やまと心の甦生

万葉集を深めていると古代の日本人がどのような信仰を持っていたのかに気づくことができます。また現代で変わったこと、また変わらないことも感じることができます。自分たちのルーツを辿っていく中で、どのような感性を持っているのか。そして感じてきたのかを、時空を超えて味わう中で心の故郷を感じることができます。

これは過ぎ去った古代の探求ではなく、今も続いている古代の心を感じる道の実践でもあります。

古代の心というのは、今もある人間の普遍的な深い情緒です。喜びや悲しみ、幸福や不幸などあらゆるものを心で味わい、それをそのままに詩にしていきます。その気持ちは、誰でもが持っているもので心情に通じるものがあります。

またその歴史的な背景を知ることで、私たちは状況を想像することができ共感するものです。自然に鳥が鳴くように、雷が轟くように、音を発します。その音は、古代から今も変わらずに続いており、それを聴くこと、詠むことで今も同じ時を過ごしていることを直観できるものです。

万葉集に触れていると、先祖たちの生き方や生き様が垣間見れます。また美しい心、切ない心、感動する心や童心など、感じ方、心の機微を味わえます。

よく考えれば、祖父母がどのように今の自分の歳に何を感じていたのか。あるいは、子どもの頃はどのような気持ちでいたのか、そういうものに耳を傾けると自分の今につながっている想いや心を感じます。

万葉集に感じる懐かしさというものは、まるで自分が生前にそれを味わったかのような余韻を感じます。どうにもならないことこそ、そのまま受け入れるしかないものこそ、そのまま言葉になります。その言葉は、時代を超えて語り継がれていきます。

なぜならそういう言葉こそ、真実の言葉であり解釈もできず分類もできず、理屈もなく、純粋な心そのままを帯びた言葉だからです。

大切な我が子をなくしたり、愛する人と別れなければならないこと、理不尽な不幸が訪れたり、自然災害ですべてを失うこともある。言葉にできないからこそ、言葉にするのです。そうやって人は、その事実を味わい人生を盡してきました。同時に、出会えた喜びや、無上の感動、奇跡のような幸福や、当たり前ではない仕合せを感じて言葉にします。それもまた、事実を味わい人生のかけがえのない妙味を感じてきたのです。

生きるということを、先祖からどのように倣っていくのか。今のような時代だからこそ、先人の生き方を参考にしていくことが私たちがいただいた財産であり宝であろうと思います。

私のこれから取り組む、やまと心の甦生は遠大で無限、終わりなき旅です。古代の人々の想いをつなぎ、徳に報いていきたいと思います。

日本という存在

日本という存在の面影というものを色々なところで見つけることができます。まだ有難いことに私たちの世代は西洋化の影響を受けてきた変遷、またそれでも遺っているあらゆる文化や伝統の両方を味わうことができています。

変化を見つめて味わうなかで、原点をよく見つめて五感を研ぎ澄ませていると日本人とは何か、日本という存在は何かということを直観することもあります。釈迦が因果律を語るように、本来、はじめに種がありそこから繰り返し変化を続けて生き続けています。

土というものに触れ、水と太陽、つまり自然というものと共生をしてきた歴史、そして何をもっとも大切にしてきたかという歴史、これが民族を形成していることは間違いない事実です。

神話から今に至るまで、それを何度も繰り返し辿りながら似たようなことをやり続けます。これが託された人生でもあり、天命という仕合せと結ばれている生き方でもあります。

小泉八雲という人物がいます。ギリシャ生まれの新聞記者、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、英文学者で1904年に亡くなられました。純粋でニュートラルな目で、ありのままのこの日本や日本人を捉えられた方です。

忘れてしまっているものを思い出させてもらうことは有難いことです。これは空気の存在、いのちの存在なども同様に当たり前で絶対的だからこそ意識しなくなるものです。

しかしこれがなければ生きていけず、気づかなければ幸福にならないものです。

小泉八雲はこういいます。

「日本の将来には自然との共生とシンプルライフの維持が必要」

「日本人の精神性の根幹には祖先信仰がある」

まさに、日本と日本人とは何かということをはっきりと観えておられます。私の暮らしフルネスのまた、同じような感覚で取り組まれているものです。

そしてこうも言います。

「日本人ほど、お互い楽しく生きていく秘訣を心得ている国民は、ほかにちょっと見当たらない」と。

お互いに楽しく生きていく秘訣を心得ている。そうあるとき、私たちは日本人なんでしょう。日本人よりも深く日本を愛したといわれる人が、そう思う境地を私も味わってみたいものです。

