デリカシー

社会の中でよく使われる言葉にデリカシーがある。

このデリカシーは、英語になるけれど大辞林には(感情、心配りなどの繊細さ。微妙さ)のことだと書かれている。つまりは、よく気づく繊細な感性があるということ、よく気づくということでもある。

また逆にデリカシーがないとはどういうことか、それは安岡正篤氏に下記がある。

「粗忽(そこつ)・がさつは最も人格の低劣を表す。高邁(こうまい)な人格はいかに剛健・活発にみえても、その人のどこかに必ずしっとりした落着きや静けさを湛(たた)えているものだ。」

高邁な人とは、志が高く抜きんでている人を言う。つまりはデリカシーがない人は志が低く大衆的だということ。

つまり個性として、気遣いが鈍く大雑把で配慮がないことも状況次第ではそれはとても豊かな独自性と大らかな性格として活躍する場もある。しかし、これは個性であって、志がある集団の中では個性ではなくデリカシーがないと言う。

理念や理想を掲げれば当然、志が立つ必要がある。
つまり立志である。

その立志した人たちへ対する配慮こそデリカシーであり、その志を皆で達成するために高邁な理想を持っている仲間として接することも一つのデリカシーだと私は思う。

しかし、なぜそういうものに気づかずに次第にデリカシーがなくなるのかをのはなぜだろうかと色々と分析してみると共通しているものがある。

そうなっている人は、誰にも迷惑をかけずに自分が一人だけで生きていると思っている場合が多く、周囲への思いやりは別に必要がないと感じやすい孤独の人であることが多く、もし自分が生きている中で本当に色々な助けや援けを得てはじめて生きられていると深く感じていればいつも感謝を維持し続けているためその行動が責任的になるようになりデリカシーを持てるようになる。

デリカシーがないには、基本的には軽い言葉や軽い行動を取っているということも責任と直結している理由だと私は思う。

これは例えば、真摯に本気で生きている人はいつも本質的で真剣に物事や人との関わりを真面目に正対している。そういう人たちの繊細で微細な命の感性に配慮し、そういう生き方もあるのだと受け容れれば自然に周囲を尊重するようになる。

真剣に生きている人は、もっと深いところに面白さと心地よさを感じていてそこには色々なものを味わう心の感受性をオープンにする。そうやって目に観えない世界を観えるコツがある人には、あまりそういう表面上の刹那的な面白さは眼中にはない。

味わい深い人生は、味わい深い喜びを引き出していくからだ。

特に人は本当に好きなことをして自分に正直に生きていると無駄がなくなってくる。
つまりは、合理的になり和の持つシンプルな姿になる。

一つのことで全体を観、全体を一つのもので観るような感覚。
一円融合される状態になっているということだ。

まとめるとデリカシーとは、志を高く持ち大衆に流されず、自分だけの一つの価値観で勝手に決め付けたり、変に偏ったりせず、バランスを持って自分が周囲への思いやりにより自然に調和できるよう配慮を行うことではないかと私は思う。つまりはいつも中庸であるということ。

御縁で生きる私たちは、お客様とも子どもたちとも偏らずにデリカシーを持って日々新たに感動し続けていることが出会いを一期一会にしていくものだと私は思うし、感化の喜びも仕事の遣り甲斐も未来を信じる力もそこに生まれる。

私自身、子どもたちの手本になるようにそういう配慮を気をつけるような調和の存在でありたいといつも願う。色々な人たちがデリカシーのあるないの中で、傷つきあい癒されあう人間関係の中でも一円融合し、静かに微細が分かる動じない心を持ち、穏やかで落ち着いた人格を持てる中庸の実践に努めたい。

私たちはコンサルティング企業、常に真剣な人たちを相手にする以上、軽い言動や行動は特に戒めて相手への最大の敬意と尊敬を持ち仕事を正しく進めていこうと思う。

変化の本質

歴史を学び照らしながら日々の仕事を通して現場を体験し思索を深めていると観えてくる新しい変化の波がある。それは近代でもそうだし戦国時代などもそうだし、またそれ以前でもそういう波があったのだと思う。

この波は同じように繰り返し打ち寄せても決して同じ波であることない。

波打ち際に立ち静かに佇めば分かるけれど、先ほどと同じ波が来ることは奇跡に近い。しかし通常人にはそれはただの同じ波にしか見えないというところに数々に刷り込まれる罠がある。

その時々で当然だった常識といわれるもの、それは普遍性だといわれたもの、たとえ原理原則といわれたものですらもその時代の時勢によって新しく表現方法が変わっていくし環境にあわせて刷新されていくのだと私は思う。

その狭間に生きている波打ち際の大勢の人たちは、いつの時代も「いつも間に変わってしまったのかも分からない」でいる。

例えば、あの坂本龍馬にこういう逸話がある。

以前、彼は何よりもこれからは剣術が大事としていたけれどそのうち剣を捨て拳銃でなければならないとし、次はその拳銃を捨て、これからは国際法こそが重要だと、その時々の時勢にあわえてそれまで何よりも自分が大事だとしたものを周りの偏見に捉われず、勇気を持って思い切って自由に価値基準を変えた。

