性は広がり自他を活かせるように思います。

その人の性格や人格だと裁くよりも、刷り込みがありますよとアドバイスし、自分がモデルになる実践をみせていけるようにさらに感謝を土台にして精進していきたいと思います。

急がず休まずじっくりと~発酵の智慧~

人が病を得て治癒をしていくとき、その治し方に生き方も出てくるように思います。

例えば、からだが不調になるとき早く治そうとする人とじっくりと治そうとする人がいます。それはまるで急いでは休もうとする人と、急がずに休まない人との違いのようです。

何でも速く、なんでも急いでとなっているから物事の判断はすべて自分が優先されていきます。もしも逆にじっくりとゆったりととなれば物事の判断に周りを思いやる余裕が生まれるのです。

以前、ダライラマ法王の何かの法話の中で現代人の不思議について話がありました。具体的には、必死で儲けることだけに夢中になり会社を大きくし売り上げもあがり利益もだし自分も大きな貯金を持つようになりますが、今度はそのことで病んだ自分の身体や心を治すためにまた大きな貯金を使っていくという生活が不思議だという話です。

お金を稼ぐために必死に働き大金もちになって、その大金もちにしかできない大金を使った治療をする。経済はそこで発展すると思いますが、その人はどうなっているのだろうかと思うのです。

そうやってなんでも急いで目先の目標ばかりに囚われて突っ走っていたら、無理ばかりしてからだを崩します。しかし焦っているのだからすぐにサプリや薬に頼ります。もしくは手術などの即効性のあるもので解決したくなるのでしょう。しかしその実、速効を求めるほどに物事は停滞して腐敗するように今では感じます。本来の停滞とは焦りや慢心のことなのでしょう。

だからただ寝ているだけや、何もすることがないから何もしないということをやろうとすると人はきっと不安になるのかもしれません。人は本来、心を定めて決心すれば日々に怠らず実践することは沢山あります。焦らず謙虚に無心になって実践を一つ一つ積み重ねていくことは、日々に心を天に通じ合わせることもでき安心の中でいのちが活かされる実感を味わえるものです。

そのために自分の欲望や願望、もしくは周囲の抑圧や押し付けなどに執らわれない自分を創っていくしかないようにも思います。そこにもまた自然の智慧や逞しさ、自分を信じるしなやかさが求められるように思います。

そのためにはまず自分の決めた生き方に専念すると決心することかもしれません。

当たり前と思ってしまう自分の生活習慣は自分の決めた生き方の実践そのものです。

その実践を倦まずに弛まずに積み重ねていけば、自ずから急がず慌てずゆっくりとじっくりと時間をかけようと思うものです。同じ時間をかけるなら、やっぱりじっくりと時間をかけた方が楽しいときも増えていきますし充実して思いやりや感謝に導かれる倖せにも出会えます。

急がず休まずにじっくりとは、発酵から学んだ智慧であり真髄です。

実践を積み重ねていきたいと思います。

 

自律とは何か

先日、ある学校の入学式で自律ということについて校長から挨拶がありました。その際には、自立と自律の話があり、自律という字をよく見て如何に自分を律することが大切かということについて話がありました。

この自律については色々という人がありますが、私には別に思うことがあります。それを少し深めてみようと思います。

この自律を思うとき、まず心に浮かぶのが己に克つという言葉です。そして次にもっともそれを言い表すのは論語にある「己に克ちて礼に復るを仁と為す」ということです。

これは現代に意訳すれば、小我に打ち克ち大我を生きて自分を自分で甘やかさずに律することができるなら思いやりになりますよということです。これを逆さに読めば、思いやりがなくなれば律することがなくなり、ついには怠惰傲慢になっていきますよという訓戒でもあります。

人は思いやりや真心があるからこそ、自分を周りのために我慢し利他をし役立てようと努力します。その際に自分の中から出てくる様々な言い訳を吹き飛ばし、自分が何をすることがもっとも周りの役に立つのかと実践を励み周囲の勇気になっていきます。

人間は安定して満たされ過ぎると、それが当たり前になり感謝を忘れていく生き物です。如何に自分との正対に人知れずに向き合うかはその人次第ですから、人生は誰にも等しく精進していく機会が与えられているということになります。

西郷隆盛に「自己愛」のことが書かれている一文があります。以前、ブログでも紹介しましたが自分を愛しすぎるなということが書かれている後半の文章があります。そこにはこうあります。