誰かに教え込まれた日本人ではなく、もっと緩んで開放し、自由にすべての束縛を手放し、まっさらの無垢な心で子どもたちには生きてほしいと思います。

真の大和人

人には誰にも故郷というものがあります。この故郷は、物理的な故郷もあれば心の故郷といったものもあります。しかしその二つは分かれているものではありません。私たちは地球の中にいてこの大地の上に生きています。だからこそその風土につながり根差して徳や養分をいただき生かされています。

かつては、世界中を移動しあらゆるところで生活を営んできました。気候変動や大陸の移動、また或いは惑星の移動をふくめ私たちの生命というものはその風土に適合し、その風土のいのちとつながり生きてきました。

生きてきた証拠に私たちには歴史があります。

私たちの人生の感情の中にも歴史は生きていますし、志とも共に歴史は生きます。途絶えたことがなく、故郷の中に歴史はあり続けています。一時的に、自分のことだけを考えるようになって忘れていてもふとした時に必ず故郷を思い出します。それが歴史がある証拠であり今を感じる実感でもあります。

例えば、山というものがあります。私は縁あって霊峰といわれる英彦山(日子の山)に関わることになりましたが御蔭様で故郷の風景や景色が甦ってきました。ここには、今につながる先祖たちの天命の元があり今を生きる私たちの原因、原点を持っています。

今の日本、そして日本人というものがどのように形成されてきたのか。その原初の価値観の元があります。文字では遺っていなくても、場所や風景、そして遺跡や文化、その土地の伝承や人々の間に今も徳として歴史が続いています。

その歴史をお手入れすることで、私たちは先人と繋がり直し網の目のように結ばれている歴史の正体を実感しなおします。神話、神代からどのようなことを繰り返してきたか。そしてその理由や原因を知ることで、自分たちの今、そして真の自己を形成するものを同時に実感することができるのです。

それが本来の自由な境地であり、偉大な存在の一部である自己との邂逅になります。

歴史はそのままにしておけば、過ぎ去った過去のように遺物となります。しかしちゃんとお手入れをし続けている人がいれば永遠に生きものとしていのちが輝き続けます。私が甦生をするのは、お手入れによってです。失われているようで、実は月が暗闇になるように陰で隠れただけでいつまでもそこに存在します。

新月から満月になっていくように、みんなで歴史をお手入れすれば元の月を眺めることができるようになります。美しい月は、美しい人々を育てます。これからの子どもたちにも真の地球人、そして調和を司る真の大和人になってほしいと祈ります。

この取り組みは、まさに徳積みの醍醐味、天に誠実であることです。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」

そういう人たちこそ、歴史を愛し歴史に愛される人だと私は思います。

この初心から、今を磨いていきたいと思います。

同志の友

昨日は、同志の友が来て一緒にお酒を酌み交わしました。お互いにそれぞれで別々の仕事をしていますが目的は同じだったりするものです。お互いにやり方が異なり、手段も違いますがどのようにアプローチをしていくのかは参考になるものです。

時代の中で、何度も同じようにそれぞれの得意分野や役割分担をしながら志を分かち合って取り組んでいきます。この分かち合いというのは、勇気の分かち合いでもあります。それぞれにそれぞれの場所で頑張っているからこそ、挑戦も葛藤もあり、その心を分かち合います。そのなかでお互いに前進していることを確認することで刺激し合うこともできるからです。

よく好敵手の関係というものもあります。ライバルともいいます。この存在の御蔭で自分が一つ進化していくことができます。仲間であり好敵手というものが同志というものも味わい深いものです。