そしてこれはただの道具に縛られず、封建社会に当然としてあった諸藩と諸藩、また幕府との関係やその身分制度などそれまでの上下関係などの倫理、またそれまで武士道といって刀を何よりも拠り所にしていた武士の魂だの恥だのというそれまでの道徳規範ですらも、時勢により新しく自分がその変化そのものになって刷新している。

つまりこれは何を意味しているかというとよく時代の流れを読み取り、変わっていくその時勢その様を、自らの確信の拠り所により判断し自分から大いにオープンに変化そのものになるように柔軟に自分の価値基準を素直に易えたということになる。

それがあの「日本をじゃぶじゃぶと洗濯するぜよ」というメッセージにも現れている。きっと長い時間をかけて色々と汚れた様々な価値基準を気づいている自分が洗濯して綺麗さっぱり取り除いてやるというような意味なのだと私は思う。私自身、教育業界にいるといつも同じことを考えているからよく龍馬が云わんとしたことがよく分かる。

ダメなものはダメ、辛かろうしんどかろう、でもこの先の未来のために、捨てないといかんという、人情味のある温かい思いやりが伝わってくる。

そのために自分の命も厭わないという何ものにも捉われない自由に生きる大きな人物だったのだと思う。

私も今の時代を思うと、もう捨ててしまいたいという価値基準はたくさんあるけれど、日本人だからか集団や周りの偏見や刷り込みの目や空気が気になり、遠慮しながら何とか調整している。しかし、坂本龍馬のようにここまで時代の波に純粋に感応し何ものにも捉われずに変化そのものになるというのはその裏づけには何か大きな天人合一への憧れと何より自由への尊重、他人を愛する真心があったのではないかと心底感じてしまう。

私たちが今の時代に変革期を生きた人々に学ぶものは本当に多い。

今の時代は果たしてどのような新しい変化を開く時代だろうか。

それは今までの経済優先のモノ至上主義に陥り、事なかれ主義に平和だの人権だの平等だのと間違ったものをいつまでも後生大事にしていいはずがない時代だ、つまりは自立の時代にまた波が来ているように思う。

その一つに昔で言う教育のやり方「みんなでなかよく」は、果たして今の時代はその道徳倫理は通用しているか?

今の時代の「みんなでなかよく」と使っている言葉は同じでも中身が完全に変わってしまっていることに何人が気づいているのだろうか?

今は、みんがそれぞれみんなのことを考える、つまりは「みんなで自立し他人のことを思いやる」時代になっていることが優先であり、当然として別にみんなで空気を読みうまいこと仲良くしなさいというのではないだろう。

言い方を帰れば、時代が変わったから武器は武器でも強力にしなさいという道理ではない。それは単に武器を刀から銃、銃から核爆弾、また戦艦から戦闘機、衛星ミサイルに変えればいいという話ではない。

昔はそれで良かったものがいつまでも使えるはずがない。
押し寄せる波のように変化は確実に置きながら繰り返されている。

たとえば、今の時代はジェンダーフリーであるし、国境もノーボーダーだし、また黒人と白人の壁も取り払われだし、情報格差もなくなってフラットになってきているし、その他、色々なところで様々な「柵と壁」がなくなってきている。

だとして、その中で今まであったその奥底にある道徳倫理や原理原則もどのように変化しているのだろうか。時代によりそのバランスを持てるのが空の心であり、無の境地なのかもしれない。

人が一流を目指し道を志すにもその調和により真に命を活かすためでもある。

そして本物になり時代の変革にどれだけ新しいモノサシをもてるのかをそれぞれがそれぞれ一人ひとりに問う時代に入っているのだと私は感じている。

だからこそ、この時代は何より一人ひとりが変えるべきは勇気を持って変え、変えないものは勇気を持って変えないと決める変革の時代なのだと私は思う。

特に教育者とは方向性を預かる学問の体現者としてその変化を誰よりも先に読み解くものでなければならないし、子ども達をその変化に対応できるように一つの集団や環境を創造用意し、彼らの自助自立の機会を理念で見守る必要があると私は思う。

私たちはその教育に関わる以上、昔で言う千里眼や先見の明を持ち、まず自分たちが時勢の新しいモノサシを定義できる哲学や真理を持つ必要がある。

今までのようにのらりくらりと、昔の時勢にしがみ付きイイカゲンな安住を望んではいけない。なぜならこれからは今までがまったく通用しなくなる新しい時代を迎えるからだ。

目に見える変化がいくら緩やかそうにみえてもその実は濁流の如く激しく変化していくのを恐れなければいけない。

子ども第一主義のカグヤを率いる私は一人でも多くの気づいている方々とともに、本当の意味での新しい倫理道徳を攫みオープンに表現していきたい。特に情報というものを学び、教育というエッセンスを自らで体現し、子ども達へ新しい時代の新しい常識を貫く実践に勉めていきたい。

時代が変わることへ躊躇わず勇気を持って自らを刷新していくことを誓う。

変革期

子どもを取り巻く環境は古いものと新しいものがある。

古いものは、昔のやり方に固執し、そのやり方がもっとも正しいのだと信じ込み、何も変えようとはせず見た目のところばかりを新しくすることに力をいれている。新しいところは、昔のやり方にこだわらずに自分自身を刷新し、新しいものを受け容れ、昔のやり方を今にあうように工夫し改善を続けている。

