未来の逆算

時間というものは今というものを考え方で捉え方が変わってきます。

ある人は今というものは、未来が今になっている今の時間であるとし、またある今は、ただ目先の今というものを今の時間だと思います。

今がゆとりがある人は、常に前者のように未来というものが今だから今努力しようと余裕を持っていますが、後者の人は今の今が時間なのだからいつも過ぎてしまう今のために追われるように焦ってしまうのです。そして後者が余裕を持とうとする場合に無理をして落ち着こうとしても、それでは単に未来を持たないということになってしまうだけだったりするのです。

同じように今を一生懸命といっても、それが未来のためか今のためかで全然違うのです。

仕事でもそうですが、いつも何かに追われてしまうのは過ぎ去ろうとするすぐ今のことにだけ一生懸命なってしまうからなのです。出来る人というのは、未来のためにしか今を使おうとしませんから必然的に未来のために今を活かすのです。

例えば、仕事で言えば、半年後にはこういう結果になるのだから今のうちにそれを準備しておくための今の使い方をするということなのです。よく営業で数字が上がらない人がありますが、これは今の数字を今追ってしまうからなのです。そうではなく、本来は半年後の数字のために今を使う方が確実で、今の時間に未来のための今やることやっていると自然に半年後はその状態になっているのです。

英語や語学なども、いつまでにそれが必用かその目標を設定しそれを逆算してからスケジューリングしてそのために今を活かす、つまりは準備する、余裕とゆとりを持って取り組んでいくということなのです。

目標を設定して、今に取り組むということはこの今は未来のために今の使い方になるのです。それを漠然としたものしかないままに、ただ今を一生懸命に取り組んでいたらどうしてもゆとりや余裕がなくなり準備不足だったといった後悔ばかりをして迷惑をかけてしまうのです。

つまり、今というものに対する自分の在り方を見つめることがまずは大前提なのです。

これはまず思考パターンとしての自分、つい未来をあまり肯定していない自分、目標を設定する勇気のない自分、そういった自分の感情をまず受け容れることが要ります。そしてそれを受け容れたら具体的な訓練としてのスケジューリング、つまりは目標管理を繰り返す中で自分の思考パターンをブレークスルーしていく必要があるのです。

やはりここでも全部ではないですが、今の学校の教育の刷り込みがあるのかもしれません。目標設定をさせずに今だけをやらせて取り組ませるような指導方法が染みつけば、流されるような日々を送らせることにもなるのです。まず未来にどのようなビジョンを設定するか、そしてそれを実現するためにこの今をどのように活かすのか、それが自己管理でもあるのです。

何でもそうですが、未来のために時間を使う人は今に余裕がある人です。

そうやって未来を逆算していくことこそが、今に希望を持つことになっていくのだと思います。目先で何かがあっても、未来から逆算した今はそれが全部学びになり将来への布石になったりもするのです。

常に今は未来の準備だとし、今できることを時間を惜しんで取り組んでいこうと思います。
未来の新商品のために、今を存分に活かしていきます。

置換力

全ての出来事を考えた時、それが自分にとって必然かどうかと思うというものがある。

例えば、他人に起きている問題は他人のことだと思い込んでいる姿勢の人と、他人に起きている問題は自分のことだと思って真摯に受け取るという姿勢の人がいる。

前者は、他人のことなのだからどこか相手のことにしているから相手の問題としてしか考えられずつい出来事なども頭で処理をし目で追ってしまい本質が分からないままに悩んでいたりするものです。しかし後者は、どんな相手の出来事もこれは自分のことではないかと置き換えるから文字通り他人事ではないことだとより自省しつつ真剣に何かのメッセージがあるのではないかと一緒に物事の意味を考えることができるのです。

人の一生は自分と関係のある情報を取捨選択して生きているとも言えます。

この情報を選ぶのも、テレビやニュース、出会った人々、それがどんなに自分が偶然に覚えたことでも実はそれは自分の人生に大変な意味が在ったりするのです。自分のセンスや直観が冴えわたっていれば、すぐにそれが自分の問題を解決するものであることやこの先の将来に関係することであることにハッと気づくことができます。言い換えれば、相手は自分の鏡、向こうからいただける情報はすべて自分へのメッセージであると感じる力があるかどうかということなのです。

