大切な智慧

人は目的に合わせて場を創造していくものです。何のためにという目的があって、その場所にはそこに関わる人たちの「思い」が空間の中に蓄積していくからです。その思いが場となり、その場は力をもって多くの人たちを引き寄せていきます。

場力というのは、目には観えませんが確かに存在していてその場の力が働くことで私たちは様々な助力をいただくことができます。

例えば、私の自然農の畑では自然との共生というテーマがあって高菜を植え育てています。ありとあらゆる動物や虫たちが自由に謳歌し、野生のままですがそこで農作業をしていると不思議とストレスなどが消えていきます。

少し横になり、天を仰いでじっと落ち着いているといのちの存在を身近に感じ、小さな虫たちの活動を眺めては自分もその自然の一部であることを認識し心穏やかです。

日ごとは都会のど真ん中で人工物と人工的な目的の影響を受けて働いていますが、都会ではどうしても経済活動の場として用意されていますから何をやっていてもその力の影響を受けていきます。

このように場というものは、目的に合わせてその環境を構成しますから私たちは目的と場というものをよく考えて創造していく必要があるのです。私は世間でいう、自然と共生しようともしないことを暮らしといっても人間中心の世界で人間相手だけに物販をしている人たちを暮らしているとは思っていません。

暮らしとは、自然の循環の中に入って共に生きていくことが前提ですから先人たちのように自然を相手にしながら自然と共にお互いを活かしあう活動をしていくことをいうのです。

暮らしの定義も、和風と同じように暮らし風になってきていますから本物の暮らしを伝承していくことも智慧が必要です。

暮らしフルネスは、基本は原点や原型を重んじます。原始の魂を真摯に受け継ぎ、温故知新して甦生させ、現代でも自然との調和をはかります。新しいサウナがいよいよ着工しますが私の「水」の智慧の集大成として取り組んでいきたいと思います。

子どもたちに、その大切な智慧を伝承していきたいと思います。

知恵を絞る

物事には損得というものがあります。損というのは、何か自分が不利益を被るもの、そして得というのは利益を得るものとして認識されています。しかしその損得は、大きな視点から観ると一時的であって全体としては循環していることがわかります。

地球に置き換えてみれば、すべて地球で行われている損得はすべて「徳」です。つまり、一時的に損であっても長い目でみれば得であり、一時的に得であってもまた長い目でみれば損であることがあるのです。

また自然界で観ていれば、人間にとっての得はその他の生物にとっては損になります。長い目で人間は損をしても、自然環境の思いやり徳を積むことの方が偉大な得を得ることもあります。

自然界の利子で暮らしてきたアイヌの先人たちや、かつての先祖の循環型の生き方は今の時代からみれば原始人的で非効率的のように思われまずが本来の損得の意味を深く理解した行動であったのはきっと後世の人たちによって証明されるように思います。

現代のように物が溢れる大量消費の価値観と資本主義経済の世の中においては、この「徳」の深遠な智慧を理解することはないかもしれません。

しかし身近な暮らしや人間関係の中、その他のどんなことにも一損一得があり、そのどれもが必要なものでそれをどう活かすかというところに人類の智慧があります。利他で生きようとする人には、大きな余慶が入ってきて家が仕合せになるといいます。また自利貧というか、貧乏の影にはつねに自分さえよければいいという孤立が出てきます。

私たちは自然の法則の影響を受けますから、生き方を転換するような出来事が起きては人類はそこから学び直し、何度も文明をやり直してきました。今は、まさに文明の転換期ですがどのようにこれを立て直すのか。

私もブロックチェーンストリート構想を掲げていますが、新しい道徳経済を甦生するために知恵を絞りだしていきたいと思います。

菜の花の力

この時期の室礼で用いるお花はほとんどが菜の花になります。菜の花といっても、茎の大きいものは菜の花ですが細いものはからし菜になります。私は高菜も大根も育てていますから、菜の花といってもその形状も異なりますし色合いも異なります。

菜の花はアブラナ科のアブラナ属になりますが種類は豊富で、一般的に知っている野菜だけでもキャベツ、芽キャベツ、ダイコン、小松菜、ブロッコリー、白菜(ハクサイ)、チンゲンサイ、カリフラワー、ケール、カラシナ、カブなどがあると思います。これらの花はすべて菜の花と呼んでいます。

またこのアブラナ科の油も、菜の花の種から油がとれるということもあります。油が今のように当たり前になかった時代、この菜の花から抽出できる油は大変重宝されました。

江戸時代の行燈はこの菜種油を使っていたといいますから本当に貴重な油だったのでしょう。二宮尊徳が、幼少期に菜種を荒れ地に蒔いてそれを収穫して夜学の油にしたことは有名です。私たちは今は菜の花をみて油を取ろうとはなかなか思わないと思いますが、本来はどの植物や野菜も食べるだけでなく見立て次第で様々な活用をすることができます。

