思い込みの罠

人は何かしらの思い込みというものを持っている。

その時代、その時代で、意識の中で記憶したものをそのまま同じだと思ってしまう事であったり、自分の意識に一度刷り込んだイメージがあれば何かを認識するとき常にその思い込みというもので想像を補っているという具合になる。

人の思い込みは、例えば食べものの好き嫌いであっても、ある人はウニが好きだけれどある人は嫌いとある場合は、その対話をするとき過去の何かの記憶やイメージで話をしているということになる。同じウニを食べたわけではないのに好き嫌いというのは思い込みであるかもしれません。そしてもう一つの例では、幸せの定義でも、幸不幸について語り合うとき、同じ幸せか分からないのだから幸せだ不幸だと話したとしても単に思い込みを伝え合っているだけの場合でもあるのです。

御互いが同じ体験を積んでいないのだから、それは分からないということです。

過去のある時代に残った書物を読んでいても、なぜその真意が汲みとれなかったり、その本質を味わえないかといえば、言葉は今の自分の体験からの憶測でしかないからなのです。

同じ体験をすれば成り立つ対話も、同じ体験をしていなければちぐはぐであるのです。
つまりは、御互いが同じものを持っているかを確かめているものが対話ともいうのです。

先生の「一生懸命やりましたか?」という質問に、生徒の「はい、一生懸命やりました。」がありますが、こんなのはおかしな話で、何を持って一生懸命かという前者も後者も同じだけの一生懸命かが具体的に分からなければ本来はまったく対話にならないはずなのです。

この思い込みでそのままスルーするということは、そもそも勘違いをたくさん産んでいるのです。それで話した気になっているのは大きな勘違いで対話になっていないことを意味します。

その人にとっての言葉は憶測で理解できたとしても同じ経験も体験もしていないものを分かったとはいいません。あくまで分かった気になっているということなのです。思い込みあいながら推測と憶測で進めるということはあまり効果がないのです。

やはり物事は理解することよりも大切なのは、実行することです。例えば同じく誰かのお役に立ちたいと一念発起したのであれば、その人と同じ体験を積むことだと私は思います。

それは簡単な言い方にすれば、同じことをやるということなのです。

よく語られる真心や徳というものは、理解している世界にあるものではありません。先人たちの言葉もこれはあくまで、心と形を日々の同時の実践を通して学びあっていくのが本質であろうと思います。

本当に人生は上手くできていると感心することばかりです。頭で分かっていても課題を解決できるわけではなく、文字通りそのものと一心一体になってそのものと同じになる努力が必要です。

大切な人たちと苦しみを分かち合うのも、歓びを分かち合うのも、悲しみを分かち合うのも、楽しみを分かち合うのも、人間であるという同じ体験が必要だからだと私は思います。

日々の小さな実践を増やしつつ、先人たちの道と同じ領域が掴めるよう理屈や思い込みを取り除きながら精進していきたいと思います。

自問自答と本気について

人が何かを行うとき、それが本気かどうかというものを確認することがある。

よく巷では本気といえば、その本気度が人それぞれ違うからと言われるけれどそれはあくまでその人がどれだけ深く自問自答しているかのことをいうだけで本気ということではない。

あまり自分で考えもせず、遣っている人は周囲から見ればあまり本気でやっているとは言わないし見える事もない。よくそういう人が注意されるのも、本気を出せという根性論で考える人もいるけれどそうではなく単に自問自答がまだ足りていないぞと言われているのである。

今までの一般的な学校教育を施されてきた人は、自分で考えるよりも先生の答案を探そうとする人が多い。先生が何か言えば、それの答えを言った人が褒められてきたし、先生が問題を出すのだから答えは先生が持っていることになります。

何か問題が起きれば本質的な人であるほど自問自答から入りますが、教育の刷り込みが深い人たちはそうではなく他問他答から探そうとするのです。

今、組織で起きている問題に自分で考えることができない人が多いというのは、その過去の教育の弊害があるからです。大事なことは、自分の頭で考える事、つまり自問自答して根本や根源、大本まで辿りつけば本気に出会うということを言うのです。

本気でなければ、何も実現しないのは自分が人生の主人公であるからです。
誰かに合わせて生きるような教育を受けてきましたが、本来はそうではなく自分に合わせて生きる事、つまりは自問自答することが人生ともいうのではないかとも私は思います。

