本心

人は自分の本心を知ることは何よりも大切なことです。一番身近にいる自分に素直になれなくなってしまえば、些細なことでも迷いが出てしまいます。それくらい自分というものとの信頼関係は日頃の生活に直結してくるように思います。

人は自分のことが分かってくればくるほどに、自然体になっていきます。それは本心が分かり本心に対して素直になれるからです。本心でいられればありのままの自分を分かってあげられますから同じように他人のことも理解していくことができます。

他人のことを思いやれる心というものも自分を分かってほしいときではなく他の誰かのことを分かってあげたいと理解に努めるときに次第に実践できるように思います。

理解が深まるとき、相手のことがまるで自分のことのように理解できます。そうなると自分の本心が相手の本心を励まし支えていくことができるのです。このように繋がっている場所、一緒である場所、そういう絆の結ぶところで心は一つになっているものです。本心というものは、自他の境目を超越したところにあるのです。それが自分に素直に正直である状態です。

そして共感する力は相手を分かろうではなく、心で相手に寄り添おうとするようなときに発生します。わかってもらいたいと満たせない心を持ち続けると、己に負けてしまいかえって迷い惑うことが増えていつまでも自分探しなどに走ってしまうのかもしれません。

そういうときこそ、「本心」を理解するために誰かのために思いやり利他で抜けるといいように思います。本来、人間の心の正体は利他心ですから自らが助け合い思いやるときにこそ顕現するのが心です。

心の穢れを祓い清めて本来の本心を常に見守り続けていきたいと思います。

多生の縁~志事と仕合せ~

自他一体の話をブログでも書いてきました。これは自分と人とを分けないということですが、もっと卑近なところでどのように訓練をするのかを書いてみようと思います。

そもそも自他一体である必要がある理由は、他人ごとにすることで様々な問題が起きるからです。

仕事でもなんでもそうですが自分の事とは思わず他人ごととして相談にのってもその人が助かるアドバイスができません。それはその問題の本質を自分のものとして捉えていないからです。つまりは自分のものではない仕事は、そのまま仕事ではないということです。

先日テレビ番組でカラオケで得点を競うものの中で、ある人の歌が他人の歌を自分のものにしていたという解説がありました。あれと同じく、誰かの歌をただ歌っているだけでは心に響くものはありません。誰かの歌を自分の歌にしてはじめて周りにその歌の本質を自分なりに伝え感動させることができるのです。

言葉も同じです。

他人の言葉をいくらなぞって象ってそのまま伝えてみてもそれは相手には響きません。他人の言葉で感動しても、その言葉を自分のものとしてはじめて相手はその言葉に感動するのです。

これは先ほど自他一体に近い話で、仕事は全てにおいて「自分のもの」にしていく必要があります。いくら頭で理解してもそれが「他人のもの」になったままでは仕事にはならないからです。

先ほどの歌の事例ならば納得するまで徹底して共感して歌いこんでその歌の本質をもとの歌者の心を掴み納得するなどの過程があるのです。仕事でも同じく、本来の仕事の意味や定義を納得するまでやり込んでいないと決して本来の仕事にはならないのです。

如何にどんな出来事も仕事も「自分のもの」として捉えるか、それが分けないということなのです。これは自分には関係ないからと分けると、その分けたところが他人のものになっていくところです。

どんな出来事も自分には必要な尊いご縁しか発生しないのが人生です。いくら関係ないとめんどくさがっても事実、そのことが自分の人生に多大な影響を与えているのはすぐに時間が経てば自明します。だからこそ、他人ごととは思わずすべてを自分事にし、目の前の人の問題はまるで自分の問題そのものだと親身に親切になりきってこそ自他一体になったと言えると思います。

心が成熟して技術も精神も練り上がっていくと、人は次第に自他一体になっていきます。つまりはご縁の活かし方に長けてくるということです。人はご縁によって教え教えられ成長しますから一期一会の御縁をどれだけ大切にしているかが何よりも重要なのです。

全ての御縁を「自分のもの」にしていくのが、すべての御縁を「他生(多生)の縁」にしていくことです。如何に日々の生活の中で絆を大切に生きていくかは、全てのことを志事だと真摯に訪れた機会を最大限活かすことです。

自分の都合で物事を捉えずに、常にゼロベースで意味を感じ取り他人の仕合せを自分に仕合せにして歩んでいきたいと思います。

いのちの徳性~万物の霊長~

「万物の霊長」という言葉があります。これは孔子の編纂した書経(秦誓上)の中に人類というものを解釈して書き記されたものです。実際に何を目指して人類は万物の霊長たれと孔子は言ったのか、それを理解している人が少ないように思います。

