大同小異

昨日は、10時にハーグ市内のイエナプラン校へ訪問し、2歳半からの就学前教育の教室と4−6歳の幼児クラスを視察して、13時から同じくハーグ市内のモンテッソーリ校の観察。その後、15時からハーグの教育サポートセンターHCO(http://www.hco.nl)を訪ね、ハーグ市内で行われている様々な就学前教育の支援内容などについて話を伺った。

まず午前中のイエナプラン校では、サークル対話を中心に子どもが自らで主体的に判断できる能力を身につけるために様々なコーナーや動機付け、キッカケ出しなどを多くの選択肢の中で保障している環境を用意していた。

先生もそれぞれに子どもの特性を大事にしているのが分かる立ち位置に立っていて、それぞれの子どもの必要なだけの援助を行っているのが印象的だった。

日本ではギビングツリーの保育では、そのような環境が標準だと私たちは思っているので特に驚くことはなかったのだが小学校でもそのままの環境を保証しそれが発展しているのを見ると、やはりEU諸国の方が人権でも民主主義でもしっかりと議論されてそういう環境になっているのだろうと感じることができた。

この学校のもう一つの特徴は、移民が多いこと。学校全体の子どもの半数以上がトルコやモロッコイスラム圏やアジア圏、アフリカなどからの移民で成り立っていること。写真を撮っていたらまるでどこかのアニメで見たような様々な国の人の顔があって、世界市民という言葉を否が応でも感じずにはおれないような環境があった。

ひょっとすると21世紀は文化文明、言語や価値観などのボーダーも超えてそれぞれが地球の一市民としてどうやって力をあわせて危機を乗り越えていくかを市民レベルでもやっていく時代が来るのかもしれないと彷彿させるような視察になった。

ここでは、言語がまったく通用しない子どもが半数以上あり、これからどうやって言葉を習得してもらうか、また保護者との会話や文化の違いをどう認め合うかなど相当な難題に対して官民一体になって乗り越えている感じがした。

日本では、コンビニなどもそうだが中国人や韓国人の方々もたくさん入ってきている。アジア系は見た目が変わらないのでそんなに気にしていないが、ちゃんとそれぞれの宗教観、文明観、価値観などをそのままいい加減にやっているとそのうち大変な歪みが発生して危険な事件が起きるのではないかと心配になる。

日本人は島国で日本人しかいないところで育ってきたので、その辺を曖昧にしたいのだろうが移民が日本人と同じくらいの数になったらきっと大変になるだろうなと思う。

長くなるので次の学校に移る。

次の学校は、完全なるモンテッソーリの学校になる。先週もアンネフランクのモンテッソーリ学校を視察したのだが教材の種類の多さに本当に驚かされる。また、それぞれが自分の課題を選択して同じことを違うアプローチで到達させるやり方もよくここまで増やせたものだと感心できる。

日本では、個々で一人引き籠って学ぶ方法がたくさん用意されている。宿題だって大変な量毎日出るし、基本的には一斉画一なのだからほとんど自分でやるしかない方法を選択させられている。日本では、やっぱりみんなで関係性を大事にするような方をもっとしっかりと充実するのが先ではないかと改めて考えさせられる機会になった。

関係性という意味では、この学校でもサークル対話などを充実させていて関係性を大事にする協同的なものも最近ではたくさん増やしているのだそうだ。

最後に、ハーグ教育センターに訪問して幼児教育の専門家とアドバイザーの2名にどのようなことをやっているのかなどを伺った。

日本では研修は、教育、保育団体などが行政より委託を受けてやることがほとんどになっている。ここでは、そういう団体が民間化されていて、それぞれの地域の学校のサポート研修やコーチング、指導などを行っている。

この国では、そういう指導を受けていなければ補助金を受け取れない制度になっていて研修は必須になっている。

ただその研修の中身は選べるようになっていて、そこにそれぞれのサポート機関が入り込み提供するようになっている。

ただほとんど行政側のニーズを中心に動いているので、本当の意味での現場が困っている目を向けたくない教育者が陥りがちな人為的ミスや人間関係ストレス、その他、理念やマネジメントなどの複雑なものには触っていないような感じがした。

たとえば、学校教材の方向を決めたり、業者が持っている遊具やその他の情報を提供してあげたり、全体の親へ対して子育ての重要性を広報したりなど教育団体と同じように全体へ向かってのニーズにこたえているような感じの機関だった。

一日を通して実感したことは、お金の流れに沿ってそれぞれのやることの範囲がある程度決まってくる。昨日のように行政の管理までも逃れて自由にしたいのならばお金をもらうことはできない。

お金をもらうことである程度、全体に対しての国家としての教育とそれぞれの学校が持つ理念としての運営との狭間にいろいろな機関や企業がある。

私たちも、それぞれの持つそれぞれの本質的な良さや質を高めながら日本の子どもたちにもっとも効果的な方法を提供提案できるように、これからも和魂洋才の感覚を大事に帰国後もしっかりと取り組んでいこうと思う。

このような幅広い内容の視察へ導いてくれたリヒテルズ直子さんに深い感謝。

研修の大本

本日は、イエナプランのビデオコーチングの研修に参加した。

これは教師の資質を向上するために、日頃の教育現場、保育現場をビデオで撮影してどの部分を改善していけばいいかなどをコーチングしていくものだ。

もちろん、誰かの主観でのアドバイスにはなるもののその本質はイエナプランの20の原則(子ども中心で子どもの個性を尊重した内容)に沿って、自らに気づかせて変化を促していくという手法だ。

今回は様々な学校から、イエナプランのビデオコーチングの資格を取得するための研修を受けている人たちが集まっていた。

人は物事を日ごろから自分の内面で判断しているからこそ、気づいているようで気づいていないのが外から自分がどう観えているかという客観的様相だ。それを見せることで、自分の内面の認識とのズレを本人が看取っていき、本来のあるべきように近づけたい本人の意思を尊重しながらそこへアドバイスすることで安心して内外のバランスを取れるようにしていくということだ。

