共感のやさしさ

人間は、時として一人では乗り越えることができないような困難や葛藤に出会うことがあります。不安や恐怖から、誰かに支えて貰わないと前に進むことができないようなこともあります。そういう時に、心に寄り添ってくれる人や、心の支えになってくれる人が救いになって様々な壁を乗り越えることができることもあります。

見守るということもまた、相手の心に寄り添うことで実現するものです。

しかしこの寄り添うと思いながら頭で寄り添ったつもりになっていて考えているだけで心は着いてきていないこともあるように思います。相手のことを考えていることが思いやりではなく、心を寄り添い、心で近づき、心で共感し、心から相手の心を自分に同一化するほどに受容することができてはじめて寄り添っているとも言えます。

人間は頭でなんとなくきっとこうだろうと思い込んで頭で考えて行動しても心は着いてこないことがほとんどです。頭で考えることは共感とは異なります。共感は例えば、相手が痛い思いをしていたら自分も痛いと感じる心、また相手が悲しみで泣いていたら一緒に泣いているような心、相手が自分と同化するほどに気持ちが伝わり感応するのです。

よくカウンセラーなどが共感してのちにアドバイスをしますが、もしもその人が頭で計算しながらやっているのならその場しのぎの対応になるだけでその人の人生を一緒に乗り越えるほどの支えにはなりません。共感しながらも自分の人生体験から励まし勇気を与え信じ見守るという過程は、真心の行動が伴わなければならないのです。

頭で考えることと真心は異なります。相手の苦しみに寄り添う時間や、相手の困難に共感する時間、すべてはじっくりと心が寄り添うために自分から心を寄せていく「共感のやさしさ」が必要なのです。

この「共感のやさしさ」を磨き続ける人こそ真心の人であり、そのやさしさが具体的な行動になり具体的なアドバイスになり具体的な見守りの環境を創造するのです。

慣れてしまい共感から入るのを怠らないように常に自戒し、心を用いてどのような人へも接していきたいと思います。共感のやさしさを失わないように丁寧に心を寄せていく工夫を行っていきたいと思います。

 

習性を変える

人間にはそれぞれ習性というものがあります。どのような習慣をもっているかで、その人の一生の成果が直観できたりもします。例えば、健康な習慣を持っている人はそれだけ病気にもなりにくく回復も早く健康体を維持していけます。また勤勉な習慣を持っている人は努力を厭わずに他人のためにと働きますから信用や富を得られます。

これらの習性には、人生を豊かに安心して生きられる知恵のものもありますが反対に悪習慣というものもあります。何をやっても、自分に備わった悪習慣によって悪循環に陥っていくのです。例えば、自分勝手で我儘な習慣を持つ人は自分の損得ばかりで判断するようになります。すると周囲もその人のことが不信になり、損しないように関わらないようにするものです。人間関係や争いなどが続き、不幸になることが多くなります。

そう考えてみると、人間の幸福とこの習性はとても密接であることが分かります。

幼いころより、どのような習性を身に着けてきたか、そして大人になりどのような習性を学んできたか、そして老いていく中でその習性を如何に磨いてきたか、その差が人生の質を決めてしまうように思えるのです。

人生の質を高めるためには、常にその習性の方を見据えて習性を変えていくかありません。そして習性には体の習性、心の習性、考え方の習性などもあります。体の習性は、日ごろから鍛錬していくことで変えていけます。心の習性は、心の声に素直に耳を傾けて行動していくことで変えていけます。そして考え方の習性は、自分の感情の転換や、物事の捉え方を転じる訓練によって変えていけます。

もしも悪習性が染みついてしまっていると感じるのなら、今までと逆を選んだり敢えて苦しい方や勇気がいる方、そして思いやりや真心の方にと一つずつ積み重ねて取り組むことで習性もまた変化していくように思います。

諺に「習慣は第二の天性なり」というものもあります。

子どもたちが将来、自分の天性を発揮していくためにも、環境に左右され失敗を恐れず、失敗から学び、習性を見つめ習性を磨き上げていきたいと思います。

もったいない記憶

古民家甦生に取り組み、古いものを直して使っているとそのものに歴史があるのを直観することがよくあります。それは古い傷跡であったり、修復歴であったり、また作り手や使い手の工夫、その他にも収納箱や文書などどのような歴史を持っているものかが伝わってくるからです。