自分たちが動物たちや食物連鎖のトップだから霊長というわけでもなく、他の動物よりも寿命が長いから霊長であるというわけでもありません。その本質について深めてみようと思います。

そもそも私たちをはじめすべての生き物は、何を伸ばしていきたいかというものがあります。それは進化でも証明されています。生き物にはそれぞれに特有の固有の能力があります。

鳥であれば空を自由に飛び回りますし、魚は自由に泳げます。地上を走る動物たちもいます。そしてそれはさらに分化し飛び方から泳ぎ方、走り方に至るまで、あらゆる自分たちの特性を活かして進化成長を続けるのです。それは私たちが真似と道具を使う能力があるように、他の生き物たちもまたそれぞれに自分たちの得意分野で能力を伸ばします。

それでは孔子はこの能力がどんな動物よりも高く優れているから万物の霊長といったのか、私はそうではないと思います。

動物だけではなく樹木までありとあらゆる生き物には心があります。その心とは人間にわかるように話せば他を思いやる心があるということです。これは能力の特性ではなく「いのちの徳性」と名付けてもいいかもしれません。活かされている存在だからこそ備わっている唯一無二の徳性です。

このいのちの徳性を伸ばしていくことでどんな生き物よりも思いやりが長けている存在、それこそが万物の霊長であると孔子は定義したのではないかと私には直感するのです。なぜならそれが孔子が目指した理想でもあり、私たちをはじめ地球に生きているすべてのいのちを奥深く見つめ感謝し哲学する生き物たちが目指すところだからです。

例えばあのクジラやゾウなど、脳にシワが沢山刻まれている生き物たちのシワは私たち人間のように余分な知識を詰め込んでシワが多いのではありません。非科学的だと笑われるかもしれませんが、あのシワは思いやりや真心を伸ばしてきてついたシワです。樹木であればあの年輪こそがシワなのです。そしてあのシワはいのちの徳性を伸ばした生き方や哲学によって深く思いやりを学んでいる証拠だと私には思えます。

家族を大切にしたり、他の生き物たちを大切にする、その思いやりの心がまるで太陽や月、地球のような偉大な慈愛慈悲を持てるようになってはじめて「万物の霊長」、つまりは「いのちの徳性」を伸ばしたものというのでしょう。

私たちが本来、磨かないといけないものは単なる能力ではないように思います。それはあくまで付属的要素であり本質ではありません。私たちがこれだけ自由に地球の中で生きることができることに感謝するなら私たちに与えられている大きな使命をも同時に感じなければなりません。

能力ばかりで他を裁き押さえつけ排除するのではなく、思いやりの心で他と共生し他を活かすことを本懐や使命にすることのように私は思います。

孔子の言う、「万物の霊長」として恥じないように他の偉大な生き物たちの思いやりを尊敬し自らの真心、「いのちの徳性」をかんながらの道の中で磨いていきたいと思います。

助け合い育ち合う~御縁~

先日、ある法人で理念研修を行いました。もう随分長い間、一緒に取り組んできましたが理念に沿って明らかに善くなって理想に近づいていく姿に感慨深いものを感じています。

御縁は不思議で、思い返せば色々なことがありそれを一つ一つ乗り越えて積み重ねていく中で本物のチームや、本物のオープン、つまりは絆や結束力が高まってきました。わかりやすい安易なところからではなく、違いを受け容れ信じ合うというような難しいところから真摯に時間をかけて取り組んできた人たちを今では誇りに思います。

純粋な人たちが理想を前に純粋にかかわることは時には傷つき、時には痛み、涙するような出来事にも出会いました。しかしそれでも諦めずに根気強く信じて待つことで今の姿になりました。

変化というものをじっくりとゆっくりと味わっていると、不思議な計らいや絶妙なご縁の組み合わせを感じずにはおれません。何か偉大なものの慈愛や慈悲のようなものを感じることができます。考えるよりも感じていく人生を歩むなら、いつもそういう見守られている感覚に包まれるのが人間なのかもしれません。

その中でまた新たな気づきがあります。

経営者が社員を教えて育てるのではなく、社員によって経営者も育つということです。これは育てるという行為が2者関係や相対関係だけで行われているわけではないということです。お互いが育ちあい育てているという事実、これこそが共生と貢献なのではないかと確信したのです。