私は先祖に菅原道真公がいますから命日の頃は梅と一緒にこの菜の花を祀ります。これは東京の亀戸天神でも行われていますが、なたねがなだめにもなるといい供養花として活用しています。同時に、梅の清々しさと合わせて菜の花の明るさと希望が満ちている姿が天神様を彷彿させるからです。

明るく清々しい姿はまさに子どもの元氣そのもので、春爛漫の希望に溢れています。季節季節にその時機にもっとも相応しい花が咲きますが、私たちはその時機に相応しいことを直観しているものです。

これは長い年月をかけて、その季節の感性や感情を自然と共に私たちも影響をいただいているということです。まもなく桜が開花しますが、まさに山から田へと風が吹いてきて夏に向けて勢いづいていきます。

長い冬が過ぎて春の滋味が心身に沁みわたります。新しい季節を新しい取り組みを味わいながら進めていきたいと思います。

改善のチャンス

新型コロナウイルスの影響で多大な影響が出てきています。各国政府の過敏な対応を観ていたら、今までの鳥インフルエンザなどとは異なった動きを感じます。真実や本当の情報がはっきりとせず、虚偽や隠蔽などが横行していくと世の中は混乱していきます。

現在のデマも人心が乱れるのもまた、こういう時こそ正直に事実だけを伝えみんなで協力して乗り切る必要があります。どうなるかわからない不安な状態というのは、誰もが自利を優先しようとするものです。しかし周りも不安でみんな大変だからこそ、協力して注意して乗り越えていこうとする力に転じていくしかありません。

私たちの会社では、「暮らしフルネス」をちょうど実践するチャンスとして勤務時間を短縮してその分、暮らしに力を入れる機会にしました。具体的には、「健康クラブ」的なものをみんなで発想を持ち合い、朝の体操や運動、また食生活の見直しや規則正しい睡眠、ゆったりと心身を穏やかに寛ぐ時間などを取ることにしています。

本来、どのようなことが起きようとも私たちは健康でなければ働けませんし、生活習慣を改善して加齢や環境の影響に順応して日々を充実させていこうとします。当たり前のことを見直すには、このような有事の時の方が取り組みやすいともいえるのです。

またテレワークなど色々といわれますが、日ごろから「信」を優先して協力して一緒に取り組んでいる仲間であればどこにいても情報共有しながら助け合って働けるものです。

日ごろの仕事の見直しも、この有事の時だからこそ当たり前に気づき取り組みやすいのです。

禍転じて福にしていくためには、自分だけではなくどのように全体が善になっていくか、また本質的に取り組むかが大切になっていきます。

子どもたちの未来に似たようなことが発生した時、どのように運を高めていくか。そして信を磨いていくか、一つのお手本になれるように精進していきたいと思います。

仕合せの場

人類は助け合うことで、様々な困難を乗り越えてきました。それは遺伝子にインプットされ、助け合うことで人は仕合せを感じるようにできています。仕事の原点もまた、その助け合いの場として発展してきました。

現代は、仕事は成果主義や評価が入ってきて助け合いをするためにというよりも業務遂行能力の方が優先されていきました。そのうち役割分担から業務分担になり、余計に人間関係やコミュニケ―ションが薄れていきました。そのことから仕事も次第に楽しい要素が失われていき、何のために働くのかという原点が議論されることもなくなってきました。

以前、日本理化学工業の会長から働く仕合せのことをお聴きしたことがあります。

「人間の幸せは、ものやお金ではありません。人間の究極の幸せは次の四つです。人に愛されること、人にほめられること、人の役に立つこと、そして、人から必要とされること。愛されること以外の三つの幸せは、働くことによって得られます。障害をもつ人たちが働こうとするのは、本当の幸せを求める人間の証なのです」

働くのは、本当の仕合せを求める人間の証であるという言葉。とてもしっくりきます。この働く場には、「助け合い」という人間がもっとも愛を感じるものが存在するからです。

仕事で成果を出すためだけに人は働くのではない、助け合うことで愛を感じ、生きる仕合せ、一緒に取り組む喜び、そして誰かのお役に立てることのつながりが深く味わえるのです。

働くことは単に仕事をすることではなく、働くことは人間としての仕合せのために働くのです。とすれば、会社は何をする場かということです。それは仕合せの場であるという認識に切り替えなければなりません。

仕合せの場とは、その人間一人一人が助け合える喜びを感じ味わえるようにしていく場であるのは自明の理です。

同じ仕事であっても、働くであっても、そのもとになっている理念や考え方が異なればその結果としてその言葉の定義も異なります。仕事は助けてもらわないとできないからこそ、助け合いが生まれやすいのです。

子どもたちが豊かで幸福な人生を味わうためにも、仕合せの場を広げていきたいと思います。

初心のまま

人は生き方を優先すればするほどに正直になっていくものです。自分の本心を偽らず、自分の本当の姿を大切にしながら生き方を手入れすればするほどに素直は磨かれていきます。その素直を磨けば磨くほど、今度は正直になっていきます。無理に周囲に合わせたり、周りを意識することなく、本当の自分の心のままで他人にも自分も接することができるからです。

