感情の源

人間はそれぞれに感情を持っています。感情とは物言わぬ言葉でもあり、感情が言いたいことが何かは感情に出ているものです。本当は何を言いたいのか、本当はどうしたいのかは感情が語るのです。

その中で特に「怒り」という感情があります。よく何かあると怒っている人がいますが、怒っているのはその怒っている感情を通して何を言いたいのかが分かります。

例えば、相手に「勝手なことをするな」と怒っている人は「自分を蔑ろにしないで」という本心を語っていますし、「なんで気をつかえないんだ」と怒っている人は、「自分を気遣って」と本心を語ります。もしくは黙って怒りのオーラだけ出している人もまた「自分をわかってほしい」と語っているのです。このように怒っていることの背景には常にその人の本心があり、それはあくまで本心から表出してきた一つの動作や言葉という反応であり、その反応に反射的に対応しているだけでそれで拗れたりトラブルに発展することがほとんどです。

人間はそれぞれに価値観が異なりますから、その人なりに自分の信じ込んでいる世界があります。それを誰かに無碍にされたり他人によって壊されることを避けているものです。怒りの感情はほとんどが、「自分を尊重してくれていない」とその人が感じるから出ているとも言えます。その自分を尊重してくれたかどうかは、自分の価値観(信じている世界)のことを認めてくれているか、自分の価値観を立ててくれているか、自分の価値観もわかってほしいということを求めているのです。

本来は成熟してくると、自分の信じている世界があるようにみんなそれぞれに信じている世界があると多様性を認められますが自分の信じている世界のみがすべてになってしまうと周りとの人間関係が築きにくくなります。もしもみんなそれぞれに自分の信じている世界のみがすべてだと思い込み、自分が正しいと自分の価値観だけの正当性を証明しようと躍起になれば人間関係がギスギスしてしまいます。

色々な価値観があり、それぞれの信じている世界が面白いと寛容な気持ちを持てるようになれば、それもいいね、これもいいね、それも一理ある、その発想はなかったと、認め合えるようになります。そうなれば人間関係も円滑になり、それぞれの持ち味を活かし合えるようになります。

感情の源になっているものが何かと思いやることでその人の価値観を知り、その価値観を尊重することでその人は自分の信じている世界を大切にされた、つまりは自分を大事にしてもらっているという自己肯定感を持つことができるように思います。

感情を押し殺したり、感情を武器のように振り回すのではなく、この感情の本心は何だろうとみんなで思いやる訓練をすることが内省の本質であり、社會をよりよくするためにその訓練を日ごろから実践してみんながお互いの絆を深めあい安心して仕合せに生きることを目指すのが一円対話です。

引き続き、自分たちの実践を通して本心に寄り添い本心を隠さずにオープンでいられるような多様な持ち味が活かせる世の中になるように精進していきたいと思います。

誓願

御縁あって、郷里のお地蔵様のお世話を御手伝いすることになりました。ここは私が生まれて間もなくから今まで、ずっと人生の大切な節目に見守ってくださっていたお地蔵様です。

明治12年頃に、信仰深い村の人たちが協力して村内の各地にお地蔵様を建立しようと発願したことがはじまりのようです。この明治12年というのは西暦では1879年、エジソンが白熱電球を発明した年です。この2年前には西南戦争が起き西郷隆盛が亡くなり、大久保利通が暗殺されたりと世の中が大きく動いていた時代です。

お地蔵様の実践する功徳で最も私が感動するのは、「代受苦」(大非代受苦)というものです。

「この世にあるすべてのいのちの悲しみ、苦しみをその人に代わって身替わりとなって受け取り除き守護する」

これは相手に起きる出来事をすべて自分のこととして受け止め、自分が身代わりになってその苦を受け取るということです。人生はそれぞれに運命もあり、時として自然災害や不慮の事故などで理不尽な死を遂げる人たちがいます。どうにもならない業をもって苦しみますが、せめてその苦しみだけでも自分が引き受けたいという真心の功徳です。

私は幼い頃から、知ってか知らずかお地蔵様に寄り添って見守ってもらうことでこの功徳のことを学びました。これは「自他一体」といって、自分がもしも相手だったらと相手に置き換えたり、もしも目の前の人たちが自分の運命を引き受けてくださっていたらと思うととても他人事には思えません。

それに自分に相談していただいたことや自分にご縁があったことで同じ苦しみをもってきた人のことも他人事とは思えず、その人たちのために自分が同じように苦を引き受けてその人の苦しみを何とかしてあげたいと一緒に祈り願うようにしています。

