人間の発酵~発酵人~

先日から振動数について少し深めていますが、自然界には脈動があるように人間にも同じように振動数というものがあります。これは心の周波数という言い方もすれば、魂の波長や精神の波動ともいってもいいかもしれません。

生きていると周りを仕合せに明るく元気にしていく人と、周りを不幸せにして暗くしていく人がいます。この人はなぜそうなるのかといえば、周りに振る舞っている振動数に問題があるとも言えます。

善い人、明るい人、元気な人の傍にはそういう人たちが集まっていきますがそうではない人には逆に暗くジメジメしている人たちが集まってくるものです。これは生き方が関係しているのですが、どんな生き方をしているかでその人の振動数も変わっていくのです。

齋藤一人さんは、振動数をもっとも下げてしまうものは何か、それは他人を変えようとすることと、愚痴や文句を言うことだと言います。私はそれに言い訳をすることと、マジメに正しいことばかりを口にすること、あとはオープンでない態度、すぐにやろうとしない湿っている人が振動数を下げるのではないかと思います。

逆に振動数が上がるのは、発酵しているような人たちです。何があっても福に転じて、ピンチは常にチャンスにし、自分を褒めまくり、自分を変えることを愉しみ、周りに笑顔と思いやり、ポジティブな言葉がけ、これら徳を実践する人格者はみんな発酵人でもあります。

この発酵というのは深めていけば自明しますが、振動数が大変高いものです。与えていくのを愉しみ、自分が与えられていることに感謝しつつその御恩をお返ししたいと願って生きている人たちはみんな振動数が高いものです。

そうやって自分一人の生き方が変われば、周りの人たちもブクブクシュワシュワと変わっていきます。自分の居心地がいいところもまた振動数が関係しますが、如何に清浄で風通しがよく明るく心地よい場があるかは、自分の振動数を高めるのに効果があります。

結局、人間は生き方次第ですから文句を言う前に自分の生き方をさらっと変えてしまえばすぐに振動数の周波数が変わりその周波数で安心した環境が出来上がるのです。一番気を付けたいのは、自分のいつもの振動するの手入れをこまめに行うことです。自分が腐ってしまう人や、自分がネガティブになりやすい人は、自分自身の使う言葉を変えて意識を変えていくしかありません。

意識が変わるには言葉や行動が変われば次第に変わりますから、朝練をはじめて大声で元気よく挨拶をし、爽やかな朝日を浴びて毎朝の祈り、カラダを伸ばし元気がよくなるような格言を素読し、朝食を食べ、暮らしを愉しみ、仲間と働ける仕合せを噛み締めて生きる。

こういう人には自然に運もついてくるように思います。振動数の話を聴いてから余計に、自分自身が高まる面白さを味わっています。周りに左右されず、自らの前向きで深まる学問によって人間の発酵を味わっていきたいと思います。

振動数~天地自然の脈動~

先日、沖縄で「振動数」についての話を伺う機会がありました。振動数とは何か、それは波長や波動といった「波」に関する話です。言い換えるなら、これはその人が発する周波数のことです。

いつも運が善い人という人がいます。この人の周りにいるといつも運に恵まれ善いことが起きます。よく素直な人や謙虚な人と言われますし、物事をいつもポジティブに考えていい方へと転じているからその人が発する振動数は運の善い波長や波動をいつも発しているとも言えます。

音波においてはこれを共振や共鳴とも言い、いつも前向きに愉しく明るく元気に生きている人の周りにはそういう人たちが集まってくるのです。

これは理屈ではなく御縁の世界なども同じです。どのような生き方をしているかで、似た人たちや以心伝心する人たちが集まってきます。自分の発する振動数次第で運が左右されていくのです。

この振動というのは、水面のゆらぎに似ています。深い底で落ち着き、水面でゆらゆらと揺れている状態と、いつも波風立てては落ち着かない水面ではその振動数は異なります。

これは心も同じで如何に自分の心を穏かにし、心を澄ませて心を高めて平常心を磨いていくかが振動数を決定付けていくようにも思います。

そして自然界には天地自然が発している脈動があります。これは心臓の鼓動のように、天地自然もそして宇宙全体もまた脈動を発します。その脈動でいる人は無為自然ですからいつも幸運に恵まれ、そこから外れると運から見放されてしまいます。否、見放されたのではなく自分が放れていくだけです。