これは野球でも何でもそうだが、職人的な人間的能力を発揮するためにもその微細な感覚の劣化を防いだり問題を発掘したりしながら如何に自らのベストを引き出していくかをコーチする方法なのだと思う。

それにあわせて子どもから先生がどう観えるかを子どもの視点で撮影していくことで子どもになりきる訓練にもなる。

クラスで担任などを持って、一つの場所で毎日過ごしているとそういう自分と子どもとの認識のズレがどうおきないようにしていくかは世界各国どの教師でも苦心しているところなのだろうと改めて思う。チームや異年齢、そしてさまざまなマネージメントがある国でもそれが必要なのだから日本では当然それが不足している。しかし日本ではほとんどそれを「見られたくない」「テストみたい」などの理由で広がらないのだろう。

何でも続けていくとその中にある本質が理解できるようになっていき、最初の感覚よりも人間はより深いところのことが修得できるようになる。

ビデオコーチングも最初は嫌でも続けていることで、それで自分が修正されることを知りセルフマネージメントをする力を得ることで本来の素直で正しい自信と柔軟性のある謙虚さなどが教員に持てるようになるものだ。

カグヤでも今後、GTの理念に沿って保育環境を観察する手法のひとつとして参考にしていこうと思う。

最後に、教育者や保育者というのは人間がどうであれ色々と職業的な柵やクセのようなものに囚われて無意識に意識的に自分勝手に偏っていくものだ。

たくさんの人たちを一斉に育てているのだからそういう子どもたちに自分がやりたいこと、または世界や社会、そして国家から要求されている子ども像の最低基準は確保できるようにそれぞれで研修の主要課題は常に明確にしていく必要があると思う。

平和教育も人権教育もそもそも形骸化しているマニュアルのようなものではなく、人間としてどう生きるかということを子どもたちとともに協働しながら考えていくことの方がより大事なことなのだ。

日本の職員研修はどうしてもコンセプトが受け手側に伝わっておらず、そして与え手側も何をどこまで保障したらいいかが明確になっていない。

そんな無概念で何をお互いが考えて学び合うことができるのか?

研修とは「研磨して修正する」ことだが、そのもの何に対して自分と他者をそうするのかを明瞭になっていないのに何が共にやることができるのだろうと私は思う。

そういう日頃の安直な上から一歩的にやったやってないという誰にでも分かるトップダウンのタテ社会官僚体制の姿勢が、子どもとのタテ社会イイカゲン環境管理になっていくのだ。私たちはそこに関わる仕事をしているからこそ文句を言っている場合ではなく本当に気をつけないといけないと改めて自社のスキルを含め戒める良いキッカケになった。

これからカグヤでもその辺の理論を整理して、なぜそうなるかなどを科学的に証明しながら先生方のサポートやアドバイスを的確にしていけるように取り組んでいきたいと思う。

異文明の共感

今日はオランダの学校教育のコンサルティング会社、JAS(イエナプラン)の本部に来ている。本日ここでは、ピースフルエデュケーションなど平和を考えたさまざまな最新の授業などをイエナプランの専門家コンサルタントが集まって終日議論をしていた。

時代の変化に伴い、新しい教育方法が次々世界から入ってきて導入されている。それをどのようにしてイエナプランの理念に沿って融合統合していくかなどについて話をしていた。

これは日本では、保育環境研究所ギビングツリーが「子ども中心の見守る保育」の理念に沿って様々なものを検証したり生み出したりしているのと同じようなことをやっていた。

やはり教育の研究というのは、実際現場に伴ってどのようにしたら現場の先生が難しいことを理解できるようにシンプルにしていくかなど丁寧に考えて提供していかないと理論だけでは広がらないし伝わらないし、何より使えないのだろうと思う。

GTでの日頃のそういった話し合いが如何に大事な時間であるのかとうことを改めて感じることができた。

会議の場に参加するというのは、言葉はわからなくてもその雰囲気でどのように進めてそれぞれがどの方向を向いて歩んでいるのかなどは理解することができる。

人はそれぞれ生まれた環境も違えば、その状況や本人の隠れた本意など文明や文化に伴い異なっているのは当然だ。

その中で如何に人間として同じだというところから物事を洞察できるかと思うとあまり目に頼っていては難しい。

そして耳に頼ろうとしてもそもそも言語が違っているのだからよりそれを理解するにはかなりの時間を要してしまう。

ある人は一瞬でそのものの本質を理解する。
ある人は、ずっと見ても聞いても話してもわからない人がいる。

気づきというのは、感性や感覚が左右する。
その感性や感覚は日ごろから主体性をもって興味関心をどの時点に透徹させて物事を鑑みてきたかという訓練や問題意識が大事になるのだと私は思う。

理解するというのは、その背景に知る由もない大きなことがあることは前提でそれがわかった気になったのでは本当に共感しようとする心構えでもない。

やはりどこかわかった気にならずに、深く相手の立場で物事を感じ尽くしてそれをどうやったら一緒に解決していけるかを思うとき、次第に本質が同化していくのだと思う。

日本人はつい、深く相手を知ろうとすると「余計な御世話」だという風に距離をおかれることが多いけれど、共通の理念さえあればいくらでも相手と本気で遠慮なく議論したり、徹底的に分かち合ったりは怖いものでもなく辛いものでもない。

コミュニケーションの本質は、まずは自分からどうするのかが明確でなければお互いの本懐が得られるという道理はないと思う。

国も育ちも違えども、子どもを前に思うことはきっと同じ。

その理念を深く信じて、いちいち一挙一動に左右されない不動の至誠を持って真実の狭間にある本物を見つめる心眼を持って挑みたい。

世界の子どもたちが自立と平和を維持し、創造的で成熟した豊かな社会のモデルになっていけることを念じて。今日は、小さいながらも子どもたちが素晴らしい教育を受けている学校を訪問視察することになる。

