閃きの扉

思っていることと行動に移すところの間には、そこに信じるかどうかというものがある。

一見、考えてから行動しているように感じていることも考えると同時に信じているか、そして信じているから行動しているかといえば、ここの一瞬の交錯の間には自分の判断への信頼や自分との心と感情の対話の調和なども関係しているように思う。

例えば、意志の力で何かを乗り越えるといっても正直な自分の心と、素直な感情が対話をしその上で本心と本音といった声をあわせて納得していなければ瞬間瞬間の行為にブレが生まれてしまうものです。

その一瞬のブレがタイミングを外してしまったり、後で悔いたりすることがあるのです。

人は思ったときにすぐ行動できるようになるには、自分の感情や脳が多少嫌がっていたとしても心の方が赴く方へと駒を進めるというオープンな自分というものを持っていることが大切であろうと思います。そういうものは、やっぱり何度も繰り返しチャレンジし、やっぱり遣って善かったと思える体験を沢山積み上げているからできるようになるのだと思います。

この判断や決断というのは、いつも真心で生きる実践ができていたり、いつも自分というものを自己管理できるようになっているからできるようになるのだと思います。

人は思っていても、考え過ぎてしまっているうちに最初の閃きを濁してしまうものです。
しかしこの閃きのままに信じるには、好奇心や遊び心が必要です。
そしてそれは周囲への信頼、または自分自身が素直であることが大前提であるのです。

不思議ですが、必要なことはその場にその身体を置いて心を澄ませば観えてきます。
そういう日々の閃きの扉を開く実践を楽しむことが人生の醍醐味であろうとも実感します。

よく分からないことをよく分からないままに過ごすのは矛盾だらけですが、微細なヒントを明日への希望へ換えて更なる一歩へと歩みを強く踏み締めていきたいと思います。

人生のテーマ

人生を学ぶというのは、自分と向き合うともいってもいい。

本来の自分の人生を本気で生きよう、生き方や働き方を本気で決めようと思えば思うほどに真剣に悩むことは増えていくのだと思います。本気で生きるからこそ、本気で悩むことになるのだと思います。悩みがないのは、本気で向き合おうとしないからというものもあります。もちろん、人生と向き合っているからこそ悩まないというのと、向き合わないから悩みがないのとではまったく生き方が異なることはすぐに分かります。

時の流れの中に生きている私たちだからこそ、本気で流れるのと、ただ流されているのとでは意味が違うのです。私は何歳になっても、どんな状況下にあっても、この自らの生き方というものをどれだけ真剣に向き合うかというのは人生のテーマそのものであるのだろうと思います。

論語に、「子日わく、憤せずんば啓せず、非せずんば発せず。一隅を挙げて、三隅を以て反らざれば、則ち復たせざるなり。」というものがあります。

ここから「啓発」という言葉が生まれました、あの橋本左内の啓発録の啓発も、同じくこの文字から取ったものです。意訳すれば、「師はこう仰いました、自噴してどうにかするぞと思い、何がなんでも自分が解明するのだと自発もしないようである人には何も教え導くことはできはしない。例えれば、四隅の一隅だけ教えたらあとの三隅は自分自身で掘り下げ学び掴み取るような人でなければ、結局は何一つものにしていくことなどできないからだ」と。

つまりは、全部教えてもらわないといけないような人では学ぶことはできていないし教えることなどそもそもできないのだということであろうとも思います。

今の時代は、学校でもそうですが全部教えてもらわないと意味を理解しない人が増えています。もちろん伝える側の問題もあるのだと思います、私も自分の言葉が本当に伝えるものになっているか真心で発しているか、相手を思いやったものになっているのかを省みると本当に未熟であることを恥じる事ばかりです。

しかし同時に、同じく師の言葉や誰かの意見に対してどれくらいその意味を自分で解決しようとしているかと思えば、まだまだ他人事のように聞いてしまっている自分もいるのです。

常にテーマを持って生きるには、問題意識や危機感を持って自分自身を育てていく必要があるように思います。それは、自己啓発していくということであり、この啓発とは何が何でも自分でどうにかするのだという潔く禊をし、自然の前に独りで立つような心構えが必要なのです。