もともとお地蔵様は、本来はこの世の業を十分尽くして天国で平和で約束された未来を捨ててこの世に石になってでも留まり続け、生きている人たちの苦しみに永遠に寄り添って見守りたいという願いがカタチになったものという言い伝えもあります。

また地の蔵と書くように、地球そのものが顕れてすべての生き物たちのいのちを見守り苦しみを引き受けて祈り続けている慈愛と慈悲の母なる地球の姿を示しているとも言われます。

自分の代わりに知らず知らずのうちに苦を受けてくださっている誰かを他人と思うのか、それとも自分そのものだと思うのか。人の運命は何かしらの因縁因果によって定まっていたとしても、その苦しみだけは誰かが寄り添ってくれることによって心は安らぎ楽になることができる。

決して運命は変わらなく、業は消えなくても苦しみだけは分かち合うことで取り払うことができる。その苦しみを真正面から一緒に引き受けてくれる有難い存在に私たちは心を救われていくのではないかと思うのです。

傾聴、共感、受容、感謝といった私が実践する一円対話の基本も、そのモデルはお地蔵様の功徳の体験から会得し学んだことです。その人生そのものの先生であるお地蔵様のお世話をこの年齢からさせていただけるご縁をいただき、私の本業が何か、そしてなぜ子どもたちを見守る仕事をするのかの本当の意味を改めて直観した気がしました。

地球はいつも地球で暮らす子どもたちのことを愛し見守ってくれています。すべてのいのちがイキイキと仕合せに生きていけるようにと、時に厳しく時に優しく思いやりをもって見守ってくれています。

「親心を守ることは、子ども心を守ること。」

生涯をかけて、子ども第一義、見守ることを貫徹していきたいと改めて誓願しました。

感謝満拝

 

歴史の教訓

以前、知覧にある知覧特攻平和会館を訪問する機会がありました。そこでは、特攻隊の方々の生活や遺書、そして遺品など様々なものが展示されておりました。私たちは今、何気なく生活をしていますが終戦間際、日本や子孫のために命を懸けて死んでいった方々の祈りや願いの上にこの平和な暮らしが存在していることを忘れてはならないと思います。そしてこの特攻隊の教訓から一体何を学ぶのか、それをきちんと子孫へと伝承していく必要を感じます。

私がこの特攻で憤り悲しいのは、戦略なき戦術、戦術なき戦略、何もできないからいのちを捨てろと幼い子どもたちに特攻をさせたことです。神風は、奇跡を起こすために一か八かの戦略ではなく元寇のときなどもあらゆる戦略を駆使し、その時代の侍たちが夜襲をかけたり、土地の理を活かしたり、相手の武器に対応したり、また国民のみんなが祈り願うことで危機を乗り越えていた最中に起きたことです。まさにこれも戦略であり、戦術に適ったものであったのは明らかです。つまり人事を盡していたからこそ真心が天に通じて奇跡を呼び込んだのです。いのちを粗末にしない、いのちを尊ぶからこその神風なのです。

しかしこの終戦間際の特攻は、そういった戦略も戦術もなく、ただいのちがけでいのちを捨てて突っ込めば何らかの奇跡は起きるだろうという安易な精神論を走らせ、人事を盡したわけでもなく真心があったのではなく、幼い子どもたちを死地に向かわせていきました。こんな無知無策の状態でいのちを投げ出させるようなことは決して指導者や指導部にあってはならないことです。負けるとわかっていて、無謀にいのちを捨てさせるということがあっていいのか、それは敵と戦うよりも卑劣で卑怯な行いで絶対にあってはならないことです。

そして軍神などと褒めたたえ、無理に死なせておいて終戦後に今度は無駄死にだったと蔑む、こんなことが果たしてゆるされていいのかと憤りを感じます。道徳として、こんな犠牲になった先祖たちを忘れたり蔑ろにしたりそういうものは人間としてあってはなりません。

今の時代はすぐに戦争のことを書いたり、靖国神社のことを書けば、勝手に偏見でこの人はこういう人だとレッテルをはられます。しかし、よく考えてみてください。もしも自分の親や自分の祖父、もしくは子どもや孫が、誰かの卑怯な作戦で死んでそれをなかったことにされたり、そうやって騙されながらも素直に犠牲になったものを弔わずに蔑むなどはありますか?あるはずはないはずです。