「能く古今の人物を見よ。事業を創起する人其事大抵十に七八迄は能く成し得れ共、殘り二つを終る迄成し得る人の希れなるは、始は能く己を愼み事をも敬する故、功も立ち名も顯るるなり。功立ち名顯るるに随ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒慎の意弛み、驕矜の氣漸く長じ、其成したる事業を負み、苟も我が事を仕遂げんとてまずき仕事に陷いり、終に敗るるものにて、皆な自ら招く也。故に己れに克ちて、賭ず聞かざる所に戒愼するもの也。」

要約すると、最初は慎んで己を律していたものが次第に自分の思い通りになっていくと自己を愛しすぎるようになり怠惰が蔓延り結局は駄目になってしまう。それは自らが招くものだから常に己に克ってひとりの時によく慎みて戒め続けなさいとあります。

自律というものは、つまりこういうことです。

しかし自律の本意はどこにあるか、それは初心を忘れてしまうことかもしれません。日常に満足し、自己を鍛錬することを怠ると次第に何のためにやるのかを思い出すことがなくなってきます。何のために何をするのかが人生ですから、それを忘れるということは日常の安逸に精神が弛んでくるということなのでしょう。

自分が自分でぬるま湯から出る勇気があるかどうかが其処を抜け出す鍵かもしれません。「苦しさには強いが、ぬるま湯には弱い。これが人の心。」と千日回峰行の塩沼阿闍梨が言いましたがその通りだと私も思います。

ぬるい自堕落な日々に長く入っていたくなる自分にどう「喝」を自ら与えるか、自然界の厳しい寒暖差の中で生きる野生のいのちのように如何にワイルドに生き抜くか、そこに生きている実感という日常があります。自分で自分を律するというのは自らが決心してはじめの一歩を踏み出し、新たな境地に自分自身の主体性で挑戦するかということです。

子ども達のためにも、自ら主人公になり思いやりに生きる大人のままでいたいと思います。他人から与えられる他律ではなく、まさに自律こそが人生の面白さであり醍醐味です。

実践の意味を深め、実践を高めていきたいと思います。

 

海との再会~愛を体現~

先日、イルカが沢山の浜辺に打ち上げられ亡くなったニュースが報道されました。他にもクジラが浜辺に打ち上げられたニュースもよく聞きます。イルカやクジラと話せるわけではない人間は、磁場が乱れたとか地震が来るとか、シャチから逃げたからだとか様々な推測ばかりをします。

こんな時、私は故ジャックマイヨールを思い出します。

もしジャックマイヨールならこれをどう読み取るだろうかと。昨年の貝との出会いから私の中のジャックマイヨールはとても大きな存在になりました。海と人とのつながりにおいて忘れていたものを思い出したからです。海という感覚を自らの内なる世界観から捉える感性には心に響くものがあります。

ジャックマイヨールは、こういう話をしていました。

「たしかに人間は何万年にわたって、進化を遂げてきました。しかし、決して変わってはいないものがあります。水の記憶です。生命の源です。私達の体や遺伝子の中には、母の子宮の中や海の中で生きていた時代の記憶がはっきりと残っているのです。」

もともと私たちが本来「水棲生物」であった証は、赤ちゃんであったことを思えば自明します。赤ちゃんのとき、私たちは羊水の中でずっと泳いでいるからです。本来は水の中で暮らしてきたことを証明しています。

「私のささやかな経験から言えば、生と死は同じことの、裏と表のようなものです。 例えば赤ちゃんは生まれるとき、同時に死を通過しているのです。子宮の中にいる赤ちゃんは、ちょうどグランブルーの世界にいるときと同じように、完全な平和の世界に生きています。そして、ひとたび誕生の時が来ると、へその緒を切られ、一度死を通過して新しい次元に生まれ出るのです。これは人生も同じです。呼吸というへその緒が切れたとき、死を迎え、新しい次元に生まれ出るのです。魂の世界で、大宇宙の母の子宮に戻るのです。」

この次元で物事を捉えることができるのは自然を体感していたからなのでしょう。深い内省が深淵に近づくとき、人はこのような宇宙観に気づくのかもしれません。そしてイルカやクジラとの対話についてはこう言います。