感謝。

肩書きの定義

先日、保育所園長の資格の取得が厚労省により検討されているのを知った。

改定される新保育所保育指針の第7章にも、園長の責務として「法令等を順守し、保育所を取り巻く社会情勢などを踏まえ、その専門性等の向上に努めること」と明記されることになる。

告示となる指針がこのように責任と役割を明確化することは本当は意味があることだと思う。ここからも時代の背景や現場からの危機感が鑑みれる。早ければ、この4月から実施になる。

ただそれをどう捉えてどうするかはどちらにしても、誰かがやらすや誰からかやらされるでは本質的には実現し難いことは自分の体験を省みてもすぐに分かる。

モノゴトはどんなものでも、自分からどれだけ真剣に正対しそれに取り組むかでその中身はまったく違ったカタチのものに成る。そのカタチとは簡単に言うと自立か依存に分かれる感じになる。キチンとモノゴトに対して自立しなければ実現したとはいえないからやはり常に人間は自立することが求められる。

ここでの自立するというのは、それぞれが受身ではなく自ら主体的にその問題や危機を取りにいくということ。

そのために人間は、色々な体験を通して自立のプロセスを経る。

自立のプロセスを経るとは、まず相手に自立を求めるとき、そして自立を受け容れるとき、その人間観の中にある「信じる」ということが試される。「信じる」ことがもし、ここからは自分のせいではないや、ここからは相手次第などと割り切られるのは本当に「信じている」というわけではないのだ。

相手を信じるというのは、自分を信じることにイコールだし、それは人生そのものをどれだけ肯定的に志高く信じるかに寄るのだから本来の意味での『自立』とは生物の持つこの上ないもっとも崇高な共生の理念だと改めて思う。

国家で影響力のある人は民衆や集団、人間に対し「どれだけ信じるということを心底尽くしたか」でその政策の実現にもかかってくるのだと私は思う。

信じるというのは実行する前、実行する中、実行した後、すべてを念で突き抜けているのだ。

話を戻す。

ただ、現場から洞察して観ると気をつけておくことがあるようにも思う。

幼稚園園長にはすでに資格がある、私は現場でそれもよく観ている。

もし資格というイメージだけが先行すると資格があるからその肩書きどおりの人間なのだと思い込むことがあるということも気をつけないといけない要素だと思う。

安易に、解決方法を提示することは場合によっては大変危険な歪みを生じさせることもある。どれだけ、受け手側に力が備わっているかをちゃんと見極めどれだけの見通しを立てた上での「模範」を用意するかで集団の行く末が変わることもある。

なので現場を鑑みての資格とは、あくまで相手を塊や集団で捉えて最低限「通過」してもらうフィルターのようなものだと定義するとして、ではそれ以前に、責任と役割の本質にある『肩書き』というのはいったいどうなのだろうか?

私自身の体験から、私はその「肩書き」の御蔭で色々と学ぶことができた。

つい肩書きがつけばすぐにそれになろうとする、またはなった気になってしまう。

周囲もそのように私を扱うし、何よりも責任感から必死にそれを演じようとしてしまうものも肩書きの怖さだ。

肩書きから立場を与えられモノゴトに向き合って謙虚の振りしてトップの振りして演技がうまくなってくるともう他人の話をちゃんとその肩書きから降りて聴くことができなくなっていく。

そうなると、どこかで必ず積み重ねの小さなゆがみが大きくなり周囲を信じることができなくなっていく。事があれば、すぐに社員やパートナーの文句を言ったり不信になったり自分が一番努力しているだのという相手に矢印を向けた曲がった自己犠牲精神が生まれだす。

冷静に観ればすぐに理解できるが人はイキナリ偉くなることはないのだ。

たとえば社長は、お客様や社員から学んで社長になっていく。社長になるために本を読んだり他所の社長の話を聴いてそれをとってはそれを真似したって本当の社長になったわけではない。思い切って肩書きを捨て去って、あまり固定概念に縛られずに、真摯にそれを学んで自然体に社長になったほうが良い。

それを修正するのに私は大変苦労した。

私もそういうことから、肩書きが如何に自分自身の等身大ではないものだと気づくことができ、「謙虚」であることの本質の入り口を理解し学ぶ覚悟ができた。

そして「謙虚」とは、人生を架けて学ぶものであるのだということにも気づくことができた。

だからこそ、どんなときもまず安易に肩書きはつけてはいけないと私は思っている。つけたとしても心がそれに囚われてはいけないのだと私は思う。そして肩書きから仕事を覚えてはいけないと常に戒めている。

最も大事なことは『現場から学び上げその肩書きの人になること』と私は思う。

コンサルタントならば、現場から真摯に学び求められコンサルタントになること。

保育士ならば、園児から学んで保育士になっていくこと。
主任なら保育士や園児、園長から学んで主任になること。

まずは変な形だけの組織図や組織、経営陣などという、ツマンナイ固定概念を捨てることが大事なのだと思う。

現場で相手から学びながら求められるようになってきたときがそれ相応になってきたというふうにすれば一つの肩書きの基準だと定義するといい。

子ども達にも、年長だから年少だからなど肩書きからではなく自然に相手からそれ相応の子どもとして学んでいけるような環境の園を広げていきたいと心から思う。

年齢という肩書きの刷り込みで異年齢や一斉などを判断するのではなく、その人間そのものの素晴らしさをちゃんと観て自然に立派な人になってくれるようになるような環境に気づけ変われるように私たちカグヤは安易に「肩書き」という刷り込みが業界に広がらないように自戒しながら歩みを強めていこうと改めて誓う。