そしてそれを学問というものです。

今の巷の学問は、実社会ではほとんど役に立ちません。

論語に、「子曰わく、古(いにしえ)の学者(がくしゃ)は己(おのれ)の為にし、今(いま)の学者は人(ひと)の為にす。」とありますが、つまり自問自答していることが学問でありそうではないものは学問ではないと喝破しているのです。

考えない人に自分がなってしまえば、それだけで自立する社会のお役に立つことができません。人が作業的動作的になる理由は、それは考えているようで考えていないことになってしまっています。なぜなら他問他問になっているからです。

作業的、動作的の反対は、本質的や根本的にとなりますがそれは自問自答かどうかによるのです。

実社会では答えなどない問いを求め続けることが求められます、なぜなら人が生きるということは、日々の生活を通した中で自分をより善く生きるということに他ならないからです。

これからも本気のままに、自分らしい人生を自問自答に楽しんでいきたいと思います。

いのちの時間

自然の生き物には胎内時間というものがあるようにも思う。

規則正しく、季節にも時間にも日にもあわせてそのタイミングを外さずに繰り返そうとする。
自然の流れにあわせて、そのものと一体になってすすんでいる。

身近な動物も、虫たちも、花々もみんな、それぞれの胎内時間を共有して共生します。その時間は人間の定めた規則正しい生活とは別の、本来の自然時間というものにあわせて生きているようにも思います。

春が来れば、芽を出すものもあり、夏にも、秋にも冬にもそれはあります。また陽が昇る前に動き出すものもいれば、雨を避けてじっとしているものもある、風にあわせて飛ぶものもあれば、暗くなってから蠢くものもあるのです。

それぞれにいのちの華が咲くように、いのちの時間を謳歌しています。

いのちはこの一つの時間、この悠久の自然の流れを共有し受け容れることで成り立ちます。
スローであるとは、本来の時間の事をいうのだろうと私は定義します。

自然というものに近づくということは、色々な知識を学び直し減らしていくようなものです。

それは人間を中心とした世界で当たり前として捉えていた自然という当たり前ということが、本来、もともとどうであったかを正式に学び直すことで、それが如何に本来のものではなかったかと人はもう一度自覚し、それをどうあらねばならないのかと未来への持続可能な社会を維持するために天道から学び直し人道を引き直すのが私の言う「自然をお手本」になのです。

今年の大きなテーマに、自然からの学び直しがあります。

そしていのちの時間は、唯一無二であり安心立命、無為自然です。

子ども達の未来のために、どのような生き方が、働き方が本来の人としての道なのか。
混沌とした社会の中で遭って、どうしても欲や情に焦ってしまいます。

日々に不動の真心を修練していこうと思います。

 

自分に正直

先日、幼児期の子どもたちが心の表現が複雑な様子を見て深く感じ入ることありました。

子どもは言葉をあまり持たないけれど、心をそのままにさらけ出すことができています。それが多少はありますが大人になると様々なことをコントロールすることを覚えて、言葉を使ったり、表情を使ったり、周囲の空気を読みつつも場面場面で使い分けたりすることを教えられていきそれができるようになります。

そうやって我慢を身に着けることで、感情を避けてどうにかしなければと思うようになったり、無理をしてしまい素直になれなくなったり、何かの出来事を理屈で処理をしいつまでも消化できず辛い思いをしている人たちもたくさんいます。

思ったことを思った通りに表現するというのは、自分の感情と心を偽らないことでもあります。
心で思ったことと感情が一体になっていれば、いつも自分に正直にいられるからです。

もともとこの感情と心の間には、言葉というものがあります。

人間は、何か物事を考えるときすべてに言葉にします。このブログもそうですが、周囲にわかるようにと言語化したのですがそのことで自分のことが分からなくなったとも言えるのです。

もともと人間そのものを理解したり、いのちそのものの本体を理解するには、渾然一体となっている言語化される前の自然を感じることができなければ不可能です。

物事や一つのことを分けて考えるということで、分析する力や科学する力は身に着いたかもしれません。社会を構成するには、そういう力が必要だったのかもしれません。しかしそのことだけにあまりにも偏り、心や感情の世界と分離してしまえば、それ以前にあったカタチのないものや、繋がっている天地自然の道理などから離れてバランスを崩してしまっているともいえるのです。