この運というものは、道であるとも言えます。道に沿って道を歩むその歩み方は生き方ですから、日頃から善い振動数で道を歩んでいけるように精進していくことかもしれません。禍転じて福にする、何でも愉しく変わっていく、そういう前向きな心を育んでいくことが振動数を上げるということではないかと私は思います。

沖縄で学んだことを実践に換えていきたいと思います。

場チカラ

先日から社内の場力を高めるための工夫を進めています。発酵場というものもそうですが、場というのはチカラです。その場が善くなるというのは、チカラが集まるという意味でもあります。

ここで場力について少し書いてみたいと思います。

そもそも人間にとっての場とは何か、それは何かが行われているところのことです。その場とは、料理する人は料理場とも言うし、工事する人は工事現場とも言います。場とは、何かが行われている場のことです。

その場がどのような場になっているか、それはそこで生きる者たちの生き方の場でもあります。その場は、それぞれの生き方が集積することで場にチカラが集中していきます。

例えば、暮らしというものがあります。その生き物たちがどのように暮らすかでそこに場ができます。これは人間に限らず、山川草木昆虫に至るまですべての生活が場に顕れてきます。

その生き方が自己中心的であればそれにそった場が現れますし、共生し貢献するような生き方があればそれに沿った場が顕れます。掃除一つをとっても、綺麗にすれば美しい場が生まれますし、ゴミで溢れかえっていれば粗末な場が生まれます。そしてそれは次第にそこで発生する関係性にも影響を与えていきます。

理念が初心というものは、そこに場を創ります。場チカラというのは、そこで実践したものたちの集積力によって場が顕れていくとも言えます。どんな場面でどんな場所でどんな場合にその人がどんな生き方をしたかが出て来ます。場を和ませる、場をわきまえる、場を活かす、場を明るくする、その場には、その場その場で発した場チカラがその場に集積するのです。

この集積力とは求心力とも言えます。地球が中心に引き寄せていくチカラの御蔭様で私たちは宇宙に飛び散ることがありません。それは地球の地場に守られているからです。この求心力は、活かそうとすることで場ができているとも言えます。

すべての生き物は育てるものではなく育つものです。教えないで育てないとしたら、育つわけですからそこには場があったということの証になります。場があるから育つのですから、そこで育つ生き物たちには場を明らかにする責任があります。場チカラがあるというのは、場に顕れるほどの生き方の実践が集積され文化になったということです。

その人の理念・初心・祈り・願い・思いが意識になり、場が顕現します。

つねに場を高めていくために、精進して沢山の御縁のつながりから発生する場チカラに感謝しつつ、その場チカラをお借りして子どもたちに伝承していきたいと思います。

背中で伝承する~本当の学び方~

子どもに限らず人は成長するとき、モデルになる人物を一つの指標にしていくものです。例えば、見た目であったとしても生き方であったとしても、自分が参考になるものをもとに見よう見まねで似せていくものです。

これらは対象物に「近づく」という言い方をしてもいいのかもしれません。

師弟関係などもそうですが、師の考え方や生き方を参考にして自分自身の何が似ていないのかに気づきます。そうやって自分が憧れた人との差異を確認しながら、薫風や薫陶を受けてそのものも変わっていくのです。

これは昔の日本では職人文化といいますが、実際には教えない教育を行うには教えないためのモデルが必要だからです。私にも同じようにメンターがいて、メンターの存在やその生き方、そういうものが自分の血肉の中に溶け込んでいます。共に憧れる生き方がある人や、同じ理念を持つ人、最終的にありたい自分を優先できる人は、自ずからベンチマーキングする人物に出会えるように思います。

人生はどこにいくかも大切ですが、誰と往くかというのはもっと大切です。

それは誰と往くかによって生き方が変わってしまうからです。

大人の背中を見せるということや、自分の生き方を遺していくこと、そして実践で示していくというのは、教科書には書かれていませんがどの子どもも、どの人間にも、大きな影響を与えるように思います。

一人ひとりの生きた背中を通して学ぶのは、本来の学び方です。先祖たちが遺してくださったものを紐解き、そこから学ぶのが本当の学び方。そして子どもたちに恥ずかしくない仕事を譲っていくのもまた今を生きる世代の役目であろうとも思います。

一人ひとりの真心の志事が、以心伝心して多くの人たちの真心になること。理念を優先して、実践を怠らないのはそれが「背中」で語ることになるからです。背中で語るのは背中で未来に向かって伝承を続けている真っ最中ということです。