本当の障害

昨日、障害児の保育に真摯に取り組んでいる保育園に伺った。

統合保育と別に逆統合保育という、世間で言う健常児と障害児とをしっかりと相互理解できるように独自のやり方を研究しながら職員皆で取り組んでいる。

この障害児保育には、関わる人たち全員の理解が必要で、誰か一人でも分かっていなければそれが発端になり様々な違う障害を起こしてしまう。

その障害は大体「大人」が一番問題になってくる。

ある話を聴いた。

ある自閉症等の障害を持つ子どもが、他の子どもに噛み付いて怪我を少しさせたそうだ。

そうすると、噛み付かれたその子どもの保護者と祖母が園にクレームを言ってきたそうだ。きっとその子をどうにかしろだの話しをしてくる感じだ。

その際、その事態の収拾をしてくれたのは噛まれた方の子どもだったそうだ。

噛まれた方の子どもは「○○ちゃんは、分からなくて噛み付くんだから良いんだよ。私がよけなかったのがいけなかっただけだから。」と必死に両親と祖母を説得してくれたそうだ。

園でよく見かける大人同士ではまったくかみ合わないドンパチも、子ども同士ではあっという間に解決してしまう。おかしな話だが本当のことだ。

それに似たことで続けてこんな話も聴いた。

その園では園庭にあるブランコを最近は取り除いたそうだ。

危機管理か何かの理由かなと伺ったら、保護者がブランコの順番待ちで喧嘩になるからだそうだ。なぜ保護者なのかと伺うと子どもの送迎時間に園庭で遊んで待っている際に子どもは他の子がブランコで遊んでいてもちゃんと並んで待つのもまったく平気なのに、大人が早くしろだの、どきなさいだのブランコを取り合いしたり横取りするので困ったことが起きたのだそうだ。

まったく、大人の方がよほどある意味でオトナになっていないものだなと観察しているとここでも現代社会の縮図がやはり園ではつぶさに観得る。

教育とは、いったい何のためにあるのかを分からないならやってはいけないのにマンネリ化して続けたからこんな感じになる。意味があるものを意味がなくすると常にしっぺ返しがやってくるものなのだ。

話を戻す。

子ども同士では、体がうまくいかない子ども、よく理解できずに困っている子ども、なかなか自然に集団に溶け込めない子ども、そういう子がいることはみんな自然にわかっている。

しかし、大人はそうはいかない。

世の中を知りすぎてしまい、大いなる刷り込みの渦中の中でそれがよほどイケナイことだと思い込み、自分の正しいという意識でその子にとっての幸せを勝手に決め付けていく。

そして、その決め付けが傲慢や驕りになりその連鎖が多くの大人たちに伝播して間違った社会の援助を行ってしまうことは往々にしてよくあることだ。

たとえば、世界では飢餓でたくさんの方々が亡くなっている。

そして、そういう世界を自然淘汰であり必要悪だと仰る方々もいる。

相手の立場でモノゴトを考えるのを止めた瞬間に人は恐ろしいほどに驕り、その中に自分勝手な正義を確立していく。

そしてそういう安易な考え方は、楽であるが故にどんどん集団や組織に伝播していきあっという間に刷り込み社会を形成する。

きっと裕福になり人間は富に満たされるとモノサシが自分中心にしていなければ、自分の中にある矛盾をどうしても受け容れることができないのだろうと思う。

子どもではできていたものも、与えすぎているとそういう「あるがまま」の気持ちがなくなってくることで「大人」になっていくのだから現実は本当に驚くばかりだ。

人間は、なぜだか分からない大いなる理不尽はきっと観たくないのだと思う。

『本当の障害とはいったい何のことだろうか?』

本当の障害とは、その人たちの意識ではないだろうか?
そして、そうしてしまいたい社会構造ではないだろうか?

「何も好きで障害を持っていたいという人はいない。」

みんなどんな生物も生きるという意味では平等であるのが当然だと思う。
それがどんな理由であれ、自分勝手に良し悪しを定めることはどうだろうかと思う。

できるならば、この幼児期の子ども達には大人の刷り込みはあまり与えたくないと願う。

子どもは、ちゃんと相手のことを思えるほど純粋にあるがままにこの世を観ている。そちらにもっとあわせてあげて、子ども達がこれから創ってく未来の世の中を楽しみにはぐくむ援助をしていければと心から願う。

解決の発掘

先日、ある園で理念形成のお手伝いをした。

その中でベテランの主任先生と色々な話をした。

経験があるというのは、解決方法をたくさん知っているということ。
そして、知っているとそれをすぐにでもやりたくなるもの。

よく話を伺っていると、才能が溢れている方や知識が豊富な方はすぐにそのやり方を指示し実行し物事をまたたくまに解決してしまう。

そういう方の持つバイタリティやエネルギーには驚くばかりだ。

営利企業ではそういう人が常に求められているし、そういう人はどこの世界でも評判が高いと思う。人材発掘の定義でも、そういう人は今のようなスピードが速く短い期間に成果を出すことを求める世の中では得てして人気が高い。どうも幼稚園や保育園でもそういう人は引っ張りだこで色々な現場に呼ばれることが多い。

そこでも力がある主任がヘッドハンティングされ、園を一気に改革しようとしていた。
異年齢や、コーナーなどもすぐに明日にでもやろうという意気込みだ。
きっと実行すれば、すぐに園の中はまたたくまに変わっていくだろう。

しかし、本当にそれが良いのだろうか?