どちらかだけで育つことはありません。これは親子の関係然り、上司部下の関係然り、大人と子どもの関係然りです。つまりは立場などは超えて、同じ理想や理念のために共に学び合いながらお互いに成長する。

真の教育とは、偉大な見守りの中で同時に育て合うということでしょう。これは地球が自然の中で様々な生き物たちを活かすように、宇宙が銀河の中でお互いの星々を活かすように、すべての道理はこの「お互いに助け合う中」にこそ真実があります。

お互いに助け合うとき、お互いに育ちあい、お互いに見守り合うのです。

この時、自我や自分というものを大きく超えて包まれている中にいのちがあることを実感するのでしょう。そしてそのいのちを活かしあう関係をつくるとき、共に成長するといういのちの姿を実感できるのです。

育てているはずの自分が育てられている、育てられているはずの自分が誰かを育てている、素直に謙虚になっていれば育ち合う風土の中に自分が活かされていることに気づきます。

まさにこの真実に頭が下がり、心から有難く感謝できるのです。
そしてそれもご縁に由るものです。

御縁を深めていけば、お互いが助け合い育ち合った余韻が丸ごと響き香ります。

日々に精進していく中で、愉快な仲間たちと学び合い助け合えた背中を子どもたちに遺し譲っていきたいと思います。

謹厳実直

先日、映画俳優の高倉健さんがお亡くなりになりました。筑豊の中間出身で、以前取引があった保育園で園長から保育園に通っていた小さいころのことなどをお聴きしたことがあります。その園には高倉健さんからの色紙がありそれが玄関に大切に飾ってあったのが印象的でした。

座右の言葉が「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」というものだったそうです。この言葉は天台宗・比叡山延暦寺の大阿闍梨、酒井雄哉氏から贈られたもので一生大切にしたそうです。

この言葉は『大無量寿経』の中に記された阿弥陀仏の言葉の引用とあります。それは「假令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔」という言葉です。(たとえどんな苦毒の中にあっても、すべての人を救い切る「南無阿弥陀仏」を実践しそれが成就するまではどんなことがあっても決して精進をやめない、そしてどんなに苦労しようと私は悔いはない」という意味になります。

とても素敵な言葉です。

そしてこの言葉を実践して生き切った余韻や香りが、故人の生き方から観えてきます。人はどのようなことをしたかではなく、どのように生きたかが亡くなってみてはじめて観えてくるように思います。

人が偉大だと実感するのは、どうしたかではなくどうあったかということです。

自分の信念を掲げ、一生精進して歩んだ人の道や背中には何を大切にしていくべきかという偉大なメッセージが入っているように思います。常に後を続く者たちの模範であること、常に後に続いてくる者たちのために生きること。

道を続いてくる後人のために自分の生を譲り生き切るという生き方は、今の時代のように自分の人生のことだけに囚われてあるものを使い尽くそうという中で、高倉健さんの生涯は不器用ですが実直で正直な生き方ではないかと改めて感じ入るものがありました。

まさに「謹厳実直」という生き方を教えていただいた気がします。

同じ時代に生きている方の御縁を大切にしていきたいと思います。

刷り込みを取り除く目~本質を味わう~

人は目を用いて物事を見ようとします、人は情報の80パーセントを目だけで得ているともいわれます。しかし実際の現実はとても目だけではすべてを見ることはできません。その目には観えないものは他の感覚で掴んでいきますが、今の時代は目だけを集中して酷使し目で何でもすべて理解しようとしているように思います。

科学的にも目と脳の神経の距離が近いため一番脳に影響を与えているともいいます。つまりは目は脳そのものとも言えます。たとえば、食べ物を食べる際にも好き嫌いとかもありますがだいたい思い込みで食べていることがあります。きっとこんな味だろうと思い込んでは、その味を脳で想像しながら食べるのです。

特に今の時代は、ファーストフードが流行っていますから見た目の味と同じ味であることを重んじます。毎回、新しい味を食べるのではなくきっとこんな味だろうと思っていることに安心するのです。もしも食べてまったく思い込んでいるものと違うのなら不安で食べないかもしれません。

以前、暗闇の中で食べるレストランの話を聴きましたが目が使えない状況になると何を食べているのかが最初はわからないのです。時間がたつと味覚が戻ってきて味が分かるようになります。他にも見た目はトマトのように赤く色を付けたスープを出しても、中身の味はキューリにしたりと変えると最初はトマトと思い込んでしまっているからキューリだとはすぐに気付けなくなります。