しかし、時代が変わってももともとの生まれたての子ども達をみていたら、赤ちゃんも幼児もまだ感情と心が分かれてしまうまえの姿を実感することができます。泣いたり笑ったり、怒ったりいじけたり、それだけではなく、許したり、愛したり、感謝したり、謝ったりと自然にできている姿に感動しつつ学ぶところばかりです。

心と感情があるのだから割り切れないことばかりなのがこの世の中なのです。

自然に感情がだせて、自然に心がオープンになっているというのは、自分に正直でいるということでもあるのです。数々の自分に引っかかっている言葉の壁、刷り込みの壁を取り除き、子ども達のように複雑に割り切れないものをそのままに自分に正直に過ごしていけるような充実した日々を謳歌していきたいと感じました。

子どもたちが安心してもともとの姿でいられるように、見守るの実践を広げていこうと思います。

ソーシャルビジネス

昨年、バグラディッシュでグラミン銀行を設立して世界の貧困撲滅の実践を行うムハマド・ユヌス氏の講演を拝聴した。

二宮尊徳を学び実践する中で、今の時代にも同じ観点でビジネスに取り組む人がいるのだと理想と憧れとともに話を伺った記憶が今でも鮮明に残っている。

もともとこのユヌス氏の思想である「現在の資本主義が、人間について利益の最大化のみを目指す一次元的な存在であると見なしているとする。これに対して人間は多元的な存在であり、ビジネスは利益の最大化のみを目的とするわけではない」とある部分に私はとても共感している。

そもそもビジネスという意味の定義が今の時代は資本主義の中だけで、株主を中心にした会社としてのみ捉えられ本質としてのビジネスの在り方を問い直されてはいないままになっている。わが国では、渋沢栄一や二宮尊徳、近江商人など、もともと三方よしの考え方を根底に持ってビジネスというものを定義している。

かつて存在したビジネスは道徳の経済の一致や、売って喜び買って喜びみんな喜ぶという、そもそも何のために商売をするのか、経済をするのか、道徳があるのかという根本から捉えているからビジネスという元々の意味はその資本主義で定義されている今の時代のビジネスとは一線を画すのです。

先日の講演の中でも、東北の大震災の復興でユヌス氏が提案したのが「生活保護で補助し援助するのではなく、文化事業などを掘り起こししっかりとした持続可能な会社をたくさんつくり世界へと発信することだ」とありましたが私もとても納得できました。必要なのは、一方的な援助ではなく、共に生きていくための持続可能なビジネスにしていくことだと私も思います。

補助金の業界で一度でも仕事をすれば、すぐに何が間違っているのかは気づけるからです。
最初は補助が必要でも、すぐに自力で自立できるようにしないと時間が経ち当初の目的を忘れて次第に持続しない社会へとそれらを運んでしまうからです。

生きる支援というのは、自立支援というのは、生きていくための方法や、生きている意味や価値を感じられるソーシャルビジネスを共に行うことで成り立つのです。震災後、一年経って見て、現実に起きている問題を直視すれば国家の支援の官僚的な采配が如何に矛盾しているかを改めて実感します。

そもそもソーシャルビジネス、社会起業といったものは、新しい物ではなくそれが本来のビジネスの在り方そのものであったのです。昔からビジネスというものは、社会をより善くしていくために持続可能なやり方で取り組むということからお金という手段を使い成り立たせてきたのです。

今は職業が分断化され、福祉の会社、奉仕の会社、経済の会社などと分けていますがその分け方自体がおかしなことなのです。それを勝手にわけたのは、分類上、上から都合で分けただけで現場では分かれてなくただソーシャルビジネスというだけであるのです。

社会に自分を役立てたいと人はまず志を立てます、そしてその志を貫くための手段を考えます、そしてそれを持続可能にするためにあらゆる技術を使って具現化していきます。カタチにするには、ソーシャルビジネスとして理想を実現するための至高の経営技術が求められるのです、それは決してチャリティやボランティアと同じように語れないのです、今の仕事のむずかしさからこれを実現するには真の実力が必要だということを感じない日はありません。

本来、いろいろな会社があっていいとは思いますが私が目指している経済と道徳の一致の理想の会社は教育界や保育界には必ず求められる社会企業でなくてはならないと思います。何をもって持続可能とするか、子ども達のいる現場なのだから大きく捉えて自然であるということにこだわることなのです。

世界では同じようなことに目覚めている人たちはたくさんいます、そして結果をちゃんと出しているのです。目を開いて、人が棲まう社会全体の中で自らを正しく理解し、この道中を楽しんでいこうと思います。