そのアンテナでどのように自分への意味を受信して今の瞬間瞬間の決断をし続けるかことが置換力とも言えるのです。

人は意味のない人生など一つもありません。

それはその人が目指しているもの、生まれてきた達したいこと、いのちを活かしたい何かが必ずあり、そしてその役目役割が必然的に存在するからです。人の一生はそれを探しているうちに終えるともいえます。

生きていればどんな情報もそれが自分の役割に繋がっていると思えば、どんなものも必然として一つ一つを自分のことだとするのか、関係がないとして自分以外の誰かのものとするのかでは今までと今、そしてこれからの生き方が変わってしまいます。

共感することも、自他を信じ、活かすことも、これは自分のことだと思えるか。そういう懐や器を養成していくことも、学問の醍醐味であろうと思います。

どんな小さなことも見逃さないよう、日々を振り返り様々な出来事を置き換えていこうと思います。将来の子ども達のためにも、今の自分の身の周りのことに置き換えてひとつひとつ丹誠を籠めて解決していこうと思います。

刷り込みを取り除く

学校での一斉画一化された教育を受けてそのままにしていると、たくさんの刷り込みにあってしまいます。

例えば、自分らしくいることはよくないことであったり、自分が自由にいることが罪悪であったりと、本来の自分というものを自然に理解していくことが難しくなるのです。

そのことから、弱みばかりを注目して弱みばかりを解決しようとしてしまう癖を持ってしまったりしてあまり変わらないけれど努力していればそれでもいいというような非建設的な方法ばかりを選択してしまうこともあるのです。

本来、強みを伸ばすという考え方は自分らしくいるとき、自分が自然で居るときもっとも貢献できるもの、皆に喜んでもらえるものを優先することで伸ばされてきます。

引き出すというのは、誰かによって引き出されるのではなくその人が自然に自由であるとき、つまりは安心して自分らしさを発揮することを喜びに感じているときにこそ出てくるものなのです。

いつも何かを行うときに、主語がどちらかということでその人の刷り込みが観えるのです。

例えば、私たちの仕事でも大人が主語なのか、子どもが主語なのか、発酵技術でも人間が主語なのか菌が主語なのかでも、その人の刷り込みはよくわかるのです。

そして当然、この国では国家が主語であるから個々の人権というのは主語ではありません。

教育は誰のためにあるのかと思うとき、それはやはり本来はその人たちの幸福で豊かな人生のために用意されているはずのものなのです。しかし、それが今の社会システムなどに呑みこまれ、本来の姿から外れてしまっていることに気づかなくなっている人も多いのです。

子どものための施設が、実際は主語は誰のために施設になっているでしょうか。

人間は謙虚でなければ、相手を主語にできません。

自分がやったのだや、自分の力でなど自己満足や自己欲求が優先するのでしょうが本来は感謝や御蔭様、皆様の協力があってと思う方を優先しなければ、結局は刷り込みに巻き込まれるのです。

もっとも刷り込みを取り除く方法は、今の現実が当たり前だと思わないことです。
それは自然のことを当たり前に思わないこと、元々の姿を実感することだと私は思います。

子ども達のためにも、何が本当のことかから外れないような生き方を示していこうと思います。

「理」に生きる

ある時、閃いて「理」という字がどう成り立っているかに気づくことがあった。

もともとこの理という字は、「王」という字と「里」という字が組み合わさっている。
まず王という字は、一が上中下、その天地人の間に真っ直ぐ1が立っている。
そして里という字は、土の上に田が合わさっている。

どちらも、下から上に伸びる一直線で文字ができているのがよくわかる。

そう考えてみると、この理というものは、どれも実践を通じて自らが伸びた証として顕われるものであることがよく分かる。

真理も調理も、原理もすべてこの理というものは本来の自らの生のようにあるものを実践しそこから伸びて醸成されていくようにそれを得ていくという意味になるのであろうと思う。

