覚悟の学び

人は何かの判断をするとき、そこまでしてまでもやりたいのかというのがある。

子どもを観ていたら、やりたいことをできなかったとき、それを大人に抑制されたとき、反発してきます。自分がやりたいと思うことは、それが必用だからやりたいのであり別に意味もなく反発するのではなくそれが大切なことだからやりたいのです。

そこまでしてでもというのは、本当にやりたいかを自問することに繋がっています。

そしてそれを実現するのに、遣り切るというものがあるのです。

昨日、ある園での情報交換の中で楽しいのは遣り切っているからではないかという話をしました。好きというのは、そこまでしてでも好きかということ、そして遣り切っているというのはそこまでしてでも大切なことだと感じたからというものがあるのです。

自分が自分を好きになるのは、自分が好きなことを遣り切るからです。

そして自分が楽しいと思えるのは、自分やりたいことを遣り切っているからだと思うのです。自分自身を尊重したり認めるというのは、やりたいことをやりきるときに感じるのだと思います。

自分が分からなくなるのもまた、この自分を抑制して我慢をさせているからだとも思います。
本来は、教育は社会の中で自立できるように導き育てることなのでしょうが実際は社会に適合させるための人を目指しているようなものになっています。

それでは社会の中での自立ではなく、社会の中での依存や孤立を生み出してしまいます。

自由と自律、自立や共生というものは、自分が好きなことをやっていい、そしてやりたいことは遣り切っていいと認め合う環境の中で醸成していくものだと感じます。そしてそれが全体にとって正しくあるように原理原則や法理などを指導配慮していくように思います。

遣り切った分だけ、自分のことが知覚できるように思います。
本当は何なのかも、そのプロセスで実感できるように思います。

人生は常に遣り切った者価値です。

これからの子ども達のためにも、そこまでしてでもの覚悟の学びを高めていこうと思います。

真の余裕

人は当たり前であることに気づかずに日々の喧騒に忙しくしてしまうものです。

忙しいとは何かといえば、今のプロセスを味わうことをしないことです。

今という一瞬は二度とは戻って来ることはありません。

今在るご縁や人々、その出来事は二度はないのです。
その瞬間瞬間に様々な感情が湧きたってきます。

その一つ一つを愛おしく感じるように大切に過ごすことのように思います。

もちろん、日々は様々なことが起きるし起こっています。
もしもそういうことがなければ、自分に「させていただく」こともできません。

自分の立場でばかりで物を考えていると人は誰でも忙しくなっていくものです。

相手の気持ちになることほど豊かなことはないと思えることがあります。

それは悲しいことも嬉しいことも、幸せなことも寂しいことも、そういうものを自分の中に広く受け容れた時、真の豊かさとはこの繋がりの中にあるのだと実感するのです。

時間的な余裕をいくら手にしたからと、相手の気持ちを慮る余裕がなければその余裕は仮初の余裕であり真の豊かさを感じられるものではありません。

だから私は共感というのは自他を超えたところにあるのではないかと私は思うのです。

場所を超え、時間を超え、垣根を超え、生きものの違いをも超える気がするのです。

いつも心に自分以外のものを容れる器を広げておきたいと感じます。
なぜならそこに思いやりや真心があると思えるからです。

当たり前のことに気づける感性を、何気ない日常に得られる歓び、出会いを楽しんで美しい地球にいることに感謝しつつ、子ども達の健やかな生長を楽しみたいと思います。

信の行進

よくポジティブかネガティブかということを議論にする人がいます。

前向きな人か後ろ向きかということを話しているのですが、実際はこの話をすること自体がそもそも論外ではないかとも思うのです。前向きを意識しながらの後ろ向きや、後ろ向きを意識しながらの前向き論というのは、どちらも2極化されている世界の話でありどちらかに偏っていると言っているようなものなのです。

本来の考え方というのは、中庸というかバランスの中に存在します。そしてそれはどちらかといえば実践を行う中でしか認識できないところにあるのです。

例えば前向きさというのは、最期まで諦めないというものです。なぜなら、信じているから途中でやめたりしないのです。つまり、どんな結果になったとしてはそれは必ず善いことになるし善いことにすると遣り切っているから 前進し続けている状態でありいつも前向きということになります。

これを逆に途中で諦めてすぐにやめてしまうことは、最初から結果が気になって悪いことが起きると信じているのだから前に進むのをやめてしまうから後ろ向きということになるのです。

つまりは信じるということの実践を行うときは常に前向きであるということ。信じないという実践を行うときは後ろ向きだということになるのです。自分の実践を省みることが自分の心の状態がどうなっているのかを自覚できるのです。