私は経験ある方こそ問題はすぐに解決しない方も大切なのではないかと私は思う。

何でも人は、解決方法に向けて突っ走っていく。
もちろんそれは不安だからだ。

しかしゆっくりとじっくりと、その意味を観察するようなことが最近はあまり評価されないためか何か齷齪と「不安を抱えることがイケナイこと」だと何かについで急ぎ足で傾倒していく。

不安とは、安心の反対にあり常に不安がなくならないのが人間なのだ。
だとしたら、不安についても安心についてもなく常に中心軸は「意味を感じる」ことに観点は置くのがいいのではないかと私は思う。

その園では、主任と一緒にもう一度問題を観察しているうちにその根幹がもっと深いところにあることに気づいていただいた。それをもとに大変ですがじっくりとゆっくりと今年は一年間、すぐにでも解決できると思うものを三歩下がって『観察』しようとお互いが共通理解した。

どうせ力があってすぐに解決できるならば、もう少しだけちゃんと観察しようという定義だ。

どんなモノゴト、問題の中にはよく観察することで原因の大元の答えが横たわっていてその「意味」を発掘することで本来の歪みを見通すことができるのだと思う。

しかし、人間はその歪みを早く直したいあまり急いで事に当たろうとする。
そうしているうちに、同じようなことを何度もやっているだけで意外とほとんど前に進んでいないことが多い。

その場限りとは、問題から逃げたいだけで問題を受け容れているわけではないのだ。

では、「子どもが育つ」ではどうだろうか?

子どもという観点でモノゴトを観るとき、その子の人生を考え見通してみるとその子にとっての問題とはすぐに解決するよりももっと大事なものが其処にあることに気づく。

たとえば、何か子ども同士の関係に問題が起きたとする。

その際に、もちろん心身にとても危険なことがあるようならその見通しを持って止めるのだがそうでなければその問題は自分達で解決するように「観察」することが大事だと思う。

観察していると、なぜこれが起こったか?これが一体どこから来ているのか?この意味はどこにあるのか?などが次第に見通すことができるようになる。

そして、それを見守っていると余計なことはせずに「ほんの少し」の歪みを直せば周りは正常に循環をはじめる。

長いスパンでじっくりとゆっくりと焦らずモノゴトを観察することは、魂の力が必要なのだと私は思う。

子ども自身が抱えるその時々の問題をすぐに解決することがその子の将来にとってどれだけの機会損失になるのかを思うと心が戒められる。

私もせっかちな方で何でもすぐに解決したがる傾向があるが、最近は子どもを大事に思うように接していこうと戒めている。

『そこに「確かな意味」がその人にあるからその問題は発生した。
 それは、その人にとってもっともふさわしい問題だった。』

取り除くよりも問題と相手をそう尊び、敬い、寛く受け容れるようにしています。

今のスピード感ある時代の子ども達には、問題があったときにその問題を味わうだけの意味を感じる力や発掘していく喜びを持ってもらいたいと思う。

そのためにもまずは、自分自身辛いと思える様々な問題をよく咀嚼し、天が私に与えてくれている有難い試練として受け容れ、自分の自己研鑽の糧にしながらしっかりと、そしてじっくりと問題とともに一生豊かに歩んで生きたいと思う。

時と節

子どもを育てている保育や教育現場を見ていると社会や未来の様子が観得て来る。

そこに社会がミニチュアに凝縮して今の子ども達にまで影響を与えているからだ。
保護者の要求が、その時々の対処を求めるものばかりで長い目線ではないことも当然今の世の中を反映しているひとつだと思う。

今の社会は、長い目線でモノゴトを対応し難い世の中だと感じることがある。
マスコミが面白がって煽り立てている情報に対して大勢の国民がそれを正しく取捨選択する力もなく、有名人や芸能人の意見をそのまま考えずに鵜呑みにしてそれによって言い知れない不安ばかりを募らせて誰か一部の人たちにそのストレスや怒りを吐き出す。

ニュースを見ているとそんなにすぐに解決しないと気がすまないのかとも思ってしまう。
もちろん倫理道徳として集団社会のルールは絶対に守るべきは守る。当然だ!
理解していないで失敗したのならば、理解してそれを改善していけばいい。

それが育つということだ。
失敗があるから人は育つ、反省するから人はより立派に大きくなっていく。

未来のためにも「本物を育てる」という気をもっていくのが本当の社会のあるべきようではないかと思う。

なんだかガチガチにして失敗を許さない社会にして偽られ苦しんでいるのは自分たち自身も原因ではないのかと思うと本当に人間というのは学び方一つでどうにでもなってしまう生き物なのだなと私は思う。

そして私が伺っている幼児教育やまだほんの小さな子どものいる現場でもそういうことが日々の悩みの根幹になっているのだから、だからこそこの時代は私を含め、先生や園長が率先してその方面の情報リテラシー能力を新しく学び続けないと大変だなと改めて思う。

一方的に一斉に教えるという時代の考え方とは正反対なので、私たちの現場研修やコンサルティングの中でもこれから特に力を入れていきたいなと思っている項目の一つだ。

先日、ある園の経営会議に参加した中での話しだが、今、保育士や教諭が託児やサービスをする人のように定義されて保護者からの信頼が希薄になってしまっていてそれを何とかしていこうと相談された。

もちろん、そのためには新しい先生像を自園が定義するのが先決なのだがそれをやることと同時に職場環境も改善していかないとそれができるはずがない。

事実、現在保育に携わる人たちの職場環境は決して良いといえない。

社会で幅広いことを学ぶ機会も少なく、自分で体験して気づいたことで話し合ったり見通すために反省したりというゆったりとした時間も取れず、学校で教わったことがスキル方面の入り口だけ学んでプロとしての責任感だけを頼りに何とか狭い世界で今を忙しく乗り切っている日々を送っているようにも見える。また、積もり積もった仕事の量の整理、勤務時間や役割分担、職場体制の問題等々一つひとつ全てクリアにしていかないといけない。

それなのに今までの制度や過去の仕組みなどの刷り込みの方を今まで通りに優先していたらこの先もっと大変なことになるのではと本当に心配している。

また、定義といえば、保育の中での様々な定義も見直す必要性も感じる。

たとえば、ベテランという定義も長いからや行事やスキルが高いというだけになっているところも多く、今どうなのかというすぐに対処することには正しいという答えを持っている人はたくさんいるけれど数十年後の社会のことを鑑みて今、この子にいったいどうするのが適切なのかという答えを持っている人はほとんど居ないというのはどうしたものかと思う。