ちょっと前にある組織のお手伝いをする機会があった。

そこは、何十年も前から組織を維持するための方法を継承されていて、常に旧体制からの上位下達の仕組みが導入されていた。

一般的な商売の関係とも異なり、どこかからか毎年自動に入ってくる予算で運営する組織というものはどこか組織運営に独特の文化のようなものがある。派閥ではないけれど、誰を中心に組織するのかで組員という組織の一員としてそこに所属することが成り立ち、そこでどのように振舞うかが重要になる。

何々組ではないけれど、その都度、組の長が代わればどの組に所属して活動するかがもっとも組員の中では重要であり、その組にいる間は必ず組の長に従うという絶対ルールがある。そうやって組織を運営することで象徴的地位を確立し、様々な集団としての総勢圧力を外部へ向けてかけていくこともできる。

もちろんそこに関わる業者はよく力関係を見抜き、自分の立ち居地を上手に振舞うことでお金儲けをしているところもたくさんある。

もちろん、単体では大勢に向けて言いたいことが言えないから力がないからとそれぞれの利権を維持するために団体組織を創る。

その組織力の維持のために、様々な上位下達の仕組みや集団を維持する村文化を取り入れ組織に加盟するものを守ろうとする。

しかし、現在いくつかの業界ではすでにその組織の力が衰えている分野が増えてきているようにも感じる。もし、それぞれの施設が組織に頼らなくても単体で運営できるということになればそこに組織の影響力は働いてこない。

今は、個々の判断が早急に求められるITの時代に入っている。
それに益々個人主義は進み、格差が広がり、臨機応変にそれぞれの能力で自立していくことが求められる。

今までどおり、いつか誰かが何とかしてくれるということではどうにもならなくなってきている。誰かが言っていたからや、皆がそうだからという判断に委ねるのではなく、情報に対して自分で選び判断するという、自立した主体的な関わりが選択する上でも必要になってくる。

組織自体も、昔と環境が変わってきているのだから今の時代の組織に変えていく努力なくして組織維持などできるはずがない。しかし、よく観ているとあまり組織維持の仕組みは変わっていないし、きっとこれからもそうそう変わることはない。

なぜなら今まで、それで上にいくことが良かれとして、上位下達の文化を維持するために努力しそれぞれぐっと堪えて我慢してきたことが邪魔をして新しい組織体制に変われない。

若い人たちが上にいくのでもなく、古い人たちがいつまでも同じ場所で睨みをきかせているようでは、なおさら新しい意見なども出て来ることもない。
そして若い人たちも文句は言っても、自分たちも旧い体制で出来上がった組織であることに気づいていないから結局は同じところで改革と言っているだけで別に改革しているわけでもなく、批判をしているだけという構図になっている場合が多い。

厳しい言い方だけれど愛を持って語るなら、そこまでもし本気だというなら、地位や名誉などは受け取ってはいけないと思う。もしも受け取るならば、それなりに受け取っても気にならないほどの自らの人徳人格を磨くことが先だとも私は思う。

そう考えると、組織に於いて変革期に地位や名誉というのものは何も意味をなすこともないしむしろそれは邪魔なだけだ。

組織に依存して、組織が自分を大きく見せるからと本来あるべき努力を怠れば自分自身が新しく生まれてくるものたちの壁になり、今まで保守してきたあの正義も歪められ全体が衰退してくのは歴史を学べばすぐに理解できる。

子ども達のことを考えると、いつまでも古いやり方やその文化を頑なに守ることに力を入れるのではなく、もっと新しいものを柔軟に取り入れ自分自身が変われないなら、変われている人たちのことを邪魔せずに見守り、思い切って権限を移譲していくことがこれからの組織運営には必要だと思う。

若い人たちや子ども達がやりたいと思うものをどう支援し、援助し見守るかが本当の上位の人たちの卓越した能力が問われるところであり、本来そこが上達した人たちの持つ品格だとも感じる。

周囲の取り巻きも含め、もし自分が今在るのが本当にその人の御蔭で本気で恩を感じているならもっとその人自身の人格が光るような実践ができるように真摯に諫言を持って関わっていくことだとも思う。

私自身も大いなる思いやりを以って、この時代の変革期に相対していきたい。
それが今までの報恩奉公とし、自らがまず信念を貫いていきたい。

歩み寄り

先日、ベルギーのアントワープへ訪問してきた。
ノートルダム大聖堂などを見学した際に、170年かけて制作された建物を肌で実感することができる。

人は、幾代もかけて創作されてきているものには畏敬の念を覚える。
それが日本の寺院にしてもそうだし、神社にしても同じく言える。

物事を判断するには、短い時間でできるものとそうでないものがある。

何でも切り分けて、整理していても整理できないものもある。人の心は特に、パッとの思い付きだけですべてを判断できるほど安易なものではない。

だからこそ、慎重に共感し、受容し、相手のことを御互いに歩み寄り深く認め合い分かり合おうとするコミュニケーションが必要になる。

もし、表面上の言葉だけで判断をすべてしていたら色々な先入観や決め付けなども発生する。それが御互いの歩み寄りも邪魔をし、どちらかだけを歩ませようとなると御互いの最適な距離感がつかめなかったりもする。

