心の原点回帰~もののあはれ~

昔から日本には八百万の神々という思想があります。これは万物の全てには神様が宿っているという意味です。つまりすべては丸ごと神様であるという考え方です。

これは西洋のように人間と神とを分けて考えるのではなく、自然界の仕組みのように人間を中心にするのではなくすべて丸ごとを中心にするという考え方です。

しかしそれを感じる力を持つというのはモノやコトの中に真心を感じる感性がなければそれを実感することはできません。つまりは江戸時代の国文学者の本居宣長が言うように「もののあはれ」を直感できるかということによるのです。

「もののあはれ」とは何か、本居宣長はこう言います。

「世の中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ身に触れるにつけて、そのあらゆる事を心で味わい、そのあらゆるの事の心を自分の真心でありのままに知る。これが事の心を知るということであり物の心を知るをいうことである。物のあはれを知るということである。そしてさらに詳しく解釈するならば、ありのままに知るのは物の心、事の心であり、それらを明らかに知ってその事のあるがままのかたちに動かされるままに感じられるものが”もののあはれ”なのである。」

この「あはれ」というのは、哀しみのことを言うのではなくありとあらゆることを直感する感性のことであろうと思います。自他一体の時に実感する、繋がりや絆、そのご縁を尊重するときに自分が渾然一体になっているものの変化と同化しているときに味わっている感覚のことです。

なぜ「もったいない」という言葉があるのかは、そこには心があるからです。心があるからこそ粗末にしない、心があるからこそ大事にする、そのモノもコトにも、確かな心が関わりいのちが存在しているからこそ大切にしていこうとする思想です。

今の時代はありあまるほどに存在するモノやコトに囲まれています。一歩外に出れば、そのモノやコトの情報が氾濫し、内に戻ればそれを持ち帰ってしまいます。穢れを祓い清めるというのは、心を亡くしてしまったものを取り戻し、それをキチンと整理整頓し清潔にシンプルにしておくということなのでしょう。

自分の心と感情を澄ましていくというのは、「もののあはれ」を感じられる状態にいつも自分を維持していくことだと思います。それはモノやコトをどれだけ大切にしているかですし、内省によってどれだけ丁寧に暮らしていくかということでもあります。

何でも雑にしていたらそのうち心は亡くなって、モノだけではなくコト、そしてヒトやタカラまで失っていきます。沢山いただき恵まれているものに感謝の心がなくなってしまったら、それは何よりも悲しく不幸なことです。

常に「もののあはれ」を感じる心は、心が清く明るいままで維持されるようにその汚れをきれいに払しょくし洗い流すような実践が必要になるように思います。日々に穢れなくさっぱりとしている自分かどうかを確かめ、余計な雑念に大切な理念や初心を忘れないように平常心を磨いていきたいと思います。

あの美しい自然、今朝の綺麗な朝の光のようにいつも心の原点回帰をしていきたいと思います。

観方を転じる~徳に報いる~

先日、あることを考えていると天罰ということについて見直す機会がありました。よく悪いことをすると天罰が当たるという言い方をしますがこの天罰とは何かということです。

そもそも天は罰を与えることはありません。罰が当たるのは自分自身です。自分にとってつらいこと苦しいことを罰とし、その罰が来たということです。天がわざわざ罰を与えたわけではなく、自分自身が素直になったときに「これが報いか」ということを自覚するだけです。

報いというのは因果応報のことですが、これはそもそも先ほどの天罰と同じく悪いことで使われますがこれもおかしな話で自分にとって悪い報いだけが起きるわけではありません。善悪というものも、人間が自分にとって善悪を決めるだけで天は善悪を持ちません。つまりは、因果応報もこれは単に行ったことが形になっただけでそれに善悪を設けているのは自分自身ということです。

人間というものは、自分を中心に置いて物事の善悪や成否を決めます。そしてそれは常識という枠組みの中によって正解と不正解を裁きます。そのことにより自然だったものが不自然になり、本心だったものが本心じゃなくなっていくのです。