これなども一種の思い込みで食べているということです。言い換えれば見た目のところで判断してそのものの本質を味わおうとはしていないということです。

こういうことは日常的に行われていると思います。相手を思い込みで判断したり、他人の話をちゃんと聞かず自分の刷り込みで聴いていなかったり、見た目のところで理解しては本質を掘り下げず深めなかったりと、結局は目と脳しか使っていないのです。

本来、そのものの中にはすべてにおいて本質というものがあります。これは一体何なのか?本当は何か?といった、そのものの本質を聴きもらさず味わい盡そうといった求道精神のような学問の姿勢というものがあります。

何を学ぶのかの定義が、知識であれば本質までは必要ないのかもしれませんがもしも学びの定義が思いやりや真心を学ぶのであれば本質でなければ意味がありません。

如何にそのものの本質を見抜く力をつけるかは、見た目や思い込みといった刷り込みを自分自身が常に取り除く精進をしてこそできるように私は思います。刷り込みがあることも忘れ、思い込みで見ていることも思い出さず、自分の価値観にも捉われているようであれば、見ても観えず、聞いても聴こえず、食べても味わうことなく、触れても感じない、臭っても嗅ごうともしないことと同じなのです。

自分自身が本質である理由は、外界からの歪んだ洗脳に負けないように真実を知る覚悟と真実でいる勇気があってはじめてできるのかもしれません。そしてそれは世界の問題を自分の問題だと捉える大きな観点があってできるようにも思います。

日々に本質の中にある味を見極められるように、騙されてしまっている脳を騙しつつ体験を味わい盡していきたいと思います。

 

 

自堕落と向上心

自分が向上しているのかを客観的に自覚するのに自堕落の三要素というものがあります。自分がやっている気になっていても、やらされているのでは自らを自らで積極的に高めていないかもしれません。常に自分の人生において自分を育てるのは自分自身ですから自分がどのように自分を育てているのかを自覚するのは大切なことのように思います。

その自堕落の三要素とは、下記です。

①形式的であること(心を籠めない)
②便宜的であること(この程度でいいじゃないか)
③小市民主義であること(自分だけのちっぽけな問題にとらわれる)

一つ目の形式的はそのままで、形だけ結果に近づけはしますが自分の真心を籠めようとはせずに頭だけで考えて取り組むことです。どんなに善いご縁や機会、環境に恵まれていても頭で形だけをなぞっていては自分が向上することはありません。心を籠めることではじめて自分を活かすことができます。

二つ目は、自分の中で間に合わせでその場しのぎで乗り切るということです。これはぎりぎりになったからや忙しかったからなど、今風でいうところのてきとーに面倒だからそれで済まそうとする考え方です。メンドクサイとなんでもいい加減に取り組んでいたら本質的に取り組むことができません。その場だけでいいというのは、後のことを考えていないからです。自分の目的や初心を忘れないことで自分を活かせます。

三つ目は、自分の価値観に縛られて周りを省み慮ることをしなくなることです。自分が大変ではなく周りもみんな大変なのです。自分の心配ばかりに捉われて周りを思いやることができなくなれば自分を周囲のために活かしていくことができなくなります。どうせなら自分の問題はきっと世界の誰かのお役に立つと転換したり、自分の問題そのものは社會と繋がっていると思った方がいいのです。自分の問題に捉われるのではなく、もっと視野を広めていくことで自分を活かすことができます。

このように自堕落というのは向上心が減退することで発生してきます。人は自分には甘く他人には厳しいものです。自分に厳しく自分を律することで自立することができますから、まず自律ができるようになってはじめて自立して誰かのために自分を活かし働くことができるように思います。

自堕落ができるというのはその陰で、誰か自立している人に依存している自分がいるかもしれません。すべての問題を自分の問題として矢印を自分に向け、主体的に積極的に自分を成長させるために日々に精進していくことのように思います。

それは誰かの目に見えるところばかり求めるのではなく、目には観えない本質を正しく捉え、理想に自分を近づけて高めていくことです。

日々の生き方を定め決心して本質的に歩んでいくことを引き続き大切に本物のままにしていきたいと思います。

人生の御守

自分の心の状態次第で視野というものが変わってきます。自分が満たされていない時や自分が不安なときは知らず知らずに視野は狭くなってくるものです。本来満たされないから満たすのではなく、満たされているから満たせるのですが謙虚さや素直さがなくなってくるとすぐに求めはじめます。そうなると心が観ている世界よりも現実の世界だけしか見えなくなります。