当たり前のことですが、自分の身近にあるすべての「もの」にも歴史はあります。過去、どれくらい前か、その「もの」がどのような経過があって今ここにあるかがそのものが語ります。

これはものに限らず、人も同じです。生まれてから死ぬまでの間に、様々な人たちにご縁がありそれぞれにかけがえのない物語が生まれています。その物語の延長に今の私も生きています。その一つ一つの偶然の組み合わせが、奇跡のように結びついて今の私たちがあります。

このブログを書いている机も、飴色のテーブルからは作り手の丁寧な仕事と思い、そして小さな修復歴、机上の傷跡、引き出しの文字、装飾などに思い出が伝わってきます。だからこそ、そんな机だからこそ木片や破片ですらも捨てるのに気が引けます。そこには大切な思い出も一緒に生きているからです。

私たちは「もの」は単なる「モノ」としてそこには心や精神はないと思ってしまいますが、本来は八百万の神々といって「もの」にもいのちがあります。そして形がないと思われている「思い出」にもいのちがあると私は思うのです。

形がない思い出は、いつまでも私たちの心に生きています。亡くなった祖父母や、幼少期に一緒に過ごした犬や虫たち、そして数々の出会い別れ、気づきの感動は思い出せば心に今も生き続けています。この思い出もまた、私は「生きている」と思っているのです。だからこそ忘れないように、色褪せないようにと大切に修繕しながらその思い出が飴色になるまで大切に思いやり一緒に生きていくのです。

無常にも歳月は経ちますが、いのちは「そのものが思い出と共にある間」はいつまでも生き続けます。そして御縁が結ぶ奇跡の出会いのなかで新たないのちの思い出を燦然と輝かせていきます。そこはまるで宇宙の星々のようです。

その生き続ける思い出を大切に感じながら新しく前に向かって生きていくのは無生物であろうが、かたちがない思い出であろうが、今、生きている人間の姿とまったく同じなのです。それが勿体無いということです。

いのち全てに思いやりや真心をもって生きるとき、人間はかんながらの道を歩み続けます。宇宙の意志は、かたちがあるなしは関係はなく膨大な思い出に見守られながら膨大な思い出を紡ぎ直すことです。今までどんなご縁があったかに思いを馳せると懐かしいものがあり、これからどんなご縁があるのかを思えば浪漫があり、それはいのちの仕合せです。

引き続き、「もったいない記憶」を辿りながら子どもたちに自然至善を譲っていきたいと思います。

自らに由る組織

幼い頃から学校で誰かのルールに従い評価されるという訓練をされ続けると自分で考える力というものは減退していくものです。他人から与えられたルールに従うとき、その人は他者依存が強くなり自律する必要性がなくなってきます。

本来は、人間は道徳というように自らに規範を持ち自らの判断で思いやりを中心にしお互いに助け合うとき人間性の高い社會が形成されていくものです。それぞれに自分の中に初心(良心)を設けて、その初心に従うことができるのなら自律した組織が実現し自由にそれぞれが思考を働かせて豊かな社會を実現します。

組織には思考停止する状態に陥っているものがあります。これは独裁者や権力者の設定したルールに従わせた結果、自分で考えることすらも止めた状態のことを言います。誰かが正解を持っていて、自分が間違わないようにということばかりを考え続けると人間は言い訳ばかりが増えていくものです。なぜなら言い訳は、自分で物事の本質や初心から考えないから出てくるのであって、自分で突き詰めていく人は具体的な改善や行動になって言い訳をする暇がなくなっていくのです。

自律というものは、言い換えれば自己規律ということです。これは自分で決めた規律を自らが守るという意味です。

例えば、ある組織や社會には規範があります。それは理念や方針、もしくは初心や信条などです。どの企業でも経営理念を掲げて、それをそれぞれが理解し自らがそれを自らで守ることでお互いに信頼関係を築き協力して連携することができます。

言われたことだけを守ればいいという組織は、この規範や規律を守るということの意味が分かっておらず表面上のルールに盲目に従えばいいと思い込んでしまいます。余計なことはしない方がいい、言われていないことは遣らない方がいい、自分から主体的に挑戦するのはやめた方がいいと、損得勘定によって自分に責任が追及することを嫌がるものです。このように一人ひとりが思考を停止すれば、もはやマニュアル人間としてマニュアルを設けてマニュアルに従わせるしか仕方がありません。

