道の元

昨日まで同志の禅僧と一緒に過ごしていたからか道元禅師のことを懐かしく思います。道元禅師の言葉には今になって読み直すと改めて深く共感するものが多く、有難い気持ちになります。

そもそも原初の問いとして私というもの、この目に見えるもの見えないものを含め一体誰が創造したのか。それは私が産まれるずっと前からあったものであり、私の身体も持ち物もすべては私が創造したのではなく創造させてもらえているものです。

言い換えれば、古代のずっとむかしよりただ存在したものの一部をお借りしてこの世にいるということになります。それを使って何をするかというのが道であり、本来の自然のハタラキのままにこの世で生きる仕合せを味わえるという幸福を得ているものでもあります。

いくつか道元禅師の言葉に触れていきたいと思います。

「山川大地日月星辰これ心なり」

昨日も美しい月や光や雫にうっとりしましたが、この世のハタラキはすべて魂がありそれには心があります。心は心を通して自然や宇宙を実感させてくれるものです。

そして食事のお話は、よく私もおむすびやおかあさんなどでする「お」の話です。

「いはゆる粥をば、御粥と申すべし」

「食をして法と等ならしむ」

私たちが借りているこの身体でいただいているものもまたお借りしているもの。すべての道理は日々の知恵や生き方が決めます。原初の人類がどのような心で食べてきたか、それを日々に確認することで私たちの道を示してくれます。

「結果自然成」

結果というものは、実力が結ぶものです。それは種を蒔き、芽がでて花が咲き、実をつける。つまりその結ばれたものとは本来、自然が生成したものです。無理をして移植をしたり、どこからか買ってきたり、即席で取り繕うものは結果ではなく不自然であるということでしょう。自然にその時が来るのを待つ境地というものこそが、自然に生きる、自然体ということで謙虚である姿です。

「坐禅は静処よろし」

静かになることは豊かさを味わうことです。道元禅師の遺誡に八大人覚というものがあります。これは小欲(しょうよく)、知足(ちそく)、楽寂静(ぎょうじゃくじょう)、勤精進(ごんしょうじん)、不忘念(ふもうねん)、修禅定(しゅうぜんじょう)、修智恵(しゅうちえ)、不戯論(ふけろん)です。

この境地は、静かさの中にあり座禅の境地を語ったものではないかと私は思います。人の道を歩んでいくなかで、一つずつ内省し自己を磨いてきた知恵の結晶の言葉です。到底及びませんが愛と光をいただきながら、遠大無限の道を同じく内省しながら前進していきたいと思います。

最後に、

「仏道をならふというは自己をならふなり」

そもそもこの自己というものは、誰が創造したのか。それは人間でもなく、神でもない。最初から在ったものです。だからこそその自己を学ぶことは、元初の道を学ぶことでもあります。

自己を突き詰めていくなかで、はじめて宇宙のような偉大なものに触れ自分自身の中にそれが宿ることを知ります。知ってのち、それを捨てるなかで偉大な存在と一体になった場所に至る。

目の前に美しい花があり、風があり光がある。そのものを美しいと感じる清らかで無垢で澄んだ赤子のような心が自己と共にあります。

私はこのなんとのいえない元の心に深く魅かれ、感謝が湧いてきます。日々の暮らしの中にこそ、古代からの道が宿っているのです。暮らしフルネスの実践を通して、徳の循環の妙味を感じていきたいと思います。

ありがとうございます。合掌

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