例えば、問題ということの考え方があります。視野が狭く余裕がないときは、早く問題を解決したいことばかりに捉われるものです。そうなると問題そのものよりも解決したいとばかりに躍起になりますから問題を正しく見つめることができません。一時的に解決したと喜んでもすぐにまた同じ問題にひっかかります。対処療法ではないですが、その時だけの問題を解決しても根源治療にはなりません。

もしも心にゆとりがあり、視野が広いなら問題というものを見つめようとします。私の言葉ではよく問題を味わいましょうという言葉になりますがその問題そのものを観察しそれをじっくりと味わってみようという観点を持てます。そうすると問題の本質が次第に観えてきますからすぐに解決することよりも問題をどう学びに転じようかと味わい楽しんでいくことができます。そうなると問題そのものが解決になりますから問題がなくなってしまうのです。

このように問題は解決するのではなく味わうことで視野を広げるのです。つまりは視野が広いというのは問題をなくす方法ともいえます。日々の仕事や取り組みの中で如何に解決解決と考えるのではなく、一度しかない人生の中で出会う様々なご縁に対し、そのご縁を味わい学び活かしていきたいと生きることで丸ごと問題は全て善いことになるということです。

そのためには理念が必要です。

何のために自分が生きるのか、何のために働くのか、つまりは自分がどう生きるのかという「生き方」を定め、常にそこから考える習慣を持つ必要があります。生き方が定まっていないとすぐに自分の判断を目先の問題からなんとかしようと思ってしまいます。生き方が決まっているなら、どうするかではなくどうありたいかと自分の初心を取り戻したところで判断できるからです。

どうありたいかと思うとき、現実の問題よりも自分の問題が現れます。人生は常に自分自身の問題ですから自分との問答に於いて信念をもって生きていくしかないのでしょう。この信念を助けてくださるのが人生の御守ともいえる理念です。

心に理念を持つことは、人生に御守を持つことです。

一度しかない人生で後悔しないように、自分が何を優先しているのかを忘れないように日々理念を御守にし生き切っていきたいと思います。

循環の価値観

日本には七福神という神様がいます。恵比寿様を中心に、周りには外国から来た神様たちが総勢七人で宝船に乗って並んでいる姿です。不思議な光景ですが、なんだか見ているだけで仕合せな気持ちになります。七難七福、どんなものも一切が福に転じれば宝になるという教えです。

私たち日本人というのは、「もったいない」という言葉が世界で有名になりましたが本来、無駄やゴミという発想がありません。神話に登場するすべての物事一つ一つに神様の名前がついていて、この世にあるすべてのものは丸ごと神様です。それを八百万の神々と呼んで、祖神はいつもどの神様も大切に尊びます。

西洋では、必要不必要というのを自分を中心に仕分けていきます。人間(自我)を中心にして考えていきますから、価値は人間が決めてしまいます。東洋は自然(無我)の中で一体になって暮らすことを大切にしてきましたから無駄という概念があまりないように思います。簡単にいえば無駄やゴミと思っていること自体が価値を自分が決めてしまっているということです。

どの価値も本来の価値が観えれば一切の無駄は消えてしまいます。そしてその無駄が一切ないという価値観とは何か、それは循環の価値観です。一見、要らないと自分が思っていても”必ず何かの役に立つ”のが自然です。自然は無駄が一切なく、この世の中には不必要なものは一切ありません。その価値が感じられなくなった人間’(自我)があるだけで、どんなもの一つにも価値があるのです。

世の中はつながっていて全体であり、丸ごとで一体だからです。

これが西洋と東洋のチーム観にもあるように私は思います。西洋のチーム観は能力の組み合わせです。能力をどう組み合わせて良いチームにするか、つまりは目的を達成するためのチームです。しかし東洋は能力の組み合わせではなく家族の結束力を重んじます、皆で結束することで困難を乗り越えようとする、要る要らないではなく全部役に立つという発想です。

ここに私は何よりも大切な思想や姿勢、「日本人としての生き方」があるように思うのです。

私たちはどんな神様も大切にするのは、一緒にいることで何かの役に立つことを自覚しているからです。その時にすぐに能力を発揮しなくても、一緒にいれば必ず何かのお役に立ちます。