これは過去の大量生産の工場のようにみんなが機械のように単一に動き、その通りに物を作っていたらよかった時代ならこれはこれで一つの成功になったかもしれません。しかし今は、成熟して価値観も多様化してきてそれぞれが自らで自立し思考を働かせ協力しなければ対応できないほどに変化が求められます。変化が著しい時代には、かつてのようなマニュアルでは対応できないのです。

思考停止しないためには、それぞれが自らで自らを律するという力をつけなければなりません。そこは細かいルールをたくさん設けて従わせるような組織ではなく、方針だけを示したら後は個々の規範を信じて見守るという組織にする必要があります。つまり自由な組織、一人ひとりが自ら考えて自らに律するという「自らに由る組織」にしていくのです。

しかし今までそうではない組織に所属していた人たちはこの方針の意味が分からないから苦しくなります。自らに由るよりも、誰かからに縛られている楽を知ってしまっていれば最初の苦しみが辛いかもしれません。自由というのは、自律しなければなりませんから自立できない人は他者に依存していたいのです。他者に依存するというのは、たばこなどに似ていて常習化すればなかなか止めることができません。

個々の思考停止においては勇気を出して止めてみる努力をすること、自分で規範を設けて規律するという挑戦をすることで少しずつ改善していくものです。組織の思考停止においてはそれぞれが規律できるような環境や場を用意していくしかありません。つまりは他者依存から自立と自律の風土に換えていくということです。

自分で考える力は、これから多様な社會をみんなで築くために必要な力です。子どもたちが安心して自分らしく持ち味を発揮して社會で有用な人物になっていけるように私たち大人がその模範を示していきたいと思います。

真心と至誠

人と人との間の関係において、人間は頭で考えることと、真心で行動することを勘違いしてしまうと本質から乖離してしまうものです。本質を守るためには考えるか真心かという二者択一ではなく、常に真心を用いながら生活しその中で考えを巡らせていくという心身統一が必要になります。

この心身統一とは、理想と現実の統一とも言ってもよく、自分の人生でどう生きるかという生き方と、同時にどのように創意工夫して初心を保つかという知恵の活用です。

剣・禅・書の達人と言われた幕末から明治の武人に山岡鉄舟がいます。この人物はまさに、その心身統一に生きた真心の人だったように思います。江戸の無血開城もこの人物無しではありえなかったことですし、明治天皇の教育指導者としてもその後に大きな影響を与えます。山岡鉄舟が遺した言葉にこういうものがあります。

「まこころの ひとつ心の こころより 萬のことは なり出にけむ」

意訳ですが、「心を一つにすれば真心が発動し、すべてのことはそれによってのみ成り立っていくんだよと。」つまりは、自分の心の声に従って活動することで真心のままになりそのことがすべての出来事と一体になって活動していくのだという意味です。

人は頭で考えたことを心の声だと勘違いします。我が強く自分の思い通りにしようと思うばかり、我欲から出た声も心の声と思い込んだりもします。心の声を聴くというのは、我欲に呑まれないように常に真心のままに生きる実践を行っていくということです。

例えば、「思いやり」を持ち続けることも真心の発動です。頭で考えた思いやり風や真心風ではなく、心を寄せていく思いやりや真心を実践していくことです。人間は、相手の立場に身を置き、心情に寄り添って一緒に事物に傾聴し共感し受容していくのなら、自然に心が発動していきます。心は、常に全体を捉えておりその全体の中には自他の違いがありません。

もしもあなたが私なら、私があなたならと自他一体なのです。それを維持するには、計算から入るのではなく心から思いやる澄んだ精神が必要です。心を研ぎ澄ましていくというのは、山岡鉄舟のように自分の中に雑念や妄念、我欲や計算、保身などが邪魔しないように真心で心を大きくしていく修養を行うということかもしれません。

山岡鉄舟の剣の極意にはこう記されます。

「無刀とは、心の外に、刀が無いこと。敵と相対するとき、刀に拠ることなく、心を以って心を打つ、これを無刀という。」

「宇宙と自分は、そもそも一体であり、当然の帰結として、人々は平等である。天地同根、万物一体の道理を悟ることで、生死の問題を越え、与えられた責務を果し、正しい方法に従って、衆生済度の為に尽くす。」

