父母

父母いうことについて考えてみました。

私たちは何をもってお父さんとし何をもってお母さんと言っているかということをあまり深く考えることがありません。子どもができたら父母になるというように、父母の存在は子どもの誕生で自覚するものだと一般的には思うはずです。

しかしその父性や母性となると、お父さんはどのようなものでお母さんはどのようなものかという定義が観えてくるように思います。実際は、私たちが母に直観しているものは例えば母なる地球のような大きな存在として母を感じることもできます。父も同じように偉大な存在として感じることもできます。

子どもにとっての親というものは、単に育ててくれたのではなく、大切なものを育ててくださった掛け替えのない存在ともいえるのです。中江藤樹に「父母の恩徳は天よりも高く、海より深し」とありますが、これはその父性と母性を語った言葉であるようにも思います。

先日、あるご縁がありそれを明快に語っている文章に出会いました。それはあのインドのカルカッタで偉大な祈りの実践を示したマザー(母)と呼ばれるテレサが語った言葉です。ご紹介していた著書の中から抜粋します。

『「マザー・テレサ、お母さんって何ですか?」と聞きました。すると、「お母さんというのは子どもを産んでも産まなくても関係ないんだよ、そこにいるだけで安らぎと喜びと希望をもたらす存在、それがお母さんなのです」と。これがマザー・テレサの言う「母性」で、それこそが二十一世紀を築くのだと言われました。「では、お父さんとは何ですか」と、私は恐る恐る聞きました。「お父さんには経済的に家族を支える大事な仕事がありますが、もっと大事なのは正義を愛すること、正義のためにいのちをかける、それがお父さんです」とおっしゃいました。正義を生きるお父さんは権威が身につくと言われました。権力ではなく、権威です。お父さんが正義を生きることで家庭は一致できる。今、あの人は日本の代表的なお父さんだ、と言われるような人はまわりを見回してもいませんね。お父さんはやはり正義をいきなきゃいけないのです。現代はこのお父さん像が薄れているわけです。』(「生命のかがやき 農学者と4人の対話」 中井弘和著 野草社より)

お母さんとお父さんとは、どのようなものであるのか。

私達の生き方そのものの中にお母さんとお父さんが住んでいるからこそ、平和で安心した家庭が築けるように思います。役割とは、表面的なもので行うのではなくその真心の中にこそ存在しているのでしょう。自分の中に父母の恩徳が恵まれていること、父母の役割をいただいていることに感謝の気持ちで一杯になります。

そして、さらにこういうメッセージが続きます。

『「そして二十一世紀を背負う子どもは、私の娘、私の息子というのではなく、神、仏からの授かりものなのです。マザー・テレサは「神の似姿として子どもは贈られてきた。私の子どもであると同時に神の似姿としての存在で、その子どもを上手に育てると、神や仏や聖人や菩薩になる。だからお父さん、お母さん、学校の先生、みんな神様に育てあげてください。」と。』(「生命のかがやき 農学者と4人の対話」 中井弘和著 野草社より)

保育ということは、何よりも大切な使命です。

自分たちの心の中に父母が居て、その父母を求めて自らの実践により子孫へ推譲していくということ。自分がしてもらったことを人に与えていくということが、私たちが子どももでありそして親であるということのように思います。

親子が代々つなぎ託してきたのは、愛ということです。

こういうもの一つ一つを、日々の生活や仕事の中で生かしていくことこそが本来の働きであろうと思います。仕事は作業とは別に生き方という志事が存在しています。とはいえのない保育を広げていくためにも精進していきたいと思います。

玄の原理

昨日、玄米講習を行い伊賀焼の土鍋を使って玄米を炊きその原理を説明しました、

そもそも玄米というものは、食の主であり、私達日本人がもっとも長い間共に暮らしてきた大切な仲間です。玄米のお米は種のことであり、その種を持ちその種を活かし、その種の廻りと共に歩むのです。

もともと年齢と書く「齢」という字も、お米の字が入っているように私たちは一年をお米の廻りで時を刻むように暮らしてきたのです。その食の主、つまりは主食を玄米にすることは私たちの風土に合った食事に食い改めることで生き方もまた日本人の心に回帰していけるように思います。