人は、あまり自分ばかりに責任を背負いこみすぎると相手が観えなくなることもある。そしていつも最後は一人だと思ってしまっていては、本当に大きなことはできるはずもない。人は一人では生きてはいけない。だからこそ、最後は人に委ねるという「信頼する」ということが大事になる。

そして事物には大局観というか、事物と人間の本質をキチンと捉えていくことでそこを軸に自分の布置を見定めてあわせていく。

そして、本質を観ると最終的にすべての出来事とは「ただそれが在った」ということになる。

それが自然だからだ。

そう考えると、あるべきよう、あるがままであるというのは、そのものごとを心を使って無心に受容していけば自然にそれに近付いてくるということになる。

時間をかけてゆっくりと醸成する時間が在るのもいい。より大事なことは「続けられる」ということ。白黒や結果だけではない、確かにそこにある生の人、つまりは人生というものからはじめていくことは根本に必要となる。

様々な問いがあることに感謝し、一期一会の出逢いをすべての今に捧げるような豊かで満たされた時間を大切に過ごしていきたい。

人を信じるということ、人が言うことをそのままに受け容れているということ。そうやって歩み寄ることを恐れずに迷わずに、全身全霊での関わりを大切にしていこうと思う。

感謝

負の連鎖

先日、ある組織の話し合いなどに参加する機会があった。

そこでは、いろいろな方々があまり話が紛糾しないように主義主張を出し話し合いをしていた。問題はたくさん起きる、それは当然今まで正しいと思われていたことが、時代が変わっていく中で合わなくなってくることがたくさん出るからだ。

ただ、いつもその機会を見て感じるのは、結局は言うだけで最後には大事なところはいつも変えないということ。理由はいくつかあるけれど、大事だと勘違いしているだけで本当にそれは大事なことかなと思ってしまう。

その方々の言う大事なところとは、私が観ていると先人の残した成功のカタチのことを言っている気がする。その人たちは、新しく壊したというように思われることを、先人の苦労を否定してしまい裏切ったことだと定義し勘違いし、頑なに保守に固執するばかりである場合が多い。

もしくは、過去に認めてもらったその人に報いたいとその人の考えをそのまま残そうと周りも見ずに躍起になって反対する人もたくさんいる。

万物流転、時代も変わっているのだから、本当に尊敬する先人の叡智や智慧を残そうとしたらキチンと本質を観て常に時代にあわせて変えていかなければ守れるはずもないのに、カタチダケのものを残せば遺したと勘違いした負の連鎖は広がるばかり。

こうなると、夏に冬服を着てクーラーを入れているようなものだし、冬に夏服を着て暖房の中で引き籠っているようなものだ。自然にあわせていくことをしなければ、如何に無駄が生まれ、そのツケを別の形で解消していかなければいけないという本質からソレタ問題にばかりにエネルギーを割かれることになる。

リーダーが気付かずそうなってしまうひとつは責任があるのだろう、自分がその役を持っているのだから今までの流れは変えてはいけないという目に見えた責任があるのだろう。しかしよく観ると、目に見えるものばかりを変えてはいけないという大多数の考え抜かない無責任な組織の人たちの言いなりになり、なるべく平穏に無難に済ませようとするのはそれで本当に今までの流れを守っているのだろうかといつも疑問に思う。

人は常に変わることで守っていく。

その変わるというのは、本質を守るために、周りの変化にあわせて順応させていくようなもの。その順応には、激しく革新するものもあれば、静かに維新していくものもある。

人はなぜ役割分担があり、代を重ねていく意味があるのか。
それを鑑みるとき、私が静かに思うのは人は成功体験があればあるほどその思い出の美しさに於いて執着が生まれ、それを美化しそこに囚われていくもの。

短い人生において、そういう思い出が人生を素晴らしく味わいあるものにする。

引き際というのはとても難しい。

今を生き切り、全身全霊で生きているときっと臨界点を知るのだと思う。
そしてその臨界が、自分にしかできないことの本質に巡り合えるような気もする。

無心というのは、無の心だけでは生きてはいけないのだろう。
そこに、確かに自分の中にある一つの道での無で有ることの方が優先されるのだろう。

業界を観ていると、生き残りをかけて何があってもカタチが変わらないようにと無理をして守ることばかりに囚われて排他的に新しいものを受容しない負の連鎖は続いているように感じる。壊れるのを待つばかりというのもなんだか受け身なことだと憤慨してしまう。

しかし、私たちの業界は子どものためのもの。

子どものことを本当に思うと果たしてどうだろうか。

子どもたちは、そうやって頑なになった大人から何を学び何に挑戦し新しく創造していけるのだろうか。

子どもを信じるのならば、時代にあわせて変わるのは自分自身だと自分を見つめ、子ども自身が変わっていくことを信じて新しいものを受け容れる思いやりや優しさをもっと大切にしていけばいいと思う。

決して若いものや新しいものは、卑下して遠ざける対象ではなく、そのものにより時代の流れにあわせて自分の本質が練磨できる最高の機会だと思うことがより先人の思いや遺志を継ぎリーダーとしての責任を果たすことに繋がっていると私は思う。