正面ばかりで口八丁手八丁で理論的に説明したりするのも大切ですが、歩んだ背中には決して敵いません。

常に背中を見られているという意識を忘れず、背中で与えられる安心感を伝承できるように自分自身の学びの姿を通して子どもたちを見守っていきたいと思います。

家での住み方

すべての生き物は住み家があり、それぞれが御互いを思いやり住み分けをしています。先日ブログでいきものの鳴き声が時間帯で異なることを書きましたが、共生とは互いを思いやり尊重しあっていく和の心が解け合ういのちの道理です。

今まで地球上で私たちは御互いを尊重し合っていままで暮らしてきましたが住み分けが狂い、何度も世界を巻き込む戦争がおきて人間の争いはまだまだ続いています。

そもそも自分の住み家を大切に守り、住み家がいつまでも持続可能になるように丹念に手入れをしていたから私たちはその住み家を中心に生活が成り立ちました。特に農耕民族である先祖たちは同じ場所を何百年も動かず、先祖代々その土地で暮らしを成り立たせてきました。今では住み家が崩れみんな田舎を捨てて都市に出て、過疎地ではお年寄りだけで生活をする始末です。

本来の住み分けが機能せず住み家が衰退しているというのは住まいを持つ人たちの生き方が変化してきているからです。住まいを大切にするというのは、自分の心を大切にするということでもあります。住まいが殺伐としたり、暮らしから遠ざかっているというのは物が氾濫しなんでも粗末にして生きている生き方の現れとも言えます。そこには貧困があります。本来の豊かさは貧乏かどうかではなく、一つの暮らしの中に様々な心のゆとりや余裕があるということです。住み家があるのはモノとココロの両面が満たされる安住があるということです。

昔の古民具や、骨とう品などをみていたら物が大切にされてきたことを感じます。それは何世代も使われ、手入れされたものには何か大事な心が宿っているように思います。コンビニで簡単に買っては捨てている便利なものとは異なり、そこには暮らしの残り香が薫ります。

私たちは住まいの中に暮らし、住まいには生活があります。

その生活が物に顕れ、その生活が空間の中に表現されていきます。どんなものが集まって来るか、それは御縁です。これは人も同じく自分の成長と共に集まって来るものや大切にしてきたものが磨かれ輝きはじめます。その住居はまるでその人そのもののように人相が出て来ます。これを家相ともいうのかもしれません。そしてどんな御縁でそこまでたどり着いたのか、そこには天相、地相、人相といったタイミングや機縁に結ばれています。

住歴を大切にする真心は、自分自身の御縁を大切にする誠実さと比例するように思います。

そして「終いの住み家」という言葉があります。これの意味するのは最後に安住する場所が家ということです。心が安寿し澄む処、住み方そのものが家族家庭そのものです。

常にどんな一家でどんな家で暮らしていくか、それを創るのは自分自身の生き方です。家での住み方を忘れず、一家の暮らし、一家の初心を子どもたちに譲っていきたいと思います。

和の家

先日、和の部屋について相談があり色々と深める機会になりました。和の部屋といえば、通常では畳があり押入れや襖があるものを和室だと思っていることがあります。

しかし畳も昔はなかったもので、押し入れや襖もわりと歴史的には古いものではありません。実際の日本はじまりの住まいは何か、それは古事記に書かれています。

「伊弉諾命、伊弉冉命の二柱の神はおの馭盧島に天降りして其處に先ず天の御柱を御作り、倶に御住ひになった。八尋とは一尋、二尋と數える八尋にあらずして八は彌と同じく數多きをたたえ唱うる言の葉なれば即ち幾十尋の御殿の意なり。彌栄なる館なるにして我が國初めての御殿なりせば家屋建築の始めなり。我が國の神々達は穴に宿る神に非ず、木の枝に巣造るに非ず、程高き営みの神なり。」

イザナギとイザナミが、はじめて高天原に降りてきて造営した住まいが私たちの祖親のはじめての住居「八尋殿」です。一尋とは、人が手を拡げたときの寸法を言います。これを八尋とするとちょうど畳二畳分くらいのサイズになります。この八は、末広がりの八を意味しますからここの住居から無限に広がりはじめたということです。

私たちの祖親の家屋建築の原点はここです。私たちの親は穴に住んだのでもなく、木の上に巣をつくったのでもない、天に向かって真っすぐに伸びた柱を地に立て、床を建て住んだということです。