言葉だけで分からないのは、どれもすべてはやっている中でしか理解しないようにできているからなのです。私の話すこともそうですが、師の話すこともそうですが、すべては実践していく中でそれを継続し積み上げていく中で自然に成長しそれが天地の道理と繋がったときはじめて腹にストンとおちるというように、それが根っこと繋がって実がなるのだと思います。

よくやってもいないのに頭でっかちに分かろうとする人がいたり、知識が豊富でなんとなく真理を分かった気になって、実際の実践を怠りそういうことだろうと素通りする人もいますがそれではこの「理」というものは解さないのだと思います。

常に現場に答えがあるのは、現場はそれをやっているからなのです。
常に頭でっかちの世界が答えがズレているのは、それはただ実践ではないところだからです。

現場というものは、この理に繋がっている場所です。

料理もそうですが、いくら何度も頭で分かっても実際はたくさんのものに出逢い、気づきを繰り返し集積し、本当にその素材そのものの素晴らしさに感動しなければそれも理解することがないように、これもやってからの世界なのです。

やる前から分かった気になろうとするのは、頭で何とかしようといった動かないことが前提になった消極的な行為で生き方にまでは反映されてこないのです。

常に理を悟るためにも、まずは実践する中で自らが気づき学び生長する方を優先していくことだと思います。これからも子ども達の見本足るべく、まずはこの理に生きようと思います。

生態系と居心地

水田の手入れをするために昨日から水を循環させている。

面白いことに環境が変わってくればあっという間にそこの生態系もすぐに入れ替わって、今までいなかった虫たちが発生し、様々な微生物もそこに棲みだしてきています。

似たような生き物たちが一緒に大移動している姿を見ていたら、自分たちの環境に合わせて自分たちから自然に近づいてくるように思います。

これは人間の世界でも同じく、自分に合ったところにその人は移動してそこに住むというのが一番気楽な生き方にもなっているようにも思います。

もともと菌の世界にも、発酵や腐敗とあるようにどの場所の方が居心地がいいかというものがあります。空気を好むものと空気を好まないもの、地上か地中かというようにそれぞれが活躍できる場所があります。

この菌世界もそうですが、自分たちが活躍できるところがまさに居心地の善さになるのです。

自分が何に活躍できるか、自分が何に貢献できるかを思うとき自分の得意分野というのを知る必要があります。自分が何に向いているかということです。これを一般的には職業や場所などを決めて、自分は営業向きだとか自分はスポーツ選手向きだとか、ヨーロッパがいいやアジアがいいなどといろいろと話す人もいますがこれは私の思う向いているかどうかとは違います。

私の思う向いているというものは、自分の存在がまわりを元気にできるとか、自分の存在が周囲の人を穏やかな気持ちにできるとか、自分の存在が周囲を癒せる環境を構成できるとか、「自分の存在そのものが自他に与える影響」のことを言うのです。

つまりは、自分が向いているかどうかは何かをすることではなく、自分の存在がどのように周りの環境に正しく順応しているかということを言うのです。

順応というのは、自分から環境に近づいていくとも言えば、環境が自分に近づいているともいえます。環境の変化に順応できるかということは、自分が環境にあわせて生態系の中に存在しうるということを意味するのです。

これはもともと生命が自他が住みやすい居心地の善い場所を求めているからです。

人も同じく心をオープンに自分自身の善さを周囲に発揮させていけば周囲も自然に自分に合うようにオープンになります。自然界では、もともとオープンなので菌の世界では日和見菌という名でどちらにでも変化できる菌というものが全体の8割を占めています。

今まで発酵していた場所でも、バランス次第であっという間に腐敗していくこともあるのです。

そう考えれば、人間の世界もトータルで観ればうまいこと棲み分けられたものです。
たくさんの水を循環させて居心地を善くし新たな生態系を見守っていきたいと思います。

自然との調和

発酵を学びながら食も楽しむというのは人生の豊かさを増やしていくものです。
今年になってから、自然の学び直しの一環に菌や発酵を身近に観察しています。

生活の中に様々な菌を取り込んでいくことは、如何に調和や協力の中に自分を置いて学んでいくことと似ています。そもそもこの発酵という言葉には、熟すという意味があったり、醸すという言葉にも、環境という意味があります。