すぐに誰かに頼ろうとするのは、まだまだ啓発が足りないともいえるのです。自分の中にそういう甘えを断つことができれば、それが皆で協力してチームでやっていくことになるのです。チームの中にそういう自己テーマを持たないで船旅に参加するというのはとても危険なことです。

子ども達が健やかで幸せな自己実現への道しるべになるように。それぞれの人生の大テーマや大ミッションなどと真摯に正対して人生のテーマを味わっていきたいと思います。

 

 

お手本

自然から離れて都会の人間が主になっている世界に住んでいると、自然から遠ざかる感覚がはっきりしてくる。

例えば、田舎の土や川、その他の山々にいれば獣の様子や植物の様子、またその周辺で自然と寄り添って生きている人々の息づかいを感じられ、そのことから春の気配や、気候など自然の流れや存在を身近に感じることができます。

しかし都会だと、そういうものはほとんどなく無機質に同じことを繰り返しながら周りの人を見ては日々の繰り返しの中であっという間に雑踏や喧騒にのまれてしまいます。

その自然と人間を行き来する中で、自然を感じながら人間の身近にいて、人間を感じながら自然の身近にいることはとてもこれから大切になっていくのだろうと思います。

私たちは錯覚しますが、何でも人間の都合よくいくことはないのです。
そしてもう一つ錯覚しているのは、何でも自然の通りでもないのです。

このバランスを如何に保ち、この世界に生きていくのかを思うとき、生きる力は一体何であるのかを思うのです。子ども達は、自由にこの世の中で生きていくのに何を先生にすればいいかをすべて知っているように私は思うのです。

例えば、親からは絶対的な愛を感じるように、自然からは絶対的な慈しみを感じます。
そしてまた親からは寛容ということを学び、自然からは受容というものを学びます。

常に私たちは、何をお手本にしているのかははっきりしているのです。

それを知識豊富な文明人は、さも科学的に証明されているかのようなねつ造された原理を真理に挿げ替えて本質でいることができないようにし、子ども達の本来の生きる力を奪っているようにも感じるのです。

子どもを自然にさせておくとは、決して放任することではありません。
子どもは自然に育つのです。

その自然と一体になっている人間が、正しく子ども達を見守る環境を用意してあげることができるかはこの先の子ども達の世界を譲っていくことになるのです。

今は私も都市化された中で、様々なものを学びながらかんながらといった自然を観ています。
今年も、自然に習い真心の種を蒔いていきたいと思います。

 

願を立てる

仁義礼智というものがあり、これを二宮尊徳は家を建てることで例えている。

「それ仁義礼智を家に譬ふれば、仁は棟(むなぎ)、義は梁(はり)也。礼は柱也、智は土台也。されば家の講釈をするには、棟、梁、柱、土台と云うもよし。家を作るには、先ず土台を据え柱を立て梁を組んで棟を上るが如く、講釈のみ為すには、仁義礼智と云うべし。之を行ふには、智礼義仁と次第して、先ず智を磨き礼を行ひ義を蹈み仁に進むべし。故に大学には、智を致すを初歩と為り」

これは仕事中居眠りをしてしまったりする他人に対して、まず願を立てることを説き、そのあとにどうすればそういう愚かなことをしなくてもすむのか、その方法について語ったものです。

意訳すれば、仁義礼智の順番でそれを身に着けるのではなく実際は智礼義仁の順番でそういう愚かなことをしなくなるのだと説いています。

家を建てるのを自分が自立することとかけています、その上でまず土台とは智慧を磨くこと、仕事で言えば細かいけれど必要な能力を身に着けること。書類作成から、確認、報連相、企画書、仕事のやり方などがそれになります。その次には、礼といいマナーや挨拶を含め、TPO含め、その口調や態度、そういうものを身に着けます。次には、義という理念や理想を実現するために正しいことがやれるよう本質を見抜く力などを身に着け、最後に思いやりや真心で日々を慎みながら実践していくということをやるといいといいます。

これは私はとても大切なことだと思います。

如何に、真心や大義を教えようとしてもその土台である智という仕事のやり方を身に着けていない人にいくらいってもすぐに愚かな失敗をして結果的には身に着けようとしなくなってしまいます。または、礼儀やマナーがなっていなければいくら真心や大義を語っていてもとても残念な姿をみせることで周囲を失望させてしまいます。