非道さや不道徳さというのは、むかしから私たち日本人のもっとも忌み嫌い恥ずべきところです。仇討ちに見られるように、私たちは人間として道に照らして外道であることは恥だと生まれる前から持っている道徳なのです。

道徳というものは、当たり前すぎて議論にもなりませんがそういう当たり前のことを自分の頭でよく考えて、自分なりに歴史の真実と向き合い、生き方を見つめ直す必要があると私は思います。

今の時代は、周辺国との関係が次第に悪くなり戦争の機運も高まってきています。もう一度、歴史に学び、どう生きていけばいいか、何を教訓にするか振り返る必要があると思います。子どもたちが悲しい歴史をまた体験しなくてもいいように、今の私たちができることを真摯に取り組んでいきたいと思います。

 

道理

世の中には道理に精通している人という人物がいます。その道に通じている人は、道理に長けている人です。道理に長けている人にアドバイスをいただきながら歩むのは、一つの道しるべをいただくことでありその導きによって安心して道理を辿っていくことができます。

この道理というものは、物事の筋道のことでその筋道が違っていたら将来にその影響が大きく出てきます。そもそも道は続いており、自分の日々の小さな判断の連続が未来を創造しているとも言えます。

その日々の道筋を筋道に沿って歩んでいく人は、正道を歩んでいき自然の理に適った素直で正直な人生が拓けていきます。その逆に、道理を学ぼうとしなければいつも道理に反したことをして道に躓いてしまいます。

この道理は、誰しもが同じ道を通るのにその人がそれをどのように抜けてきたか、その人がどのように向き合ってきたかという姿勢を語ります。その姿勢を学ぶことこそが道理を知ることであり、自分の取り組む姿勢や歩む姿勢が歪んでないか、道理に反していないかを常に謙虚に反省しながら歩んでいくことで道を正しく歩んでいきます。

成功するか失敗するかという物差しではなく、自分は本当に道理に適って正しく歩んでいるか、自分の歩き方は周りを思いやりながら人類の仕合せになっているかと、自他一体に自他を仕合せにする自分であるかを確かめていくのです。

その生き方の道理に精通している人が、佛陀であり孔子であり老子でありとその道理を後に歩くものたちへと指針を与えてくださっているのです。

道理を歪めるものは一体何か、それは道理を知ろうとしないことです。

相手のアドバイスを聞くときに、自分の都合のよいところだけを聞いて自分勝手にやろうとするか。それともよくよく道理を学び直して、自分の何が歪んでいるか姿勢を正し、すぐに自分から歩き方を改善するか。

その日々の一歩一歩が10年たち、30年経ち、60年経ち、未来の自分を創り上げていきます。将来どのような自分でありたいか、未来にどのような自分を育てていくか、それは今の自分の道理を見つめてみるといいかもしれません。

そういう意味で、道理を見せてくださる恩師やメンター、そして先達者や歴史上の先祖は、偉大な先生です。そういう先生の声に耳を傾ける謙虚で素直な人は、道理に反することはありません。

私もいただいた道理をもっと多くの方々に譲り渡していけるように感謝のままで自分を使っていきたいと思います。

甦生のめぐり

自然界のすべてのものはめぐり循環して甦生していきます。その甦生は常に繰り返され、新しくなれば古くなり、また古くなれば新しくなるというように何度もめぐりを続けます。

循環を止めようとすれば、古いものを否定して新しいものだけを生み続けたり、もしくは新しいものを否定して古いものだけを保持しようとするときに循環は止まります。循環しないものは、甦ることがありませんからそこで止まっていてもそのうち中途半端に劣化して消えることもなく漂ってしまうものです。

自然の仕組みは循環そのものであり、留まることなく常に甦生を繰り返していきます。

人間は我がありますから、循環に逆らい甦生を遅らせようとします。本来あるべき循環をそこで止めれば歪に全体が変わってしまいます。その都度、不自然な出来事が発生して甦生が澱んでしまうのです。

甦生というものは、使い切り消えきることで巡ります。

如何に流れに逆らわず、天命に従いいのちを大切に使い果たすかは循環と甦生を信じることで実現するようにも思います。

もっとも永く遠くまでいくものは、甦生のめぐりが長けているものです。

何度も何度も無限に繰り返される甦生の中で、常に素直に使い切り使い果たして消滅していくものこそが甦生のめぐりを活性化します。そしてすべての使命を通過するものがもっとも澄んだいのちを使い切ります。そのように甦生のめぐりはいのちの使命であり、すべてのいのちの原点です。