長い時間をかけて人は成長していきます。そしてその長い時間、長い道のりの中で偶然に同じ目的地に向かっているような人と出会います。それは嬉しいものです。嬉しいからこそ、同志に恥じないように自分の持ち場で志を高めて磨きます。

磨き合う関係になるというのは、魂を分けた関係でもあります。みんなそうやって長い歴史の中で託された魂を受け継ぎ、分け合い、磨き合いながら前進し続けます。懐かしい何かに触れて色々と思い出しました。

吉田松陰の遺した言葉を振り返ります。

「道を志した者が不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。」

「決心して断行すれば、何ものもそれを妨げることはできない。大事なことを思い切って行おうとすれば、まずできるかできないかということを忘れなさい。」

「敵が弱いように、敵が衰えるようにと思うのは、皆、愚痴もはなはだしい。自分に勢いがあれば、どうして敵の勢いを恐れようか。自分が強ければ、どうして敵の強さを恐れようか。」

「世の中には体は生きているが、心が死んでいる者がいる。反対に、体が滅んでも魂が残っている者もいる。心が死んでしまえば生きていても、仕方がない。魂が残っていれば、たとえ体が滅んでも意味がある。」

「奪うことができないものは志である。滅びないのはその働きである。」

「成功するせぬは、もとより問うところではない。それによって世から謗されようと褒められようと、自分に関することではない。自分は志を持つ。志士の尊ぶところは何であろう。心を高く清らかにそびえさせて、自ら成すことではないか」

「英雄はその目的が達成されないときには悪党や盗人とみなされるものだ。世の中の人から馬鹿にされ、虐げられたときにこそ、真の英雄かどうかがわかる。」

「法律をやぶったことについてのつぐないは、死罪になるにせよ、罪に服することによってできるが、もし人間道徳の根本義をやぶれば、誰に向かってつぐないえるか、つぐないようがないではありませぬか。」

ということで、再会を楽しみにしています。

ルーツから

私たちは知らず知らずのうちに自らの価値観の中に歴史の影響を受けています。産まれて育った風土は、原初からずっと今まで続いておりそこに人々が暮らしを営んできました。時間軸でも、100年前も1000年前も、また数千年前もここで誰か人々が生活を営んできたのです。そして今も自分も同じ場所で生活をしています。

もしも1万年間ずっとカメラがその暮らしを撮影していてそれを数倍速で見たとしたら今の自分がこの風土に大きな影響を受けていることに気づくはずです。例えば、外国人で肌の色が違かったり姿カタチが異なるのもまたその風土の影響があってのことです。それに価値観や文化、食べているものの違い、得意不得意なども育った場所、そして生活様式、それらの影響も風土が決めます。国民性の違い、国民の特徴などもまた歴史や風土です。

つまり私たちは、何かを学び始めるずっと前に本来の自分たちは一体何者で何処からきて何をして目的は何かなどはじまりやルーツを知る必要があると私は思います。日本であれば、神話がありそれが国家になっていく歴史の変遷もあります。あとは、この日本の風土でどのように生活をつむいでどのように助け合ってきたかという経過も大切です。

そういうものを学び、知ることではじめて自分のルーツを知り日本という姿、日本人であるということを自覚できます。世界との交流がますます進むこれからの未来において、特に大切なのはこの「自分を知る」という教育なのです。

しかし残念なことに、現在は机上の学問が優先され地域や郷土、風土から学ぶという実践体験も失われています。同時に、ルーツはほとんど知らされず途中からの年号の歴史を学びます。今もつながって存在しているという生きた歴史ではなく、ショーケースに入ったような歴史を暗記しては受験のために使います。

すべての学問の原点でありルーツである歴史を学ばないというのは、未来に大きな禍根を残していきます。

キャリア教育とかSTEMとか流行りもありますが本当は何のために学ぶのか、そして自分とは何かという普遍的なことをもっと大切にしてほしいと思います。そのための歴史であり、そのための故郷があるのです。

子どもたちのためにも、私のできるところで真摯に取り組んでいきたいと思います。

備えを怠るな

昨日は、秋月の鎧揃えの武者行列に参加してきました。今年で2年目になりますが、この行事を甦生させた方々の想いや願い、そして努力や苦労、意味を感じる機会になりました。