「鯨達との交感に言葉はいらない。コミュニケーションではなく、ハーモニーするのだ。」

このハーモニーとは、いのちの響き合いのことを言います。お互いに自然に心を寄せるものはまるで一心同体になるということでしょう。佐賀県唐津でのイルカとの出会い、家族との思い出が響き合い初心になってその神秘なまでの海との記憶を美しい心のままに追い求めていたのかもしれません。

イルカやクジラの痛ましい自死のニュースは、これ以上、母なる海を汚さないでほしいという決死の真心の訴えかもしれません。絶対平和を選んだ彼らができることは相手を責めることもなく、自分を責めることもなく、”愛を体現”することであったのでしょう。

彼らにとっては今も未来の私たちも”みんな丸ごと自分の子ども達”です。子ども達に訴えかけてくるその真心や愛を心で感じ取り、本来の自然に学ぶ心を取り戻してほしいと私も一緒に深く祈ります。これはきっと”自然からこれ以上、心を離さないで”という海とイルカからの遺言です。

最後にジャックマイヨールの志の言霊からまだまだ子ども心を諦めないぞという勇気が湧いてきます。

『自然と寄り添い、自然と調和したとき、無限の可能性が生まれる』

3つ子の魂は100までを信じ、御蔭様の使命を信じ人類初心の実践あるのみです。
再会に心から感謝します、ありがとうございます。

新しい生き方と働き方

先日、ある子どもに小学校でのこんな話を聞きました。

小学校ではなんでも一人でできることを重んじ、周りの心配をしていたら「他人のことはいいから自分のことをやりなさい」と先生に叱られるそうです。その子は周りをいつも心配して「大丈夫?」と声がけをしているのですがその際にいつも自分のことを先にやるようにと指導されるそうです。

ふと、疑問を感じることがあります。

確かに、自分のことを自分でできることを自立であると定義しているならば他人の心配をするよりも自分のことをやればいいということになります。同じ目標ならそれぞれが自分のことをやっていれば全体では引き上がるのでできると考えますが、それはみんなが同じことを目指し同じことを周りと同じようにするようなことがある場合に限りです。

しかしそんなことは実社会に出てどれくらい頻度があるでしょうか。実社會に出て人と働いてみたら、多様化した今の環境では誰かと同じことをしている仕事などというものはほとんどなくなっています。ひょっとすると昔は大量生産大量消費で工場のような仕事が多かったのかもしれませんが、今では仕事も時間と共に変化し、昔のままでやって温故知新しないものは時間と共に消失していきます。仕事が消失するのは必然ですからその同じ仕事に固執していたら自分もまた失業してしまいます。

人が学ぶということはこの温故知新を繰り返すということです。言い換えれば自分を毀すということです。新しいことに挑戦し、今までの自分を刷新していくこと。新しい価値観に触れては新しい自分に出会い続けて自分を変え続けていくことです。

深めていかなければならない理由もそこに在りますし、楽しくしていく理由もまたそこにあります。変化は創造であり、変化こそ学問の本質です。

もしも人は同じことを皆がするが最良とするなら今なら精密なロボットで構いません。人間にはそれぞれ無二の個性があり一人ひとりに与えられた天分といった得意、特性があるのだからそれを活かしあうことで複雑なことも成し遂げ偉大なこともできるようになるものです。そしてそのプロセスの中に人間社會の幸福もあるのです。

そのためには単に同じことを行う個をつくり上げるのではなく、異なることを協力する中で自分を発揮して周囲のために活躍できる人の方が本来の集団では役に立つように思います。必死に周りができることと同じことができるようになったとしても、それよりももっとできる人が現れたなら自分は役に立てなくなるというのでは、不安はなくなりませんし倖せもまた感じにくくなります。

人が安心するのは自分にしかできないことが、周囲の人たちのお役に立っていることの実感です。それは単に能力だけではなく、その人の”持ち味が活きている”ということです。そしてその持ち味は、周りのために働く倖せを知っている人たち、そしてその人の持ち味を温かく見守り協力を惜しまない仲間たちによって得られるように思えるのです。それは先述した自分のことをやりなさいということではなく、周りのために自分のできることをやりなさいと言う方がいいように思います。それは不安を解消するために頑張りなさいではなく、安心して思い切りやってみなさいという励ましに似ています。

情報化社会が成熟してきて働き方も生き方も、ものすごいスピードで変わり続ける現代において「変化を教える」というのは何よりも重要なことのように私には思います。それは一斉画一に同じことを教えてできる環境で人を創るのではなく、柔軟性を持ち、いつも周りの変化に対して協力し合える個性溢れる豊かな環境で人を創る方が今はいいように思います。