まず仕事の仕方ややり方ということがプロフェッショナルになってもいないのに、真心や大義などを教えてもそれを十分に理解することができないでいるのです。これは別に比較対象で言っている意味ではなく、そういう仁義礼智が丸ごと備わっていることが大切なのだということを言っているのだと思います。

すぐに人は、真心さえやっていればと仕事の仕方を磨くのを怠る人がいます。または大義さえあればとマナーに疎いひとがいます、もしくは仕事もマナーもある程度理解があるのに、心をこめることのない作業ばかりになっている人もいます。

このどれかが具わっていないから、愚かなことが起きてしまうとも言えるのです。まず自分を磨くということがどういうことかということを二宮尊徳は説いていて、そしてその手順としてはどこからやればいいかということを諭してくれています。

本質から考えれば、欲を立てるのではなく願を立てるのだからこそ上記に気づけるのであろうと思います。願を立てるとは、今の時代では目標を立てることなのかもしれません。まだまだ学び直していこうと思います。

偽楽と真楽

楽には二つの理解があると私は思う。

例えば、一つは安逸に安楽に目先の娯楽といった一瞬の快楽など、そういう欲にかられたものを「頭で考えている楽」であるとし、もう一つは、安住、安心といった全体を思いやり素直になっているとき心が命を全うして学び人生の充実さを味わっているような「心で感じている楽」であるとした。

先述した楽とは、如何に心を使わないでその楽がすぐに手に入るのかを考える事で必死になり努力した風の自分に酔っているだけで結局は何もしていないことが多く、単に一番やらないといけないことから怠けることばかりを考えて偽楽に負けてしまっている場合がある。

しかし、後述した楽では如何に頭で考えずに真心を使って行動するかを実践し、日々に気づき精進することで丹誠籠めた日常から自律・自戒しつつ人生の妙味を味わっているのだから楽に勝っている真楽ということになる。

偽楽と真楽ではないけれど、偽楽はすぐに消えてしまうような目先の一瞬の快楽に身をいつもおくのだからいつまでも身辺から不安が消えず情緒不安定になるのであろうと思います。しかし真楽は本心から自分が本来の天から命じられた特性を活かしているのだからどんな境遇や状況にあっても心は融通無碍に自由に安心しているのであろうと思います。

この身体を目先の安逸な日常に置いてしまうことは偽楽を選択したことでありそれでは学を楽しむことなどできないのであろうと思います。それとは異なり、この身体を丸ごと真心で日常に置くときこそ真楽を選択し学は自然に楽しみに変わっていくのであろうとも思います。

単に知識を得るようなものをいくら積んでも、心は安んじることはないのは平常心がどうなっているかを自問自答すれば理解していくことができます。

一つ一つの体験の意味を深く掴み取りその気づきを積み上げていくことではじめて心は安住の場で全てを受容することができ、竟には穏やかにいることができるのだろうと思います。

自らの立ち位置が楽に克って楽に住むではないですが同じ楽でもどこに住むのかで人生の道程は大きく変わっていくのだと思います。

子ども達の道のためにも、人生を、日々の出来事を、そして心の実践を楽しみたいと思います。

学問の本懐

日々の自修自謙は難しく、どうしても目先の問題に近視眼的になり右往左往してしまうものであろうとも思います。

特に理想を高く掲げて歩んでいても、その日々の小さな実践を怠るというのは単に目的を達したいだけで学問をしているわけではないと思えるからです。

学問というのは、本来は机上のもので読み書きするのではなく実体験から気づいたことを学び自らそれを徳化していくことのように思います。まず自ら日々の思いやりの実践を大切に、何事も手を抜かず丹誠を籠めて徳を積んでいくことのように思えます。

しかし実際はどうかといえば、外圧や刷り込み、世間の評価や自利の欲に押し込まれ本来の自分の実践が軽くなってしまうことがあったりするのです。それでも自分を正せるということが本来の自己管理であろうとも思います。

世間の波風がやや強いだけで遣ると決めたことをしないということは、最初から自分が決めたことにしないということになるのです。自分が決めたのだからを貫くというのは、誰のせいにもしないということでもあります。そしてそれこそが、論語にあるような学問を好む人であろうとも思います。