物事というのは観方の問題です。

現実というのは、偉大な循環の中の一つであるためその物事や出来事は必然的に自分に置かれます。つまりは産まれてくる場所をはじめそこに自分がいるのは全体の一部としてそこに必要として来たのです。その現実は現実ですから受け止めて受け容れるしかないのはそれはどうしようもない事実だからです。

だからこそその事実を変えてしまいたくなるような自分中心の自分自身があるのでしょうが、それを手放していかなければ現実の苦しさに自分が耐えられなくなってしまうのです。そういう時は、観方を換えるしかありません。本来、善いことであるという観点、丸ごと善いことであるという観点、繋がり味わい楽しむならばそれが正しいという観点のように、自分の観点を不安不信ではなく信の世界に換えるのです。

そもそも天罰などはない、天はいつもすべてゆるしてくださっている、天はいつも助けてくださっているというように大前提を変えてしまわなければ観点は変わりません。つまりは自分の解釈そのものの基準を、信じる方へと善い方へと変えるということです。

自分の不安が未来を悪くしていくのは、そういう観方を換えられないだけです。今の生き方を常に善い方へと善転できるならその人はどんな運命であろうとも自分の人生を仕合せに歩んでいくことができるからです。

人は自分の思い通りになるとき、このままずっと今のままがいいと願うものです。しかし時代はそれを待ってくれません、自分ひとりで生きているわけでもなく世界は発展を続けるからです。

だからこそ今の自分を転じていくこと、それが人事を盡していくことだと思います。天は信ですから、その信に報いるのは徳です。その徳を磨いていくことは、人事を盡してあとは天に任せていくことです。

自分の思っていることなどたかが知れていて、ほとんど全ての出来事が自分ではない周りのところが動いてくださってことはなされていくものです。それが循環の理でもあり、地球の中に共生する原理でもあります。

偉大な中に存在させていただいているのだから、自分の役割を果たしていくことが徳に報いることです。自分都合自分勝手な解釈を戒め、常に観方を転じて信の世界を子どもたちに譲っていきたいと思います。

善い一日

日々は毎日、あらゆる出来事に満ちています。自分の主体性が失わなければ人は毎日新しいご縁と感動の中で生きているのです。自分を見失うのも自分、自分を取り戻すのも自分、どれだけ日々に好奇心を失わないように精進するか、そこに魂の磨きがあるように思います。魂を磨くというのは曖昧な感覚で捉えられるものがありますが、それは状況や環境に左右されずに生き切ることができるかということなのでしょう。

人生をどれだけ真剣であったかは何よりもその魂に影響を与えます。人が結果だけを見るのではなくその生き方ともいう経過にどれだけ真摯かは自分の使命の重要性を自覚するからでしょう。自分自身の自覚とは日々の過ごし方が決定づけます。日々を遣い切る、日々を出し切るように真心を絞り出す人の魂はいつも子どもの憧れのまとでありその周囲はいつも光り照らされて観えます。

先日、作家の三浦綾子さんエッセイに触れる機会がありました。その生き方や生き様から学ぶことが多くこのタイミングで有難いご縁をいただきました。

その中の言葉をいくつか紹介します。

「私たちは、毎日生きています。 誰かの人生を生きているわけではないのです。 自分の人生を生きているのです。 きょうの一日は、 あってもなくてもいいという一日ではないのです。 もしも、私たちの命が明日終わるものだったら、 きょうという一日がどんなに貴重かわからない。」

どれだけ毎日を真摯に生き切るかは、どれだけ自分を誰かのお役に立て切ったかということです。全体のために自分を使うとき、人は自分の考えた一日ではなく自分に与えていただいた大切なご縁に気づきます。そのご縁に気づいたら人は、一日一生の気持ちで生きようと思うのです。死にかけてみてはじめてわかるのが生の有難さです。人はすぐに昨日の繰り返しや、過去から予想して一日を過ごしますが好奇心はそれでは輝きません。常に新しい一日であったか、常に感動と感激を発見しているか、ひとり慎む内省の時間によってそれを育んでいくのでしょう。