「剣法を学ぶ所以は、ひとえに心胆練磨。もって、天地と同根一体の理を果たして、釈然たる境に、到達せんとするにあるのみ。」

心胆錬磨して一体何を目指したか、真心一つ、至誠こそその初心であることが分かります。

一日一日を過ごし内省し振り返る際に、もっとも大切なのは頭で考えることよりも、どれだけ心を使ったか、どれだけ心に従ったかという日々の心身錬磨が出てくる未来を変えていくのでしょう。

真心と至誠から常に自分を使い切っていきたいと思います。

非効率な生き方

昨日、ある方から「貴社は効率優先、結果が先ではない、長いスパンで物事を進めているいい会社だ」と評価されました。その方は、長年、大企業のプロダクトデザインをなさっていた方で家電製品や商品全体のユニバーサルデザインなども手掛けておられた方です。

少し前の日本は、すぐに結果だけを優先する成果主義をとっていました。しかしこの方法はどうしても短期的な成果だけに注目されるため、長い目で観て判断されるようなことは後回しになってきたように思います。

本来の仕事の質は、長い目で観た時にどれだけの価値があるかという経年変化の中で顕現していくものです。私が取り組んでいる古民家甦生もそうですが、かつて日本の先祖たちが発明した様々な道具や商品は経年変化する中で智慧は顕現してきます。

現在は一時的に無価値のようになった古いものが増えていますが、実際には何百年もむかしから改良されてきた自然を活用する知恵に溢れているものばかりです。現在価値が下がったのは、決してその道具が悪いのではなく私たちの価値観が自然から反するものになり、自然を活かそうとするよりも、自然を管理しようという人工的なものこそが価値があるという考え方に転換されただけです。

そのうち、自然を活用することが持続可能な社會の実現において何よりも重要だと気づけば日本人の先祖の生み出した道具や仕組みに回帰していくはずです。その時に、それが遺っていなかった、すべて失われたでは取り返しがつかないのです。

人間の価値観というのは時代時代で変化します。しかし本質や本流は変わることはありません。その中で短期的に流行があってある価値観が横行して飲み込んだとしても、自然がバランスを取るように必ず揺り戻しがあるのです。地球も暑くなれば、次は冷えるというようにそれが激しくなれば激しく揺り戻します。

価値観も同様に時間の経過とともに揺れ戻していきます。その際にどこに回帰するのか、どこを原点として間をとっておくのか、それは常に私たちは自分たちでバランスを掴んでいる必要があるのです。そのバランスを掴むためにも、本質を深め続けていく必要があります。物事の本質を深めていけば、自ずから原点回帰していくからです。

私たちは理念や初心があり、本質的に何をすることがもっとも子どものためになるのか、子孫のためになるのかを考えています。そこから、何を優先することが本質なのかと考えるようにしています。

質を高めるというのは、本質を極めるということです。

だからこそプロセスを大切にし、そのプロセスの中で出てきた問に対して改善を続けてそれを味わいながら成長していこうとしています。まさに非効率な生き方ですが、本質を守る生き方が人類や世界に必要になるときが来るはずです。

いつになったらという思いもありますが、粛々と初心の振り返りと脚下の実践を楽しんでいきたいと思います。

 

自然体験

人間は体験することによって、様々なことを知ることができます。その体験が基盤になり、その後の人生の判断基準を定めていくこともできます。体験の価値は、あまり重要視されませんが実際には何よりも優先する人間育成の智慧です。

例えば、むかしはまだ物が少なく自然環境が豊かなときの幼い頃の体験は現在よりも豊かであったことが分かります。物がなかったけれど、そこには自然がありないものを探さずにあるものから私たちは様々な遊びを発明したり開発しました。同時に、身近には自然そのものの道理に囲まれ子どもたちもたくさんいてお互いに人間関係の摂理や天地自然の法理なども遊びを通して伝承されていきました。

今では、自然環境が少なくなり人工的な環境や物などは増えましたがあるものだけでなければできないとし、遊びも固定化されていきました。子どもは少なくなり、大人と子どもの関係ばかりが強くなり遊びも伝承されなくなってきました。

このようにむかしと今では、私たちの環境は大幅に変わってきています。私たちの人生は、すべて体験によって学びますからどのような貴重な体験をしたかで学ぶ質量も変化してきます。その体験の中でももっとも貴重なものが自然と遊んだ体験であろうと私は思います。教育が人が人に教えることが常識になってしまった昨今において、この自然が人を教えるということの意味もまた失われてきたように思います。幼少期の自然体験は、人の人たるものを教えます。それは風土が人を創り、風土が人を育てることこそが人類本来の学び方であるからです。

