幸せの本質~インドの旅3日目~

今日は、インドにある中でも革新的な学校と盲学校を視察しました。

インドに来てから、様々な貧富の差やあらゆる価値観の矛盾を味わいつつ引き続き幸せの本質とはというテーマで日々を洞察しています。そもそもこの国は身分制度にはじまり、人々が階級などにより棲家を棲み分けています。

インドでは一部の富裕層の生活との違いばかりが気になるような風土が太古の昔から今にいたるまではっきりとあちこちに現存しているように思います。

そしてそれは今の時代の学校や教育の方針などにも反映していて、競争し1人で勝ち残るための指導法などがインドでも人気を要しているようです。本来の幸せとは何かなどはあまり議論されず、世間の求める物質的な豊かさや裕福さといったお金や名誉などにもよって無意識に基準が設けられているようです。

この世には目に見える貧富というものと、目に見えない貧富というものがあるように感じます。そして私には本当の貧富の差は、表面上の差ではなく自分そのもののバランスではないかとも感じるのです。分相応ではないですが、その人に与えられる物資的なものと精神的なものとのバランスがあってこそ本来の豊かさや幸せといったものに出会うようにも思うのです。

ここではより感じたのですが本来の幸せというものは、決して物質的な裕福さだけではなく人生=生き方としての真の裕福さがあるように思うのです。それは自分自身の信じることを自分自身が行うことではじめてバランスが取れるように思うのです。つまりは物か心かではなく、その両面、そのバランスの元となる自分が幸せかどうかということです。

人はどんな環境や境遇に生まれてくるのかはわかりません。今日の盲学校ではないですが、目が見えないからといってそこに不平不満があるのではなくそれを受け容れて卑屈にならず健やかに自分らしく生きている姿にこそ幸せの種を感じるのです。

幸せかどうかというのは、その人のままでいることが幸せなことなのかもしれません。
そしてそれを信じる事ができる人こそ、幸せを素直に感じることができる人かもしれません。

明日は最終日です。

今日も思い出深い貴重な体験をたくさんさせていただきました。
これが何に繋がっているのか、、、ワクワクドキドキのままに楽しみたいと思います。

 

 

 

幸せの本質~インドの旅2日目~

今日は、早朝よりインドのデリー市内からアゴラまで車で移動しつつ現地の観光を行いました。町の中で様々に生きる人たちの様子に、それぞれの運命を感じることにもなりました。

人間は生まれた場所や環境がその後の人生に大きく影響を与えます。もしも自分がここで生まれていたらと思いを巡らせれば、今与えられている環境が感謝できるものです。そしてそれは見聞を深めるということでできるのです。

例えば、寒い気候や厳しい環境の中で成育したものと、温暖で湿潤の穏やかな中で成育したものとでは明らかにその今の自分の姿が異なるはずです。つまりはこのように見聞を広めていくことで本来の自分の今を正しく理解に努めていくことができるようにも思います。

幸せの本質について昨日から考えはじめて今も思いを巡らすとそこには穏やかで安らかといった心の持続ということを思い当たります。インドではこれをニルヴァーナとも言うそうですが、その境地を維持していくことができる心境ということです。

これは私には「真摯に実践を続けて悟ることのない状態の維持」というように感じます。つまりは、悟るというのは、悟るか悟らないかではなく悟ろうと学び実践を続けていることこそが心の平安を持続することのように思うからです。何でもそうですが、分かった気にならないというのは分からないままに実践して腹落ちするまで頭で分かろうとはしないということが現実と理想の中間を得ていると思うからです。