ベテランとはどうあるのがもっともその子その園によって一番良いのかをよく考え直さないといけない。

そして問題の解決についても同じように考えないといけない。

たとえば、園での出来事の中であるベテランのジャッジで先生や大人がその場をうまく解決したってそれに一体何の意味があるのかということもだ。

私はその時大人が先に早く解決することが、本当にその子にとってそれが本質的な解決というものに繋がらないと思っている。

問題とは、早く解決することよりも、その中に大切なことがたくさん篭っていることを知り、早く到達するよりもその中に大切なことがたくさん籠もっているのということを重視している。

それは見守る保育で学んだ発達との向き合い方とまったく同じことだ。

私は、カグヤのクルーにも同じように失敗に意味を持たせている。
自分らしく失敗したのならば、それでいいと思っているからだ。

私が思う本質的な解決とは「問題をその人がどう自分らしく乗り越えたか」ということに定義することにしている。つまり問題を自ら発見し、自ら自分らしく解決する意味の中にこそ人間としての本当の価値があるのではないかと感じているからだ。

その場しのぎで外圧が怖いからと安易に乗り切れば、必ずそのツケは後々大きくなってその人自身にも周囲にも巡り廻って来る。

だからこそ今、やらないといけないのだ。

定義もだが、まず本当に子ども達のことを思えばこれからは専門性として「時節の見通し」は何よりもこれからは重要な要素ではないかと話をした。

なぜなら子たちの生きる場所は、これからの未来の世界であり、常に変わり続ける社会の中にある。そしてそれは、どの時期、どの時点をその子にとっての本当の成功と大人や先生がみなすかで今の環境と教育や保育の処し方が変わってくることも鑑みれるからだ。

これからの先生の育成は子どもと同じで、たくさんのことを学び、社会の多くのことに正しい興味を持ち、刷り込みを取り除き、幅広い人間の器を広げた中で「あらゆる時節を見通す力」を身に着けることができれば良いのではと私は思う。

だからこそ、今の時代は環境を工夫するためにトップが最前線の現場に於いて立場の上下の刷り込みをおごらず謙虚に捨て去り、園長本人が正しい代表者(代わってその本質を表す者)として真摯に学び、現場と一緒になって自分が変わり続け正しくモノゴトを見通していくことが必要なのだと私は思う。

どの時点を成功とみなすというのは、代表者自身がどう考えているかで先生の現場での研修の時間や数、ゆとりの持ち方、休みの取り方、子ども達、保護者とのかかわり方、施設整備のタイミング、園長としての真心を持った現場の援助の仕方等々、そのすべてに大きな影響を与えてしまう。

だからこそ、常に代表者は『昔どうであったかをよく反省し、今が本当にこれで良かったのかと内省し、将来のために今自分が果たしてどうあるべきかを猛省する。』こと。

どんな仕事であれ、これが代表者、責任者というものの必須の心得ではないかと自分にも戒めにしている。

本気で思えば、人間は何でもできないことは決してない。
それが「想念実現」の理。
そして、人間社会に教育が在る本質ではないかと思う。

私は今まで生きてきてよく感じるのだが「生きる」というは、厳しいルールばかりでなかなかどうにもならないようなようで、その実、自分の在り方次第にどうにでもなるようなものだということを様々な体験で気づくことができた。

私がよく研修で使う「想念実現」とは私心を捨て去り善を以て絶対的に自分の信じる道を信じつくすという、他人はどうあれ自分へ向けた矢印がどこまで本物かどうかが常に試されるという意味になっている。

そして一度それを思い続ける決心をしたらその通りに如何に創意工夫を怠らず、真心と愛情を持って自らの行動と実践によって継続していくかが大事なのだと思う。

最後に、

どの時点を成功とみなすか?

そしてその子にとっての時節をどう見通すのか?

ここに普遍性があるから、人々はその人の理念に着いて行くのだと思う。

私自身、もっと世界観や死生観、歴史観や共生観、そして人間観に自然観など学び尽くすことをこれ以上これ以下なく持ち続けながら子ども達を導けるような仕事をしていきたいと思う。

そして自分自身が至誠を以てそれを多くのクルーや園長、先生や保護者と一緒に学び続ける実践し続けると心から誓う。

道場

先日、あることに気づいた。

よく色々な園長と話をしていると、園長の仕事は経営をやることだと言う。

本当にそうだろうか?

園長の仕事を考えてみる。

果たしていったい何をすることが今の時代の園長には求められているのか?

先日、園長未設置園というのをあることを知った。
そこには園長がいない。
そしてその園長未設置園をよく観察して伺ってみると特徴がある。

基本的には園長はいなくても園は運営できる。
正職員にほとんど任せているからだ。
年配の人もいるし、保育自体はその人達に任せていればそれでいい。

全国には同じように園長がほとんど園にいない園は本当に多い。
地域の仕事なども多忙で園にはあまり関われなくなっている場合が多い。

そして園長がいつも園にいるのに同じようになっている園もとても多い。

だからそういうところで話を伺うと「うちの職員はよく遣っている」と皆口を揃えて話すが、よくよく洞察すると「問題が起きないから良い」のであってそれは「理想を一緒に実現している」のではないことが多い。

そして何かをキッカケに一度理想を実現しようと突然園長が思い立ってしまったら職員の猛反発に遭い大量退職や混乱などに繋がる。

それは園長の人間性がどうだこうだもあると思うが、本質的には「今まで何もしてこなかったツケ」を清算しているだけなのだ。

「放ったらかしておいてバッサリマネジメント」ではそれはちょっとどうかなと思ってしまう。

私は理念なき理想なき園は、園長未設置園と同じに見える。

なぜなら、園の職員と個人面談をしてみるとよく分かるからだ。

園長未設置園の職員と、園長がいつも忙しい忙しいと園にあまり出てこず、後は任せたからと何も自らの専門性や見通しをつけようともせず、「分かった気になって」いる場合の園の職員は、ほとんど同じようなことを私に話すからだ。

園長と一緒に理想を実現する仲間が、果たして「ぼんやり見えている」だけで本当に良いのだろうかと私は思う。

トップが観ている、観得ている、観るために努力して身に着ける「見通し」がどれだけ精錬透徹されているかが重要であって、それをどれだけの職員と同化するまで本質的なコミュニケーションを積み重ねているか?