本質的な体験とは何か、それは自然から学ぶということです。

最後にフランスのヴォルテールの言葉で締めくくります。

「自然は常に教育よりも一層大きな力を持っている」

何が自然であるか、何が体験であるか、何が教育であるか、子どもたちの環境を考えて深め直していきたいと思います。

 

家の歴史的価値

空き家問題で世界と比較すると、ドイツなどは空き家が1パーセント以下という状態を保っているのがわかります。もちろん中古住宅の流通が発展していることもありますが、その根底にあるドイツ人の価値観が影響しているように思います。

日本では、古いものは価値がなく、新しいものこそが価値であるという考え方があります。まだまだ使えるのに、新品に買い替えては新しい方が何でもいいと思い込みます。もちろん、新しいものは電化製品でも新しい機能や改善もされていますからそっちの方がいいというのはわかります。しかし物によっては、古くなる方が味が出るものがあったり、古いものこそが価値があるというものもあります。

しかし、現在の骨董品や古美術を含め日本ではあまりアンティークなどの品物は流通せず常に新しいものばかり、使い捨てのものばかりの流通が盛んです。身近なところに古い価値のあるものがなくなってきているから余計に古いものの価値を感じなくなっているのです。ドイツ人は物に備わっている経年変化や「歴史的価値」というものを大切にしているのでしょう。日本人はいつからそういうものがなくなったのかと不思議な思いがします。

日本では住宅の価値は22年も経てばほぼ9割は無価値であると評価されます。土地の価値だけになると、駅から近いか、近隣の環境が整っているか、利便性はなど、その土地があるところの価値だけの評価になります。実際には、家は古くなればなるほどに歴史的な価値も向上するはずですがその価値はまったく尊重されることはありません。

まだ住める家かどうかが重要ではなく、価値があるかどうかで家が売り買いされ、ほとんどが新築になっていきます。車社会になってからは、市街地の家を解体して建て直すのではなく少し離れたところの土地を整備しそこに戸建て住宅を販売しています。それがまた年数経ったら空き家になるのは、駅からも遠く利便性も悪く、土地の価値もなくなっていくから買い手がつかないのです。

人間はいい町に住みたいや環境の豊かなところに住みたいというまちづくりと関係する部分と、素敵な家に住みたいという部分があります。この豊かな町で素敵な家にというものは、その人物や民族の価値観がどうなっているかでその後の空き家につながっていくのでしょう。全体善を考えたり、伝統や伝承を考える少しの心の余裕が物の見方を変えていくのでしょう。

このままでは近い将来に世界一の空き家大国になってしまうことは統計からも証明されています。子孫のことを考えてみても、空き家ばかりが遺されたスポンジのような風景や、幽霊屋敷のように壊れて廃墟と化していく街並みなどは観たくはないはずです。

だからこそここで必要なのは、価値観の転換であり古いものの中に価値を見出すという事例が増えていくしかありません。本来、日本人の持っている精神でもあった「もったいない」というものは、目には観えないものへの思いやりや価値を大切にするという生き方のことです。

空き家が増えていくのをみると、「もったいない」と感じます。心の空き家や隙間ばかりが増えていかないように、日本古来からの家の歴史的価値を復古創新し今に伝承していきたいと思います。

人間を磨く

「磨く」という言葉があります。ではこの「磨く」とは具体的にどのようなものをいうのか、それは包丁などでいえば砥石で磨けば研ぎ澄まされてよく切れるようになります。これも磨いたということの一つです。他にも年代物の床や木を何度も拭いていけば、それも光沢が出てきて磨かれます。このように磨くというのは、繰り返し何度も何度もそのものの本質を引き出そうと取り組むことで磨かれていくのです。また「人間は磨けば光るダイヤモンドの原石」という言葉もあります。

ではその人間はどのように磨かれるのか。

それは人の話を素直に聴くということで磨かれます。なぜなら人は謙虚になることが引き出されることであり、謙虚になることでその人の本質が出てくるからです。そう考えると、まさにに人間関係こそが磨き合う本であり、人間は人間同士で関わり続けることで信頼関係を通して人格を磨き合いお互いを光らせているのです。