夢とは何か

昨日、小学校の卒業式に参加しました。

何より教育を通じてそこで学んだこと、そこで出逢ったこと、友達、先生、関係者、そして教室も運動場も、体育館も廊下もトイレも、また校歌や朗読、等々まで子ども達もそこで確かな生きる意味を共に生を育んでくれたことに感謝の気持ちがこみ上げてきます。

節目にそういう機会に触れることができて有難い体験になりました。

校長先生からは夢を持ちなさい、夢なきものに目標なし・・などの話があり、子どもたちが夢を画用紙に書いて提出していたのを壇上でひとつひとつ感想を述べていました。

昔と比べて、そうやって子ども一人一人の夢を卒業証書を手渡すときに感想を伝えるという風に変わったのかと前より丁寧になった部分も視て考えることにもなりました。理由もいろいろとあるのでしょうが、少子化で可能になったこともあるのだと思います。

その話の中で、夢を持つことについて私は自分の人生体験で気づいたことがあります。

子ども達の夢を聴いていたら何かの職業になることのように語れます、それはサッカー選手や野球選手、デザイナーであったりとか職業を言いますがそれは夢ではなく手段の一つであるのです。

子ども達をじっと見ていたら、何をやりたがっているかを感じればそこに確かな夢があることに気づきます。だから私は夢なきものに目標なしの言葉にはどうしても共感できず、夢はもともとすべての人に必ず備わっているから出会えればいいと思うのです。

私の場合は子どもの頃から夢を持とうとしてずっと何十年も持てずに苦しんだからこそ、夢はもともと持つものではなかったこと、夢はもともとあったことにこの歳になってはじめて気づくことができたのです。

それはまるで人が無意識にでも呼吸をするように、心臓を動かすように、その他、数々の生理現象と同じようなものが夢であり、止めようとしてもそれは自分の力では止められないのです。

私にとっての夢とはそのようなものだと思っています。

子ども達にも、「夢はもともと持っているのだからいつか必ず出会うよ、気づければね。」と話をしています。

別に焦る必要もなく、急ぐ必要もなく、自分を信じてやりたいことをやって夢のプロセスである日々の新しい出会いを最幸に楽しめばいいのだと思います。

子ども達とは夢と希望です。

今の社会をよりよくして、これから先の子ども達のためにも道筋を創っておきたいと思います。

 

気持ちの持ち様

昔から「あなたはやればできる」という言葉がある。

よく色々な人たちから、あなたはやればできる人だからと言われている人は多いと思う。
身近でもやればできるのにと残念がられる人たちもたくさんいるし、自分の中でもやればできるはずだと言い聞かせて頑張っている人たちもたくさんいる。

このやればできるという言葉の本質は何であろうか考えてみた。

そもそも人はできるかできないかの境界線はどこかといえば、その人のやる気の問題になる。
やればできるという言葉は、その言葉の前に必ず「やる気になれば」というものが隠れている。

それに気づかずに、なぜか自分はできるはずなのにできないと悩んでいても解決はしないのです。この「気」というものは、目には見えないもので気は「纏う(まとう)」とも表現されるように、一般的にはオーラとかエネルギーとか言えるものです。出来る人と言われる人は、できるかできないかのところで悩むよりも、自分が纏う気、オーラやエネルギーというものを大切にしているのです。

もともと「やる気」というものは、意欲ともいい、それをやろうと決めることでそれを持続させることをやる気があると言えると思います。このやる気というのは、まずやろうと決める事、そしてやろうとしたことを継続すること、やり遂げるまで諦めないことという3つのことができていることをいいます。

つまり、やる気とは、この3つを行えることをいうのです。やる気を引き出すというのは、この3つのことをできるようにすればいいのです。よく勘違いしていつもやればできるはずなのにできないと嘆く人は、この3つ気のコントロールのどこかに躓いているのです。

自分のやる気をどう引き出すかは、人それぞれに異なります。それを学ぶことをまずどうやったらできるかばかりを悩む前に自分の本当の気持ちがどうか、またその持ち様をいつもメンテナンスしておくことだと思います。

人は何でもまずは「やる気」の問題だということが、やればできるの本質であろうと思います。
「やる気満々!!」そういう人の周りには次第に楽しく元気な雰囲気ができていきます。

