自然の基盤

今回の新型コロナウイルスは、人間社會にとっては非常に大きな問題ですが虫たちや植物たちにとってはそれよりも気候変動の方が大きな問題になっているように思います。

一部では、かえって空気汚染が解消され人間が自粛することによって生活範囲がひろがり快適になっている動植物もいると思います。地球には人間だけが住んでいるのではなく、あらゆる生物が折り合いをつけて自然と共生しているのだからどちらかの天国がどちらかの地獄でもあり、お互いに謙虚に支え合って生きているのが地球のいのちの本体です。

私が気になるのは、コロナウイルスで経済が打撃を受けて世界恐慌や戦争になることではありません。もちろんそれも心配ですが、人間は何をするかもっとも分からない生きものですからこればかりは予想などできず、常に福に転じていくよう日々の暮らしを整えていくしかありません。

しかし気候変動は、生物界全体に大きな影響を及ぼします。一つの生き物が息絶えてしまえば、それを支え合う大くの生きものたちもまた息絶えてしまいます。絶滅の連鎖です。

この絶滅の連鎖は、最終的にはすべての生命の生息をとめいのちの水そのもののハタラキも停止させてしまいます。現在の火星のようになるのも時間の問題です。地球は、あらゆる生きものたちが有機的につながることで生命を維持しています。この絶妙でもっとも微妙なバランスが崩れることは、その間を流れる水の流れもまた止めてしまいます。

水は人間の身体でいう血液であり、血液が流れるから細胞は活動します。血液を流し続けるには、細胞たちの活動とハタラキが欠かせません。そのために、私たちは肉体を通して地球の生命の実相を学び、その肉体から発する様々な感情を得ては何が健康であり、何が不健全であるかを学びます。

いくらAIや意識や脳を進化させても、陰ながらすべてを支える地球の存在を抜きにして私たちはこの暮らしを保つことはできません。

気候変動機において、如何に多種多様な生物を守り共生を持続させていくか。人間ができることはまだまだたくさんあります。まずは、今の人間の経済のみを優先する姿を見直し、徳を積み、徳を広げるという自然の基盤となる道徳経済の世界に易えていくことだと私は思います。

子どもたち、子孫たちのためにも、今できることを今やらなければなりません。自然との共生は、足元から変えていくことができます。このチャンスを活かして、新しい挑戦に取り組みたいと思います。

にもかかわらず

武士道を伝える書物、「葉隠」を記した江戸時代の武士、山本常朝がいます。この人物が、大変な時にこそどのように過ごすかということを話しています。

「大難大変に逢うても毫(すこし)も動転せぬといふは、まだしきことなり。大変大難に逢うては歓喜雀躍(かんきじゃくやく)して勇み進むべきなり。一難関を超えたる所なり。「水増されば船高し。」といふが如し。」

これは大困難や大変事のとき平静でいられるのは、まだ未熟な証拠である。大変な事態に遭遇したら、喜び勇んで立ち向かって行こう。これが一段突き抜けた境地と言えよう。まさにこれこそ、苦難を超える妙法であるといいます。

松下幸之助氏も似たようなことを言います。

「憂事に直面しても、これを恐れてはならない。しりごみしてはならない。「心配またよし」である。」

「万策尽きたと思うな。自ら断崖絶壁の淵にたて。その時はじめて新たなる風は必ず吹く。」

「人は何度やりそこなっても、「もういっぺん」の勇気を失わなければ、かならずものになる。」

過去に様々な困難を乗り越えてきた人たちの励ましの言葉は、時代を超えて心に響いてくるものがあります。人類は様々な困難を目のあたりにして絶望に何度も遭遇してきました。あらゆる困難をどのように乗り越えてきたか、それは歴史や先人の生き方からも学べます。

世界は、今回の感染症で新たな時代に移行していきます。この時こそ、萎縮するのではなく敢えてのびのびと挑戦した人が次の時代を切り拓いていくようにも思います。

その時、大切なのは何か。

それは「笑い」だと感じます。日本は古来から歴史に「和來」の効果を神話から語り継がれている民族です。こんな時こそ、笑って明日への希望を持ちたいものです。

最後に、外国(ドイツ)の諺を紹介して終わります。

「ユーモアとは『にもかかわらず』笑うことである」

この「にもかかわらず」という言葉、これが切り拓くためのキーワードです。敢えて、挑戦するという姿勢は私のモットーでもあります。

子どもたちのためにも、楽しみ味わい、豊かに挑戦していこうと思います。

 