私自身も太陽が出てから最大の活動をし、太陽が沈んでから静謐な内省をすればするほどにその間の御縁を通して機縁の奇妙さや不思議に心が感動し魂が揺さぶられます。毎日がかけがえないの記憶の中にあることに感謝する気持ちに満たされ愛に包まれていきます。

人は結局は、一日の過ごし方が一生の過ごし方になります。日々にどれだけ心を遣ったはその人の力量ですが、常に不満から入るのではなく感謝から入ることで自分自身の真の尊さに触れて初心に帰れるのかもしれません。

今の人間は経済的にも環境的にも恵まれすぎて当たり前の豊かさや仕合せを手放してしまったとも言えます。当たり前ではないことに感謝できる感性は、一日一日の過ごし方という実践にてはじめて得られるように思います。わかった気になってはならないのは何よりも毎日毎朝ということです。

最後に三浦綾子さんの言葉です。

「今日という日には、誰もが素人。」

気づけば教えてくださるのに気づくことができない自分がいるだけです。いつも見守られている自分さえ感謝で気づけるなら、大事なことや大切なことは常に日々が私に伝えてきてくださっています。

学びの感性があることそのものに感謝の日々です。毎日が真っ新、毎日が新鮮、毎日が発達、子どもの魂のままに善い一日を過ごしていきたいと思います。

役割意識~人生の目的~

北米インディアンの諺に「7代先の人達のことを考えて生活しなさい」があります。ちょうどこれは200年から300年くらい先のことを考えて今を判断しなさいという教えです。

人は判断をするのにどれくらいの長さで物を観るかでその哲学が変わってきます。今が過去の集積によって存在していることの実感は、同じように先祖たちが考えてくださった未来を今を生きる自分たちが感謝し子孫へ譲っていく思想です。

例えば、食糧でも同じく自分たちの代で食べ尽してしまえば必然的に子どもたちの時には残っていません。子どもたちが貧困で苦しい思いをしてほしくないという思いは誰だって子どもが産まれたら願うものです。そして戦争でも同じく、自分たちの代で戦争をすれば子どもたちには戦禍を遺すことになってしまいます。子どもたちが悲劇に見舞われないようにという願いは同じように誰にでもあるのです。

しかし今の人たちは意図的に操作された自我優先の慾環境によって盲目に刷り込まれ自分たちの身の上のことばかりを思い煩い、先々のためにどう生きるかということを優先することができません。まるでそれは自転車操業のように、走り続けなければ倒れてしまうと思い込んでいるように働きに働きづくめで忙しさに心を取り戻せません。

空の悠久に流れる星々をみつめて今世の自分の役割を果たそうなどと考える時間もないほどです。

北米のインディアンたちは、太古の昔から「自分のいのちは役割を果たすためにある」といった哲学をもって生き抜いてきました。何よりも優先するのが使命や役割だったのです。「グレートスピリッツ」という全自然の偉大な大生霊の循環によって産み出された自分の存在を生き活かそうとするのです。

それは自分が男や女、またどの家系に紐づいているか、その今の自分そのものの全体の中の役割に生き切ろうとするのです。

その役割についても徹底してて、部族の役割の頂点にいるのが酋長です。この酋長は全ての物を全ての人に分け与える存在として選ばれます。従って酋長は一切資産資材を持たず、一族の中では最も質素な暮らしをしていて全体のために自分の役割を生き切るのです。

役割意識というものは、何よりも大事な意識です。

自分の人生を役割だと思えるか、その役割を果たそうと実感できるか、そこには謙虚な生き方があります。自分の生とその自分に与えられた役割に素直に感謝できるとき、今の自分が見守られていることを知ります。そして満たされている存在、足るを知ることによりその御蔭様に対して御恩返しをしたいという願いがでてきます。

その時、はじめて自分がどう生きたいか活かされている自分をどうしていきたいかという人生の目的に出会うのです。

どんな人もどんな動物草木昆虫菌類、無機質のものにいたるまで役割があるから一緒に暮らしているのです。お互いが違う役割を求めるとき、人は生きる意味を見失うように思います。