釈迦にこのような説法があるのを発見しました。

「欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世でこの執著をのり超える。人が、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、無力のように見えるものがかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が浸入するように。それ故に、人はよく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。」
意訳すると、欲というものがあるから色々な苦が付き纏う。だからこそそれに気をつけながら歩みなさいということですが私は欲が善いとか悪いとかではなく、ここでは気をつけなさいということが実践そのものであろうとも思うのです。自分という舟を川に浮かべて進んでいけば、波風や様々な試練から転覆しそうに揺ら揺らしていくものです。
最終的には大海原へと向かうのでしょうが、そこまでの旅路に安らかに流れ流され達していくことが幸せのように思えるのです。そしてそれは例えば菩薩行の実践をすることにより、その様々な欲と上手に付き合いつつ、自然循環の一部と一体になった境地にはじめて入っていけるようにも思うのです。
自利と利他がありますが、やはり人は自分のことよりも誰かの御役に立てることを優先しているときの方が欲も回避して自分らしい正しい行いができるように思います。これも実践というもので、それを行ってはじめて心静かな気持ちで義を優先していくことができるように思うのです。
そう考えれば、自分号という舟との正対の実践こそが幸せの本質かもしれません。
明日からは子ども達の施設の視察ですが、さらにインスピレーションを高めていきたいと思います。

物来順応~変化自在~

昨日は新年の祈祷と会議が行われました。
心新たに書初めをし、昨年のふり返りをして今年の方針を確認するのは大切な機会です。

私たちは根本が変わることがないので昨年に引き続き「リカンパニー」ですが、その他の課題は常に変化し改善していく必要があるので節目節目に確認することを大切にしています。 不易と流行ではないですが、何を変えずに何を変えるのかはそれは変化というものを正しく受け止めているからできることであろうと思います。

変化し続ける日々というのは、何をやめて何をはじめるかということの繰り返しです。
何度も何度も今までの習慣を新しいものへ変化させていくようなものです。

慣れてくるとマンネリ化してそのうちに本質が見失われてきたりするものです。
だからこそ客観的に間違いに気づけばそれを変えるという連続が今の自分を醸成します。

今までは要らなかったものでも、それがもう一度必要となったりもし、またはいくら苦手だと避けていてもそれは必ず通らないといけない道であったりもするのです。

自分の都合の良い道ばかりではなく、時には荊の道もあれば歩けないようなでこぼこの道もあるのです。それをちゃんと自分にばかり合わせずにもっと踏み込んでその道を楽しんでいこうと取り組む先にこそ変化の兆しを得るように思います。舗装された道路ばかりしかない今の時代にそんなところばかり歩いていても次第に面白くなくなっていくのかもしれません。

気づいたらその次には改善するくらいで居る方が考えすぎなくて心地好いのかもしれません。目標や計画、効果検証も期限を切るというものも、実際は道を楽しくするためにこそ用意するものかもしれません。

昨日は、その他に久しぶりに佐藤一斎の「言志四緑」からの文章に出会いました。

それは「物来順応」という言葉です。

これは剣の極意、武士道の在り方を示したものでこうあります。

「剣術や槍術の試合には、臆病な心を持った者は敗れ、勇気を頼む者も敗れる。勇気や臆病という考えを一つの静の中に融合し、勝敗を一つの動の中で忘れ去り、これを動かすのには自然のままに動き、わだかまりなく実に広く万事万物にかたよることなく公平な公明正大であることである。これを静にするには、あたかも地の寂然不動なるが如くであり、物来たればこれに応じて対処する。このような者は必ず勝利を得る。心を修養する学問もこれにほかならない。」

これは私の意識する「先待ち」という思想にも共通し、どのような事件があっても動じずに穏やかに処していこうとする錬磨修身の私の目指す生き方とも同じです。その境地へはまだまだ道は遠いですが、遠いということはそれだけ有難いことではないかとも思える日々です。

今日からはそれをいつも体現してくださる師と同行しインドに行きます。
どんな出来事が待っているのか、もう今この瞬間から旅のシンクロニシティに出会っています。

考えるという実践

行動するというのは考えるということ、考えるためには行動しないとできません。

これは当たり前のことなのですが、頭で考えているようなことが実際の現実や現場で合っているということはほとんどありません。言い換えれば脳が、無理やりに現実をそうであったかのように合わせているともいえるように思います。