論語にこういうものがあります。

「君子は食飽くことを求るなく、居安きを求るなく、事に敏にして言に慎み、有道に就きて正す。学を好むというべきのみ」『論語』学而篇

学を好む人ということは、自らの頭で考えて安楽に流されるようなことはしないで日々、自らを正しく修め実践を続けている人という意味であろうとも思います。

少しリズムを崩してもそういうことができなくなることを思えば、如何に日々のことに正直に誠心誠意で実践を続けていかなければならないかと反省します。またさらに、続けて孔子は言います。

それだけ真面目に実践をやっている人でも単に学問が好きなだけの人ですと、それでは学問をまだ楽しむ人ではないとも。これには、学問の本質とは何かを改めて気づかされるのです。一生懸命に一心に生き切り体験を学び楽しむことができれば本懐を遂げているともいえるのがこの命の姿ではないでしょうか。

学問を楽しむ人とは、それ自体を楽しめるくらいの人であるということだと思います。
今の時代は、特に流されやすくまた学問が誤解されている時代です。

維新の時のような大義が必要で、その大義を学び楽しむくらいでないとと感じます。
奇妙な狂った人物と言われるくらいが いいのかもしれません。

まだまだ自分のことを明瞭にして行動を敏にしていきたいと思います。

 

好きなこと

子どもの頃、自分のやりたいことを制止されることほど腹立たしいことはなかった。
何をもって子どもかと言えば、好きなことをさせてもらえることが子どもだと思っていた。

それを大人たちは理由も説明もせず、いきなり制止して自由を奪うようなことをする。
そのことにとても傷つき泣いていたことも思い出す。

子どもの頃は誰しも、自分のやりたことが見守られ、好きなことをさせてもらっても大丈夫といった大自然や偉大な親心というものを身近に感じていたように思います。 それが次第にやってはいけないことが増え、周りを見てはやってはいけないのだろうと億劫になっていく中で次第に世間の言う大人になったのだろうとも思います。

なぜ子どもがあれほどまでに好きなことをしたいかというのは、そこに天命への気づきがあるのではないかと私は推察しています。自分に与えられた天からの命がそれをさせるのであろうとも思います。

人間は生きていく中で自分にどのような天命があるのかを探し、道に出逢いついに辿り着いていくものであろうとも思います。ではその道はどこからがはじまりでおわりかと考えれば、生まれてきたときがはじまりで死がおわりであると一般には定義されます。

しかし実際の道は、いつまじまりいつおわるかもなく円環しているように無限に続くのであろうとする直観もあります。だとしたら、生まれたときにはすでに道に出逢っているのが子どもであろうとも思います。その子どもに道を忘れさせたり、その子どもに道を外れさせるのが大人のやることでしょうか?

大人は自分自身がまず道を歩み、その道を通じて子どもと接するのであれば当然見守ることが最善であるのはすぐに気づきます。子ども達のやりたいことを好きなことをやらせてあげるというのはその子が天命を知り、天命に生きるためには必要なことであるのです。

今の時代は、あんなに幼い初心な魂にまで余計な刷り込みを当て込みその子たちの大好きなことを我慢することから教え込んでいきます。もう少し発達というものの奥にある本質や秘宝をよく鑑みて学び直すことだと思います。

私の仕事はやはり終始一貫子ども心を見守ることに通じています。
それは天が天であることを知り、天を大好きなままでいる子ども心がそうさせるのだと思います。

人間がみな、自分の好きなことをして生きられる世の中が幸福な世界であると思います。
この好きなことは感情の好きではなく、天が与えた特別な好きであることを言います。

まだまだ自分自身の実践を積み上げていこうと思います。

傲慢と謙虚

若気というものがある。

自分の実力もよく分からないのに、他人よりも凄いように見せたり、自分は他と違うのだと露骨に自分から見せようとしたりなどもすることもあった。

自信のなさから私も自分は特別な存在だと自分に言い聞かして、周りを見たりして失敗することも多々あった。若気から未熟なその姿勢があるせいで周囲からは嫌われたり、軽蔑されたりもしたこともたくさんあった。

それでも特別を自分に言い聞かしまるでそれを隠すように演出をして、自分をより大きく見せようとしたりしたものです。ただ年を経て、本当の実力がついてくるとそういう気持ちはなくなってきてより他人の凄いところが感じられるようになってきます。そして次第にそういう他人も実はもっと凄いではないかと思えるようになり、竟には自分もこういうところが凄いのではないだろうかと思えるようになってくる。