自分探しや自分の目的など色々と彷徨っている話を聴きますが、大切なのは与えられた役割に気づき役割を果たすことに専念することのように思います。

「自分のいのちは活かされている」という実感があって人は目的に出会うのでしょう。

役割を果たせるように今日も未来永劫に続き未来の子どもたちと、宇宙や世界全体のために今できることに専念していきたいと思います。

 

この酋長はもっとも

私たちの実践~守りたいもの~

今の時代は経済優先の競争社会が当たり前の環境の中に蔓延っています。豊かさの定義は経済力でありその経済力というパワーを持っている人ほど豊かであると周りも羨ましがるものです。

実際に世界では経済力を持たなくても仕合せに暮らす人々もいます。それはかつての先住民族や農耕民族、今の西洋文明が入り込んでいないところで何千年も前から同じ暮らしをする民族たちです。

以前、ブータン王国のことを調べたことがありますがその発展の度合いを測るのにGDP(Gross Domestic Product/国内総生産)ではなく、GNH(Gross National Happiness/国民総幸福量)を使っているとありました。

つまりは幸福の定義をお金ではなく、仕合せかで量ろうというものです。簡単に言えば、どれだけ今の自分が豊かであるか貧しいかを量るブータン独自のモノサシを持とうというものです。

グローバリゼーションが広がると、そこには今までの豊かさを経済の持つ豊かさに変えてしまいます。今までの「ゆったり生きること、手間暇をかけること、一緒にやること、楽しく面白く過ごすこと」を優先してきた先祖たちの生き方を、「早く効率よく済ませること、便利であること、一人でもできること、勤勉にやること」を優先する生き方に変えてしまい、その分だけお金(豊か)が得られるという謳い文句で人々の生き方を操作していくのです。

人間の慾を優先するか、それとも自然の道理に沿う命を優先するか、それを決めるのは自分自身なのです。

敢えて今の時代に刷り込みを取り除こうとするのであれば、心を強くしていくしかありません。心が本来の目指す生き方を選ぶなら環境に左右されない真の強さを育てあげていけるからです。本来の生き方を守りながら文明と上手に付き合っていける国際世界人に近づいていくからです。

今まで人間は何度も文明の崩壊を繰り返してきました。それは歴史を観れば一目瞭然です。あれだけ繁栄発展した古代文明も等しく滅んでいます。しかしその中でも滅ばずに生き残っている先住民族たちがいるのを忘れてはなりません。その先住民族たちがなぜ今も生き残り今でもこの世に存在するか、そこに共通するものが悠久を生きる鍵なのです。

私にはそれは自然に沿って暮らし、人との結びつき大切にし絆を守った人たちに観えます。

果たしてこのままどこまで人間の慾が金融を操り臨界期まで突入するか、原発の事故のようななれの果てまでいくのはそう時間がかからないようにも思えます。だからこそ、その警告を真摯に受け止め、世界に生き方と働き方を示していきたいと思うのです。

文化と文明は、自然と人間のかかわりのように一体になって時代に息づいています。子ども第一主義の理念に従い、地道にコツコツと根強く耐えて実践を続けながら天機を待ちたいと思います。

ライフワークバランス~人生の生き様~

ライフワークバランスという言葉があります。しかしこれを誤解して使っている人が多いように思います。ライフとワークを分けてバランスを取ることはできません。それはライフというものは人生のことだからです。

世間ではこのライフワークに対して、ライスワーク(飯を食べるため)と、ライクワーク(好きなことをする)、そしてライフワーク(人生をよりよく生きる)みたいな使い分けをしています。

確かに今の時代は主体性を欠いてしまい積極的に主人公としての自分を持つことができないと、その状況や環境によって自分の働き方のようなものをもってしまいます。当たり前に毎日仕事をしますがそれがその人の人生を次第に決定してしまいます。

太古の昔、仕事という意識ががない時代、人は生きることそのものを心底愉しみました。それは動物たちや植物たち昆虫などのように、天からいただいたいのちを真摯に燃焼して自然体に生きてきました。自分が日々に感じるすべてはそのままの人生そのものだったのです。