そもそも考えるというものは現実は何も変わることはありません。本来の考えるというものは、行い動く際にこれはどういうことだろうと実際の場面場面で智慧を出し、それを工夫していることをいうように思います。

実際は考えても行動しないとかいう言葉がありますが、あれはとても変な言葉で考えることは行動することで行動している最中こそが考えているということになるのです。

ですから考えるだけで実践しなければそれは考えているとも言ってはならず、それは単に妄想していると思うという方が当たっているように思います。妄想は現実を変えませんから、やはり具体的に動くや実践することが先でそのあとにはじめて考えているというものが本来の姿であろうと思います。

机上の学びというものは、そういうもので実際の学問は自分の実体験や現在の体験を深掘りそれを腹落ちしてくなかでこそ得ているように思います。巧遅拙速という言葉がありますが、妄想するよりも行動する、悩み停滞するよりも実践するという方が本来の姿であるという意味で解釈してもいいように思います。

まず考えてからという言葉がありますが、あれは考えてからという意味で妄想するのではなく具体的な計画を立てるという考動をしているから妄想してからという意味ではないのです。とにかく動くやとにかく実践するということは、考えることにおいてはとても大切なことです。

決心したらその次には動いている、覚悟を決めたらその次には実践している。

これではじめてスピードが上がるように思います。

何がスピードアップなのか、しっかりと捉えて新たな挑戦を楽しんでいきたいと思います。

自然のまんまの御漬物

先日、愛媛の松屋旅館にて宿泊し糠床の手入れやお漬物についての講話と実践を学ぶ機会をいただきました。

昨年より、自然から学ぶ中で微生物や菌の世界の素晴らしさをさらに実感し具体的な実践を通して学んでいく中での出会いでもありました。そして漬物を環境を用意して早速挑戦してみたものの手入れの仕方が分からず大変悩んでいましたが今回全てが腑に落ちました。

何でもそうですが実践してみる時に、今までのものがないというのはつらいことです。本来は、昔ながらの伝統が残っていて身近にそれを教えて下さる人たちがいたのでしょうが今では本やインターネットですぐに手に入る情報ばかりのようですがあれは実践している文章ではないものもたくさんあります。

特に売れるためにや宣伝のために書いている文章などというものは、現場で試してもどうしてもそれが腑に落ちず、とても悩むことばかりだからです。今回の糠床でもそうでしたが、本を購入しても調べてもためしてもどうしても分からなかったからこそ行動してみて本当に善かったと思います。

きっと私たちの保育現場であっても同じように情報過多で、真実の情報はとても少なく現場で試しても合わないものばかりで苦しんでいる方々もたくさんいるように思います。そういう方々へも少しでも手が届くようなところに真実の情報を届けていかなければ気持ちを新たにすることもできました。

さて、この松屋旅館の糠床は江戸時代から300年以上生きているもので漬けられているものです。御漬物の予約もして食べてみたのですが、今まで食べたものとは明らかに異なり全身が驚きました。

こんなに美味しい御漬物ならば毎日食べたくなるものだと感心したのですが、そのあとの女将さんのお話も全て目から鱗のことばかりで本当に楽しいお時間を過ごすことができました。

内容については、あまりにも情報の質が高くすべてをご紹介することはできませんが一部を紹介すると

「昔の方の智慧は素晴らしい、昔のやり方でやっていれば間違いはない。」

「子育てと同じで、手をかけてあげることが何よりも大事」

「糠床にも四季がある、そして呼吸する、しっかりと四季を味あわせてあげるといい」

「御漬物は美味しく食べ続けるから腐らない、おいしく漬け続けることが大切」

「御漬物が今どういう状態かというのは離れていてもすぐに分かる」

「糠床と仲良くやっていくといい、楽しみがでてくるようになるといい」

「自然に漬かるのをじっくりと待つ、そして食べる分だけちょっとずつがいい」

他にもたくさんの実践語録をいただき、我が家の御漬物も会社で取り組んでいくものの指針も頂戴することができ、これでまた皆と子どもたちの未来へ譲るものを一つ、キッカケを得ることができました。