今の時代は、高層ビルや広大な豪邸が価値があるかのように売り買いされていますが本来の住居はとてもシンプルなものです。

例えば生き物によっては、泥を固めて巣にしたり、草を丸めて家にしたり、石を積んで塒にしたりと、それぞれに住まいのカタチは異なります。私たちの先祖が、何をもって住まいしたかを知ることはとても大切なことだと思います。住まいの出発点を和合生活にしたこともまた私たちの先祖たちの真心だと思います。

そして和とは何かと考えるに、如何に本来の先祖たちが伝承してきた暮らしに親しみとけ合うかということではないかと思います。それは例えば、共に暮らすものたちと如何に親しみを持っているか、そして心安らぎ仕合わせを感じるか、そこには余裕と真の豊かさがあるように思います。

豪華絢爛で贅を究めた芸術作品のようなところを住まいというのではなく、人々の暮らしや生活が息づく場所、そこがまさに家庭であり、たとえ独り身であったとしても共に暮らしているいのちの暖かさに触れ、深く味わいながら日々を豊かに過ごしていることが本来の住居であり家であるように思います。

そういう住居を持つ人は、和の心を持つ人とも言えます。秋になれば秋をしつらえ、冬には冬をしつらえる。まさに、小さな四季の変化をも愉しみ、部屋の中の花一輪にいたるまで愛でる澄んだ心があります。心の手入れというものは、日々の暮らしを愉しむ真心にあるように思います。

和室というものの本来の姿の本質は、「暮らし」の中にこそあるということが私が考える和の家です。和をもって尊しとなすとといったのは、聖徳太子ですがその聖徳太子は家屋を大切に手入れするように寺院を建築したといいます。法隆寺をふくめて、奈良のあちこちにはその暮らしが遺っているようにも感じました。

子ども達に本当に譲っていきたい伝承したいものを、自分たちが忘れないように生きていきたいと感じます。改めて日々の暮らしから、生き方を見つめ直していきたいと思います。

見守り愛

自然と人間というテーマで考えていく中で、自然の慈しみの愛を感じつつ如何に人間を愛すかということに行き当たります。そしてそれは本来は分かれているものではなく、自然と人間とは御互いに愛が深い存在であることに気づくものです。この愛のつながりとは何か、それは信じ合うということです。

それは子どもたちの中に顕れてきます。

子ども達は好奇心で生きています。様々なことを好奇心を働かせて冒険していきます。時として危ういこともあれば、時として手を出したくなることもあります。しかし子どもはそのダイナミックな自然の中で自らで大切なことを気づき学んでいくものです。

それは直接的に論理を使い教え込まなくても、自然に大切なことを周りから感応し自らが気づき真実を掴んでいくものです。大人たちの心配をよそに、子ども達は様々な遠回りをしては大切なことに辿りつきます。

これは学びが直線的ではなく、混沌としていることを証明しています。例えば、思いやりということを学ぶのに教科書で教えれば人の嫌がることをしないと言えばいいのでしょうが実際には子どもは嫌がることをしたり喧嘩をしたり問題を起こしたり、そして泣いて悲しんで苦しんで笑って微笑んでと紆余曲折しながらついには思いやりに辿りつきます。

こちらが如何にそれを静止しても、それは静止できるものではなく学びたいからこそ事件を起こして経験をしたがるとも言えます。そんなとき、私たちにできるのは見守ることだけです。

この見守ることだけの時の自分は、自然の愛と人間の愛が一体になっていることに気づきます。人類を愛するからこそ、見守ることを拡げようとし、自然に見守られていることを自覚するからこそ私にできるのは同じように見守ることだけです。

どんなに遠回りをしても必ず気づくと信じている存在、それが見守り愛なのかもしれません。信じているからこそ、体験をさせたいと思う事。信じているからこそ、経験を許したいと思う事。これは大人の思い通りではないですが、自分が子どもの時もきっと同じように大切なことは自らの好奇心を信じて学んできたはずです。

人類がどんなに遠回りをしても、いつの日かは大切なことに気づくと信じること。

今の時代を生きる私たちができるのもまた見守ることだけかもしれません。

見守るというのは何もしないわけではありません。見守ることだけということの覚悟は、本気で見守るということですから当然、人類の先人となる私たちが一期一会に自分自身を世界の一人として独立自尊し、道を歩み切る実践を子どもたちに譲っていく必要があります。

見守り愛に包まれた自分をそのままに、子ども達を見守り愛で包んでいきたいと思います。

自然生態系を育てる

田畑に出れば様々な虫たちや動物たちが繁殖していることに気づきます。山林の中とは異なり、人間が作物をつくるために作業している場ですからそこには人間を中心にした独自の生態系が存在しています。