そして種というものは一見、固まってじっとしているので芽が出た植物などと違って死んでいるかのように錯覚する人もいますが種はいのちがびっしり詰まっているものです。ここから造化の根源力を発揮して種の何十倍、何百倍も成長していくいのちの原点が入っています。

その原点を食べるということは、細胞一つ一つに至るまであらゆるいのちを活性化する効果があるように思います。もちろん科学的にも、フィチンが多いとかビタミンBが大量だとか、ギャバとか食物繊維がびっしりとか色々と数値化されますが、玄米には数値化されない価値が存在しているのです。

そもそも人間が数値化ということをしてから、本来のいのちや全体を捉える感性というものが衰えたともいえます。数値化できないものを読むのが空気であり、五感や六感という感覚であったり、人間本来が持つ本能の力なのです。

玄米信仰などと他人に言われるように思われても、実際に病気の時や日頃の不摂生の時に食べたら回復に効果があるのは一食瞭然ですから玄米の価値は数値や言葉にし難いのでしょう。それに玄米を食べると運が善くなると言われますが、御米の種を食す暮らしが日本人本来の天地自然農合一、つまり一物全体になることで無駄を一切発生させないということや、捨てるところがないというところにも循環に沿っているということと関係するのだと思います。

地球の循環を邪魔しない生き方というものは、自然の天理に従っていますから次第に運も循環ですからそれに則るのです。

しかしこの玄米が嫌いになってしまうという理由もあります。それは料理法です。一般的な電子調理器やガスを使っての鉄器の道具ではあまり美味しく感じないのです。それは例えば、焼き魚を焼く際に、電子レンジとガスと炭火で焼くのでは味が異なるのと同じで自然のものは自然の調理で行う方が私たちの細胞は美味しく感じるのです。

理由はいのちをいのちのままに食べることにつながっているのです。玄米の場合は、土鍋で炊くことでいのちを伸ばします。土鍋には、自然の原理である水の浸透や熱の伝導といった土が持つ自然の受容力が働きます。

この土の働きによって火と水で炊けば、地球の原理(土中のマグマや水中のいのち)を融合しますから玄米の種をそのままに優しく包むように調理することができるのです。

そうやって調理された玄米は、とても美味しく食べたものがそのまま人間の身体に負担をあまりかけずに吸収することができるのだと私は思います。

基本を何に据えるかというのはとても大切なことで、当たり前というものに気づいてそれを改善するかどうかが生き方につながっていると私は信じています。玄米というものを用いて様々なことを見直すのは、自然か不自然かを観る眼を育てていくと思います。

引き続き、自然が何か、本物が何かということを学び直していきたいと思います。

ワークライフバランス~常実践の法理~

ワークライフバランスという言葉があります。それは仕事と生活の調和というような意味があると表現されます。

それに対して生き方と働き方の一致というものがあります。生き甲斐や遣り甲斐、働き甲斐といったものですが本来はこの状態のときにはじめて私は調和していると思っています。

しかし実際はどうかといえば、生き方と働き方を「分けて」いる人があまりにも多いように思います。これは分けることで自分の生活のバランスを取るという刷り込みを持っているからだと思います。

例えば、一日は24時間しかありません。その中で、仕事の時間、趣味の時間、家庭の時間、勉強の時間、友達との時間など、すべてを分けて考えているとします。するその全ての役割を全うしようとしていたらとても時間が足りるわけがありません。それにそれも分けて考えようとするのは自分の都合ですが人生は分かれていないのだからどれも深く関連しているとも言えるのです。

これを自分の都合で分けるとき、そのしわ寄せというものは必ず他の何かに悔い込むことになるのです。本来のそれらは分かれていないものを自分の都合で分けたのであって、分けてはならないものを分けているから問題なのです。