最後に、昔の人の智慧については本当に頭が下がる思いがしました。今に残っている自然の智慧は、何千年もかけて私たちの先祖たちが編み出した生き残りのために自然から教えてもらったことを自然に教えてきただけでもあります。

自然から学ぶということは、そういうものを謙虚に素直にどれだけ今の私たちが子々孫々へ正しく実践を通して継承していくかというのが今を生きるものの責任であろうと私は思います。どんなに今の価値観が便利や目新らしい変わったものばかりが注目されようとも、長いスパンで物事を省みれば先人たちの行った偉業が眩いばかりに随所に残っています。

本来の智慧とは何か、今年も自然から学び直して自分を立て直していこうと思います。
今年は温故の価値を再定義する年になりそうです。

則天去私と命従我省

夏目漱石の造語に「則天去私」がある。

大正5年に出た『文章日記』(新潮社)の扉に漱石が「則天去私」と揮毫していてその解説ににはこう書かれているそうです。

「『天に則り私を去る』と訓む.天は自然である,自然に従うて,私,即ち小主観小技巧を去れといふ意で,文章はあくまで自然なれ,天真流露なれ,といふ意である.」

他にも広辞苑では、「夏目漱石の最晩年のことば。小さな私を去って自然にゆだねて生きること。宗教的な悟りを意味すると考えられている。また、創作上、作家の小主観を挟まない無私の芸術を意味したものだとする見方もある。」

ちょうど、松山の道後に立ち寄った際に夏目漱石を調べていたらこういう言葉に出会いました。

今年のテーマに沿って学んでいるとすぐに情報が飛び込んできます。学ぶことの面白さや楽しさというのは、同じようにテーマを掲げた人たちとの学びの邂逅のように思うから不思議です。

自然というものと自分というもの、この両輪をどう理解していくかということは生きていく上で重要だと思うのです。私の解釈では、人生は楽をしようとすると偏り辛く、人生は楽しもうと思うとバランスが取れて幸せであるように思うのが今の私の幸福論です。

どうせ一度しかない人生ならば、苦しい方を選んだとしても楽しい日々を送るということ。

そういう人生の中にこそ、去私の境地があるのではないかと今では思うのです。そして運命というものは、生まれる前から壮大な宇宙の循環の一部として自分のいのちが活かされているのだから委ねて信じるということで則天ではないかと私は思えるのです。私の造語にしてみれば、「命従我省」です。

特に人生を振り返ると、どうにもならないような出来事ばかりがあったように思います。

誰かと比べては幸福論を語る人たちばかりの中で、本来の自分の生き方というものを正しく見つめる機会はどれくらいあったでしょうか。人は、人生の苦難や艱難に於いてはじめて自分を見つめて自分を育てていくように思います。

人生の道は、それぞれで異なるからこそ自分で見出していくことが大切なのかもしれません。

夏目漱石から今年は他にもたくさんの言葉を得てインスピレーションがありました。
早速、さらに深めて実生活の中で生かしていこうと思います。

信念を迎える

人は何を信じて生きていくかというものを持つことで自己を確立していくように思います。

それぞれに顔が異なるように、その生き方というものもそれぞれに異なります。それは自分が他とは異なっているという使命を帯びているのです。

人生というものは、自分のそういう異なる部分をどれだけ伸ばしていくか、そして如何に自分に合うものを探し出していくかということで開けていくもののように思います。

自分の好きなことをやるというのも、日々の生活の中で選んでいくものです。
それは生き方の方を言うように思います。

好きなことをやるというのは、好きな生き方をやるということでそれは単なる好き嫌いの好きではなくそうありたいと自分らしい方を選んでいく自立した姿であろうとも思います。 それが自然であり正直であり、自分のままでいるということになるように思います。