例えば、ピーマンやトマトを育てればそれを食べるカメムシが集まります。カメムシが集まればそれを捕食する虫たちが集まってきます。他にもそこに育てる野菜の種類によっては同時に増えていく虫たちもまた集まっていくのです。

このように生態系は自分たちが育てるものによってそれが餌になり、その餌を食べるものたちが増えることでまたその増えたものを餌にするものたちが集まっていきます。

一見、田畑では何も起きていないように観えても確実にそこには、人間の創りだした環境が出来上がっていると言えるのです。そうやって自分たちが用意した環境の中では、一時的に大量の虫たちが発生します。餌があるから増えることが出来るのですが、それを減らすために農薬をまいたりします。

実際は、少量ならば増えないものを一つを大量に育てるから別の一つも大量に増えていきます。そうやって増えていけばその周りにあった虫たちや動物たちの生態系も変わっていきます。本来、そこになかったものを育てるということは生態系を変えてしまうということでもあります。

田畑をはじめて何を育てるか、それは生態系を育てるとも言えます。それは自分のカラダにも言えるものです。人間の身体の中には無数の菌類が腸内で生息しています。その菌類の餌を何にするかは、腸内の生態系を変えてしまうことです。餌がどのようなものを食べ続けるかで腸内の菌類のバランスも変えてしまいます。あまりにも腸内のバランスが崩れるとお腹を崩しますが、これは田畑でも同じことが言えます。イナゴが大量発生したり、特定の虫や動物が現れて荒らされてしまいます。

自然界というものは常に生態系が関係しており、その場所や広さ、周りの環境と密接なのです。私たちが作物を育てるとき、それは同時に生態系を育てているとも言えます。どんな生態系を育てていくかは、その人の生き方がきめるとも言えます。どちらにしても、大量生産大量消費は同じく大量の生態系を産み出しますから生態系を乱す範疇を超えてつくるということはそれだけ生態系に対する認識が必要になろうと思います。

自然の許容範囲を知るということは、生態系を学ぶということに似ています。どこまでが許容範囲なのかは、周りへの思いやりに比例するように思います。分を超えるとすぐに問題は発生しますから如何に謙虚であるかは、自然界の理法に適うかどうかを左右します。

自然は正直ですから、謙虚である意味を正しく学べます。子ども達のためにも生態系を思いやる農法を学び直したいと思います。

意識と能力

人が何かをする際や物事に取り組む際には、能力と意識というものがあります。能力があるからこなせる人と、意識があるから取り組む人がいます。同じ物事を取り組んでいても、そこには確かな差があることに気づくものです。

例えば、マニュアルを使ってテクニックだけでできるのならロボットでもできます。しかしそこに確かな意識を入れろうとすれば手間暇かけてでもその人の意識が籠ります。陶芸なども、機械で大量生産したものと手作りで丹精を籠めてつくられたものでは手に持った時の重厚な質感が異なるものです。

これはモノづくりにおいても、能力と意識とは確実に異なるものがあることを意味しています。では意識とは一体何かということです。

現在の科学では、意識のことをはっきりと証明できているわけではありません。意識を失うとあるように、一般的には脳が意識を持っているとして脳が死ねば意識がなくなると定義しています。しかし、実際は意識がないかというと生きているのだから生命は存在しているのです。例えば、動植物にいたるまですべての生き物には意識があります。意識というものが存在している証ですから、意識がないものは一切存在しないはずです。

バッタが飛び跳ねるのは能力ですが、バッタが生きているのは意識です。生きようとする意識があって、その次に能力が出てくるのが本質ですから能力が先ではないことは事実です。

人間はこれを勘違いして能力だけで物事をこなそうとしていると勘違いしている人がいます。仕事においても、能力があるからやっているという考え方では意識はあまり関係していないように思えます。しかし実際はどんな「思い」で取り組んだか、どんな「意識」でやり遂げているかで、その能力の違いはそのうち数百倍もの差が出てくるものです。

進化成長の中に能力がありますが、能力とは意識によって開花していくものです。意識が強ければ強いほどに、その人の能力はより一層周りの御役に立つために変化していきます。自分の意識がどうなっているのかを確認する機会は少ないでしょうが、どんな「思い」を持って取り組んでいるか、どんな意識で実践しているかは人生において何よりも重要なことだと思います。

「真心を籠める」という言い方もしますが、意識を籠めるというものも同義です。常にどんな意識で周りと接しているか、どんな思いで今を生きているかが本来の能力に比例して御力を発揮することができます。