まずはやる気を育てていくために、自分のやる「気」や本「気」といった『「気」持ちの持ち様』を大切にしていきたいと思います。

他問他問の罠

人は誰かと対話をするとき、話をする人、話を聴く人というどちらかになる。
そして出会いというものは、その一瞬の邂逅で最適な質問ができるかどうかによる。

私の場合も、この人に会いたいと思ってからすぐに出会える場合と、すぐに出会えない場合がある。それはタイミングがあり、今ではないと思うときには会いたくても会えないと思っているから難しい。

この今ではないというのは、質問できる状態ではないということに近いものがある。
会いたいと思えば思うほどに、自問自答し、何を質問するかを真剣に考える。

それは師との面談でもそうだし、自然との対話でもそう、自分というものの対話でもちゃんと準備をして話ができる土俵に上がっているかどうかを吟味するから慎重になるのです。

大切な人に大切なことを教わる時、それは「永い時間温めた」という言い方をします。

企画書でも、永い時間温めたものや、言葉も自分が永い時間かけて温めたかというのが一瞬や一言で言い表せるのです。だから、実力がある人への質問や一般的には経営者への質問というのは自分が思いついたことを話してはいけないのです。

思い付きやその場での対応というものは、決して自問したものではありません。
上司の出し直しなさいは、考え直して出しなさいという意味で、これは自問してきなさいです。

言われたから反応しただけだったり、それは相手発信だからあわせただけで動作的なものが多いのです。例えば、「それを取ってくれる?であったり、あれをこっちに持ってきてくれる」というだけであるのです。しかし、もしも準備して臨んでいれば、相手から何かを言われる前に「これですねや、それはもう済んでいます」というように心地よく相手に対話をあわせていくことができます。

つまりコミュニケーションとは何かといえば、 相手のことを先に配慮し自分から寄り添い相手の問題を自分が解決することになっているかということでもあるのです。特に、仕事に情熱を傾けられる人は相手の問題を自分の問題以上に真摯に取り組むから一心不乱に取り組めるのです。だからそうしているうちに、仕事が上達するのです。

働き方として、そういう風に生きている人たちは成功します。自分の問題もやっていますがそれ以上に他人の問題解決に余念がないからです、協力する姿勢、お役に立とうとする姿勢が生き方としてできているのでその人は周りにいつも必要とされまた上達する好循環にのるのです。

そしてそれを具体的に実現するには、まず質問する力があるかどうかによります。
これは私の言葉の定義では、ちゃんと事前に自問してきたかということなのです。

言われたことをやるのは自問ではなく、他問ですし、自答ではなく、他答です。
他問他答していたら、一向に質問する力も、そして正しく答えを導ける力もつきません。

仕事で楽をおぼえてしまうのというのは、この他問他問の怠慢の罠に嵌っていますよとも言えるのです。だから私はそれを「わかった気になってはならない」と、その都度、その場で繰り返し自戒して、その自分で考えず答えに縋るような罠に嵌らないようにと習慣づけを行っているのです。

人と協力して何かを行うというのは、この力は何よりも鍵を握るのです。
そしてそれがビジネスでは何よりも大切な仕事の技術になるのだと私は思います。

いくら見栄えのよい企画書があってもダメですし、いくら話が上手な人でもそれではダメです、本質は質問してきたかということに尽きるのです。

自問自答を続けることは、学ぶことだと思います。
大切にしていきたいと思います。

癖

癖というものがある、この癖は意外と重要視されていないけれどその人の人生において大きく影響を与えるものである。

「なくて七癖」という諺にもある通り、癖がないと見える人でもよく見たら七つくらいは癖があるものであるという意味になる。

辞書でこの癖の意味を調べてみると、 1 かたよった嗜好または習慣。 2 いつもそうであること。ならい。ならわし。 3 欠点。非難すべきこと。 4 ある状態になって、もとに戻しにくくなること。5 そういう傾向になること。「怠け癖がつく」 (広辞苑)とある。

何かをやろうとするときどうしても邪魔をし、障害になるのは今まで身についた自分の癖であることが多いのです。以前、どのような生き方をしてきたか、過ごし方をしてきたかを思えば、長い時間をかけて間違ったことをしていたり、長い期間をかけて楽なやり方を身に着けたりして一度、その方法を自分の方法だと身に着くとそれをもとに戻すのが難しくなるのです。