徳積スマートシティ

日本人は災害時の助け合いが世界から大変評価される民族であることは有名です。いくら日ごろは他人のようになっていても、東日本大震災の時のようにみんなが災害に遭うと全国民で復興を支え励まし応援していきます。

これはかつての日本人の暮らし方が、災害時に備える暮らしになっているからだと私は感じています。

例えば、御祭りや神事、稲作や沖縄の結のような集まりもすべて災害時に備える暮らしを日々に実践しているように思うからです。

そう考えてみると、日本の旧街道もまた災害時に備えて街道や交通を支える仕組みがありました。参勤交代などで、宿場町を通れば、宿場町の人たちがみんなでおもてなししなければ成り立ちません。敢えて、その機会を繰り返すことで支え合い助け合い見守り合えるような環境を創造してきたように思うのです。

街道の手入れもまた、そこで暮らす人たちによって行われました。美しい街道が軒並みあるところは、一人一人が意識的に美しい暮らしを心がけて手入れを欠かしませんでした。

かつての街道には、今のまちづくりで問題になっている諸問題を解決するためにベンチマークできる実践が多くあります。

敢えて、災害に目を向けること、災害時に備えるために日々の暮らしを整えていくこと。これを先進技術が支えれば、温故知新され新しいまちが創造できるように思います。

徳積スマートシティをブロックチェーンストリート構想で実現してみたいと思います。

カグヤさんの誕生日

カグヤを創業して今月で18年目になりました。思い返せば、大きくは理念を定めるまでの混迷期、理念を定めてからの立ち上げ期、理念を浸透して実践するまでの確立期、理念を持続させる文化醸成期に分かれていたようにも思います。

常に理念と対話し、カグヤという法人を擬人化して対話を続け、カグヤさんという呼び名で常に何を求めているかを自問自答しつつみんなでここまで創り上げてこれたように思います。

みんなの意識と実践の集合体ともいえるカグヤさんは、理想や理念、目的だけが存在し協力し合って見守り合ってここまで来ました。その間、多くの出会いと別れがあり、思い出とご縁をいただきました。

私をはじめ未熟な人たちが多い中でも、何とか荒波を乗り越えてこれたのはこれまで関わっていただいた人たちの支えがあったからです。人は支えがあることで支えられ、助け合うことで共に暮らしを営んでいくことができます。

カグヤさんと一緒に生きてきた暮らしの日々は、カグヤさんに導かれて暮らしてきた日々とも言えるように思います。

これまで子どもたちを見守る使命に活かされてきた日々、そしてこれからもさらに子どもたちを見守る志に向かっていく日々。カグヤさんの意思と共に私たちは暮らしを易えていきます。

世界にとってこれから相応しい生き方を示せるように、引き続きカグヤさんと一緒に力を合わせて着眼大局着手小局を大切に歩を進めていきたいと思います。

モビリティの本懐

最近、あることからモビリティのことを深めている中でふと乗り物の歴史について学び直す機会がありました。私たちの現代においては、自転車や車は当たり前で飛行機も新幹線も当然身近にあるものです。しかし150年前まではそのどれもが存在しておらず、私たちの乗り物は大きな変化を遂げていきました。

現代では車社会も一つの終焉を迎えており、移動手段が激変していく時代を迎えています。乗り物としての存在と、そもそも乗り物を使って何をしたかったのかという人類の目的の狭間で新しいものが創造されていくのは時間の問題です。

改めて少し移動手段の歴史を整理してみると、そもそも紀元前1万年以上前は足で歩いていました。そこから筏や丸太がではじめ丸木舟は紀元前7千年くらいに出てきたといいます。そして紀元前5千年にはソリが生まれ、紀元前三千五百年頃には車輪付きの車が誕生しました。これをロバなどが引いていたといいます。そして紀元前三千年頃には、乗馬や帆走船がでてきて交易船によって栄えていきました。そのあとも、少しずつ改良され様々な自然物を活かした乗り物が利用されていきました。

急激に現代のように科学の乗り物が進化したのは蒸気による動力の発明からだといわれます。この発明から、より多くの荷物、スピード、そして遠くまでいけるようになりました。

産業革命はその後、様々な科学技術の進歩と共にあらゆるものが発明されていきました。1769年には、蒸気で走る三輪自動車が発明され、1783年には蒸気船、1802年には蒸気機関車、1886年にはついにガソリンを使った車が誕生しました。1903年には飛行機という具合です。ここから100年はさらに進化し、原子力潜水艦、人口衛星、宇宙ロケット、新幹線、リニア、ジェット機、電気自動車、水素自動車、他にもこの数年で様々なエネルギーを活用した乗り物が誕生しています。