できるできないと考える癖や刷り込みは、能力だけで物事をみてしまい裁いてしまう自分の価値観の思い違いです。まさに論語にある「今、汝は画れり」です。実際はできるできないではなく、やろうとしているか、本気かどうか、情熱的か主体的か、自らそれを遣りきると決心したかといった「意識」の方が本来は何よりも大事なのです。

意識はエネルギーですから、その人のエネルギーが強ければ強いほどに能力が開発され開花します。自分のエネルギーを常に高め続ける努力や、自分の意識をブラッシュアップし続ける実践は、何よりも自分自身の変革を促し、自分自身に近づいていくための智慧であろうと思います。

「意識が変わる」ことは人が変わることです。

自分の意識改革を行うためにすべての努力があるといってもいいかもしれません。心が感じたままに、心の感動を刺激し、魂を揺さぶり、意識を磨き続けていくことを大切にしていきたいと思います。

子ども達にも何よりも大切なのは「意識を籠める」「真心を籠める」ことだとし、行動と実践を積み重ねて精進するモデルになるように引き続き理念を高めていきたいと思います。

 

 

彼方の海道 参

昨日は久高島にきて、御嶽を中心にいのりの場所を巡りました。夜には満天の星空を見上げて夜半まで仲間たちと語り合うことが出来ました。かつての先祖の心に思いが宿る場所で思いに心を寄せて思いを馳せると、きっと悠久の暗闇の中で星々が煌く天を見上げて、波の音響聴き、風を受け止めて炎の揺らぎの中で天と対話していたのではないかと感じます。

今の時代のように一晩中、街中の街灯が光っていては夜が持つ暗闇というものの価値や星空というものの魅力もまた感じることができなくなっているようにも思います。私たちは朝から夜になるまでは太陽の明るさで気づきませんが、空の向こうにはたくさんの星々が瞬いています。夜になり太陽の光が消えると、そこには地球と同じように星たちがそれぞれに息づき広大な宇宙の中で循環している様子が実感できます。

暗闇の中には、眼には見えないとても大きな御力も働いているように思います。暗闇はとても暖かく、眼でみるのを已めてしまう時、本当の慈愛のようなものを感じるものです。それはまるで、自分が宇宙の中で自由な星の一つになったかのような感覚を憶えます。畏怖を超えたとき、そこにはつながりの中にある仕合わせと歓びがあります。

御蔭様で昨夜は一晩中外で星空を眺めていたら、たくさんの流れ星を見つけることができました。流れ星は日々に約400トン、1年で約15万トンほどの塵が地球に降り注いでいるともいいます。これを100年、1000年、そして1億年、10億年と積み重ねていくと私たちの星は流れ星の砂によって覆いかぶさっているようにも感じます。先日、あるクルーからこの砂はどこから来たのかと聴かれましたが、それは流れ星から来ているという直感もまたありました。

あの流れ星は一体どこからきてどこにゆくのか、そして私たちは一体どこから来てどこに向かおうとしているのか・・・光から闇へと琉れた球(玉)は、闇から光に回帰していきます。闇の中の光は、光の中の闇へと流れは移り変わります。そしてあけの明星が顕れもっとも光りだすころ、それまでの星屑たちは次第に姿を消していきます。

星のいのちもそれぞれに宇宙の中で意志があって旅をし星々を廻り、意思があって根を降ろします。古から魂は宇宙を旅し、そして宇宙を旅した中で隕石や流れ星となり、新しい宿り先を辿っていくのでしょう。

いのちは生物非生物、生物無生物を超えて出会い語り合うのかもしれません。どんな出会いがあるか、それはひょっとしたら1億年に一度の出会いかも知れません。もしくは10億年の一度かもしれません、そしてその瞬間はほんの数時間かもしれませんし、数十年かもしれません。

それでも必ず星たちは”出会う”のです。

星空に出会うことは、自分自身に出会うことです。海の道を辿ってきた先祖たちは、星空を見上げては天と一体になって自分自身との対話をしていたのでしょう。地球と背中を合わせて地球に背中を任せてこれたのは、天を見上げて地球の未来を信じていたからかもしれません。

あの彼方の海道にある先祖が目指した真の暮らしの実践は、時を色あせず今でも星空を見上げれば思い出すことが出来ます。祖親が祈った生き方を子どもたちのためにも譲っていけるよう今回の久高島での不思議な体験を忘れず力強く実践していきたいと思います。