人はいつも誰かの目線を意識したり、常識に縛られていたりして自分らしくいることよりも自分が周りと違わないことにどこか安心してしまっているものです。そもそもの根幹にある自分は異なるというところから入るのではないところが自分らしさを見失ったように思います。

そもそも異なるということは、そもそも認めるという自然に沿った在り方のままでいるということを言うのです。自然界では、異なるからこそ重なり合うことができ、異なるからこそ共に活かし合うことができ、異なり合うからこそ永続して循環の中で安心することができるのです。

そう考えてみると、最も大切なのは信念であろうと思います。

自分が何を信じて生きていくか、素の確立をしていくことを誓い今年も感謝で終わりたいと思います。今年も沢山の人達に出会い、自分が変わっていきました。その感動や感激はいつまでも忘れません。

有難うございました。

尽くすと待つ

人事を尽くして天命を待つという言葉があります。

これは人事と天命という言葉が強いように感じますが、本質は何を尽くして何を待つのかということではないかと思うのです。

尽くすというのは、自分のすべきことを行うという意味で使われるように思います。
そして待つというのは、全てを丸ごと信じるという意味で使われるように思います。

元々、尽くせないときというのは自分のすべきことではない余計なことばかりに手をだし本来の自分の役割を果たそうとしないときにそうなるものです。そして待てないというのは、周囲を信じる事が出来ず自分の思い込みに囚われるから待つよりも思い通りに動かそうとして焦るときにそうなるものです。

そして人事というものは、簡単に言えば皆の御役に立つように自分を遣い切るという言い方ができます。人の世界は、共生と貢献で成りなっているのだから自分が何のお役に立てるかを真摯に求め一生懸命に自ら尽くし、自他を喜ばせることが人事そのものになるのです。

また天命の場合は、簡単に言えば自分は全体の一部として循環の中にいて生死を分ちあっているともいえます。そういう自然そのものの姿丸ごと全体のことを心で感じて信じきるとき、きっとこれでいいのだろうと天に任せ天に委ねるいのちがあることを知り天命となるのです。

この両方は、自然界にいる野生の生きものたちは当たり前に行っているものですが私たちのような自然から少し離れているものが本来の在り方や姿を忘れないためにいつもバランスを取るためにこの尽くすと待つを常に確認する必要があるように思うのです。

大極的に観れば、太陽系の星々と共に地球号に乗り込み大宇宙と旅をするなかで、私たちはその必然の中で生きる死ぬの往生を知る者たちで構成されているのです。

自分が何をすべきか、自分にしかできないことは何か、そしてこれでいいのだと信じることが子どもの前で全身全霊で歩んだ道のモデルとしての自覚になるように思います。

この曲がりくねった道が、自分の道だと歩みを振り返って来年の準備に代えたいと思います。

 

ゆっくりの本質~心の故郷~

子どもの頃のことを思いだすのに太陽や月のことがある。

あの頃は、昼や夜に自分が歩くと一緒についてくる太陽や月を不思議に思ったものです。

何度も走り込んで遠くにいっても、空を見上げればどこまでも自分に着いてくる太陽や月。
こちらが角度を変えてみても隠れてじっと待ってみても見上げたらやっぱりそこに居るのです。車に乗っても自転車に乗っても空を見上げてはあれはなんで着いてくるのだろうねといつも誰かに聴いていました。

気がついた頃にはもう考えるのを諦めてしまい、なぜだろうとしつつもきっとこれはいつも居るものなんだという当たり前の存在への安心感を全身全霊に刻み憶えたものです。

同じように夜になれば今度は無数の星たちが出てきました。

一番星にはじまり夜を迎え、深夜の満点の星空、黎明の時間の紫色の空の点々とした光。
そして月が薄くなり、山の向こうからまた必ず顕われる橙色の明かりといつもの太陽。
風に雲に霧に木々の音、鳥の声、緩んでいく空気、そして人々の生活の気配。