若い人や新しいことをする人は失敗をする。
それは当然失敗をする、子どもと同じで必死で「練習」しているからだ。

もっと新しいものになるために挑戦し練習する若いものたちに優しくいれるようにいつも私は居たい。

私自身は、この若い頃の保守的なものの組織からの軋轢などをよい体験と訓戒に昇華し、子どもの未来により確かな本質を譲れるように自分を本質にあわせていく方に迷わずに不動の心で邁進していきたいと念じる。

負の連鎖を断ち切れるような、新しいモノサシを創っていきたい。

本当の自由

自由をテーマにしていくのはまだ早いけれど少し書き記すことにする。

世間の人はほとんどがみんな自由でいたいと思っている。その自由とは、制限なく自分勝手に好きにしていたいというものだったりする。特に仕事をしている人たちは自由を欲しがる。子どもの時もそうだ。

大人の仕事でいえば、時間や給与、仕事の中身や休みなどもある。日頃から自立できている人であればそれも自由自在に楽しんでいるけれど、作業員のようになって与えられたことをやっている人たちは不自由でストレスをため込んでいる。

子どもでいえば、学校での遊びや学びなどがある。特に日本の子どもは勉強が好きな子どもが少なく、いつも遊んでいたいと思っていたりする。日頃から自立している人は、勉強も学校も楽しいけれど、作業員のようになって与えられたことに委ねて生きることを慣れた子どもは精一杯大人の目を盗んで遊びこもうと躍起になっている。

なんだか、日本の刷り込まれる自由というのは、こういう誰かに価値観を押し付けられ抑え込まれて「作業員」になることに甘んじた人たちが語る自由であることがとても多い。

自由とは、与えられたことに対するものではない。
自由とは、自分から掴み取るものだし、生きるというのは自分の人権を大切にして幸せになるんだという生活生命そのもののことだと私は思っている。

たとえば、お金に対する自由、生活水準に対する自由、願望への自由、人間関係での自由、時間的な自由、挙げていけばきりがないけれど基本的によくつかわれている世間の自由を聞いていると、結局は自分優先で自分の思いどおりにいくことが自由だということになっている。

もし以上の自分優先で何でもありの勝手なものを自由と定義するのならば、ありえないけれど自分だけしかこの世に存在しなければそれは自由ということになる。そんな自由を欲しがっていたって、結局は何事からも受け身なのだから何もなくなってしまい、そのまやかしの自由に気づき、また現在の不愉快な現実に戻ってきたいと言いだすのが関の山だと思う。

こういう人は自由というニンジンに向かって走らされている馬のようなものだと思う。

たとえば、草木や花や虫もそれぞれでは規律のある不自由な世界だけれど、その中で調和しているのならばそれぞれは生活と生命が保障された本当の自由になっているということだ。

また違う言い回しでのたとえでは、音楽や料理などもそう。オーケストラなどで個々の楽器でどんなに自由に音楽を奏でてもそれが見事に調和しとても美しいものであれば自由だし、料理もどんな食材を組みあわせても美味しいのならばもう自由の世界にいるということ。

そういう自由の境地に入るほどの自在の力をそれぞれが持っていて調和が可能だという定義だ。

自由とは、本当は様々な障碍のなかでも自らの外側と内側の大いなる不自由を乗り越えた先にあるものだと思う。そしてそれはそういうことをもう知っているしそのものの真理にまでになったということだと思う。

論語の孔子に、「七十にして心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えず。」とある。

これは孔子自身が十五で学を志し、人生最後の境地を語られている言葉である。

含蓄あるメッセージがここに観える、まさに大いなる全体との調和ができていて自由自在に自分を存在できているような境地なのだろうなと思う。

まだ実践がおぼつかず悩むことがほとんどだけれど私が思う本当の自由とは、大自然の中で様々な規律やルールがあることを知りながらもその中で全体と調和し、自我自在にあるがままで豊かな状態を言うのだと思う。

天気がどんなであろうとも、世界がどんなであろうとも、然としているようなもの。

違う言い方だと柔軟性ともいうのかもしれないし、もしかすると色や形を持たなくても自分の色も形も持っているというような姿なのかもしれない。

様々な状況にあっても「今」というものになりきり、変不変とも同化し、物事の全体と調和され、どこにいても何物にも囚われない水のような自在な存在になれているということなのだと私は思う。

会社でもそう、現在の環境でもそう、人が自由になるというのは、よく周りを観えていて、やっていることも腹に落ちていて、何度も繰り返し深めていくことで体得し、そのものをそのもののようにそれぞれで自立して同化できているという状態になればいい。

子どもたちには、同じ中で同じものになれと押し付けられた平均重視の履き違えた自分のない受身の自由ではなく、本当に個性そのまま自分のままでも自分の天命が生かし活かされるという周囲との大いなる調和の自由自在に自立したあるがままの本当の自由を掴み取ってほしいと願う。

まずは私自身が、自由自在になれるように生活の中から素直に天命を学んでいきたいと思う。

トップダウン

先日、ある園で相談を受けた。

「今までずっとトップダウンで進めてきてそれでそこそこうまくいった、今だってそれでマネジメントしているし、それは企業や組織の経営者には当然必要ではないか」ということを言われた。