心が信じるという実行ができて頭もそれを補佐していくことで、まさにそこが信の行進になり中庸であり、信じる世界で自分の運に従って確かな道を歩んでいるということになるのです。

よくポジティブかネガティブかと気にする前に、自分の心や眼差しが善いことになると信じているか、善いことにするまで諦めないと決心しているか、それを矢印を向けて実践しているときだけが信じているということになるのです。

信が弱い人はすぐに頭でっかちに考えて実行を怠るように思います。それは別に実行どうかではなく、今まさに信じていないからそういう世界に自分がしていると思った方がいいのです。

信じるというのは、誰かを見てや相手を見てなどとすることではなく、自分の人生を丸ごと信じるときの信じているでなければ信じていることにはなりません。日々に起きていることをすべて善いことにするという気持ちを大切にし行動することが何よりも信を伸ばすことにように思います。

天命に委ねながら、日々の人事の実践を尽くしていこうと思います。

自然の観察

景色というものを観察するのには、心にどのような景色が映っているかを観なければなりません。

眼で見るというものと心で観るのは異なり、それは脳科学で言えば交感神経と副交感神経を使い分けているものと同じようなものです。

交感神経は、別名「昼の神経」と呼ばれ、昼間、活動的なときに活躍する神経でこれが働くと、瞳孔は拡大し、心臓の拍動は速くなり、血管は収縮して血圧を上げ、体はエネルギッシュな状態になると言われます。

そして副交感神経は「夜の神経」とも呼ばれ、体を緊張から解きほぐし、休息させるように働く神経で副交感神経が優位になると、瞳孔は収縮し、脈拍はゆっくりとなり、血圧は下降して、体も心も夜の眠りにふさわしい状態になると言われます。

自律神経というものがあり、それはこの2つの神経でうまくバランスをとって生きているとも言えるのです。それが偏ると、自利神経失調症などの病気になってしまうともいいます。

これは人間の身体で起きていることですが、自然も体内も自然であるからそれは考えてみれば当たり前のことなのです。そして自然は昼と夜だけではなく春夏秋冬、男女などもすべてはバランスの中で絶妙に成り立っているのです。

そしてこれは景色にもあてはめられるのです。

例えば、そこに山があり太陽があり、そして光があり、木々や草花があり百花繚乱であることが美しいと感じ、またそこに海があり月があり風があり、空があって波の音があるだけで美しいとも言えるのです。

そしてこの美しいと思う心は、その調和したところに感じているように思います。
美しいとはつまり、色々なものが調和して美しいから美しいのです。

自分の心と体のバランスも、魂や心や体のバランスも、それぞれの機能や器官を偏って使うのではなく、バランスよく使うことで人は美しい感性を磨いていくのかもしれません。

自然の中で何を一番磨けるのかと感じれば、それはバランスなのかもしれません。

常にバランス感覚を磨き続けられるよう、自然を観察していこうと思います。

天地宇宙の羅網

生きものは植物から昆虫に至るまで自然界の天地の間では様々なことが起きています。

日々にお互いに関わりながら生存していくために様々な活動を行います。

朝、太陽が出ては、夕に沈み、夜になり星々が出てきますが、これも宇宙観で行われている営みであろうとも思います。

天地の間の人と書いて、人間であると私は思いますがこれは当たり前のことのようですが実は大変な事実であると思えるからです。

日々の営みが続けられていくことや、その続いていくことが関係しあっていること、ご縁という言い方になるのかもしれませんがそういう同時に行われる出来事の偉大さを感じるのです。

天地の中では小さな出来事も、地球の裏側では大きな出来事になったりします。

情報も同じく、辺境の小さな村での出来事が、地球全土を揺るがす大事件にもなっているのです。そう思えば、天地の間で発生しているカタチというものはつべてが織り合い広がっているもののように捉えることができるのです。

以前、鞍馬寺で「羅網」を見せていただいて説明を受けたことがあります。

よくよく考えれば、羅網のあの世界とはこの地球上の世界ではないかと思うのです。ああいう世界の中に自分たちがいてどのような生き方をし何を象っていくかということですがあれが宇宙の姿であろうとも思うのです。

宇宙とはどうしても目で見えるような認識から入ってしまいますが、本来はこの森羅万象の天地の間そのものの認識があってはじめて理解するものなのかもしれません。

日々の自然を観察しながら、偉大なものも感じていきたいと思います。

 

 

 