こういった毎日がなぜこういった毎日なのだろうと子ども心にいつも不思議を憶えていました。

ゆっくり過ごすということは本当は何か。
自然と共にあるということはどういうことなのか。

そういったことを子どもの頃はいつも覚えていた気がします。

今の時代は、ゆっくりというのはスピードだけでしか語られることはありません。しかし子ども達の心には、本来のゆっくりが備わっていて無限の時間を有するように思います。そういったことを思い出すことが本来の自分を取り戻していくことのように思います。

ふり返りをしていたら、なぜか不思議な懐かしさまで思い出してしまいました。

いのちはゆっくり生きるといい。

それは太陽と月と地球と自然とともに歩む大切な日常との美しい邂逅かもしれません。

鞍馬での朝にふと、心の故郷を思い出しています。

分かち愛

分かち合うということは素晴らしいことだと思います。

苦しみを分かち合うことができる人がいるから孤独というのはまたそれも自分を磨くチャンスになります。そして歓びを分かち合うことができ人がいるから仲間というものもまた自分を認めるチャンスになります。

人は一人ではないと思う時、そこに仕合せということを感じるように思います。

自然に沿った生き方というものを今年は学び、その中で素直であること、ありのままの太陽や月のようにしていること、そして恩恵を共に分かち合っていることなどを学びました。生きていくということは分かち合うことだということも今ではそれがはっきりと観得るのです。

そして人のご縁というものを考えてみます。

よくよく生というものをふり返ると、この世はこれだけの人達がいる中で同じ苦しみや歓びを持ち合う同士がご縁を得ているように思います。例えば、今までのその人の人生の道に歩む中で何らかの出来事から深く悩み傷つき無理をして正直でいられずに我慢をしたままでいたことが苦しみの原因になりそれがいつまでも取り除かれないままになっているとします。

それが一人で前に進もうとすればするほどに苦しみに苛まれ歩みを止めてしまってさらに苦しみが大きくなっていきます。それをご縁を辿り結ぶことで、自分の自然の姿に近づこうとし、それを共に分かち合うためのパートナーというものが顕われるようににも思うのです。

そうしてそのパートナーと共にあることで、様々なものを分かち合い、認め合い、助け合い、許し合い、救い合い、笑い合い、信じ合い、、、これらの合いを分つことで素直な自分、肩の力が抜けた自然体の自分に戻っていくようにも思うのです。それだけ人が一人では生きられないというのは、苦しみも歓びも人と人との間で共有することで生きているからのように思うのです。

私の大好きな言葉にドイツの詩人ティートゲの言葉があります。

「二人なら苦しみは半分、喜びは倍に」

喜びを人に分かつと、喜びは二倍になり、苦しみを人に 分かつと、苦しみは半分になるということですが、これはご縁そのものの意味を詠んでいると思うからです。

人は誰でも何かに苦しみ悩んだからこそ同じような体験をしている誰かの御役に立てるように思います。自分が乗り越えたことや、自分が体験したことが必ず誰かのためになっていくのです。だからこそ、体験を意味づけしていくことは重要でそれを積み重ねていくことが人生を善転していくことであろうとも思います。

こうやって人は自分のいのちが何かの役に立つということに幸せを感じます。
そしてそれは共生して、その中にある貢献によって得られるように思います。

必ずその苦しみを乗り越えられるパートナーというのは顕われ、必ず道に同行してくれるものです。だからこそ、人生には無駄がないのであり全てが学びであると言い切れるようにも思います。

自分の体験が誰かの御役に立つと思うだけで、幸せな気持ちになりますからご縁があることの素晴らしさを実感します。もっとお役に立ちたいと思えば思うほどに自然に近づいていく必要を感じています。

私は今日この記念する日に、分かち合いは、「分かち愛」なのだと意味づけました。

これからも自然や子ども達から見習い、いつも広い明るいニコニコ笑顔で自分らしい花を周囲と分かち愛ながら純粋無垢な大輪を咲かせていきたいと思います。