今の時代は、能力主義ですから能力がなくなることを過度に怖がっている人たちがいます。能力だけ磨いて、一人で仕事をする方が効率がよく重宝されるとさえ思っていますがその人たちはどこか孤独を感じているように思うのです。それは役に立つかどうかを誰かのの価値観で決めるからです。

チームとは何かという前に、自分の価値をどのように認識しているかが何よりも大切なのです。自分の価値は能力があるから必要なのか、それとも自分の本当の価値は一体何か、そして周りの人たちの真価は何かを実感できているかということです。役に立つということの考え方を自分自身がまず観直さなければ本当のチームにはなりません。

そう考えると人は一人一人が自分自身の本当の価値を正しく認識できてはじめて「結束」になれるのかもしれません。一見、価値がなさそうなものであっても一緒にいれば何かの役に立つことを知っている心こそ「もったいない」に通じる心です。

最初の七福神のように相手の持っている宝を見出す力がある人というのは、自分の中にある宝も見いだせる人です。それはどんなものにも神様が宿っている、八百万の神々とともに暮らす人たちになっているということです。

「一緒にいれば必ず何かの役に立つ」と本当に信じ切れるかが仕合せの感度を高め、真のチームを実現する源になるように私は思います。そのために数々の刷り込みを取り除く工夫が必要ですが、実践により気づきを喚起していきたいと思います。

教育の目的

教育の技法としてのティーチングとコーチングがあります。これは教えるときの教え方ですが、よく一般的に言われるのは主体が先生か生徒かでその違いがあると言われます。

しかしこれはここが問題ではないと私には思うのです。本来の教育とは誰のためにあるのか何のためにあるのかということを考えてみると分かります。

例えば、国家教育や社員教育、学校教育とあるように教育には目的があります。誰かによって何かを教えているのはこの言葉が示すように一目瞭然です。国家が国民に国家の一員として教え込む、会社が社員に会社の一員として教え込むのです。そしてそれは何を教え込むのかは目的によって異なります。

本来、教育が示しているのは何のためにかを考えればその意図も読めるからです。もしも国家のためだけや会社のためだけ、学校のためだけになればそれは教育がその人のものではないということです。あくまでそれは権力によって管理するために教え込まれるものになってしまいます。

私が中学高校と学校に反抗した理由は単に子どもで未熟だったからではなく、学校のための教育に納得ができなかったからです。今思えばなぜあんなにも反抗したのかと思いましたが、言行不一致の本質的ではない学校体質に憤りがあったのかもしれません。そしてそれでも無理に教え込もうとする場合はティーチングというものを用います。これは主体が国家、会社、学校側にあるということです。その場合は相手が主体ではないのだからコーチングは使えません、あくまで一方的に教え込む方が進めやすくなるのです。

その逆にそもそも教育は子どもたち、相手自身の成功、本人の仕合せのためにとなるとどうでしょうか。その場合は、対象となる相手は”できる”ようになりたいと思うのを助けるという考え方になります。主体は組織ではなくその人自身の仕合せになりますから相手がそれができるように寄り添うためにコーチングを用います。相手自身の問題に寄り添い相手が自らで解決できるように導くのです。

本来、人はその人が人格的に成熟し成功し仕合せになるのなら世界も一緒に仕合せになるものです。理想論と笑われるかもしれませんが、一人一人が真摯に一生懸命に自分の役割を果たすのなら世界は必ず仕合せに出会うように思うのです。それは先日の樹木研修でも同じく、木々が一生懸命に生きていればそれが森全体の仕合せになるように、人々が一生懸命に本来の生に生き切れば社會全体は幸せになるのです。

それを日本理化学工業の大山会長は、「皆働社會」と名付けていました。私もその考え方に心から賛同しています。

そしてティーチングもコーチングも含め、本来のいのちを尊び教育することではじめて教育の真価がでてきます。それを私は人々をファシリテーションするともいい、一円調和するとも言います。私のファシリテーターの定義はその目的が明確なのです。

もう随分長いこと既存の教育に刷り込まれている人は、教育とは何かによってさせられるものだと信じ込んでいます。自分から主体になって学ぶことを忘れていたりします。お互いの慾が絡まり合って真実から目をそらさせられたのかもしれません。染まってしまうとなかなか自分が染まったことに気づかなくなるのです。

そういうものを体験と気付きによって思い出させ、本来、何のために誰のために学ぶのか、社會を仕合せにするのは一体誰なのか、真実と実践と伝道によって平和を広げていきたいと思います。

本質を見失わずに、現実の中の理念実践を展開していきたいと思います。