だからこそ自分自身にとっての「磨き」は、「信頼関係を築く」実践であり、そのために人の「諫言」や「忠告」、アドバイスを聴き入れることであることが分かります。自分に厳しいことを言ってくださる存在や、自分の過ちや視野の狭さを指摘してくださる存在、自分の間違いを正してくれる存在が磨いてくださる砥石なのです。

アドバイスを自ら聞かない状態とは、磨くことをやめているということになります。もっとも気を付けるべきは、プライドが邪魔して耳を傾けることをやめてしまい磨くよりも周囲の評価を気にしてコーティングしてしまうことです。コーティングが剥げないようにといつまでも人のアドバイスを避けていたら信頼関係が築けません。そうなるとその人の本質が磨けなくなりますから、さらにコーティングを上塗りし固めていくうちにそのものの本質や持ち味まで消失してしまうかもしれません。コーティングは簡単ですが、剥がすのは大変な作業です。

最初は自分が単なる石ころだったとしても、どんな石でも時間をかけて磨けば光ります。そして自分で自分は石ころだと思っていても、その石ころは悠久のいのちのリレーでバトンを受け継いだ親祖からの歴史がある石ころです。磨いて光らないはずはなく、単に自分で磨くのをやめているだけなのです。

自分で磨くためには、素直に周りの言うことに耳を澄ませて傾聴し、謙虚に自分で心を研いでいくのです。人は話を聞きたくないとすぐに独善的に自分が正しいと思い込んでしまいますがその時こそ、磨くことを忘れないで素直という素材を謙虚という砥石で磨こうと心を定めることかもしれません。

安心してそういう言葉が言ってもらえるように、信頼関係を研ぎ澄まし、常に自分が間違っていないか、何か見落としていることはないかと、環境に働きかけながら磨き方を日々に研鑽していきたいと思います。

 

 

むかしのいのち~もったいない~

昨日、聴福庵のおくどさんの間の天井煤竹の残りで装飾などを行いました。煤竹は、丈夫で傷まないのであらゆるところに活用することができます。飴色に美しくしなるこの竹は歴史を生き抜き燻されたいのちの凄みを感じます。

今の時代、何でもすぐに加工して大量生産をして本物に似たようなものを作ることができます。本物風の似て非なるものが、席巻しているこの時代では時代の篩にかけられて生き残ったものは古臭いものとして捨てられていることが多いように思います。

しかし少し考えてみればわかります。

この本物の煤竹を作ろうと思ったなら、100年から200年間、囲炉裏の上で日々に燻し続ける必要があります。そんな時間と手間暇をかけてつくろうとしたら、出来上がるのにこれから100年から200年待たなければなりません。ホームセンターなどで売ってある煤竹は、見た目は飴色風ですがこれは機械で一気に燻し加工することで本物風に似せているものです。

もしも先ほどの100年から200年の煤竹の大量注文をお店が頼まれたらすぐに「品物がない」と断るはずです。また「200年待ちでもいいですかと聞いて「はい」と答える消費者はいない」と答えるでしょう。

簡単に真似できるものと、真似できないものがこの世にはあります。いくら似せても、歴史や時間は似せられないのです。

私は伝統というものを考えるとき、かけてきた時間の長さを感じます。

人間は誰でも寿命を全うしたいとは願うものです。そのために、いのちを永く使い切ろうと大切に用いてきたのです。「もったいない」という言葉の本質や背景には、このいのちの大切さが籠められているのです。

そのいのちを加工して時間を懸けずに簡単に作りこまれて消費しては捨ててゴミにするという世の中では、いのちの価値もまた失われていくように思います。

すぐに加工して使える物を欲しがる風潮は、人間にまで影響を与えすぐに加工して使える人間を欲しがるようになります。

本来、時間をかけてそのもののいのちをじっくりと感謝して使おうという価値がもったいない心を育み、自然の智慧を活かす風土環境を醸成したように思います。

むかしのいのちの価値観が失われてきている現代において、子どもたちの感性にも影響を与えてきているように思います。伝統というものは、その歴史の時間を通して先人たちが守り継続してきた思いや願い、祈りがあります。

聴福庵の天井に配置した煤竹には、そういう祈りや願い、思いが入っています。引き続き、子どもに譲り遺していきたい生き方を伝承していきたいと思います。