新しい生き方や新しい働き方を子どもたちが創造していくのを今の大人たちが邪魔しないようにしていくことが将来の日本を世界の中で役立てていく方法ではないかと私は思います。子どもたちのモデルになるような新しい生き甲斐と遣り甲斐を自分たちを温故知新していくことで創りあげていきたいと思います。

 

逞しさ~ワイルドハート~

今の時代は自然の環境の中いるよりも、人工的な環境の中にいることの方が圧倒的に増えていることが多い時代です。都会に住めばあらゆるところにまで人工物が張り巡らされています。言い換えれば人間が頭で考えたものに囲まれた中で生きているということです。

いのちには本来、「逞しさ」というものがあります。自然界では逞しくないと生きていくことができません。それを生きる力と私は定義しています。しかし都市化人工飼育の中でその逞しさは次第に失われていくように思います。隅々まで人工的に操作したお金や物に頼る安心と安全こそがそういう人間本来の生きる力を奪うのかもしれません。

自然界というものは、数々の困難が待ち受けます。身近な植物をみていても、天候の急変にさらされ、動物や虫に食べられ、鳥についばまれ、あらゆる災難の中で自らの一生をいのちを燃焼させることで生き切ります。そこには野生があり、温室栽培のものとは明らかに逞しさが異なります。

本来、見守るということを感じる力や御蔭様と感謝する心は苦労する中で育まれていく感性のように思います。自分の思い通りや都合よくいかないと思って不平不満ばかりを並べては解決ばかりに固執しマジメになっていても嫌な思いをするだけで苦労をしているわけではありません。

人生は一度きり、一日一生と、今日ある当たり前ではない日々に感謝し、その日を精一杯生き切る中に真の苦労はあるように思います。如何に自分が活かされているか、如何に自分が生きていることが有難いか、平和ボケせずに生きる幸せを深く味わい盡すのです。

それは自然から離れないという意味と同じ意味になるかもしれません。

生きる力が発揮されるということは、野生を生きるということです。それは自然をエコなどと呼ぶのではなく、自然はワイルドであるという本来の意味を間違えないということです。自然の厳しさと慈しみ、それを存分に感じながら自分らしく生きていくことは、この自分のいのちを自ら主体として磨き光り輝かせていこうとする生きる力です。

物の視方を転じて観れば、自然の生き物たちはみんな一緒に逞しく生きています。自分だけで生きているなどという傲慢な気持ちこそがその人を孤独にしているのかもしれません。様々な生き物を育てたり一緒に暮らしたりする中で自然を取り戻していくことが孤独を取り払うことかもしれません。

子ども達には、この先の未来で何が起きても逞しく生きていってほしいと思います。私たちが大人として何を譲れるか、真摯に正対していきたいと思います。

裸の心

人間はみんな我があります。特に我が強いということは、理想が高いということでもあります。しかし同時に我が強いということは、それだけ自分に執らわれやすいということでもあります。自分に執らわれれば執らわれるほどに自利に走ってしまいます。

以前、ある住職の言葉に出会いました。

「俺が俺がの我を捨てて、御蔭おかげの下に生きる」という言葉です。

この言葉を紹介する住職の方は、池田智鏡さんという女性の方ですがご自身の壮絶な人生体験を経て尼になり、この言葉に出会いそれまでの生き方を見直し、全て一からやり直して住職になって人々へ心の支えとなるべく全国各地へ講演をなさっているそうです。

私自身はとても我の強い人間です。

我が強く、どうしても感謝がまだまだ土台になりきりません。やさしさだけでは自分に甘くなり、強いだけだと厳しくなるだけ、マジメになっては思いやりの実践が途切れ途切れと猛省の日々です。どうやったら心が寛く大きな人になれるのか、今でもよくわかっていません。

自分の力でやったと思う驕りや慢心の心を澄ませて有難いと感謝する慎み深く謙虚な真心は出たり消えたり、人生道場はいつも真剣勝負の連続です。自分がすごいのではなく御蔭様がすごいのだと思える日もあれば、我が強く出ればやはり逆の自分になってしまいます。一生懸命にやってみては、できた日もあればできない日もある、一進一退の中で呼吸するかのようにただ直向きに前に進んでいるだけです。