情報とコミュニケーション

コミュニケーションの語源をたどると、ラテン語のコミュニカーレ(communicare 共有する)やコムニス(communis 共有の)などが出てきます。

もともと対話などとも訳されますが、本質的には互いに共有することをいうのです。

そしてこの共有とは何を共有するかは、信頼であろうと私は思います。

人は信頼関係を維持するために情報を共有するとも言えます。また逆に情報共有がなければ信頼は積み上がっていくことはありません。ここでの情報とは、表面上の情報だけではなく同時に発生する自分の感情などについても共有していくことではじめて信頼が生まれていくのです。

現代の社会は、自分の感情を交えると叱られるとか、感情を仕事に挟むななどと指導されたため一般的には感情は口にも態度にも出してはいけないといわれる傾向があります。またそのためか意図的に自分から感情を抑制して隠して出さないでいる人もいます。

これもよく勘違いされるのは、ネガティブなことを言わないというのはものの観方を変えるために言われている言葉であり、感情を出してはいけないと言っているわけではありません。もともと現実がどうにもならないのだから弱音や愚痴、文句や批判をしたりしてもどうにもならず、それを、如何に善転していいことにするかを考えなさいといつもアドバイスされているのです。

またその際に感情を抑え込む人がいますが、感情を抑え込むのではなく感情を転じてコントロールする方法を身につけるようにして自分を活かしなさいということを諭されているのです。

一昔前は、日中に仕事で感情を挟まなくても夜になれば飲みにでも行きそこで感情を語り合うことで融和しともに信頼関係を築いていたものです。しかし今は、そういう信頼がなくても結果さえだせばそれでいいと勘違いし信頼関係を築くことを優先しないようなつながり方が楽だと勘違いしてしまっている風潮もあります。

人間は互いに信頼を築くことではじめて協力し合うことができます。

そしてそこに至るには確かな共感というものが必用で、そのためにも情報を互いに共有する必要があるのだと思えるのです。この時の情報は、本来は人間がオープンにいるときの素直な感性や感情をあるがままに共有しようとするものを言うのだと思います。

人は居心地が善いところでオープンになれれば自分の長所や強みを存分に発揮し他の弱みに貢献し自由に助け合うことができます。如何に自らが相手を信頼するかは、自分から頼り信じることができる関係を日々にどう構築していくかによるのです。

人間関係は互いに無理をするところから破たんしていくようにも思います。

何を出しても大丈夫と思えるには互いを推測し合ったり疑心暗鬼になるような関係にならないように本来アウトプットしていかなければならない情報を自分だけで持たないようなことから配慮することのように思います。

共有するということや、共通理解するということは人類生存の鍵です。子ども達にもその大人たちの背中を見せてあげて、確かな生き方を示していきたいと思います。

 

 

美しい思い出

二宮尊徳をはじめ、代表的日本人を世界へ紹介した内村鑑三が遺した言葉がある。

『後世へ遺すべき物は、お金、事業、思想もあるが、誰にでもできる最大遺物とは、勇ましい高尚なる生涯である。』

これは、別の著書で2つの講演を記録した「後世への最大の遺物・デンマルク国の話」の中で語られたものです。

死を思うとき、何を遺せるかと思えばやはりその生き方であると思うのです。

どんなことを為したか、どんなに裕福になって偉業をなしたか、誰がやったか思ったかということでもありません。人はどのような人生であったにせよ、どのように素晴らしい生き方を目指したか、どのように素敵に生きていたかということが、子々孫々へ遺せるものではないかということに思えるのです。

日々に内省し、ものの見方を転じ、かんながらの道を歩んでいくなかで実感するのは先人たちが遺してくださった大切な生き方であろうと感じるからです。孔子もブッダも神話の先祖も、すべてはどのような生き方をしたかということを遺してくださっているのです。

私たちは亡くなったものたちから何をいただいているのでしょうか。
そして今生きているものたちから何をいただいているのでしょうか。

それはこの地球上で息吹く間のこの世でのいのちの在り方、生き方であるのです。

すぐに私欲や私心から、形ばかりを遺そうとしてしまいますが欲や心を清めて澄まし、魂の声に耳を傾ければ、美しい思い出を遺したいという感情が湧いてくるのです。

最後に、内村鑑三はこう続きます。

『われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。』

このいのちは全体につながっている中で巡っているのだから、子ども達に譲っていけるのは何よりも美しく生きたその物語、そしてその人の思い出そのものかもしれません。私たちはそこに確かな希望を得て、よりよく生きることを目指していくことができるからです。

私たちが譲られた美しい思い出を、子ども達にも譲り渡していきたいと思います。

 