もともと関わる切っ掛けは、秋月和紙の井上さんからのご紹介でした。井上さんは伝統の和紙職人であり、生き方をはじめこの土地風土を大切になさっている方です。侍とは何か、武士とは何か、刀を振るわなくても生き方の中に侍も武士の魂も持っておられます。

私は有難いことに、伝統的な民家の甦生や文化の甦生などにも関わりだしてから先人からの知恵をつないだり結んだりする方々に多く巡りあう機会をいただいています。

先祖を尊敬したり、先人へのご恩を感じたりすればするほどに何か自分もその徳に報いたいという気持ちが湧いてきます。今の自分の中には、その方々の心が共に生きているかのように感じるものです。

そもそも誇りやプライドは、単に自分を大きく見せたり恰好をつけたり自信を持ったりするものではないように思います。感謝であったり、謙虚さであったり、信念であったりと自分らしく自分を生き切り、生き方が自然に表に滲み出てくるものです。

素晴らしいと思うのは、陰ながらいつもその誇りを自立し守り続けている人たちです。

私もこの行事に参加しながら仲間や先輩から生き方から学び、大切にしている心を守り共にしていきたいと感じます。一年に一度の行事というものは、また次の一年に向けて精進して準備をし迎えます。私も自分を専念していますが、その思いや真心、また共に志を保ち、同志や仲間が安心して生き方を貫けるように心から応援していきたいと思います。

はじまりのご挨拶にもあった、「備えを怠るな」の言。

肝に銘じます。

いつも貴重な機会をいただき、ありがとうございます。

子どもたちのためにも懐かしい未来を繋いでいきます。

波動の志

昨日は、無事に英彦山の守静坊で第3回目の仙人苦楽部を開催することができました。長野の戸隠から直径152cmの巨大ゴングと共にお車で約1000キロをかけて来てくださってみんなで心地よい波動の場をゴング(銅鑼)と共に響き合うお時間になりました。波動経済、徳積み循環経済を甦生するためとても有難い機会になりました。

この巨大ゴング(gong)は、体鳴楽器に分類される打楽器の一つです。ゴングのはじまりは東南アジアといわれていますが銅鑼を深めると銅鑼は古代ジャワ、スマトラの南方民族の打楽器にはじまり、中国、朝鮮を経て渡来したものと言われています。

古代からある音の道具であり、古代人たちはこの響きに不思議なハタラキが宿ることを知りその御蔭様で今も私たちがその音を感じることができています。この銅鑼の材料の砂張は金属鋳物の中でもっとも難しいといわれている銅と錫の合金です。100対26が音響を良くする絶対条件ともいわれます。

この銅と錫の奇跡的な調和ゆえ、調和の象徴ともされその波動が大切な場面で使われてきたともいいます。

私は場の道場で場を磨いていますが、場には様々なととのえ方があります。ある時は、場を鎮めたり、またある時は場を浄化し、またある時は場を沸かせます。これらは、火や水や光、暗闇なども用いますが音というものは邪気を祓い、魂を鎮め、心を研ぎ澄ますのにとても大きな効果があります。

古代の人々は、それらのハタラキを直観してきました。音には、波動を顕現させる効果があり、徳を表出させる力もあります。

私はITではブロックチェーンを用い、本来の懐かしく新しいDAOを実現しようと試みていますが五次元や量子ではこの波動を用い、同じく温故知新した共鳴を実現しようと試みています。

周囲からみたら、何かのオタクのように思われますが二宮尊徳が実現しようとした報徳や心田開発の実践を志しているものです。もともと、心の荒蕪を耕すことに一生をかけた二宮尊徳は、人々の心の問題を解決することこそ人類をはじめ世界を救うことになると信じていました。

私も同じく、気候変動も天変地異もまた心の問題が影響を与えていると確信しています。先人や古代人は、スピリチュアルだったから雨乞いをしたのではなく、神事や年中行事をしていたのではないのです。

本来の暮らしがととのうことで宇宙や地球全体とつながり調和し共鳴し合うことで場を常に守り続けたのです。

子どもたちのためにも同志たちと共に、自分の役割と道を実践していきたいと思います。

 