私たちは、乗り物を使い科学を発展させていきました。言い換えれば科学の発展と乗り物は常に一体に進歩してきたとも言えます。しかしそのことから、環境汚染が広がり、人間の生活速度が変わり、世界中に資本主義経済が発展する動機となりました。

物流は日々に便利になり、今日ウェブ上で注文したものがその日のうちに届く具合です。さらに仮想空間ができたことで、体は移動しなくてもVR等により意識が移動できます。他にも、AIやIOTが進みそもそも移動する必要がない状態が生まれています。

人類の乗り物は、単なる移動手段ではないことは歴史を学べば明確です。

だからこそ、本来、モビリティの本質は何かを人類は問われているように私は思います。ゆったりとスローに移動するということは、ひょっとしたら今の人たちからしたら変人の戯言のように思われるかもしれません。

しかし、私の提案する暮らしフルネスは敢えてそれを先進技術で補う仕組みを取り入れています。時代が変わりますが、人類の目的や人生の意味は普遍的です。

子どもたちが安心して地球に豊かに住み続けられるように、新しい取り組みを発信していきたいと思います。

居場所

場の共有を考えていると、まず最初に意識するのは「居場所」です。自分が何処にいて何をしているのか、どのようなコミュニティを築いているのか、自分というものを認識するのにもまずはその居場所を確認するものです。

自分の居場所は、単なる物理的な場だけではなく意識の中の場というものもあります。家庭での居場所、会社での居場所、社會でも居場所、世界での居場所、あらゆる居場所から自分の布置を見つめていきます。

自分の居心地の善い場所を見つけるために、人は場を求めていくものです。そしてその求めている場を求めている人たちと共有するとき、居場所が創造できるように思います。

そして居場所を創造するには、まず自己との対話が必要であり、自分が自分のままでいい、自分のままで愛されているといった状態、その上で、他人にも同様にその意識を持つことで居場所は顕現されていくようにも思います。

居場所の顕現するとき、人は心の安心を得られます。自分という存在をどのように認め合うか、これは居場所づくりにおいてとても重要であると思うのです。

だからこそ、場の共有とは自分という人間を丸ごと認めること、そして一緒に生きていく人たちのことも丸ごと認めること。自分にとって都合が悪いからと全部排除したり、その人のダメなところは一切認めないという心の態度では居場所が創造することはできないようにも思うのです。

人間は、長いこと評価に晒されてくると自分のダメな一面を認めようとはしなくなります。そうなると同様に他人のダメなところも認めることができません。丸ごと認めるという場が共有されるとき、人間は安心して自己を表現し自己を発揮していくことができるように思います。

自分の個性を理解してくれる存在や、自分の持ち味を分かち合ってくれる存在、そして自分というもののマイナスなところも含めて許しあえる存在、そんな存在に出会うことで人は居心地の善い場にたどり着くことができるように思います。

自分を受け容れることは場の共有において大切な実践項目です。

子どもたちが安心して場に自己を発揮していけるように、場の共有を深めていきたいと思います。

場の共有

人間は、「場を共有」することで共存共栄してきた生きものです。ここでの場とは、同じ空間と時間を一緒にするという意味です。同じ空間と時間をというのは、人生は生まれてきた中で色々な人たちとご縁があります。その一度きりのわずかな時間に、誰と一緒に生きていくか、誰と時間と空間をシェアしていくかということでその人生の質は決まります。

つまり人生は、場によって創造され場によって演出され場によって顕現するということです。だからこそ、場の共有は同じ時代、同じ場所、同じ空間を共にする仲間との大切な分かち合う時間だとも言えます。

人生は、色々な目的がありそれぞれに志があります。これだけ多くの人間がいても、一生のうちで関わるのはわずかな数です。そのわずかな数によって人生は彩られ、その奇跡とも言えるような組み合わせによって体験する内容が異なっていきます。

あの時、出会うことがなければ、あるいは、あの時一緒の場に遭遇しなければと、一期一会に人は場によってあらゆるご縁を導きだしていきます。

そしてどのような場を体験したいかという、それぞれの目的に合わせた夢や理想に向けて人は場を重なり合わせていくように思います。それがまさに「場の共有」の実践なのです。

それは家庭でも然り、職場でも然り、ライフワークでも然り、どのような人と、どのような場にしていくかは人生にとって大変重要なテーマであることは間違いない事実です。

だからこそ「場の共有」と正対し、どのような場を創造していくかは一人一人の主体性と責任が関わるものです。場を整わすことも、その場を活かそうとするからであり、場を清めるのも、場の目的を明確にして場を高めるためでもあります。