自他を分けたモノサシではなく、自他一体のモノサシに転じれば、仕事も趣味、趣味も仕事、家庭も仕事、仕事も家庭、勉強も育児も友人との語り合いも全て生き甲斐であるという境地、つまりは分けないで取り組む時にのみワークライフバランスは実現するように思います。

これを仕事とプライベートというように分ければ、どちらかの時間のためにどちらかを犠牲にするという発想になったり、それでも無理をしようとすると本来の生き甲斐や働き甲斐といったものとかけ離れた生き方になってしまうかもしれません。

私達の子ども第一主義という生き方も同じで、子育てをしていれば子ども第一主義かというわけではなく、全てのことをもしも子どもだったならと子どものモデルになるような生き方を実践するとき分けていない働き方になっているのです。

これは「分けない」、すべては実は「つながり同じこと」なのだから全てにおいて生活を一つに結んでいくこと、言い換えれば常に「生き方の方を優先し、生きざまを重視すること」で調和に近づいていくように思います。

何事にも理念があるということは、その理念に沿った生き方というものがその後にあるのです。

それを理念と自分を分けたり、生活と仕事を分けたりしていたらいつまでたっても生き方や生きざまには辿りつかず、その先にある生き甲斐や働き甲斐とも出会えないかもしれません。それにそういうことをいつまでもしていたら「本心」が分からなくなってしまいます。人は自分の本心に確認し取り組むからこそ、迷いが消え去り覚悟が決まり真に成長していくことができるからです。

一度しかないのが自分らしさ、そして自分の人生なのだから、分けるのはとても勿体ないことをしているのです。生き方と働き方の一致、つまりはライフワークバランスとは「自分らしい生き方そのもの」を常に優先しているかということによるのでしょう。

この自分らしさを正しく実践することで未来の子どもたちへきっと健やかに逞しく育つ意味が背中を通して伝承できるように思います。自分の我や、社会の刷り込みにもっていかれないように自らの本気本心の常実践で伝えていきたいと思います。

勇気

人は何かに取り組む際に、自信があるとかないとかを基準にすることがあります。

しかし実際は、自信があったら何でもできるわけではなく、自信がないから決してできないというわけではありません。これは自信というものは、物事の見方や捉え方に関することであり前例があることは自信があり前例がないことは自信がないということがほとんどだからです。

では自信があるないに関わらず、何をもって取り組んでいけばいいかと言えば勇気を出すことのように思います。そして勇気とは覚悟を決めることなのです。覚悟とは勇気を引き出すために行われる自己との約束とも言えるものです。

勇気というものを辞書で調べると、「いさましい意気。困難や危険を恐れない心。」と表現されています。つまりは心の力のことであり、心が強いということです。よく私も気合で乗り切るようなことが多いのですが、これらの気合や真心が勇気を発動していくように思います。

この勇気というものは人生に多大な影響を与えるように思います。特に頭で考える人は自信があるないから入りますが、心の鍛錬を行う人たちは勇気を出すか出さないかという選択に変わっているように思います。

アメリカの作家で、アンブロウズ・レッドムーンにこういう言葉が紹介されています。「勇気とは恐れを知らないことではない。恐怖よりも大切なものがあるという。決断のことである。」

恐怖よりも大切なものがある、これは仕事で言えばお客様であり、家族でいえば子どもであったり、会社でいえば社員だったりと、守りたいもののために自分を盡そう、自分を捧げていこうといった、今の自分の固定概念が壊れる怖さよりも、それを崩してでも大切なものがあるのだからと念じて出てくるのが勇気だということです。

人は自分自身がまず一番大切なのでしょうが、もしも自分と同じくらい大切な存在に気づけば勇気も愛も自覚していくように思います。自暴自棄などというものも、大切なもののために勇気を出せなかったから自己嫌悪でそうなってしまうことが多いように思います。それが続くから自信がまたなくなってしまうのです。

またどれだけこの「勇気」というものが人生において大切かというのは偉大な先人たちがその生きざまや言霊で遺してくださっています。

「人は何度やりそこなっても、「もういっぺん」の勇気を失わなければ、かならずものになる。」(松下幸之助より)