引き続き、甦生を深めながら子どもたちの未来にいのちを譲っていきたいと思います。

本物のチーム

私たちが取り組んでいる一円対話は、本質的なチームを実現させるために実践を行う仕組みです。その智慧は、日本の伝統的な精神でもある「和」に基づき、それを人々の間で共有することで多様な価値観を持つ人たちが協働して偉大なことを実現するという仕組みを用いています。

チームといっても、いろいろなチーム観があります。例えば、似た価値観を持っている人たちが集まる仲良し集団のチームだったり、軍隊のように規律正しく一糸乱れぬ集団のチームだったり、専門的なスキルをそれぞれが持ち合って先端的な集団のチームであったり、変幻自在に状況に合わせて変化する集団のチームであったりと、チームという言葉は一つでも、実際には多様なチームがあることに気づきます。

日本にたくさんの色を現す言葉があったり、詳細に分かれた季節を現す言葉があるように、自然界は一つだけの価値観でまとめられるほど大雑把ではなく、繊細で複雑に変化しているものだから一つでまとめることができません。それと同様にこのチームというものも、一つでまとめることはできずその時々に変化していくものですからチームのカタチにこだわっていてもキリがありません。

いつも仲が良く何も争わないことがいいチームだと思い込んでいる人がいますが実際には人間は複雑ですから個々の感情を無視したり我慢したり、抑え込んだり、分けたりしてもそれでは本当に力を合わせることはできません。チームワークには、常に感情も伴いますからお互いの価値観が異なり感情が入っていても認め合いみんなで「和」を尊びながら助け合い思いやり取り組んでいくのが本質的なチームワークになります。

そのためには、それぞれ個々が目的や初心を忘れずに、感情もあるけれどその我を省きながらもみんなのためにと「和」を優先して心で聴ける共通理解が必要です。言い換えれば、みんな異なっていてもいい、そのうえでみんなで助け合えればいいという具合に全体快適になるようにみんながそれぞれに自分を修めていくのです。そしてそれもいいね、これもいいねと、みんながあるがままで働けるように場を整えていかなくてはなりません。

その環境を用意していくには、日ごろの修練が必要です。今の時代は、個がすべてにおいて優先され自分のことしか考えない、自分のことしか守らない、全体やみんなによって活かされていると思いにくいような社会があります。それに全体主義やみんなを優先とするとどこか個が消されて軍隊のようになると思い込まれている人もいますが、本来はみんながいる御蔭で私が暮らしていける、社會があるからこそ私が活かされると、みんなで社會を見守り育てていくことが「和」を優先するという本質なのです。

どんな社會を創っていきたいか、それはどんな小さな組織であったにせよその理念が必要です。それはみんながそれぞれに価値観が異なっても理念があればそれでいいとし、それを活かそうとお互いを認め合って協力していくような社會にしていくことが創始人類からこれまで平和を維持してきた智慧だからです。

他を排除し、自分さえよければいいと、自分にとって都合のよい社会などでは社會は育たずバラバラになって消失してしまいます。

人類の平和を保つためにも子どもたちに譲り遺していきたい社會を今の大人たちが創ってこそ、それを憧れて真似をしてくれる子どもたちが増えていくことと思います。チームは何のためにあるのか、それをもう一度、真摯に見つめ直して取り組んでいかなければなりません。

一円観は、人類社會のあるがままの姿です。そして本物の社會を創るために本物のチームはあるのです。

引き続き、本物のチームを実現させるべくパートナーの皆様と一緒に子どもたちのために貢献していきたいと思います。

民話の智慧

むかしの民話の中には、私たちにご先祖様が大切にしてきた生き方を伝承するものがたくさんあります。その多くは、どのような選択をすることでどのようなことが発生するかという人の生き方を示してあるように思います。