やはりこれは自分自身の実践でも日々感じるのだが諸所の問題の総責任はすべて組織のトップがどうあるべきかを問うだけのことだと私は思う。

園長はよく「私は職員と同じではない、経営をしているんだから」と言う。
しかし、そんなことは誰も聞かなくたって分かる。

では「いったい何をすることで同じなのか?」と聴いてみると答えられない。

園長の遣ることは本当はもっとたくさんあるのに、外では園長会で分かった気になるために同調したり、自分の考えと違うところばかりを探していたり、業者の創った大人目線の商品を最先端だと一緒に共感したりしている。

また内では園に長く居るや環境は用意してやったや研修に出してやっているや先生に決めさせているからと言うがそれも一つであってもまずは本当は何を自分がしていることが園にとって子どもにとって一番良いのだろうか?

まずは自分の仕事の定義を哲学的にも深層的にも正しく固め、不動の軸を創出し、志がキチンと腹に据わっていなければ経営は本末転倒してしまうと私は思う。

経営が上手いとは、資金繰りや流行や人気などの分かった気になったことだけを言うのかと思ってしまう。

経営が上手いとは、そこに在る場が楽しいや遣り甲斐などがありそれぞれがそれぞれの個性や天真を発揮できなら共生し、個々で幸せに感じることができる場を持っていることではないかと私は思う。

何を持って経営と定義するかでもその方向性は変わってくる。

私は、日々、理想の実現に向けて人間学と時務学をバランスよく修養し今、ここに在る場を自らの練磨の道場として質を高め続けることが生きる本懐だと思っている。

そしてそれはまずトップが、一つの道で決めた自分を含めた今在る環境の中での理想の実現という道や志よって場は育ち、邂逅が出来るのだと私は思う。

どんな時も、それが子どもの未来の夢や志にまで影響できるようにまずは私たち自身の仕事を通じての場を、自らが最期まで遣りぬくための道場とし日々怠惰な精神を戒めながらコツコツと明日を切り開いていきたい。

道元禅師の遺訓にある

  「是の処は即ち是れ道場」

問題が山積みであることを前向きに解釈し、だからこそ自分にしかできないことで自分が遣りたいことを思う存分楽しみながら怠らず勤めていきたいと思う。

感謝

ルールという豊かさモノサシの定義

私たちの会社には、私たちのルール(約束)が存在する。今の時代ではルールは法律だけで倫理や道徳などのものは特殊なものになっているが、私たちは社会の風潮とは関係なく次世代に繋がる当然のことだけは会社でルールにして守るようにしている。

その中にはたとえば、こんなものがある。

@歩道は点滅信号などでも渡らない、また赤信号を横切らないなど。

当たり前だよとあるのですが、実行してみるとなかなか難しい。都会の朝は通勤などで足早に横断歩道を駆け抜けようとする大人たちにつられて無意識に渡ってしまいそうになる。

周囲を見渡すと子ども達が居る。新一年生や幼稚園に通う子ども達はまだ分からないので周囲の大人たちと一緒に行動しようとするからとても危険なことだと感じる。

昨日も、ボランティアの方が旗を持って立ってくださっていたが反対側では子どもが無理に渡ろうとする大人につられて赤信号を無意識に渡ろうとしていたのですぐに引き止めた。

最近は、なるべく出張がないときは朝その子ども達が気になるので同じ時間に自宅を出てその子ども達がちゃんと横断歩道を渡るのを見守りながら出社するようになってしまった。だいぶ最近は気づいてくれているように思う。気づかないのは相変わらず足早な大人たちと危ない車の運転をする大人たちだ。

他にもルールがある。

食事をするときには、必ず「いただきます」「ごちそうさま」をすること。タバコは吸わないこと、合成洗剤は使わないこと、等々色々とある。

全部、カグヤでは守らないといけないこだわりになっている。

私はこれをこう考える。

ルール(約束)とは、一人で生きているのではないのだから存在する。

自我が生まれて境界線を引いたのが人間なのだから、その代償に自己と他者のためのルールを創った。しかしなんだか今のこの国の自由の定義は、自分勝手だと思っている人が多いと感じる。これも教育や社会、国家の衰退を示すのかもしれない。

自由の定義は、幼い頃から教わっていくことがなければこんな風になるのだろう。個の自立などは、この国の一斉画一思想の中では揉み消されてしまうのだろう。

しかしこんなに身近でもルール(約束)が定義されないのは子ども達には危険だ。

私が思う自由というのは、豊かさのようなものだ。

スローやロハスなども私たちの会社では柱にして講演や研修をしていることが多いのも自由を学ぶためにやっているのだと私は思う。

改めて説明するまでもないがスローやゆったりなどは、何も時間がゆったりや遅いなどの意味ではなく「心が豊かであること」を定義しているのだ。

自由とルールの必要性とは、この自我や他者がある境界に於いて「お互いを思いやる真の豊かさ」のために約束という共通定義を設けたのだと私は思っている。別に競い合うためでもなければ奪い合うためのものではないのだ。それはやはり「思いやり分かち合い寄り添い生きていく」ための無形の財産であり無形の文化であるのだ。

だからこそ「ルール」を正しく認識し、それが制限して縛るものではなく本当は豊かになろうよと皆でそれぞれの生きるものが共生し地球の未来が永続するよう素晴らしい社会を創造しながら夢に向かって自己実現しようとする大事なモノサシにしていければいいと思う。