人生というところに照らしてみても、トータルで考えれば熟して醸すということが大切なことのように、この菌たちの不思議なミニマムな世界が如何に偉大な境地にまで関係しているのかと感じるとそこに自然の持つ霊妙な調和を感じてしまいます。

菌では腐敗と発酵というものに分かれていますが、人間の社会でも同じように闇と光というように陰陽をはっきりと区別しています。もともと、この定義はとても曖昧でとある国では腐敗したものを食べていたり、ある国では一切食べないというものもあります。

これは人間の好みだけではなく、それをその人たちとの風土や関係性によるのです。

この腐敗と発酵という関係は表裏一体になっています。

例えば、現在実践している自然農では畑には周囲の雑草を刈り緑肥として上にかぶせます。すると次第にその草が腐敗し土壌が発酵をはじめます。すると様々な虫たちがその下で暮らし始めて、さらなる発酵循環を繰り返していくのです。そしてそこには、腐敗もまた発酵であり、発酵もまた腐敗であるのです。

つまりは、この発酵も腐敗も実は同じものであり自然の調和ということになるのです。

私たちは、自然の調和の中で如何にそれを自分たちの生活に取り込むかで自分たちの在り方を常に確認してきたのであろうとも思います。自然から離れれば離れる程に、この発酵や腐敗との世界とは無縁になってきます。

最近の食品では、防腐剤といって腐らせないものを用いまた調和を制御し、イーストなども強引に発酵させるものを用いさらにまた調和を制御します。

天然酵母を育てたりしていく中で感じることは、私たちがどのように自然の調和の中での暮らす安心感を覚えるか、自然の一部であることの豊かさを味わうことを覚えるのです。

腐敗も発酵も自然であり、そしてこれもまたかんながらの道に繋がっている一つです。
私たちが観ていた八百万の神々も、このミニマムの世界に自ら溶け込むことで顕現されます。

私にはとても懐かしく、そして心安らぎ穏やかに感じる瞬間です。
たくさんの天啓をいただき、後からついてくる真実と実感に天命を感じています。

この世界の調和を鑑みながら、とても小さな偉大な神々から学びこんでいこうと思います。

食養調和

ここ数日、発酵を使い料理をしていると様々なことに気づくことがある。

今まで使えないと思っていたものが使えるようになったり、今までアクだと思っていたものが旨みになったり、様々な材料を重ねあわせることで絶妙な甘みが出てきたりと、それは不思議な感覚がある。

もともと私たちが美味しいと思うものは、舌と五感を使って感じているものです。

それぞれに好き嫌いというものがあったとしても、私たちが本当に美味しいと思えるものにはある一定の法則のようなものがあるようにも思います。

それはちょうどバランスが整ったところ、その素材と自分との関係性、全体との調和というようなところにどのように創意工夫して中庸に合わせていくかというものです。

例えば、舌や胃袋、体で味わうものは、それぞれの持ち味を私たちの舌にあわせて引き出します。私たち人間がより食べやすいように取り込みやすいようにと工夫するのです。心で感じるところでは新鮮な旬やいのちをいただくことで私たちはそれを本能で取り入れ、また料理する人や関わる人々の真心や愛情をかけた時間を心で感じているのです。

トータルで考えてみたら、私たちは食物連鎖の中でいのちを成り立たせています。食べる食べられるという関係ではじめて私たちはいのちを繋いでいくことができているのです。当たり前ではありますが、食べるということはそういう自然の当たり前を思い出すことでもあるのです。

身土不二ではないですが、自分の身体がどのように成り立っているのか、自分のいのちがどのような繫がりの中で活かされているのか、目には観えないものを含めて私たちは大いなる循環の中に生きているとも言えるのです。循環から途絶えたところで食べていると、私たちの感覚も鈍ってきてどこに私たちが繋がっているのかが分からなくなったりもしてくるものです。

物が溢れ、繫がりが見えにくい今のような時代にはこのような当たり前の中の本来の自分の姿にあえて気づきを与えるような料理と思想が必要なのかもしれません。

調味料をたくさん加え、美味しく料理するのも必要かもしれませんがもともと私たちの暮らしの中でどのような自然を活かした料理があったか、素材を得て活かしたかというものの一つひとつのプロセスこそが、この当たり前のことに気づかせ、私たちの心身を調和させるものに繋がるのだと思います。