それを人生と別の出来事のように仕事を分けたり、立場によって自分を使い分けたりして偏った自分を持ってしまったことでライフワークの様々なことが中途半端になってきたのです。よく働き方について今は議論されていますが、どんな働き方をしているかどうかではなくどんな人生を歩んでいるかで議論していくのが本質的な働き方なはずです。それは働く自分の生き様ともいうべきものです。

相手に合わせて自分を変えたり、立場によって自分を使い分けたり、常識に従って自分を決めたりと自分で自分を誤魔化して周りに合わせてばかりいると本来の自分の人生の実感が持てなくなってきます。

どんな相手にも真心を籠めたり、立場ではなく使命感として取り組んだり、自分に正直に実践を怠らないと決心してはじめて自分の人生を自分の足で歩んでいる実感を持つことができるのでしょう。

ライフワークバランスとは、「人生の生き様」と訳してもいいと思います。

人生の生き様が悪いと思うのなら、そこを直し自然体になるように様々な悪環境を取り除き刷り込みを払しょくしていくことです。生き方と働き方の一致とは、シンプルに言えば「丸ごと人生そのものにする」ということです。

常にどんなこともすべて自分の人生そのものだと思えるか、天から頂いた有難いいのちをどのように使っていくのかを決めるのも自分次第です。かんながらの道の中で真善美を盡すあるがままのいのちの生き様を感謝のままに時に刻んでいきたいと思います。

自然循環と人間社會~天命畏、徳性尊~

以前、「なぜ新宿で自然に沿った生き方をするのか」とある人に聴かれたことがあります。里山か田舎にいけば、田もあり土もあり、自然はあるのに東京都庁の隣の大都会でなぜかとありました。

そのことを少しここで書いてみます。

そもそも都会というものは、人間が生み出した社會のことです。この社會とは人間だけを中心にどのような暮らしをその中で行うかを考えて人工的に創りだされたものです。私たちは集団をつくりその集団の中でお互いが生き残るために力を合わせて生きていく仕組みを開発してきました。

その社會の中には、思いやりが中心に据えられ人のぬくもりを感じながら安心して暮らし続けてきました。人間社會という言葉にある通り、人間が社會であり、社會が人間ということです。

また同時に地球の中に住まう私たちは地球の一部です。地球の一部であるというのは地球のリズムに沿って生きているとも言えます。四季があるように、昼と夜があるように自然は一定のリズムを持ちます。その自然のリズムに沿って生きるというのは、人間社會とは別に存在している自然循環です。先ほどの人間社會に対し、自然循環というのも自然は循環であり、循環が自然のことです。

人はこの自然循環を優先し、そのあとに人間社會を実践することが調和を創ります。里山の原理も同じく、問題は自然に沿っているかどうかということが問われているのです。

都会の中にいても自然に沿っているならば、私たちは自然の浄化を邪魔することもなく持続可能で豊かな生き方をしていくことができます。人間社會のみの発展だけに特化し経済競争だけを中心にしていけば勤勉であることが美徳のように語られます。

しかし本来は勤勉とは、その背景に楽しさがあってのことです。日本人が勤勉だから美徳ではなく、日本人は働くことが大好きな民族なのです。つまりは道楽者が多いということ、働ける仕合せを実感して生きる御蔭様や感謝の真心のままに素直に生きてきた民族であったのです。

世界からは勤勉だから経済大国になったと目標にされますが本来、自然に沿って暮らしていつつも感謝を忘れないで生きてきた私たちは働く仕合せがあったから結果として経済も発展したのです。

豊かさについては色々という人もいますが、私が思う真の豊かさというものは自然に沿った生き方をし人間を大切に思いやり正直に明るく楽しく暮らしていくことです。

私が新宿で子ども第一主義の理念を掲げ実践を増やし続けているのも、そういう本来の生き方を環境や状況に左右されずに成し遂げていこうとする初心を忘れないためでもあります。