不思議と他人と違う、自分が特別ということを思うにしても、相手に矢印を向けて自分は普通の人ではないというのと、自分に矢印を向けて自分は普通の人ではいけないというのではまったく意味も意義も異なっているのに気づくのです。

何が言いたいかといえば、「自分が普通の人よりも特別と思うのは間違っていることで、自分が普通の人と同じではいけないのだ」と思う方が本来の自分への叱咤激励であるのだと思います。先の方は、傲慢で高慢なだけで、後の方は、謙虚に自立しようとしているのです。

先日、また吉田松陰先生との邂逅の中で先生が18歳の時に詠んだ覚悟に出逢いました。

そこにはこうあります。

「自分は、俗人ではないと思うのは間違った考え方で、俗人と同じになってはいけない、と考えるのが正しい。自分を俗人と区別する考え方の中には、おごりたかぶる姿勢があり、後者は激しく奮い立つ姿勢である。」(未焚稿より)

よく自分は他人とは違うと自分を語る人はたくさんいるし、そういうふうに心で思っている人にもたくさん出会います。それが志からのものであるのならば、本来は自分は他人と同じではないけない、もっと自分を奮い立たせて努力精進しなければと自分を特別に律していくことが本来の姿であるのです。

私も大いに反省したのは、自分は特別だと思うところのどこかには普通の人ができないことをできるのだと言い聞かせて特別なのだと思いたい自分がいるのです。それでは、決して本来の自分を特別だと努力していくことはできません。

自分が特別だと思うとは、自分が普通の人のように目先だけの安楽や安逸を貪り怠り、楽をして甘えて時間をただ浪費したり、世間の風潮に流されたり、大衆の一般的な価値観に囚われてしまい、自分らしく生きていくことを諦めてはいけないと自分を奮起激励していくことのためのものであるのです。

普通であるかそうではないかの自問自答ではなく、普通になってはいけないという流されてしまいやすい自分に檄を飛ばすのが本来のその言葉の使い方だということなのです。

普通とか普通にできるできないとか、それは全部外の世界の比較対象の中で少しでも自分が価値があると思いたいということになってしまえば、自己満足で止まってしまうものです。

当たり前のことを当たり前以上に行う人や、普段なかなかできそうできないことに丁寧に丹誠を籠めて行う人や、すべての日常に思いやりや真心で仕事に取り組めることなどこういうことができる人こそが謙虚に正しく学問をしているともいうのだと思います。

まだまだ気づくことばかりの日々です、実践を増やし普通ではいけないと志を心にしっかりと定め克己奮起して学びを正していきたいと思います。

 

循環の視野

全ての物にも捨てるものがないように、すべての出来事にも捨てるものはない。そもそもこの国は、八百万の神々といった信仰があり、勿体ないという言葉もまたそういう精神から発生したものであろうと思う。

捨てないということはどういうことかと言えば、それが循環し続けているということでもある。

そもそも捨てるという概念はどういうものかといえば、捨てるとは途切れさせるということでもある。リサイクルなどと言われるけれど、人間が何かのために利用して価値のある部分は用い、価値のない部分は用いないという考え方自体が循環に則っているとはいわないのです。

万物具有の徳ではないけれど、全体を俯瞰した時には必ず何かのお役にたっているからこの世に存在しているともいいます。それが一部分を切り取った狭い視野のみで活かそうと思えばやっぱりそれは活かせなかったりするのです。

つまりは、捨てるという概念自体はとても狭い視野であるともいえます。

人で例えてもどうかといえば、社会全体を観た時にその人がどのような役に立つことが幸せであろうかと考えるとき、その人に一番相応しいところに居ることが社会のためになったりもします。

そしてそれは決して人間の狭い視野や自我欲で勝手に判断したりしてもマッチングすることはなかなかありません。なぜなら狭くない視野とは、天の視野であるからです。天の視野とは、天を信じて人事を尽くしていくなかではじめて得られる境地であり、自分の与えられた場所で精一杯遣り切っていけば自然に次の扉が開くように、全身全霊の自分の努力精進があってこそはじめて天の視野を感じることができるのであろうとも思います。