「勇気というのは強いからとか、勇ましいから勇気があるというのではない。たとえ、自分にとってどんなに不利な結果になろうとも、自分が真実であり、妥当であると考えたことを認め、それに賛成することこそが勇気である。」(本田宗一郎より)

畢竟、最初は誰だって怖いしできないと思うものですが勇気を出して取り組んでいればいつの日か揺るがない自信になっていくのでしょう。大切なもののために生きているからこそ、人はそれに相応しいほどの自分が次第に出来上がっていくというのが役割と責任の享受になるのでしょう。

自分を自分で育てるには、自分により大きな責任を課して大切なもののために実践するということを継続していくことのように思います。

この勇気とは、私たちが元々持っている本能であり、人間として自然の中で生きてきた素晴らしい徳恵であることを感じずにはおれません。勇気を出すのは誰が出すのかが問題ではありません、誰でも勇気ある決断をしたときから世界が変わっていくということなのでしょう。

最後にピータードラッガーの名言で気合を入れ直したいと思います。

「成功した企業は、きまって誰かがかつて勇気ある決断をした。」

自分自身の変化を恐れないのは自分自身から出る勇気です。大切なもののために自分の使命を果たそうとする風土を自らの実践により醸成していきたいと思います。

 

固定概念を崩す

人間には固定概念というものがあります。これは「きっとこうなのだろう」と常識をその人が思い込んでいることのことです。

例えば、大勢の人たちが話すことを人は無条件で信じるものです。他にも知識が長けている人の話を聞くときも信じますし、目に見える世界がそうなっているのならそれをそのまま鵜呑みに信じています。

そうやって自分の中で常識として定着してしまうのを固定概念というように思います。そして賢くなってくればくるほどに、こうでなければならないとか、こんなの無理だとか、できるはずがないといった自分の中に壁を設けてはそこがハードルになって変革することができなくなるのです。

しかしこの固定概念というものは曲者で、その人の信じる質量でその内容も決まってしまいます。エジソンなどの発明家のように、最初から不可能を可能とし挑戦と努力を継続し、信じることを諦めない人の持っている固定概念と、最初から何もしないでできないと思い込んでいる人の固定概念ではその内容も意義も変わっているからです。

どのような固定概念を持つか、それをセルフイメージと英語では言うのかもしれませんが自分の中の常識が一体どうなっているのかを確かめるということです。そうしてその固定概念を刷新できたときにこそ自ら希望を産み出すことができるのです。

そして人はこの希望を持つとき、この常識が崩れ始めます。

つまり「常識」が崩れ続けるとき、それを人間は「希望」といい、その希望が得られたことを「奇跡」と呼びます。この奇跡といったミラクルとは、常識が異なるものを発明したり自明したり、そして実現するときに実感するものです。

そして奇跡とは、その人の常識を刷新するほどの信念を持ち、その信念を曲げずに諦めなかったことで希望が手に入り、その希望が継続していく中でいつの日か結果が顕われ伝説となり伝道されるのです。

誰しもが不可能と思うことに挑戦するのは、いつまでもその希望を捨てないからです。

昨年からの問いがようやくここで開花してきています。自分の常識を壊し続けられるように、バカになってムリをせず野生のままに歩んでいこうと思います。 自分の使命は、どうも其処彼方にあるようです。

本物の個性

よく勘違いされるものに個性と習慣というものがあります。

自分はこういう人間だからと最初から決めつけ向いているとか向いていないとか自分で判断してしまうことを個性だという人もいます。しかしよく考えてみると分かりますが、それらの個性というものは産まれてから何らかの努力した習慣によって手に入れたものが多いのです。

例えば、自分は営業向きではないとか、自分は学者向きとか、最初から先入観を持ってしまい挑戦しようとしない人がいるとします。私も昔は、自分では営業は向いていないとか経理はできないとか、経営者タイプではないとか自分なりに思い込んでいたものです。

しかしそれはそれまでの自分の習慣がそれまでの自分の個性のようなものを固定していただけで新しい行動と習慣がつけばそれまでの自分とはまったく異なる新しい自分を発見することができたのです。