私たちの今の社会は油断をすると、すぐに周りから流入してくる様々な物流にバランスを壊してしまうものです。日々に生きていたら、気づかないところで正しくないことをしてしまって気づいたらまた改善するという日々です。自然を汚すような合成洗剤をはじめ、調味料、食品、その他、様々な人口加工物に溢れてそれが気が付くと身のまわりに迫ってくるからです。

だからこそ、食べるということは全部自分で管理できるものなのだから食べるところから生き方を見直すというのは本当に大切なことだと思います。

私自身、自然食養、自然料理というものも新たに取り入れて学び直していこうと思います。

発酵の本質

昨日から百姓屋敷わらに来て発酵技術についてのセミナーに参加している。

元々天然のはたらきというものがどのように存在しているのか、目には観えないけれど確かに存在する様々ないのちに意識を当てることで、如何にそのはたらきから智慧を授かることができるかが私自身の今年の学びの課題にもなっている。

先人たちが今まで学んで遺してきた智慧には、本当に今の時代に必要なものもある。
そういうものを継承し正しく活かすのも今を生きる私たちの使命ではないかと思います。

昨日は、麹や天然酵母を用いどぶろく作りから甘酒、ヨーグルトや発酵玄米などについてのレクチャーがありました。以前より菌の不思議さは感じていたけれど、それをどのように暮らしに活かすのかについてはまだまだ認識不足もありました。

セミナーを主催する船越先生の話では、まずは技術よりもその前に考え方、いかに「おいしく、楽しく、感謝して」というものがあり、そこに 発酵というものが繋がっていくということを話してくださっているように思いました。

私にも発酵というものを思うとき、「如何に生きものたちの力を引き出し協力するか」というものがあります。先日から取り組んでいる、自然養鶏もまた自然農も、その他の生活の中に取り込む菌のことも、生きているものたち、多様ないのちと共生することの喜びをずっと感じています。

発酵とは、私にとっては「みんなと一緒に協力しあう」ことに他なりません。

協力をしよう、御互いを引き出して貢献しあおうと取り扱う人の考え方や意識が如何に全体のマネージメントに対して影響を与えるのか、そこが大切なのです。

そうすることで、違うもの同士が組み合わさりまったく新しいものを発生させてしまうのです。

よく醸し出していくのも、発酵してブクブクシュワシュワ元気よく活性化していくのも、様々なアクをうまみに転換していけるのも、そこに発酵技術、つまりは協力し合う思想や哲学の技術が活きるのだと私は感じました。

まだまだ残り2日間ありますが、子ども達へ譲れるものを掴んでいきたいと思います。

祈る

祈るというものがある。

これは自分の心が正直に思うことを念じる事である。

素直に自分の心が澄んでいれば、それはいつも祈りの中にあると言っていいと思います。しかし人はすぐに何かの情報を目で追い、頭で処理をするうちに雑念ばかりを優先してしまうものです。

人はすぐに何かがあれば疑いを持ち、何かがあれば不信に思い、そもそもの実践を怠ります。本来、動的にも静的にも祈るというのは、信じるということに他なりません。

素直な自分の心が何を感じているのか、本来の自分は本当はどう思っているのか、そういうものを偽ったりそういうものに何かが覆いかぶされば心は澄んでこなくなるものです。

人は表面上に顕われている姿は、あくまで氷山の一角でありその中には大変奥深い人格というものがあります。赤ちゃんを観ていたら神々しく感じるように、子どもの頃はそれがむき出しに全身から醸し出しているものです。

透き通るような眼も、透き通るような姿もその心もすべては心身一如の姿であるからです。
その素直な状態、正直な真心の顕われに私たちは癒され本当の自分を感化されるのです。

人が本当の自分を見失うのは、何かを追ってしまうからなのです。そしてこの追うという心境は、これは何かの「我」に囚われていることがあるということを意味するのです。それが執着であったり、自分の欲しているものであったりこうでなくてはいけないと頑なに思うものなのです。