こういう風に、循環の視野とは全体を通して自分の布置を感じることでありそういう気持ちにいつも自分を保つのに勿体ないや捨てないという実践が在るのです。

世界で緑が消失していくのは、こういう循環を途切れさそうとする人間の浅はかな視野の狭さが邪魔をしているからだとも思います。

何よりもこれからは、循環や繫がりを感じる生き方を優先する人を増やしていくことで本来の天の視野を持たせていくことに意義があるのだと思います。そしてそれは道の入り口に接する一期一会の出逢いを増やしていくことであろうとも私は思います。

子ども達には、この先に迷うことがないように自らがまず実践し示していこうと思います。

道の心得

吉田松陰の留魂録があり、高杉晋作との関係も含め改めて繰り返し辿りながら見直してみるといろいろな改めてわかってきます。

天と通じる真心で誠を実践し続けた先にその生死を超越した本分を尽くしたことに私たち人間はとても魅了されます。

人は、それぞれに寿命があり長くても80年くらいで短ければこの世に出でてすぐに亡くなってしまう人もいます。事故であったり病であったり、その他様々な理由で人はその天寿を全うするのだと思います。

その天寿を全うするにおいて、如何に自分が天から何を命じられているのかを知りそれを純粋に遣り尽くしきっていく姿そのものが天を信じる人、つまりは至誠であるからにして周囲からすれば畏怖すらも感じるほどに尊敬されるのだと思います。

人間も生命なのだから天や自然に正対するとき、そこにとても威厳や荘厳といった畏敬を思うからです。

この吉田松陰と高杉晋作の死生観の共有しているものがひとつあります。
もともとこの二人は、心の友でありそれは本人たちも書き記しています。
松陰にして、晋作だれよりも私の心を知ると言い、晋作も先生をずっと慕いてようやく野山獄といった言葉もあるように、二人は何よりもその志において同一化していったのだと思います。

そこからその死生観を示したのが易回転の源泉になったのだと思います。

その二人の、邂逅の手紙の中の一説にこう書かれています。

「貴問に曰く、丈夫死すべき所如何。僕去冬巳来、死の一字大いに発明あり、李氏焚書の功多し。其の説甚だ永く候へども約して云はば、死は好むべきに非ず、亦悪むべきに非ず、道盡き心安んずる、便ち是死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生きるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。又一種大才略ある人辱を忍びてことをなす、妙。又一種私欲なく私心なきもの生を偸むも妨げず。死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措きて唯だ言うべきを言ふのみ」

私の意訳だけれど、「あなたは私に問いました。志士として死ぬべきところはどこでしょうか?と。昨年の冬からずっと投獄されてからその死について私は大きな気づきを得たのです。これは李氏焚書にあるようなものです、その内容は長いものなのでそれをまとめれば、死は好んだり憎んだりするものではなく、道の実践が尽き心が安んじるときこそ死に所とあります。世の中には、生きていながらもまるで死んでいるような人たちもいます。そして、たとえその身が滅んでもいつまでも魂が生き続けている人もいます。実際に心が死んでいるようでは、生きていてもあまり意味がありませんし、魂さえ生き続けているのならば例え死んだとしても意義があります。また、偉大な人物が恥を忍んで辱めを受けつつも竟にはその大事を為してしまうのはとても不思議なことです。そしてまた私心私欲がない人の生涯は決して誰にも邪魔することができないというものもあります。つまり言いたいのは、”死んでも不朽の見込みがあるのならばいつ死んでもいいのです。そしてもしも生きていた方が大業の見込みがあるのならばいつまでも生きていればいい。”私が言いたいのは、生死は考えずに『一心になすべきことをなす』だけでいいのだということです。」

以上のことから自然の中で天命に生きるということがその死生観であろうと私は思います。

天は妙なるものがあります、まるですべてを見透かしたかのようにすべての出来事をまるですべてを知っていたかのようにふるまってきます。その都度、自分の小さな浅はかな考えが如何につまらないものであったのかを思い知る日々です。

そしてこの今もまた、つまらないことに囚われてしまう自分があるのです。

死生観を持ち、歩み続けるのは道の心得でもあるのだと私は思います。
その道の心得を持ち、共に歩み続ける事ができる同志がいることに無常の安心を覚えます。

私が心惹かれるのは、その道の心得でもあるのです。
どのような時代に何を為すかわかりませんが、天命を学び燃焼しきっていきたいと思います。