人間は結局は自分自身の先入観に打ち克てるかどうかということで自分を創りあげていくのかもしれません。自分の限界というものを決めているのも自分自身ということなのでしょう。

論語に、「子曰く、性は相近きなり、習いは相遠きなり」という言葉があります。

つまりは、人は生まれたときはほとんど変わらないけれど、その後の習慣でまったく違う人物の差にになってしまうという意味で用いられます。ほとんど人間には実は違いがなく、どのような教育を受けてきたか、そしてどのような習慣を身に着けてきたかでその人生はまったく別物になってしまうということでしょう。

よくこれを個性だと決めつけるのは、学校で教え込まれた間違った個性です。学校というものは、その人がよく言うことを聞き、学校の思い描く社会に適応する人物を育てようとします。しかし実際の社会に出て観ればそれでは実学ではなく実用にならないのだから、当然、社会に出たらその社会での習慣が必要になります。

如何に学校で身に着けた習慣が十何年あったにせよ、それを個性だと決めつけずに新しい自分、その社会で生き残るために新しい習慣を身に着けていく必要があるのです。

学校から社会人になるときに、何を捨てさせるのかといえばそれまでの習慣のことを言うのです。それまでも習慣を捨てるには、今までの習慣を凌駕するようなまったく異なる中らな習慣を育てていく必要があります。

私が現在行っている朝練も同じく、これは今までの生き方、それまで自分が判断してきた基準を超える経験、つまりはその心身の習慣を身に着けるために実施しているのです。何度も何度も新たな習慣を身に着けるには場数が必用で、その期間は苦労するものですが新たな習慣が立てば新しい個性もまた身に着きます。

これらの基になるこの「性」というものは、天性のことです。天性とは人間そのものは等しく天地自然の顕現としての存在という意味でしょう、つまりは元の人間は神人合一、天人合一という意味です。習いとは、その後の学問のことで実学の人か妄学の人かということです。

意識改革というものは、これらの習慣にメスを入れることをいいます。自分では気づいていもない習慣をそのままにしておけば一生涯それを個性だと勘違いしてそのままになってしまうのも、その人のご縁や運によるものと思います。誰にも指摘されないまま自分の個性だと勘違いして努力を見誤れば裸の王様のようになってしまうかもしれません。これは本当に恐ろしいことです。

だからこそ素直に生きていくということは、自分の気づいてもいないような思考の癖や習慣を指摘してもらう自分でいることのように思います。そのために正直に伝えてくださる指導者が身近にいたり、同志、師友の存在は本当に有難いことのように思います。そしてそれもまた自分の決めた生き方、真摯に成長を選んでいるか、真剣に伸びようとしているか、求める自分があってこそのものでしょう。

心を開き新しい自分に出会うことで個性はより本物の個性になっていきます。

悪しき習慣を転じて善き習慣とするように、新たな習慣を身に着けるために温故知新、御指導いただくままに今年は様々な習慣を具体的に変えていきます。

道草日記~あるがままに~

先日、「ファン・デグォンのLfe is peace with 辻信一」のDVDを拝見する機会がありました。以前、自然農の川口由一さんのDVDと同じシリーズだったので、自然をテーマに本質的なお話が拝聴でき、新たなインスピレーションをいただくことができました。

このファン・デグォン(黄大権)氏は、米国留学後、帰国した際にスパイと間違われ激しい拷問とそのまま13年と2ケ月という月日を独房で牢生活を送っています。その中で、様々なことを生き直し野草という身近な存在に気づいてそこから自然というものに入り込み「野草手紙」という獄中から妹に宛てた手紙が出版されると100万部を超えるミリオンセラーになったとのことです。

この物語だけを聴いても、吉田松陰のことを思い出します。吉田松陰も妹がいて、獄中から様々なことを妹に手紙を送っています。それに獄中で囚人たちと共に学びその講話を記述した「講孟箚記」は100年を超え今でも読み継がれるミリオンブックです。