私が特に覚えている民話の中で好きな話は「笠地蔵」です。あらすじを紹介すると、

『ある雪深い地方に、ひどく貧しい老夫婦が住んでいた。年の瀬がせまっても、新年を迎えるためのモチすら買うことのできない状況だった。 そこでおじいさんは、自家製の笠を売りに町へ出かけるが、笠はひとつも売れなかった。吹雪いてくる気配がしてきたため、おじいさんは笠を売ることをあきらめ帰路につく。吹雪の中、おじいさんは7体の地蔵を見かけると、売れ残りの笠を地蔵に差し上げることにした。しかし、手持ちの笠は自らが使用しているものを含めても1つ足りない。そこでおじいさんは、最後の地蔵には手持ちのてぬぐいを被せ、何も持たずに帰宅した。おじいさんからわけを聞いたおばあさんは、「それはよいことをした」と言い、モチが手に入らなかったことを責めなかった。その夜、老夫婦が寝ていると、家の外で何か重たい物が落ちたような音がする、そこで扉を開けて外の様子を伺うと、家の前に米俵やモチ・野菜・魚などの様々な食料・小判などの財宝が山と積まれていた。老夫婦は雪の降る中、手ぬぐいをかぶった1体の地蔵と笠をかぶった6体の地蔵が背を向けて去っていく様子を目撃した。この地蔵からの贈り物のおかげで、老夫婦は良い新年を迎えることができたという。』(wikipediaより)

この民話に、私は幼心に正直者についてのお話で正直であることの尊さ、正直者は必ず将来にその徳が報われるということを教えてもらったような気がします。

現実にはお地蔵様が歩いて探しに来ることや、財宝を持ってくるなどありはしない出来事でそんなことをしても意味がないという人もあるかもしれません。しかし、人間には他のいのちを思いやる徳心は必ず備わっており、それが無機物か有機物か、生きているか死んでいるかの区別もなく、それをみて自分を映し共感する心があるように私は思うのです。

辛い思いをしているいのちを観れば、かわいそうと思う優しい心、助けたいと思う思いやりの心があります。孟子はそれを惻隠の情という言い方をしましたが、人間は誰しも自分を差し置いても誰かのためにと真心を盡したいという美徳があるように思うのです。

そうでなければ、赤ちゃんが生きていけるはずがなく、老齢になり生きていけるはずもなく、いついかなる時も誰かの優しさや思いやりに助けられて生きているのが人間の本質なのです。

その本質を引き出していく民話や、童話は、生き方やあり方、その道が示す徳の意味を語り掛け人間としての本来の在り方を忘れないようにと見守ってくださっているように思います。

現在は、あまりこのような民話が語られることが少なくなってきましたがむかしから語り継がれるものにはご先祖様の生きてきた智慧がたくさん詰まっています。その宝のような智慧を如何に伝承していくかは、今を生きる私たちの使命かもしれません。

引き続き子どもたちに譲り語り遺していきたい未来のために、実践を続けていきたいと思います。

心の持ち方を変える

以前、ある方から心の持ち方としてコップのお水のお話をお聴きしたことがあります。コップに水が半分入っているとして、ある人は「コップには半分しか水が残っていない」とし、ある人は「コップにはまだ半分も水が残っている」とし、またある人は「コップに水があるだけで有難い」という人がいるという話です。

これは物の観方のことで、見方を変えれば見え方が変わるだけではなく心の観え方が変わるということを示唆します。つまりは、心の持ち方次第で観えている世界が変わるということです。

これを社会学者であるP.Fドラッガー氏が語ると「コップに『半分入っている』と『半分空である』とは、量的には同じである。だが、意味はまったく違う。とるべき行動も違う。世の中の認識が『半分入っている』から『半分空である』に変わるとき、イノベーションの機会が生まれる」というように「イノベーション」(意識の転換)ということになります。

そもそも立っている場所が変わらないのに、観ている世界が一瞬で変わる。意識の転換とも言いますが、これが価値観の変化であり、すべての在り方を変革させてしまうということです。

私の思う変化というものは、単に成長した先にあるというものではなくある時突然に意識が変わってしまうという具合にそれまでと物事の捉え方がまるで変わってしまうときに変化したというように定義しています。

人は観え方が変わらない限り、次第に窮屈になりマンネリ化し、狭く囲まれた常識や枠の中で閉じこもってしまいます。その枠を外すには、無理にその枠から出ようともがくよりも先ほどのコップのように物事の観方の方をさらりと変えていく柔軟性を持った方が変化がしやすいように思います。

楽観的で気楽な人は、それだけ物事の観方を転じやすく心の持ち方を変えるチカラが高い人のように思います。マジメにあまり無理をしてやっていてもより追い込まれてしまうだけで、そこから革新的な発想は生まれにくいものです。

そういう時は、先ほどのコップのようにないものを見るのではなくあるものを観ること、そして足るを知り感謝で生きていこうとすることで心の持ち方を変えていくことができるように思います。