波動の徳

私たちは音というものを感じます。その音は、あらゆるところに無限に満ちています。音はそのまま正直であり真実です。音を聴けば、その物の本体や本性もわかります。音は波動です。

この波動というのは、一部では目に見えないから怪しいとか胡散臭いとか言われますが現在は量子力学が波動を解明していることもありその存在を明らかにしはじめています。しかし実際には、科学で証明できないものも全部含め波動と呼んでいますから解明されたとしてもあくまで一端が見えるだけです。

眼に見えないものの方がこの世には多くあります。これは脳の構造も同じく、人類がいくら科学を進歩させてもほんの数パーセントもわかればいいほうです。宇宙のこと、いのちのこと、一端を知識で得てもそれを感得し気づくためには今のアプローチだけでは限界です。

その歪さからか、世の中や社会情勢も歪になっていきます。本来の原初、原始には何があったか。そういうものは哲学のように語られますが、本来これは当たり前のことではじまりを知ることで人は今につながります。

眼に見ないものの中にこそ、そのはじまりの答えがあります。答えを生きるためにも、私たちはもっとその自然的なもの宇宙的なものも否定せずに全身全霊で味わい語り合っていくことが必要だと感じます。

波動といえば、音の波動の話を先ほど書きました。そもそも音はとても不思議です。耳に聞こえるものだけではなく、全身全霊で感じる音もあります。その音は、イヤホンで聞こえる音ではなくまさに波動を感じる音です。

そもそも波動とは何か、辞書をひけば 「1 波のうねるような動き。 2 空間の一部に生じた状態の変化が、次々に周囲に伝わっていく現象。 水の波・音波などの弾性波や、光・X線などの電磁波などにみられる。」とあります。よくエネルギーなどもいわれます。

私たちの意識も、心臓などの肉体もすべては海の波のように呼吸をしています。自然界の天候や気候、宇宙の星々にいたるまでその波が重なり合ってお互いに影響を与えているということです。

どのような調和をするのかで波動も変わります。例えば、人間にも波動の善い人という人物がいます。周囲がその人といると和み、居心地が善く仕合せになるのです。その人が日ごろ発している波動は生き方です。生き方を磨き徳を高めている人の周囲は落ち着くものです。

波動をどのようにととのえているのかは、物質だけではなく人の周囲にも顕現していきます。音は、それを響かせたり増幅させたり感受させたりする触媒の一つでもあります。

一つの人生のなかで私たちは様々な音や波動に触れて変化していきます。変化を味わうのは音を味わいことであり波動を味わうことです。

様々な体験によって人間が気づき変わっていくのも波動の本質かもしれません。人の出会い、ご縁を楽しんでいきたいと思います。

古代の知恵

最近、古代のことに触れるたびに様々なつながりが増えてきています。世界には似たような神話や歴史があります。不思議なことですが、そのどれもが類似性がありその知恵も同じです。

もちろん風土や環境によって少し変わっているところもありますが、どれも似ています。これは何が考えられるのかと少し掘り下げてみるとはじまりは一つであったということの証であろうと思うのです。

そもそも始まりがあるから今があります。今は始まりの連続の中にあり、この今に思いを馳せれば太古の時代から連綿と生き続けてきた歴史があります。この歴史は、目に見えるものと見えないものがあります。最近はDNAを調べられるようになり、起源がどうだったかが辿れるようになってきましたが遡れば同じ遺伝子を持つことがわかります。

いのちが多様化していくのは、その風土と一体になっていくからです。私たちの意識も体もあらゆるものは、形を変え続けて何度も甦っていきます。同じようにみえて少しだけ変化していく。それは意識が交わり、遺伝子も、生命もすべては渾然一体に重なっていくからです。

まるで網で編まれたような羅網の世界です。

そこは誰が統治するのではなく、統合させようとしなくても自然に渾然一体に調和していきます。この調和というものこそ、知恵の結晶です。

今に生き切るという言葉があります。

この今というものの今は、一体なんのことをいうのか。今とは、縦軸と横軸、すべてがととのっている状態のことをいうように思います。それはすべてに主体性が発揮され、自立していて協力し合っているいのちのハタラキの姿です。