例えば、食生活でも同じく食べたいものばかりを食べて偏食していた人が粗食に戻そうとしてもつい何度も外食を繰り返してしまい元の生活には戻れません。仕事でも同じく、一度自分の楽な方法を覚えてしまったら元のカタチに戻すことができません、例えば営業でも一度楽をして結果を出せる方法が身に着いたら、地道に丁寧に積み上げていくような営業のやり方に戻すというのはなかなかできないのです。

つまりは人間は習慣の生き物であるのです。

善い習慣も悪しき習慣も、その人の過ごし方などに出てくるのです。
そしてそれは無意識に行われるから自分の癖に気づけないということになるのです。

人は生き方を変えると決心するとき、まずその癖を見切り、その癖から修正していく必要があります。知らないうちについた癖であれば、まず自分の癖が分かりません。それにその癖を修正するには新しい癖をつけ直すしかないのです。

セルフマネージメントをするにも、コーチングが必要になります。
特に、誰にも言ってもらえないくらい偏屈に頑固になったらもう癖の塊になります。

言われた時にすぐに改善できるかというのは長い時間で大きな差になるはずです。
自らの癖に気づき、自ら癖を指摘していただき、自ら新しい癖をつけていくこと。

学問を通して、さらなる技術を学んでいこうと思います。

話の土俵

何かの話を進めるときに、いくら話をしても土俵に乗らないと感じることがある。

例えば、話を聴くというのは心と耳と一緒に行うものであるから見た目だけ聞いているように振る舞っていても心から聴こうと自分からしていなければそれは話ができる土俵とは言わないのです。

話を聴くというのは、自分の言いたいことをわかってもらおうとするのではなく相手のことを通して自分のことを分かろうとするのが本質であるのです。自分のことを知るという行為とは、自分が何を間違っているかを指摘していただいたり、自分が何を修正すべきかを教えていただこうとする心の態度がまず大前提であるのです。

これを変えようとはせずに、いくら話を何時間、何十時間、何百時間したとしても意味がないのは話の土俵に乗らないからです。

話の土俵に乗れない理由はいくつかありますが、一つは頑固に今の自分を変えたくないというものがあります。それは自分が今、苦しんでいること、悩んでいることを分かってほしからそれを伝えたい、言いたい、分からせたいという自分の言いたいことばかりに意識が集中し、相手がそのときどんな気持ちか、相手は何を感じて話をしてくださっているか、そういう余裕を持とうとしない、いや余裕がないという言い訳を持ち言い換えれば自分の思いを満たす方が先で相手に共感することをしようとしないのです。

その理由はいくつかあると思います。

過去のトラウマであったり、自分の先入観や思い込みで在ったり、欲望であったり、自己中心的な性格があったり、ほとんどが人間関係からの隔絶ですが、そこから自分にとって居心地の善い場所へと引き籠るようになってしまえば、相手のことよりも自分のこと、自分から見て相手がどう見えるかしか関心がなくなってしまうのです。言い換えれば、相手の反応ばかりを見る人になってしまい何よりも大切に相手に共感することをしなくなる癖を持ち道理から外れてしまうのです。

これも「刷り込み」というもので、こういう迷いの元凶となるものを取り除くことができなければ同じく話の土俵に乗ることはないのです。過去のそういう刷り込みにいつまでも糸が引っかかりほつれていては進まないのです。だからこそ自分以外に自分を大切に考えてくださっている真心の方の注意や忠告は、まず相手に自分の心をすべて開いて本心から素直に耳を傾けて受け容れる状態になっているかどうかが重要なのです。

しかしそれは残念なことに相手にやってもらおうと期待して依存しても難しく、すべてにおいて自らでなければなりません、つまり自ら心の扉を自力で開けるかどうかなのです。

古今東西、昔からそのきっかけはつくれても、扉を開けるかといえば心なのだから本人でないとできないのです。心理学を学んだ覚者であってもその人はきっかけしかつくれないのです。

きっかけは自分次第でどうにでもなるのですが、他人の親切を誤解してしまっていたり、他人の好意に悪意を感じていたりする人ではやはり話の土俵には乗りません。そんな状態ではまず他人を丸ごと受け容れる事や、自分から裸になることなど、意味も全く気づくことも理解もできないと思います。

相手を思いやる気持ちがあってもどうにもならないやるせなさは日々に募るばかりです。
さらに研究し、どうしたら真心の技術を磨けるか、この悔しさとともに敵討ちしたいと思います。