その人が艱難辛苦を耐え忍び、その志を堅古にし内省により掴んだ智慧はいつの時代も人種の違いもなく真理として心に深く響くものがあるように思います。

この話の中で特に印象に残るのがカササギの観察の話です。私も動植物の観察はライフワークなので巣をつくるところと自分の居場所を組み合わせで直観した話はとても参考になりました。

これはカササギが、巣をつくるために何回も何回も試行錯誤し最初の枝が木の隙間にストンと入るまで諦めずに新し枝を探し求めて旅を続けるというところです。そして「平和や幸せというものは、それと同じく自分のいるべき場所にいることだ」と言い切ります。

「そこには一寸の狂いもなく、本来の場所に収まっている。それは人智を超えた神の精妙なるデザインである」と続きます。ここにも自然の仕組みをこの方が発見していることを悟ります。

私達人間というものは、自然から離れ人工的な欲を満たす世界の中で謙虚さというものを忘れてしまっていくものです。本来は、自分の思い通りになどいかず、その方が思い通り以上の素晴らしいことが起きていることも分からなくなっていくものです。

そうしてみては不平や不満を言い、自分の居場所ではない所の方を羨ましがり本来感謝していたはずの存在そのものの有難さよりも、自分にとって都合のよいことのみを嬉しがるといった道から外れた幸せを追ってしまうものです。

しかし本来、自分の与えられた天分というものは自分が決めたものではなく生まれ落ちたところから今にいたるまで全ては全体の中の一部として存在させていただいているものです。自分がそうさせていただいているという実感は、自分があるのは様々な御蔭様の上に成り立っているという謙虚な気持ちを持っているということであろうと思うのです。

本来ならば、自分が地球上でこれだけの自由にさせてもらいながらそこへの感謝を忘れては地球や宇宙への貢献ということも何の事だか歪んで解釈されていくのかもしれません。私たちが活かされているということも自然の動植物は当然に自覚しているからこそ、先ほどのカササギの枝のようなものまであるがままに観えるのでしょう。

あるがままの心で生きるというのは、素直に活かされていることを実感するということだと私は思います。そして今、居るこの場所を深く厚く掘り下げていくことだと思います。生きている以上は活かされているはずです、それは空気も水も光も風もみんな自分を活かしてくださっています。

だからこそ自然の有難い御恩にどれだけの感謝を盡すか、共に天命に活きようという声掛けなのかもしれません。道ということは、目で追わなくなり心が定まった時に顕現するものかもしれません。暗闇の中に一筋の光が差し込むようなものなのかもしれません、私も絶望の度にいつも助けて下さる方々に出会い人生がさらに歩みだしていきます。

ファン・デグォン氏は野草でしたが、私の場合は道草なのかもしれません。このかんながらの道のブログも私という草を活きる「道草日記」のようなものだからです。これからも自然に活かされる有難さを感じつつどんな機縁も勿体ない心で、自然と共に強く優しくあるがままに歩んでいきたいと思います。

現場実践

先日、ミッションパートナーとのふり返りの中で心身についての話をしました。最近は、唯物的な社会思想の中で心というものがどれほど大事かということを忘れてしまっている若い人が多いといいます。

そもそも人間には、「考える」ということと「思う」ということがあります。考えるというのは、頭で考えるということであり、思うというのは心で思うということです。

これはまったく住んでいる世界観が異なるほどの違いがあります。

考えている世界というものは、形式知と言われるもので客観的に分析したり冷静に対応したりと起きている出来事や事物をそのままの形にして判断していくことができます。私も考えますが、それは説明するために理論化したり論理的に何かを表現するときなども用いいます。

しかし心の世界というものは、暗黙知とも言われ自他を思いやり、心を通じ合い、寄り添い共感したり、互いに感じ合ったりといったそのものの事物や出来事の背景までを感覚的に直観したりすることができます。私はいつもこれを何よりも優先にし、心が常に働いているかどうかと自分の状態に気を遣っています。