私の主催する場の道場は、場にこそいのちの原点があり、場にこそご縁の真髄があると確信しているものです。場によって人が変わり、場によって世界が換わる。これからの時代、新しい場の共有が人類の進む道に大きな影響を与えるはずです。

子どもたちのためにも、場を深め、場を譲り、場を遺していきたいと思います。

場の重要性

世界では古来から「場」には健康や幸福に大きな影響があることが信じられてきましたが現代は、都会を中心に空きさえあれば無理やりに場所を削ってはそこに人間都合で様々な建物を建てていきます。特に日本では、もともと墓地だったところや伝統的に大切にしてきた場所でさえ経済的な都合で自分勝手に移動させていきます。

本来、その場所には特別な力があって敢えてその場所を神社にしたり、墓地にしたり、石碑を建てたりして触らないようにしていたものにまで勝手に触っては壊していきます。

そのことから、原因不明の病気が流行ったり、疫病が増えたり、事故や怪我、事件が発生したりすることが増えています。科学では証明されないからと好き勝手に先人たちの体験や経験からの知恵を粗末にすればそのしっぺ返しが子孫たちに及んでしまいます。

現代人の問題は、とにかく視野が狭いということです。そして短期的であり、視座が高くないというところにあります。目が届く範囲の物事にばかり執着し、目には観えないものを軽んじているというところです。

目に見えないものはすべてオカルトであるとは限りません。目に見えないからこそ、心の目で捉える必要があるのです。心の目は、目には見えないものを観ることができます。心は、深く広い視野と高い視座、そして先人たちへの畏敬の念がなければ働かないのです。

しかし世界では、場が影響をすることを調査研究している事例もたくさん出てきています。例えば、ドイツで発表された「オパシック・ストレス」は、1920年代に、ドイツの特定の地域で、ガンの発症率が、他の地域に比べて非常に高いことから、原因を調査し発見された現象です。この「ジオ(Geo)」はギリシャ語で「地球の」、「パシック(pathic)」は同じくギリシャ語で「苦痛」地下からの有害エネルギーを、意味します。現代では、地上の、高圧電線や電波、電磁波、放射線などの、人口周波数も含めて、ジオパシック・ストレスと呼んでいます。

これは場が非常に乱れた磁場になっていてそのことで木にコブができていたり、ダウジングで反応が出たりもします。それを人体も、長期にわたり影響を受け続けることで徐々に体力や免疫力を弱め、様々な慢性的な症状を引き起こすといわれます。

地場や地磁気が乱れるというのは、目には見えないし感じにくいものですが確かに自然界で存在しているものです。野生の鳥たちはその地磁気を感じますし、虫たちや植物たちも地場の良しあしでその棲む場所を換えていきます。

それくらい私たちのいのちは、存在する場所が重要な要になってくるのです。その存在の場を軽んじていたら、知らず知らずに人生に多大な影響を受けてしまいます。子孫のためにも、場を譲りの残していくことは先祖になる自分たちの大切な使命であり責任です。

子どもたちのためにも、場の重要性を世界に示していきたいと思います。

自然の薬

昨日は、郷里で有名な漢方の先生のご紹介で諫早にある御湯神指しでよもぎ蒸しを体験してきました。ここは、韓国の「汗蒸幕」(ハンジュンマク)を改良したサウナがあります。松の木をドーム型の石室の中心で燃やし、麻布をかぶって入るという約600年の韓国式伝統サウナもあります。

昨年末より胃腸の具合がわるく、疲労の蓄積があると漢方の先生にいわれて漢方治療と湯治を優先しつつ回復につとめています。ちょうど、BAでの復古創新している日本古来のサウナも出来上がったことから敢えて色々と対比しながら学ぶためにも体験してみました。

サウナの方の火は、私の備長炭のサウナと異なり陽の火が強く感じられ長く入っていることはできませんでした。その分、短時間で体内に熱を貯めつつそれを外に排出する作用があり短い時間でも充分な効果があるようにも感じました。難病の方や、重度の病気を持った方が来られることが多いとお聞きし、いのちの燃焼を手助けして寿命を延ばす効果があるようにも感じました。

私は火には、陽の火と陰の火があるように直観しています。陽の火は、キャンプファイヤーの火で明るく燃え盛り爆発するようなエネルギーを周囲に散らしていくような興奮の火です。特徴は瞬間的に、一気に燃え盛るものというイメージです。
もう一つの陰の火は、火鉢の中の備長炭の火で穏やかにしんしんと静かに消えていきながら遠赤外線を放射していく癒し回復を助ける火です。陽の火はアドレナリンが出て、陰の火はドーパミンが出てきます。