理念などは自分の我を正しい方へと向けるためにもそこに自分を合わせていこうとして取り組むことで、こだわりを善い方へと転じることができます。しかしもしも理念に忠実であることを忘れ、自分の我を優先してこだわればそれは偏った執着となってしまうのです。

欲とはどうしても何か手に入れたいと思う方へであり、真心は少しでも譲りたいと思う方であろうと思います。

人生はどれだけのものを手に入れても、どうせ死んでもっていける物はありません。

そう考えればもっとも心が望んでいるものは祈ることではないでしょうか。
祈るのは、信じる事です、信じることは素直な自分でいることなのです。

子どもを丸ごと信じる事ができたかどうかというその子どもは、素直な自分の心にもともといるインナーチャイルドを信じてあげることができたかどうかであり、そしてそのままに子どもに接するように自らが正直に生きることができているかどうかなのです。

つまりは正直なまま自分らしく自然体でいれたかどうかということでもあるのです。
立場が本来の自分ではありませんから、素のままの自分でいられる心を祈りたいと思います。

多くの人たちが多忙になり心を見失っているようにも思います。
自分の身の周りから道の出逢いを大切に、日々に祈りを籠めていこうと思います。

自分に合うということ

何か自分のイメージしているカタチというものがありそれに固執すると柔軟性を失ってしまうというものがある。

例えば「欲を出してここまでは」や「無理をして何とかあそこまで」などと、自分の都合を優先すればするほどに頑固になってしまうものなのです。では逆に手抜きをすればいいということではなく、合わないことに無理強いしないということが大事だと思うのです。

すべてのことがそうですが、自分に何かを合わせていこうとすれば合わないことを苦しみますが、自分から自然に合わせていこうとすれば次第にそれは合っていくのです。

この合うというのはとても大事なことで、最初から無理をしないままの自分でいようとすることと同じ意味であるのです。無理をするというのは、無理やりに何かに合わせようとするのですがこの言葉自体が自分から合わせないと言っているような意味なのです。

今の自分を受け容れるということは決してネガティブなことではありません。それはとてもポジティブであり、素直で正直な元来の自分の現れでもあります。

それは本当の自分を知ることになり、自分の得意なことは何なのか、自分の苦手なことが何なのかが分かるということでもあるからです。

人は自分というものを実はほとんどの人がよく分かっていません。自分がどういう人であるのか、自分が何に向いているのか、大抵はほとんどが自分の思い込みや周りからの思い込みに左右されて本来の自分を分からなくしてしまっているのです。

そしてそういう間違った自己認識を持ったままであるから、合うはずと思っていることでも実際は自分と合わないことをずっとやっていることがほとんどなのです。

本来、社会は広く大きく複雑なのだから別に自分が完璧に一人で何かをする必用はまったくありません。できたらみんな自分が合うところにぴたっと合うことが幸せだと感じているのです。なぜなら人は認められたいと思っているからです。

この認められたいというのは、自分が合うところにいたいということと同じ意味です。そしてそれが居心地の善さというものでもあるのです。自分が居心地が悪いのであれば、どこか無理をして不自然な姿になっているかもしれません。その無理が周囲を遠慮させ、周囲が遠慮することでまた無理を生じるのです。

私たち人間も動物も植物も、自然で考えれば無理のないところにいるのが一番です。一つの理念のもと、みんなが幸せに暮らすというのはそれぞれの持ち味を活かすということでもあるのです。そしてそれを言い換えれば、「自分に合う」ということなのだと私は思います。

無理をしないように自分をいつもオープンにすることや自然体でいることは、居心地の善い関係を構築しているとも言えるのです。自分に合った場所で、世の中のために貢献することはその人の個性を丸ごと活かすことになっていくのです。

自分が幸せであれば周囲は幸せなのです、自分に自信があれば周囲も自信を持つのです。自分自身の存在を如何に丸ごと認めていくかというのは、自分に正直にいるということ、つまりは自分が合っているということなのです。

保育というものの奥深さを最近は特に実感し、保育を合わせていく一体感の歓びと楽しさを心から感じています。