これらの考えると思うということは何よりも大切なことがらで、どちらを優先しているかで貢献していく形が異なっていくのです。まず考えるだけになったなら、どこか冷めていて何か事が起きても大変だと考えればすぐにやりたくないという考えが頭をもたげるはずです。そんな考えることを優先していたら、もし行動できても何かが起きたらすぐに避けたい楽になりたい方を選択してしまうように思います。

しかし、思うということを大事にしたなら、強い思いをもっているので情熱的に果敢に挑戦していき大変だと思っていても心が折れずに最期まで遣り遂げることができるように思います。そして日々に思い続けて思いをカタチにしていくのなら、避けたいや楽になりたいというよりも、向き合いたい、味わいたいという方を選択していけるように思うのです。

この「思い」というものの力は、誰かの役に立ちたいという願いであったり、何かの目標や志を持つことでより強くなります。

しかしこれらの目標や志であっても考えただけのものであれば、それは目標風、志風というような心で本物にしたわけではなく単に知識だけで象られたものになっている場合が多いのです。

だからこそ、常に「思う」、「思い続ける」という実践があってはじめて思いは醸成されるとも言えます。思いは、心で行うものですから辛く苦しいことばかりです。時には心が痛み、心が疼き、心が傷つき、心が張り裂けそうな思いを沢山します。

そういう思いを沢山して、その体験を通じて思いを固めて思いを決めて思いを本物にしていくことができるのです。そしてそのあと、はじめて考えてみればより思いをカタチにしていくために具体的な方法を活かしていくこともできるのでしょう。

狭い学校や知識の中で生きているのなら考えているだけでもいいのかもしれませんが、実際の社會では人々は沢山の苦しみを持ち、人々は多くの悲しみを背負って生きているのです。

そういう人たちの力になるというのは、心からの自分、「思い」を持った人になり、共に道を歩み手と手を取り合って助け合っていくことなのです。そして心から思うことに生き切る日々を積み立てて立志と言うのでしょう。

だからこそ考えてみてたとえ辛そうでも、そこで心を閉ざそうとせず我慢し、思いを引き出し思いを育てるために心を開き続けていくことを恐れてはいけません、心が傷つくことも避けてはいけません、人生は一度きりなのだからそういう苦労体験を若い時は買ってでもして、本物の努力をして成長していくことが大切なのでしょう。

知識偏重型というのは、物の世界です。ここでは共感中庸型ともいってみますが、心の世界も常に存在し同時にあることを気づいてほしいと願います。

現+実(現場実践)とはその両輪があってのものですから、「思いの醸成」になる実践をしっかりと積み重ねていきたいと思います。

立志こそ全て

2年前にオルタナという情報誌の主催で、学生たちが自ら志のある会社を集めた就職ガイドをつくろうとという企画があり参加したことがありました。

それは私たちが作成している理念ブックから抜粋して紹介したものです。そこで掲載させていただいた元になる文章は、理念ブックあるミッションというところから抜粋されたものです。

外部に出しているものではないのですが、ここで初公開してみます。

(大ミッション)

『世界ではまだ貧しい国がたくさんあります。そしてその戦争などでもまず犠牲になるのは子どもたちです。私たちは、このモノに溢れた裕福な国に生まれて掴んだものは物質的豊かさかもしれませんが、その反対にとてもココロは貧しく辛い世の中にしてしまいました。そして戦争のない平和に観えるこの国も、まず犠牲になっているのは私たちの未来そのものである愛する子どもたちです。私たちは、物質経済を追い求める大人が生み出した身勝手な競争優先の社会から子どもの人権を守るために幼児期の保育環境を創造する援助を行い、子どもたちが安心して過ごせる未来を遺すための仕事をしている会社です。私たちのこだわりは「子ども第一主義」です。そしてこれは私たちカグヤのクルーが共有している根本理念でもあります。子どもが単に好きだから子ども第一主義ではありません。子どもたちが創りだす未来そのものを見守り、そして彼らの生きる力を信じるということを第一義とすることで教育施設にある様々な隠れた問題を見抜き改善しコンサルティングすることでそれを実現する方向へ導きだすことです。子どもたちを見てみてください、彼らに余計な大人の刷り込みを与えずに子どもたちを信じて自治を任せていけば子ども集団は必ず道徳倫理に叶った平和で助け合いみんなが共生する民主主義を実現するのです。余計な大人の与える刷り込みは百害あって一利なしです。私たちは、子ども第一主義を目指すカグヤのクルーとして自らが独立自尊する自立した立派な刷り込みのない素直で純粋なままの大人(たいじん)としてのモデルを日々の仕事を通して実践で示し、平和で真に豊かな社会と世界を本気で創造しようとしている会社なのです。「3つ子の魂100まで」の言葉に象徴される、今最も大切な幼児期の子ども達に1000年後の真実を遺したい。未来をより素晴らしいものに変えるには教育を変えるしかない、子どもが自分達で創ろうとする世界を私たち大人がいかに信じて見守っていくか。そのために私たちはここに集まっています。カグヤの真の大ミッションはここにあります。』