このトップダウンという言葉には、勘違いされるいくつかの罠があるように私は思う。

相手のことをまったく考えずに自分の都合だけを押し付けるのは文字通りトップダウン、説明の必要もない。

しかし、あらゆる立場の人たちを一つの円の中に容れて深く考察し、長き先を見通し公の精神と正しい道徳行としての「今」の判断はトップダウンではなくそれはリーディング(導く力)だと思う。

しかし通常の経営者は、自分が特別な責任者の立場だということで勘違いし経営は自分都合で進めていいのだと思っている方がたくさんいる。

そして職員には、自分を棚に上げて一方的に素直でいなさいと押し付ける方がとても多い。

そもそもこの「素直さ」というのは、巷では「常識があり何も考えず目上の人の言うことや組織の管理者に黙って従う」のが素直さだと勘違いされているところがある。

しかし古典などでも定義されている本当の素直さとは、以前にもブログで書いたが「正しく自分で物事の意味を咀嚼して考えて様々な価値観に柔軟に対応できる人」のことをいうのだと私は思う。

人間が価値観に柔軟だから、自分なりに本質を捉えて臨機応変に相手の求めるものに変化することができるのだと思う。それを「素のあるがままで直(なお)く在る」=素直さというのだ。

日本では子どもの教育現場を洞察しているとそれに近い事例をよく見かける。

学校や家庭の教育には、すべてではないけれど大人側の「しつけ」や「キョウイク」などという分かりやすい言葉でそれは子どもだからやって当然だと、相手の立場を考えずに常識を押し付け管理側の目線でそれをやろうとする刷り込みがある。

しかし、一個人としての人権を尊重しない大人や管理者の理不尽な言いようを子どもや相手は見抜き、「なぜそれをやらないといけないのか?」を聞いてくるし、それを時間をかけて考えて間違いを正してくる。そしてちゃんと分かった人はそういう安易な不合理な大人の意見には決して従わない。まただからといってそういう人を安易に排除すれば、素直で優秀な良い人材は育っていくことはない。

別にしつけやキョウイクがいけないと言っているわけではない。

本当に自立できる優秀で良い人間を育てるのならば、まず一般的な刷り込みで安易に従わせるのではなく自他ともにじっくりと話し合う時間をもっとゆったりと取ってお互いに語り合い認めあって進めていくことの方が本質的で大事なのではないかということを言いたいだけ。

私がコンサルティングの相談を受ける園でいつも不思議だなと思うのは、「うちの職員は自分で考えないんですよ」とか、「うちの職員は無能な人が多くて」や、「うちの職員は自由とかルールとかなかなか分からないのですよ」とか言われるけれど、今までそういう安易に管理者に従うようなそういうマネジメントを長年自分がやってきたのだから当然そうなるのではないかと私は思う。

そして逆に、「うちの職員はよくやっている」や、「職員が有能でちゃんとやっていて任せている」からなどとも聞くけれど、よくよく伺ってみるとそれは園長がよく現場のことが分からないだけの「単なる放任」になっている場合が多い。

その証拠に、現場の職員は不安で仕方がなかったり、もしくは必死で頑なに見栄をはっていたりすることがある。それはトップがリーディングしているのではなく、現場と経営を分けて管理するための方法の一つとして使っている場合が多い。

そして、自分が職員の文句を言ってもそれは単に自分自身の在りようの状況を話しているだけなのだから、それを根本から改善しないと良くなることはない。たとえば自分自身で自律し自由とルールを意味付けし、自立した有能なリーダーになっていくことしかそれを変革することはできないのではないかと私は思う。

対話をするには上からではなく相手の立場になって一緒にモノゴトに向き合い受容し自立をするからできることは多い。上からの理不尽や不合理はどこかトップダウンの刷り込みと印象がある。

そうならないためにも、目に見えない本質的な理念を対話の中心に据え、相手のことをよくよく共感し、受容していけば自然と相手は自分で考えるようになるものだし育っていくものだ。

理念なき自分都合の自分勝手なトップダウンでは、これからの価値観の多様化した現場では対応していくことは難しい。

だからこそ、現場をファシリテーションするスタッフを育てていくことが大事なことだし、それを育てる側のリーディング力はこれからの生きる力の要になっていくのではないかとさえ私は思う。

そもそもマネジメントを通して人間を育てているのだから、バブルだのグローバリズムなどのスキル論や議論は一切関係がなく、人間が歩んだ軌跡をよく考察した古典や歴史に照らし「正しく人を育てる」ことに通じているのがマネジメントの本質であるべきで、これからの学校は時間もお金もそういうところに使わない組織は必ず衰退すると私は思う。

現状よく周りを見渡しても子どもたちを育てる現場のマネジメントも、見守るのではなくそういう一方的なトップダウンをやっているところがとても多い。大事な教育現場でいつまでも変わらずそういうマネジメントを続けていたら世界でユニークに活躍する有能な自立型人材と自己実現していく場も少なくなってくるかもしれないなと私は思う。

まずは、私自身が組織の長として実践の襟を正し、立派で本質的に素直な人を育てる環境になり業界の未来と、子どもたちの自立に協力できるようにこれからも真摯に努めていきたい。