子どもたちはこの加速した都市化していく暮らしの中で希望や夢を失うことがないように、私たち今の大人が天命を畏れ徳性を尊び、御蔭様に感謝しぬくもりや思いやり大切にして実績を遺してあげることだと思います。

自らが挑戦してモデルになることで必ず子どもたちの勇気になっていくと思います。

忙しさに負けない心の強さとやさしさ、真の豊かさを味わえる高い心を道を共にする仲間たちとともに大事に育てていきたと思います。

 

朝の生き方~生活リズム~

生き物にはリズムがあります、それを生活リズムとも呼びます。これは動物でも人間でも全ての生き物は、地球の鼓動や呼吸と同じように自分たちもそれを行っています。

例えば、朝になれば鳥が鳴きはじめ活動をはじめるようにいつも同じリズムで活動します。ベランダに飛来してくる雀もいつも同じ時間にやってきては朝食をとり、その後は縄張りのチェックや他の鳥と遊びコミュニケーションをとっています。

これは鳥にも限らず、人間も一定の生活リズムで中心を持っていて多生のズレは修正できますが大きなズレになると体調や精神が不安定になって病気になったりするのです。

この生活リズムのことを別の言い方では生活習慣といいます。

その人がどんな生活習慣を持っているかがつまり生活リズムがどうなっているかということなのです。これが現代人は、自然から離れた生活をしていく中で頭で時計ばかりをみて時間に合わせ過ぎているうちに自分の生活が乱れてしまっているといいます。

この乱れの原因は、食事や睡眠、運動、感覚などから影響を受けています。なぜかいつもバランスが悪くて集中できない人や、不自然な姿が気になる人はその生活習慣を立て直すことからやらないと本に戻れません。

生活習慣のリハビリをし生活リズムを立て直すことから行うことで心身が調和しバランスの善い暮らし、つまりは充実した日々を過ごすことができるように思います。

そのためには「朝練」を行うことが善いと私は実感しています。朝同じ時間に起きること、そして運動をし、その後、お腹がすくので朝食を食べることです。朝の起きる時間にこの睡眠、運動、食事、呼吸、初心、感覚を澄ませることで生活リズムをスタートできます。

リズムというのは、最初が肝心で何処を中心にしどこから始まるかで終わりが観えてきます。その始まりがズレている人ではどんなに途中で修正しても終わりが観えません。見通しというのは、そのはじまりのリズムを持っていてできるものですから一日の朝にしっかりと立て直しておけばその日のリズムはつかめるのです。

朝寝坊をしたり朝食を抜いたりは生活リズムが乱れる根本原因になります。

子どもたちは大人たちの生活リズムのせいで同じリズムを強要されて子ども自身が色々な発達に悪影響が出ています。一日一日の生活の積み重ねが一年でありそれが一生になるのが人生です。

大人の悪影響のモデルにならないように、子ども第一主義の理念の実践としての「朝の生き方」を大切に生活リズムを積み重ねていきたいと思います。

観通し力~いのちのままに~

人は経験してくることで伸びてくる本当の力というものがあります。

それは「観通し力」です。

この観通し力とは何か、深めてみたいと思います。

そもそも経験や体験というものは、その人の求める質量によって変化します。日々を過ごすのに、もし今日が人生最期の日だと思って過ごしている人と、いつも通りに過ぎていく消化試合のように過ごす人では同じ一日でも全く異なる一日を過ごします。

つまり体験や経験というものは単に「すればいい」のではなく、「実践すればいい」のです。言い換えれば、流されている場合ではなく自分から主体的に覚悟を決めて義務を甘受すればいいのです。

自分に与えれた天命を畏れ、徳性を尊び、道を真摯に切り拓いていくのが本当の人生の意味だからです。

しかし実際は、せっかく与えてくださった機会や環境に気づかずに不平不満やすぐに他人に矢印を向けては何かにつけて誰かのせいにして自分の問題だと気付かずに感情に呑みこまれたもったいない日々を悶々と過ごしていることが多いのです。