ルールが世間で厳しいもの、なんとなく権威主義や管理主義に感じるのは学校教育からの刷り込みなのだ。学校では皆と同じという平均が平等だという間違った平等を教え込まれ、個性が落ちこぼれや変なやつ扱いされ無意識に押さえ込まれてきた。変な正義を振りかざすための大人が勝手に作った管理用のルールだったからどうしても嫌な感じがするのだろう。

だいぶ話がそれたがカグヤでは他にもこうやってどんどん自分達の豊かなルールがたくさん生まれている。

その御蔭で豊かさが保たれ、そしてその御蔭で他者を思いやるロハスを実現できることがとても幸せなことだと皆で話し合えている。

これからも私たちの社業を通して本当の意味での自由とルールといううものを保育園、幼稚園の大人たちには理解してもらえるように信念を通していきたい。

私たちの定義するコンサルティングは、常に『自分に矢印』

矢印を自分に向けながらどこまでこのカグヤ自身の実践にそれぞれが真面目に取り組めるかが私たちの生命線なのだと今の習慣と覚悟を日々新たに深めようと思う。

再構築

ニンゲンは、動物の中でも特にゆっくりと成長していく生き物だという。
特に大人になるまでには20年もの歳月がかかると世間では定義している。
野生の動物であれば、ある程度生まれたらすぐに肉体が外界に適応していく。
そうでないと食べていくことができない、つまり生きてはいけないからだ。

なぜニンゲンはそうなっているのだろうか?

私の主観だがきっと自然界においてニンゲンは色々なことをゆっくりと一つずつ学んでキチンと世の中に調和し自然にしていく調整役だったのかもしれないと感じる。先人達が定義した万物の霊長となるように生物界に大きな影響を与える世界のリーダー的存在としてその成長速度がきっと必要不可欠だったのではないかと思う。

それはすべての生き物には意味のないものはなく、役割がそれぞれにあり共生していると思えるからだ。

共生するためにはそれぞれが自然界においての原理原則という真実や本質の軸がぶれないように自らの命を昇華していくのが大事なのだろう。そうやってしか相手を深く尊重し在るがままに認めていくことができないからだ。

なのになぜ今の時代は、その最低限の調和が満たされなくなってきたのか?
多くの生き物が絶滅し、環境が壊れ、人々の豊かな心も荒廃してきている気がする。

私はその原因の一つに余分な貯蓄というのがあるのではと思ってしまう。
足るを知るというか自らの持分以上を持たないというイキカタはできないのだろうか?

身近でも誰かが貯めれば誰かが損をするという仕組みを感じる。
「ありがたい」といった感謝の気持ちの方を蓄える方が価値があるのに。
「もったいない」という方が相手の心を大切にし満たすというのに。

どこぞの国のように石油の独占のために殺し合いまでする国がある。
これは本当に今の時代における自然なことなのだろうか?

貪欲な自我欲を外界に求めジブン達だけが生き残ろうというのはどうだろうか?
常に主役は「ジブン達」だけでいいのだろうか?

こんなに不自然になったのはいつからなのだろうか?
モノがなくったって心が豊かであればそれでいいという生き方がなぜ今はあまり大切にされないのだろうか?

精神だけを成長させ肉体が持つ普遍的な自然を無視し機械的に都市化された社会にだけあわせていくことが自然界にこれからもどのように混沌や混乱を起こすのだろうか?

精神も肉体あっての精神なんだよと、人々が持つ「死」がそれを我々に教えてくれているというのに。自然淘汰という響きは哀しいものではない、そこに安らぎを感じるものが自然なのだと思う。

なぜもそんなに急ぐのか、急ぎすぎるのか・・・

このように速度には、肉体的時間と精神的密度があるのだ。
その両輪がちょうどかみあわないのでは調整することはできないだろう。

・・・

話を戻すとそれでも人は悠久の年月をかけて「ゆっくりと育つ」真理は変わらないと思う。
そう考える時に、何だか不思議な矛盾を今の世の中には感じてしまう。

「精神」というカタチがないものでも同じようにゆっくりと壮大な年月をかけて育っていくはずなのにニンゲンはその精神の速度をも無理やりに上げてはいないか?

最近、ある雑誌で子ども達へのインタビュー記事を見つけた。
私自身の「子ども」への刷り込みもある程度あると思うのだがそれでもその子達のほとんどの発言は昔で言うところの「子どもっぽく」なく感じるものだった。
妙に大人っぽい意見を言うし、妙に大人や社会を意識している気がする。

もっとゆっくり子どもである方が自然なのにと思ってしまう。
見た目の子どもっぽさと、子どもが持つ純粋な童心とは意味が違うと思からだ。

大人が創り上げていく社会は、子どもが育つ時間的な速度をも強引に速めている気がする。子どもにとっての速度とはゆとりをもったゆっくりとした速度という密度が自我を正しく形成させ社会に順応し自然に調整していくのだと私は思う。

周りの人たちや大勢の集団、今のオトナ達を見ながら、この辺だろうと思うことで自分を他人にあわせていくことで正しいのだと刷り込まれそんなジブンを満たすことで精一杯になっている感じがする。

もっと子どもでいいのに。
そう心から感じてしまう。

きっとそう子どもにはさせてあげることが自然なんだと思う。
我々大人が、自分たちの勝手なモノサシで子どもの成長を邪魔してはいけないと私は思う。

この辺で世界や子ども達のためにもどこぞの人々が勝手に引いた線、ボーダーラインを再構築する時期ではないだろうか。

人々が勝手に造ってきた人工的に人為的に構築した今の社会において、もし我々ニンゲンが自然界の調整役だとしたらそろそろ本気で調整する時期になったのではないのだろうかと思う。

何代も何代もかけて、長く築いてきたものを再構築するのは大変だと思う。
しかしそれをしっかりと尊重し、子ども達の信じる未来を新たに構築するために勇気を持って変えていきたいと願う。