情報リテラシー8

幼児教育は通常は目に見えない教育だと言われている。

しかし教育はどれも目に見えない。

教育と言わず、本当は誰でも人間は生きていれば目や耳だけでは観えないもの、聴こえない世界が存在していることをちゃんと知っている。

しかし、心穏やかにして、心眼や心耳等で心を通して世の中を写し出さなければ理解できないもの分からないものがとても多いものだと思う。

本質を観るとは、そういう心を修養することではじめてできるのだ。

人は心が忙しくなり、余裕がなくなってくるとすぐにすべてが動作的になる。

意識的に内外の環境を静かにすることを怠れば、物事は目と耳だけの感覚で処理をしようとするものだ。

現在、私たちが伺う保育教育現場でも誰しもがやることがいっぱいで余裕とゆとりがなく、情緒が安定していない現場はやはりとても動作的になっている。

デイリープログラムなどもとにかく一日の流れをスケジュールどおりにこなそうとみんなで必死になっている。

そしてそういうとき、またそういう人に、目に見えないものや耳に聞こえてこないものをちゃんと理解してもらおうとしてもなかなか難しい。

日ごろどれだけ、現場が穏やかで落ち着いて入れるかはそれぞれがそれを大事にしていこうという気持ちがなければできるはずがない。

私たちがやっている一円対話というマネージメントもそういう刷り込みを一時的に取り除き、心で考えて心で学び、幼児教育や発達を観える可するためにやっている取組のひとつになる。

そもそも私の人生を振り返っての主観だけれども、教育はたくさんやればいいのではなく子どもたちの心に一つでも何かの種があることを知り、その種が芽を出しさえすればそれだけでもその子どもの人生にはとても大きな財産になることを知っている育てている側に余裕があるからそのものの輝きを楽しむことができるのだとも思う。

なぜ子どもにとって遊びや生活が大切なのかなどもそういうことなのだと私は思う。

何かを決めつけたり、思い込んだりしてもそれはその子のあるがままではない場合は、その子にとってのミスマッチを生み出し、短く貴重な寿命の中で様々な惑いを与えてしまうこともある。

その子の持つそのあるがままを如何に受容していくのかというのは、日頃我々が恩恵を受けている「大いなる思いやり=自然」であることなのだと思う。

そういう中で人は、いや、生き物はみんなで共生して自立し助け合い貢献してくからだ。

話を戻す。

そういう、日頃目に見えないものをきちんと今の時代の保護者や周囲の大人たちに理解してもらうには情報リテラシーが必要になる。

それは、目に見えないものをどれだけ可視化していくかの情報になる。
私たちがやっているサスティナコンサルティングとは、そういうものになる。

これからも社会がゆとりと豊かな余裕を持った自立に満ちた思いやりのある社会を創造するために情報リテラシーを極め、多くの園と子どもの未来への援助をしていきたいと願う。

産学連携

先日、株式会社早稲田総研インターナショナルの新川社長が来社され産学連携や地域連携などのことで話をすることができた。

もともとギビングツリーで続けてきた情報交換や交流の方法がとても学びにつながる良いものであると評価していただき関心を持っていただいたことでそういう話ができた。

現在、情報化技術は進歩しインターネットを使って様々なコミュニティが色々なところで起きている。

そして、そのコミュニティもその思想や視点、また定義によって様々な形に日々変化を続けている。情報は変わり続けるものだから、その変わるということへの哲学があることが情報リテラシーを扱うことの大前提になると思う。

どんなコミュニティにも共感や受容があり、そういうものをどれだけ感じてその場の環境を用意していくかでその方向性が決まってくると思う。まずは、インターネットどうこうではなく、どこに共感して受容していくかを決めることを大事にしていけば長い年月がかかっても必ずそこに必要なコミュニティは創造的に生まれると思う。

また、その質問の中でそういえばそうだなと当り前になっていることに気づくことができた。

現在、教育機関やシンクタンクの事務局ということでカグヤは活動している。
その中で様々な教育関係者が、「企業がこんなことをしていて大丈夫か?」などいろいろと疑わしい言葉をかけられることがたまにある。

私は、多様化した社会で業界だどうだと語っていること自体、時間が止まっている人だなといつも感じているのだが変化というのはそういう多様化した中でどれだけ本質が維持できているかをしっかりと認識できていることが重要なのだといつも思っている。

特にこの教育業界というのは、すべてのことを教師や学校だけでやろうなんてことはもう不可能だと私は感じている。人は一人で生きてはいけない様に、業界も多くの企業や民間団体と連携をしていかないと凝り固まってきて応急処置ばかりをするだけの連携になってしまう。

今年の5月にオランダに伺った際にも、産学連携のちゃんとした形を観てくることができた。

オランダでは普通に企業も学校も、またその他のボランティアや個人もしっかりと連携していて子どもを中心に置いて見守る環境を地域で構成している。

昔は、オランダも今の日本と同じように頑なに学校だけでやろうとしたけれど先生の残業が増えてそして保護者との軋轢や教育環境の進化の限界を感じて、今は当たり前に産学連携ができるようになっている。

また民間企業も倫理観のある会社かどうかはすぐに見分けがつくような環境がもうできている。ただ稼ぎたいような会社は、教育業界には向かないと思う。企業原理を持ち込みたいのならばそれ相応の大義や理念を明確に打ち出して、そこからブレずに丁寧にやっていく覚悟でやっていくことが最低限の筋だと思う。