人は孤独を感じるのは二つあると言います。その一つは無視、無関心に自分を扱われたことへの怒り。もう一つはわがままが人を孤独にするといいます。謙虚に周りの御蔭様と思えるようになるには、この我の強さを心を磨きどう芯の強さに換えるかという心の修業が誰にしろ必要のなのかもしれません。

池田智鏡さんはこう言います、「助け合うこと。自分さえよければいいという考えは、自分も滅ぼし社会も滅ぼします」と。この自分の認識次第では周りへの回路を断ってしまい小さな自分に囚われてしまいます。「忘己利他」に生きるというのは、その強すぎる我を少し下げて己に克ち己を少しでも捧げることができるということでしょう。人道の極みはこの自然体、裸の心でいることのように私には思えます。

私自身、同じような体験をしているものの同じように乗り越えようとする人たちの苦しみを分かち合い許し合えても、それを具体的に乗り越える方法も工夫も今はまだ発明できていません。しかし、祈るような心で自他を一体に大切な人だからこそ真摯に一緒に乗り越えさせてほしいと心から思うのです。

機会とご縁は、必要なことであり人生には一切の無駄はないのだから裸の心で生きて子どもたちの模範になるような大人を目指していきたいと思います。面白い人生を愉快な仲間づくりを味わいながら思い出深く刻んでいきたいと思います。

 

樹と話す~大和心~

昨日、樹と対話するということについて話を聴く機会がありました。例えば、樹を使い何らかの道具を創る人たちや、植木に関する人たち、樹医などは樹と対話をしてはその樹のいのちを見極めそれを伸ばす力があるように思います。

もし樹と話すと言うと、今の時代では不思議な人だと言われたり、もしくは奇人変人、何かしらの怪しい信仰の人などと言われそうなものですが現実に農家であれば土から学ばなければなりませんし、動物を飼育してもその動物から教わらなければできませんし、たとえビジネスでもそのビジネスそのものから勉強していかなければ本質を理解することはできません。

なので昔の職人と呼ばれる方々は”そのものと対話する”ということを基本に据えて学んできた人たちなのです。私たち日本人は職人文化を持つ種族であると世界も認めています。老舗企業がもっとも多いのも、職人的に様々な文化を伝承する技術が遺っているからです。これもまた、そのものとの対話をする方法で伝授します。

法隆寺宮大工棟梁の故西岡常一さんは、樹を通して飛鳥時代の工人たちと対話をしその時代に使っていた道具、槍鉋を復刻されました。このように時空を超えて、そのものと対話するというのは別に宗教地味ているなどという話ではなく本来、知識が増える前の私たちの先祖が当たり前に行っていた自然の学び方であったのです。

もしも私たちに言語と知識がなければ当然マニュアルは存在しません。そうであれば、私たちの学び方はそのものから学ぶということであったはずです。昨日は、樹の声を聴くということをテーマに、樹のいのちをどう伸ばすかについて体験しましたが、樹の特性を見抜きその樹が何の役に立つかを見定めそれがもっとも価値ある別のいのちへ変化するのを目の当たりにすると感動を覚えました。

最後に世界で有名なヴァイオリン職人の中澤宗幸さんがあるヴァイオリンを解体した際にその内側に詠まれていた素晴らしい詩をご紹介します。

「私が森にいた時、木陰で人を憩わせ
今はヴァイオリンとなって歌って人を喜ばせる」

まるで樹の心を代弁するかのような詩に、このバイオリンの職人の方はきっとその樹と対話をしていたのではないかと感じます。人は心があります、そして同時に”もの”にもまた心があります。これがわかることを日本では大和心があるといい、開祖代々から「もののあわれ」として数々の神話や物語の中でずっと語られてきたものです。それは私たちには本来自然の中で対話し聴く力が備わっていた、つまりはどのような”いのち”とでも真心で対話をしてきたということなのでしょう。

果たして豊かになったと言われている現代の私たちは、今ちゃんと対話をし本当に聴いているでしょうか、真心で聴こうとしているでしょうか。

先人たちの智慧はいつまでも光り輝き私たちに後世のためにどういう生き方をすべきかを訴えかけてきます。引き続き、子どもに関わる志事をするのだから聴けなければなりません。そして魂を磨き心を救いたいと祈るのだからこれからも聴くとは何か、話すとは何かということと正対し深めていきたいと思います。