同じ一日にしても「実践しよう」と決心している日々は確かに積み上がっていくものです。しかし決めていない日々はいつまでもすることばかりに追われる忙しさに己自身が負けてしまうのです。自分に打ち克っていくというのは、一日一日、一瞬一瞬の過ごし方であるのです。

そしてその積み上げた先につく力こそ「観通し力」であると思います。

これは信じて実践してきてはじめて備わる力です。自分が信じているからこそ目先に囚われない、自分の小我に翻弄されない、焦らない、惑わない、悩まない、いつも明るく健やかに逞しく日々に笑顔で正対していくことができるのです。

観通すということは、それだけ長い目で偉大な視野で今此処が何に繋がっているのかの御縁を感じているということでもあります。今の自分をどれだけ真摯に生き切るか、それは日々を如何に出し切るか、言い換えれば「天命に任せ人事を盡してきたか」という自戒自省への問いを持ち続けているということです。

本気で生きた人生だけが真実であり、産まれてきた以上いかに自分の志を高め魂を磨くかはその人に与えられた日々の過ごし方で決まります。正解のない人生にもしも正解を求めるとすればそれは生き様ということでしょう。

そしてリーダーと呼ばれる人たちが自然に観通しがついてくるのはその生き方が「真摯」であるからでしょう。何を真似し何を見習うかは、目には観えないところのその人の「覚悟力」かもしれません。

どんな尊敬する先師、先覚者も先達者も皆等しく苦労して努力して精進しその日々の積み重ねではじめて偉大なことを成し得ています。本来の学び方というのはその生き方生き様に自分の生死間を照らしていくことなのです。因果応報が観えるのもまたその真摯に生きる人だからこそ実感できるのでしょう。

まだまだもったいない日々を過ごしていないか、今一度自分に問い直し、かけがえのない環境に感謝していのちのままにかんながらの道を創造していきたいと思います。

日々は常に貴重な学びの愉しさに満ちています、好奇心全開で楽問していきたいと思います。

上下の刷り込み

人は組織の刷り込みの一つに、上下関係があります。

体育会系の組織になどによく見られるものですが、上と下とを分けては立場を与えてその関係を築きます。上は下の世話をし下は上に従うという関係です。これは評価の中に上下という物差しを入れて管理するからそうなるとも言えます。

ピラミッド型の組織にし、上下を設けて管理すれば自ずから組織の中に上とか下とかいった評価が発生します。自分がどのように評価されるか、人はそれを気にして動くようになりますし何をすれば評価されるのかを求めるようになってきます。

しかしこれが行き過ぎると、上の人たちは下の人たちのためにとても苦しむことになります。また下の人たちも上の人たちに苦しくなります。それは互いに助け合うよりも立場が優先されるようになってくるからです。

本来、自分でやれるところは自分でやるのが当たり前です。なぜならそれが組織である理由、集団である理由、つまり一人でやるよりも集まって助け合った方が大きなことができるからです。主体的に誰かが誰かに従ったり従わされたりするよりも、お互いに協力して力を合わせて取り組んだ方が効果効率も善いしさらには楽しいのです。

立場の違いを超えて力を合わせるのは役割分担です。立場で人を配置するのではなく、適材適所に人は配置された方がいいはずです。

リーダーだからや幹部だから、先輩だからなどといった立場による管理は主体的な組織を目指す場合には邪魔になるように思います。それはまるで子どもに長男だからとか、長女だからとか評価を押し付けるのと同じです。

長男長女だからでもなく、幹部やマネージャー、先輩やベテランだからではなく、信頼が篤く認められていると思う人を配置していくといいと思います。そしてその評価の基準は、人間関係の絆の深さと信頼関係の厚さ、つまりは人格であるということでしょう。

能力だけで人を使うと信頼は別になります、信頼するから人はお互いに助け合うことができます。組織の価値観に何をもっとも優先するかはそのリーダーの理念に由るところです。

上下の刷り込みで苦しんでいる組織が多いからこそ、子どもたちの社會に安心して適材適所の集団を築き上げていけるように大人たちの中に見守る環境を広げていきたいと思います。