心のセンサーと察知の機能

場の感覚というものがある。

いくら頭で推察しても体験に照らしても、百聞は一見に如かずというか、そこに身体を運ぶことで得る感覚というものがある。

自然の中にも等しく、いくら予想や予測をしてもその場で流れている空気や息吹、様子などは感覚で掴んでいくものです。私の場合も、何かの物事を正しく理解しようと思うときはやはり身体をそこに運びます。

そして心を澄まし感覚を確かめているうちに、頭では理解できないものを感じ取っているように思うのです。頭で考えることは、言葉にしていくことで理解していきますが自然の理解は言葉にはならないセンサーのようなもので理解していると思うのです。

雨の感じも、嵐の感じも、そして変化の予兆も、感覚機能が先に察知しているように思います。

そしてこの感覚機能は手のひらにある人、額にある人、背中にある人、丹田にある人など様々ですがこのセンサーを研ぎ澄ましていくことで場の理解もまた深まっていくように思うのです。

心が感じたものを、機能で察知するということがセンサーの特徴のように思います。まずは心というものを身に修めることができてはじめて察知ということができるように感じます。そしてこれは生まれる前から持っているものであることに改めて気づくのです。

私の場合は心から手に伝わり、手から心に伝わるのですが、これも子どもの頃からずっと私のことを傍で見守ってくれている大切な御守りです。

大学にこんな一文があります。

「心不在焉、視而不見、聴而不聞、食而不知其味」(こころ、ここにあらざれば、みれどもみえず、きけどもきこえず、くらえどもそのあじをしらず)

心を常に留めていることで、はじめて様々な機能は動いているということです。

心のセンサーと察知の機能に磨きをかけて、尊いものを発掘し、発展させ、いのちある世の中に貢献するために精進していこうと思います。

 

信頼するということ~心の在り様

先読みと先待ちというものがある。

先読みができるとうのは、将来に何が起きるのかを予想しているということです。ありとあらゆることを想定して、どのようになるのかを見通しているからこそできるものです。

考えられるすべてを想定して心で配慮し、その通りに行おうとするときこの先読み力が問われます。しかしこの先読みは経験や体験の中で気付くことであり、責任感などに裏打ちされて強くまた繊細になっていくようにも思います。会社でもホスピタリティと言っていますが、どれだけの気配りと配慮ができるかでその信頼の絆を深めていくことができるのです。

もう一つ、先待ちというのがあります。

私は直観系でシンクロニシティを感じるタイプなので、きっとこちらの方が強いように思います。

これは将来起きることを事前に知覚しそれを待つというものです。

自分の人生や運命を信頼して、必ず光が当たりお役立ちできる日がくるのを信じて必要な力を醸成し準備を怠らずに待っているということです。これは、信仰心があるからだと思いますが世間は正しい、天は正しい、すべてのことは正しいと素直に信じるからこそ信じているともいえます。

一般的に人は先に確証がなければ動こうとはしないものです。

何かをやろうとすると、計画を出してや結果を見せろなどと、何でも現実に存在しているものを基準に信じるか信じないかと確認してからどうするかを決めているように思います。これも科学で証明されたものしか信じないという用い方をしますが、例えば脳科学でそうなっているから信じられるや、学術的に研究され解明されたから信じるというように、まずは奇跡や真理というものに接するときは疑いの眼差しから入っているのです。

しかし実際の世の中で起きることは、宇宙を丸ごと理解するのと同じようにほとんどがすべて人智を超えていることしかおきておらずそれを信じるかどうかというのはその人の心の在り様によって左右すると思えるのです。

全ての人生、全ての出来事を信じることから入るのか、疑うことから入るのか、それはその人の心の在り様だと思いますが如何に自分から周囲を信頼するか、しないかはとても生涯において人との関係を築く上で何よりも生き方として大切なように思うのです。

実際には人間関係の中にも、相手に対し疑心暗鬼になっていて約束も守ったら信じるというような接し方をしている人が多いように思います。結果を出したらはじめて信じるという具合に、信じる前があり信じられないことが前提で接しているのです。本来はそうではなく、守ろうが守るまいがご縁を信じる、出会いというものを信頼しているということが良好な人間関係を築くことになるのだろうと思えるのです。

人間関係だけではなく、信頼というものはすべてにおいて必要です。

先待ちができるからこそ、理念を掲げて信念を持って優先順位を決めて実践を継続していくことができるのです。なぜなら、将来を信じているから、信頼しているからそれがやれるということなのです。人はすぐに自分の思い通りではないと気が済まないとなんでも自分都合で諦めたり悩んだりするものです。これは単に信頼しようとしないのです、信じるということよりも疑う方が楽だと思っているからです。