古代というものは、そのいのちのハタラキを存分に発揮していたことは直観的に感じ取れます。多様化してきて、原点が観えなくなってきたからこそ今こそルーツを辿る必要があります。

明日は英彦山で仙人苦楽部がありますが、これは子どもたちのために知恵を遺し、共に学び気づき合い、それを暮らしのなかで活かしていこうとする取り組みの一つです。

今回は音を使った波動の体験になりますが、かつての古代の人々が音をどのように感じ取っていたのか、実体験を通して今につながる知恵を甦生させていきたいと思います。

道の元

昨日まで同志の禅僧と一緒に過ごしていたからか道元禅師のことを懐かしく思います。道元禅師の言葉には今になって読み直すと改めて深く共感するものが多く、有難い気持ちになります。

そもそも原初の問いとして私というもの、この目に見えるもの見えないものを含め一体誰が創造したのか。それは私が産まれるずっと前からあったものであり、私の身体も持ち物もすべては私が創造したのではなく創造させてもらえているものです。

言い換えれば、古代のずっとむかしよりただ存在したものの一部をお借りしてこの世にいるということになります。それを使って何をするかというのが道であり、本来の自然のハタラキのままにこの世で生きる仕合せを味わえるという幸福を得ているものでもあります。

いくつか道元禅師の言葉に触れていきたいと思います。

「山川大地日月星辰これ心なり」

昨日も美しい月や光や雫にうっとりしましたが、この世のハタラキはすべて魂がありそれには心があります。心は心を通して自然や宇宙を実感させてくれるものです。

そして食事のお話は、よく私もおむすびやおかあさんなどでする「お」の話です。

「いはゆる粥をば、御粥と申すべし」

「食をして法と等ならしむ」

私たちが借りているこの身体でいただいているものもまたお借りしているもの。すべての道理は日々の知恵や生き方が決めます。原初の人類がどのような心で食べてきたか、それを日々に確認することで私たちの道を示してくれます。

「結果自然成」

結果というものは、実力が結ぶものです。それは種を蒔き、芽がでて花が咲き、実をつける。つまりその結ばれたものとは本来、自然が生成したものです。無理をして移植をしたり、どこからか買ってきたり、即席で取り繕うものは結果ではなく不自然であるということでしょう。自然にその時が来るのを待つ境地というものこそが、自然に生きる、自然体ということで謙虚である姿です。

「坐禅は静処よろし」

静かになることは豊かさを味わうことです。道元禅師の遺誡に八大人覚というものがあります。これは小欲(しょうよく)、知足(ちそく)、楽寂静(ぎょうじゃくじょう)、勤精進(ごんしょうじん)、不忘念(ふもうねん)、修禅定(しゅうぜんじょう)、修智恵(しゅうちえ)、不戯論(ふけろん)です。

この境地は、静かさの中にあり座禅の境地を語ったものではないかと私は思います。人の道を歩んでいくなかで、一つずつ内省し自己を磨いてきた知恵の結晶の言葉です。到底及びませんが愛と光をいただきながら、遠大無限の道を同じく内省しながら前進していきたいと思います。

最後に、

「仏道をならふというは自己をならふなり」

そもそもこの自己というものは、誰が創造したのか。それは人間でもなく、神でもない。最初から在ったものです。だからこそその自己を学ぶことは、元初の道を学ぶことでもあります。

自己を突き詰めていくなかで、はじめて宇宙のような偉大なものに触れ自分自身の中にそれが宿ることを知ります。知ってのち、それを捨てるなかで偉大な存在と一体になった場所に至る。

目の前に美しい花があり、風があり光がある。そのものを美しいと感じる清らかで無垢で澄んだ赤子のような心が自己と共にあります。

私はこのなんとのいえない元の心に深く魅かれ、感謝が湧いてきます。日々の暮らしの中にこそ、古代からの道が宿っているのです。暮らしフルネスの実践を通して、徳の循環の妙味を感じていきたいと思います。

ありがとうございます。合掌