何かわかった気になって、教育業界にないからと謙虚な人たちに対して偉そうに上から企業原理を進めようとする商売人をたまに見かけることがあるけれど、同じ商売道を歩んでいる仲間として本当に悲しいことをするなと感じてしまう。商売は下からや上からなどではなく、フラットに協働していける関係を大事にしていけば必ず子どもを中心にお互いが平等で偏見のないあるがままの助け合いを実感できる幸福な関係が築けると思う。

そして産学する産の使命として、子どもの可能性の保障が世界や経済界にどれだけの大きな発展や豊かさ、また将来みんなで働く人たちの幸せにつながるかをよく考えれば、目先の損得や売り上げではないもっと素晴らしい価値を創っていることを理解して社業に勤め続けるのが教育関係企業の最低条件になっているべきだと思う。

そして、もし最高の産学連携を目指すのならば、如何に子どものためになるのかをしっかりと商品を一つ一つ丁寧に、長い時間子どものことを「先生以上」によく観察し、よく傾聴し、常に根源を子どもに置いて、学校や先生、そして多くの方々とともに語り合い、協力して創意工夫し続けていくことが大事なのではないかと私は思う。

次第に社会全体で窮屈になり、忙しくゆとりがなくなっていく教育環境の中でも、常に子どもたちのことを皆で正しく思い、企業や商売人も先生や学校も、刷り込みを取り除き、同じ子どもを思うプロとしてちゃんと連携が取れ相乗効果を発揮できる企業をカグヤはこれからも貫いていきたいと誓う。

しっかりと日本に根づく産学連携のモデルを示していけるように、より仁の理念を実践して一つでも多くの産学連携を実現していきたいと思う。

教育と社会

本日は、午前中にJASのコンサルタントで3つのイエナプラン校の校長を兼任するリーン氏のRidderkerkにある学校の2つを視察させてもらった。また午後から、近くのBarendrechtにある保育園で話を伺い、その後、ダルトンスクールの中学校へ訪問した充実した一日になった。

まず、イエナプランの学校は藤森平司先生がやっている園と同じように子ども一人ひとりの発達にあわせて、自主的な選択が保障され、またそれぞれの子どもが自然に学べるようにゾーンやコーナーなどの環境が整備されていた。

やはり世界標準の教育はこれなのだと確認できたのは、子ども一人ひとりがとても落ち着いていて自らの課題に対して自ら進んで取り組んでいること。またそこの教師が、ちょうど良い距離感で子どもを見守っていること。そして教室がとても穏やかに落ち着いた雰囲気が出ていることだった。

子どもの存在のすべてを認めるというのは理念が必要なのだと改めて感じた。

話をしていると、地域ではとても良い学校として大変人気があるので他校区からもたくさん先生方が見学に来るそうだが、その時にはいつもコーナーや環境、教材等々のコピーばかりをとっていくのだそうだ。「それではないのにね」と笑っていたのが印象にも残った。

ある程度経験が豊富で自分に自信がついてきた教員というのは、なぜいつも子どもを見ないのかと本当に不思議に思うが世界でもそうなのである意味で私たちの存在意義に改めて安心することができた。

日本では、GTで活動を共にする先生方はほとんど同じ方向でやっているけれど小学校でそれを普通にやっているのを見て改めて愕然とした。

日本は、ちゃんと子どもの人権を保障しないで上から押さえつける官僚体質をいつまでも続けていたら日本では通用しても世界では通用しない子どもを無意識に刷り込んでいるかもしれないから気をつけないといけない。

21世紀の社会は、多国籍の人たちが手に手を携えて力をあわせて地球の問題について向き合っていく時代になる。

そういう時代に日本の大切な魂を持つ子どもが国際人になれないなどとはしたくないなと改めて自分の仕事の不足さに震えが来た。帰国したら改めて気を引き締めて邁進していこうと思う。

さて、話は戻す。

午後からは0歳児から4歳児までを預かる個性的な保育園へ伺った。日本とそっくりでたくさんの保育士さんがいて、子どもを保育していた。この国ではバウチャー制度が実施されていて保護者に補助金が支払われるそうだが、保育料を支払わない親がいて大変困っているそうだ。

なんだかどの国も、同じでちゃんと子どものことを考えていく体制をもっと周囲が用意しないと規律やルール、罰則ばかりで良い人たちと苦しめるのだから考えないといけないと思う。

3つ目に拝見したダルトン方式の中学校は、現在社会の変化に伴い「自らで課題を設定して自らで解決する」方式で日本の大学と同じように単位制で運営されている。今、オランダでもダルトンはとても人気があるそうだ。

子どもたちは常に社会経済にあうように教育を親が選択していく。お金の流れに左右されながらも本当の良い教育が受けられるようにしていく良心がこの業界には大切なのだと思う。

最後に、離れていても同じように子どもを思えば同じようなカタチになっていくのが人間なのだと思う。すべての生き物は思いやりを忘れて傲慢に自分中心になっていくと社会も悲しいものにしていくことになる。

常に豊かさとは何か?なぜ生きるのか?そういう生きていく上で結果よりももっと大切な意味を実感して自らを尽くせ、本来の在るがままにそれぞれがみんなで幸せになるような社会になることを心から祈る。