しかし本来は、それも一つの通過点、ちゃんと最終的には思った以上のことを用意してくださっていると分かって信頼しているのだからワクワクドキドキと日々を楽しみに過ごしていくことが心を高めていく精進のように思います。そしてその心境があってはじめて先待ちなのです。

先読みも先待ちも、どちらも心の力を使わなければできないものです。

読めないのも待てないのも、それは心で観ようとすることができないからのように思います。
心が安定し穏やかで、心が落ち着いているのも、心で観ようと、心を大切にしているからです。

人間学を学ぶのも、そういった心の鍛錬、心の練磨による穏やかな境地に達するために続けていくのだと私は思います。子ども達にも、信じるということの大切さ、周囲を信頼するということの偉大さを伝承していけるよう実践を深めていきたいと思います。

本物のリーダー

運を伸ばすというのは素直でいるということにはっきりと自明するご縁があった。

昨日、ある組織の幹部研修の中でリーダーについての講義があり、そもそもリーダーとは何かともう一度私も感じてみるとやはりそこには運が善い人であるようにも思えたのです。

人が着いていきたくなる人はやっぱり運をもってそれを伸ばしていける人のように私には思うのです。もちろん、リーダーの人格や人徳、その志や向上心、誠実さやバランス感覚など総合的にリーダーは分析されていたりもします。

しかし一番何にとってリーダーの資質があるかといえば、私にはどうも運が関係しているように思えるのです。

この人といることは運を伸ばすことになるという確信は、言葉にはできませんがはっきりと持っているように思います。そもそも自分というものは、自分の実力を勘違いしているときの方が焦ってしまいキャリアや地位など外側の自分の願望に魅せられるように思います。

若い時は、腰を据えて根をはっていくようなことよりも早く伸びようと伸ばそうと躍起になるばかりで地に足がついていないようなことを繰り返して質を高めることよりも量を追っていたものです。しかしある一定の挫折を経験しそれを深めていく中で質というものに転換され今度は来たものをどれだけ選択してそれをものにするか、意味づけしそれを次に活かすかという枝葉を伸ばしていく時期になるように思うのです。

どこまで伸ばすかというよりも、その根の分だけ上へと伸びていくように思います。この後は、まだ体験が深まっていないのですが花をつけ実がなり種となっていくのだと思います。このめぐりというものを思うとき、やはりそこには運というものがはっきりとあってそれを如何に伸ばしたかというものが大切であるように思うのです。

そしてその運を伸ばすというのは、どれだけ素直になっているかということに尽きるようにも思います。ここでの素直さというものは、どれだけ運が善くなるような生き方をしているかと捉えてもいいようにも思うのです。

言葉にするのは難しいのですが、やはり運の善い人というのはいます。例えば、よく他人のお世話をし誠実で前向き、最期まで遣り遂げ、丹誠を籠めて取り組む、または強く優しい思いやりがあり、ピンチをチャンスに換えて笑顔を絶やさず周囲に信の環を広げていくなど、キリがないですがこのように運に恵まれる生き方を大切にしている人が運が善い人だなと思えるのです。

そう考えてみると、運を伸ばすというのはそういった生きていく上での大切な智慧をものにしていく人のようにも思えるのです。そしてその智慧を使える人というのはやっぱり素直な人、そういう真心の人柄の薫る人物であるようにも思います。

ロシアのバルチック艦隊を破ったかの東郷平八郎の逸話に、なぜ国家の命運を懸けた戦いの海軍の司令官に彼を選んだのかと明治天皇が山本海軍大臣に尋ねると「東郷は運の善い男ですので」と答えたといいます。

日本の命運を懸けたような時、それを導くリーダーの条件は「運が善い」ということなのです。

これは楠木正成などでも深めてみて気づいたのですが、やはり運が善くなるような生き方をしている人だからこそリーダーであるのだと実感した気がしています。真のリーダーとは、このように素直な実践を続け運を伸ばし、「真善美というものを追及していく人物」のように私には思うのです。

私が同行している師を確信する理由はすべてこの運に確信があるからだと実感しました。

人生の中で、このように振り返り省みて自明する機会を得られたことにご縁の不思議さを感じるばかりです。人生は本当に面白いと好奇心に心を遊ばせていたら、一期一会の歓びと幸福観に満たされ自然に偉大で尊い感謝の豊穣の気持ちがこみ上げてきます。

貴重なお時間、貴重な出会いをいただけたこと、この学びに天の真心に感謝しています。
また道を歩みゆく中での運のめぐりを楽しみに学びを実践していきたいと思います。

有難うございました。