場徳の実践

むかしの五穀田に古代米の苗などをお手植えしていきました。赤米の藁などは氏神様や家のしめ縄に活かします。どのようなプロセスでお米を見守ったか、しめ縄にはその力も宿ります。

周囲の田んぼはほとんど機械植えになっています。少ない人数で多くの田んぼでお米づくりをする農業ではお手植えなどをする時間も労力もありません。むかしは、機械が発明されていませんでしたから人数を集めて地域や村のみんなで協力して行っていました。

一緒に田んぼに入り、共に食事をし、労い合い太陽の光と風と泥まみれになって暮らしを編んでいました。

お手植えは確かに時間も労力もかかりますが、まるでお米が自分の分身になったかのような感覚が得られるものです。

一本一本、一株一株を持ち、丁寧に泥の中に差し込んでいく中で土やお水や光や風への感謝が湧いてきます。一つのいのちが自然にはぐくまれることへの偉大な恩恵に謙虚さが湧いてきます。

昭和の農聖と呼ばれる松田喜一先生は、「農は天地を相手にする魂」であるとも言いました。自然を相手にすると、自分が自然の一部であるという感覚が得られます。自分がお手植えする一株が自己の分身のように感じるものです。

松田喜一先生は「農魂は忘我育成の魂である」といいました。つまり神人合一のように、農人合一するのです。自己という存在を忘れるほどに、田んぼと一体になっていくとき人間性が磨かれるということかもしれません。

一年の四季折々を通して、田んぼを見守りながら同時に自己が見守られているという境地を學ぶということ。お米が育つためには、八十八の手間暇と同時に、あらゆる天候や自然の循環の恵み、そして自然災害をはじめとした変化との対処があります。

自己を謙虚に見つめ、自然に學ぶこそが「人間作れ、土作れ、作物つくれ」になるということでしょう。田んぼには、自然の偉大な恩恵である田徳があります。その田徳にどう報いていくか。

私にとって「徳」とは積むものではなく「磨く」ものです。

田んぼは人間を磨く、唯一無二の道場ということです。自然物によって己をどう磨くか、これは田んぼだけではなく法螺貝でも同じことです。

場づくりを學ぶものは、徳を學ぶものです。

忘我育成、場徳の実践を先人とお米から學び続けていきたいと思います。