どうにもならない現実(常識)を変えるのは、悲壮感ではなく前向きな楽観性です。まだあると、ある方を観ることができるのなら発想もアイデアも無限に湧いてきます。頭で考えすぎたり、恵まれすぎていたりすると、人は謙虚さを失いないものばかりを追い求めるようになるのかもしれません。失っているものばかりを見るのではなく残っているものを観る方が豊かだし、遺してくださったと感謝する方が仕合せです。

人間は時代がどんなに変わって環境が変化したとしても心の持ち方次第であり、どんな時もあるものを観て心で有難さを感じいただいているご縁に感謝しながら生きていくことで道が拓けていくように思います。

難しいことに挑戦していくからこそ人生は遣り甲斐も生き甲斐もあります。楽しく豊かに心の持ち方を転換しながら自助錬磨を味わいたいと思います。

本物の和

日本は明治維新後の高度経済成長の中で、古いものを捨てて新しいものばかりを追い求めてきました。外国から入ってくる新しい価値観や、文化を取り入れては古いものはダメだとさえ言い聞かされみんな新しいものに飛びついていきました。

それまで大切にしていた先祖代々の風習や地域のつながりなども捨てて若い人たちを中心に都会に出ては、過去の日本で行われていた地域地域の風土に合った生活習慣や文化なども否定していきました。今では後継者も育たず、立ち消えたところ、または風前の灯のところも増えています。

子孫や子どもたちのためを思えば、ひとつでも多く遺したいと思うのですが古いものはダメという価値観があるからかなかなか関心を持つ人が増えていかないように思います。

私は現在、古民家甦生や伝統文化の伝承など子どものために尽力していますが古くからある智慧や叡智を垣間見るとどれにも感動します。それは単に古いから感動するのではなく「本物」であるから感動するのです。

私は別に古いか新しいかという二元的な見方で物事を判断するのではなく、それが本物かどうか、そして本質かどうかを考えます。すると別に古くても新しくても本物でないものには感動しないだけで、本物はいつの時代もどんなに古くても新しいままの普遍の価値を持っているのです。

最近では、「和風」というように家も和風にします。実際に置いてある道具や家具、そして建材などを確認すると畳はイ草でもなく、障子も紙でもなく、土壁も土ではなく、柱も木ではないなどといったものが「和」に「風」がついて和風といわれ横行しています。しかもその和風に何の違和感もなく、これが日本の文化だと語られていたりします。本物と偽物の違いが分からなくなってきているから、新しいか古いかの価値観に人は縛られているのかもしれません。

古いか新しいかではなく、本物であるかという物差しを持てば、日本古来から様々な伝統文化や暮らしで用いられた智慧の凄さを再実感できるように私は思います。

子どもたちは自分たちの文化を知るのに、和風ではわかるはずないのです。

本物の和を遺し譲っていくことなしに、日本文化の甦生もあるはずはありません。引き続き子どもたちの仕事をするからこそ、偽物か本物かを見極める心と目を持ち、何百年先にも普遍的なものを遺し譲れるように妥協せずに社業を挑戦していきたいと思います。

見守り続ける意志

むかしから「守る」という言葉は、私たちの暮らしにとって欠かせないものでした。何かを守ろうとする人は、守る意志を持っている人です。この「守る」は大切なものだからこそ、いつまでもそれを大切なままにし続けていくという意志があるということです。

その意志とは何か、それは「子ども心」のことです。

私たちは子ども心に憧れを持っています。生まれる前の記憶のようなイメージでもいいかもしれませんが、最初から「これをやりたい」という意志があるように思います。それが時間と共に色褪せていき、何をしたかったのかなど思い出せなくなっていきます。

しかし何かを切っ掛けに思い出したり、ご縁が結ばれて導き出されたりしてその「子ども心」に出会います。その時、守るものの存在に気づきます。その存在は「子ども心」であり、その子ども心を守ることでその人は意志に守られていきます。

人は何かを守ろうとするとき、強く優しくなっていきます。それは、子ども心の意志が目的に向かって助けてくれるからです。守るものが守られ、守られるものが守ろうとします。これが人間の奥深さではないかと私は思います。

一体、天や神様や御先祖様、またお地蔵様は何を守っているか。

その守っているものに気づくことが、道の入り口かもしれません。守られてきたからこそ守りたいと思う心は、恩のことです。恩はめぐり合うことで積み重なり強くなります。その恩を大切に生きていけば、自ずから守られる存在になり守る力を持てる存在になるように思います。

私自身は、子どもの頃から守ってくださっていた存在を守りたいと願っています。

引き続き、子どもたちが安心して自分の天命を全うできるように見守り続けていきたいと思います。