これは社業の目的とも言える根幹の理念です。

会社というものは、別に商品を売っているだけではなく、サービスをしているだけではありません。会社会社にその目的が存在していて、その本質はその目的に対して何をしているのかということなのです。

私たちが信念を持ち、何を拡げているのか、何を実現したいのかは理念に由るのです。

その理由を明確にして、信じたものを行じていくとき、それを共に実現する方々が顕現してくるように思います。自分が大切な岐路に立つとき、覚悟を決める時、それは理念に立ちかえる時であろうと私は思います。

自分が何にいのちを懸けているのか、全身全霊を尽くすのかは、その使命の用いどころ、また心構え、その覚悟にあるように思います。文章に書くのは簡単ではありますが、読んで理解するのも容易ですが、事実、これを実践するということはとても難しいことです。しかしそれが志を立てるということなのです。

「立志万事の源となす」

これは吉田松陰先生の士規七則の言葉です。

使命感とは、志如何によるものですから仮初のものでも借り物でもなく、その志を自ら立てることが全てのはじまりであることを忘れてはいけません。

 

縁とは心~自他に正直~

心の力というものがあります。

これは信じる力というものかもしれませんが、不安を転じて安心に換えたり、ピンチをチャンスに換えたり、有難を幸福に換えたりする力であろうと思います。

心というのは、感情に左右されずにいつも善いことであると信じているものであろうと思います。心が強い人というのは、困難があっても何か不安があってもきっと善いことであると信じることができるということです。

感情というものは、生存本能から自分の生存にとってマイナスなことを探し当ててくるものです。なのでネガティブなものを見つけては危機を察知し、そこから危険を回避するという力に転換していきます。

しかしその分、感情で考えるということはネガティブを呼び込むことになりつい良いか悪いか、正しいか間違っているかなど、両極に偏りバランスを崩してしまいます。本来は、心の強さが必用で心は丸ごと信じるということを行うことで全てを包みバランスを維持することができるのです。心が丸ごと信じられるというのは、自分が活かされているという全体の働きを自覚することであり、つながりで観る、ご縁を大切にするということで顕現するのです。

つまり感情と心でバランスを維持するというのが本質であろうと思います。

これらのバランスの維持とは、頭で考えてできるものではありません。なので常に心を優先してその後に考えるということ、言い換えれば実践を先にしてそのあと内省するという順序を大切にすることで維持できるのではないかと私は気づきました。

心は全体を見通し、感情は状況を見通します。ですから、バランスというものは自然のままに自分を活かす、正直でいるということを示しているというのが定義であろうと思います。

バランスが悪いというのは、正直ではなくなっているということ、またそれを忘れてしまっているということです。今の世の中は、頭で考えれば、否、目で見える世界を追いやすいように思います。目で見えない心の世界を学び、つながりやご縁を観る力を養っていく必要があるようにも思います。

内省を続けることは、自分の中にある直毘を養い、その真心を研鑽していく実践方法です。常に日々に流されないというのは、心を遣ってということであり、それはつながりを心を観続けているという意味、つまりはご縁が観えていますか?ということであろうと私は思います。

ご縁を大切に、心を強く、自他に正直に生きていきたいと思います。