つまり火は二つの性質が一体化したもので、火は最初から二つで一つであるということです。陰陽の原理は、いのちの原理であり、最初から水も火も、木も土もすべて二つの別々のものが合わさってできています。これは人という字にもあるように、人間も肉体と魂が融合して存在するように二つが一つになっているのです。

話をよもぎ蒸しに戻せば、このよもぎ蒸し(よもぎむし)は、よもぎを煎じた蒸気を下半身を中心に体全体に浴び吸収させる民間療法で韓国では600年から700年ほど前から、産後ケアとして愛用されているといいます。

よもぎといえば、私も幼いころから怪我をしたり虫に刺されたりしたときの応急処置で使っていました。不思議と、よもぎをすりつぶしたものを塗り込むと皮膚炎が収まったり擦り傷の回復が早かった記憶があります。

漢方でこのよもぎは、浄血、造血、末梢血管の拡張作用、新陳代謝促進、抗アレルギー作用、殺菌・制菌、などの働きがあるといいます。実際に入ってみると、独特な香りがして体の毒素を中和しているような感覚がありました。

そもそもお灸で使うもぐさもよもぎからつくられます。特にお灸に使うもぐさは春、草餅やよもぎ団子になっているあのよもぎを使います。よもぎは春に芽を出す生命力旺盛なもので、街中の道端の隙間や土手などにたくさん生えてきます。生命力旺盛な植物です。そして乾燥したよもぎは艾葉(がいよう)と呼ばれ、生薬としてカラダを温め、腹痛、胸やけ、下痢、便秘など、さまざまな症状に効果があります。

このよもぎのもぐさは、梅雨が終り花の咲く前によもぎを刈り取り乾燥させ臼でくだいたあと葉や茎を取り去るという作業をくり返しくり返しつづけやがてほんの少しのフカフカの綿毛だけになります。この綿毛がもぐさなのです。

乾燥したよもぎからたった200分の1しか取れない貴重なものです。このもぐさにはよもぎに含まれる精油成分があるためか、火つきがよく、熱さ少なく火持ちもよいのでお灸に最適です。

先人の知恵というか叡智には頭が下がります。中国では2000年以上前からこのように民間療法がお灸という形で伝承されてきました。時代が変わっても歴史が過ぎ去っても、効果があったものだけは自然の篩にかけられて今でも残っているのです。西洋からやってきた科学的な薬も短期的には効果がありますが、本来の自然治癒や人間の叡智から編み出された自然の薬はなによりも人々の身体だけではなく心も同時に癒します。

BAの浄化場で自然治癒をさらに究め、人々の心身を癒し自然との共生を回復させていきたいと思います。

日本サウナの誕生

昨年の夏ころから準備してきた備長炭を使った日本古来の伝統サウナが無事に復古創新されました。昨日はその最初に火入れをした記念すべき日で感動も一入でした。

思い返せば、フィンランドのキングオブサウナを訪ねて、トナカイが道を歩いているような田舎までいきその仕組みや原理を学び、その空間や場から本質を洞察しました。また現地のスタッフの方から考え方や生き方、そしてそのおもてなしの在り方までご指導いただき世界標準の水準を設定しました。

そして帰国してからは、日本古来の石風呂をはじめ全国各地にあるサウナ石を研究し収集し、実証実験を何度も繰り返しました。また現代のサウナの聖地と呼ばれるサウナを渡り歩き、日本人にとっての好ましい水風呂の質を研究しました。

同時に医療の事を学び、自律神経を整える仕組みや、漢方を学び、サウナにもっとも相応しい生薬が何であるかなど一つ一つ整理していきました。

また外気浴のために、如何に善い風が吹いてくるか、どの場所に何を配置するともっとも穏やかな感覚になれるかを図面で何度も検証して現在の配置にしています。

日没の夕陽が鳥羽公園に反射してキラキラと幻想的な風景を演出できるように庭も改造しています。

そして用いる炭は、最高級の備長炭をつかい6時間から8時間ほど火を見守り、石に火のいのちを転換させ波動を発生させていきます。

私は正月から体調を崩し、ずっと不調のままでこの日を迎えましたが昨日甦生させた日本古来のサウナによって体調が回復する奇跡を得ました。身をもってまさにその効果を体験でき、これからこの浄化場が人々の心身を救っていくことを道具たちと共に誓い、新しい場が誕生したことをお祝いしました、

この地に、新たな聖地が生まれたことを仕合せに思います。

子どもたちが、安心してこの先も日本の伝統文化を温故知新していくモデルが残していけるように私の生き様から世界へ表現していきたいと思います。すべてのご縁と出会いに感謝しています。