正直者というのは、自分に対してどう接するか。自分の本心を偽らずにどのように思いやりを持って生きるかということとつながっているようにも思います。

子どもの頃、正直さというのは何よりも安心感がありました。自分のまま自分とつながっていることで自己の調和を味わい仕合せを感じるものです。それが、外発的な力によって次第に正直ではなくなっていき自分を見失ってくると自己肯定感も下がっていくものです。

今を生きる上で課題になるのは、教えられないことの中で本当の自分というものの存在に気づけるかということ。そしてその本当の自分と一体になっていくということ。つまりは自立をする過程において、どのようなプロセスを通ってそれを実現するかということが大切であるように思います。

自分に正直な人は、他人も正直になります。自分に素直な人は、他人にも素直になります。正直さや素直さのもっとも大きな効果は、自分の観念や価値観、その世界が素直さや正直で溢れることでしょう。

それが生き方として出てくれば、その分その生き方を通して周囲にその正直さや素直さの美しさや価値を弘めていけるようにも思います。子どもたちの姿を観ていたら、自分のやりたいことに正直で、自然体で素直そのものです。赤ちゃんをはじめ、初心ないのちはみんな初心のままです。

初心を大切にするという生き方が、子ども心を守っていくように思います。

引き続き、人類の未来に向けて生き方を磨いていきたいと思います。

活かそうとする心掛け~生活習慣~

日々に色々な出来事が起きますが、それをどのように活かすかはその人の力量が試されるように思います。ある人はそれをちょうどいいと丸ごと活かそうとし、またある人は厄介だなと対策ばかりを立てようとします。

事物には、活かすと活かさないという考え方があります。せっかくだからと活かそうとする人たちは新しい偶発的な出会いに導かれ未知の領域を発見し新鮮な感動が起こります。活かさないというのは、活かせないともいい新しい発見が生まれません。

この活かすかどうかは、生き方が大きな影響を与えているように思うのです。

自分の能力や魅力、周りの個性、自分のご縁、人生での機会、あらゆるものはこの活かすか活かさないかで分かれていきます。そこには確かに生き方があり、その生き方の活力次第で人生の質を左右していきます。

生活というのはまさに日々の活かし方の取り組みであり、私たちの言う「暮らしフルネス」はまさにその生き方を磨くための大切な実践徳目とも言えます。

仕事もプライベートも、なんでも活かす人は新しい発見と発明、挑戦やチャンスを発掘していきます。なんでも活かす人は、まず素直であること。そして素直である人は感謝があること、感謝がある人は好奇心があること、好奇心がある人は反省する人、反省する人は気づきがある人、気づきがある人は改善できる人、改善できる人は冒険できる人、冒険できる人は勇気がある人というように次第にすべてが一円につながっていきます。

日々の暮らしが充実している人は、自己全体愛や全体善もまた充たされており足るを知ります。日々の暮らしを楽しむという豊かさが、社会全体を豊かにしていきます。それは物があるかないかではなく、「活かそうとする心掛け」が決めるといっても過言ではありません。

活動というのは、活かそうとして行動するということです。大切なのは活かせるかどうかではなく、活かそうと努力し続けることです。なんでも「ちょうどいい」、「今の自分に相応しい」と集中していくことが生活を豊かにしていくことです。

子どもたちに「暮らしフルネス」の豊かさを伝承できるように取り組みを楽しんでいきたいと思います。

人災

災害には、自然に発生したものと人が発生させたものがあります。自然災害の方は、自然の治癒であり全体最適のための災害ですから自然調和が働いて発生します。それは道理に適っており、自然の摂理に従っていくしかありません。自然はそうやって40億年以上前から、地球という存在を調整してくれて今があります。

宇宙のすべての調和は、私たちの見知らぬところで常に循環維持されておりその中で生きものたちは適応しながら生き続けてきたからです。

それに対し、人災は意味合いが変わってきます。この人生は自然の摂理を無視して、人間の都合で調整してきたものが崩れるときに発生します。場合によっては地球の環境も崩し、世界的に大きな災いとなって降り注いでいきます。

例えば、ある小さな島で儲かるからとすべての木々を伐採して島の外に売ってしまえばその島は人が住めない島になっていき人々はその島で生きていくことができなくなります。それは島にある保水力がなくなり、動植物が育たなくなり、生き物たちが生存する環境が破壊されてしまうからです。飢餓や飢饉が発生するのは、そうなることが分かっているのに抑制して自律する判断ができなかったからです。

これをある人は木々がなくなったことが自然災害といいますが、そうなることが分かっていても木々を伐採することをしなかったのだから人災なのです。

つまり自然災害と人災の大きな違いは、そうなるとわかっているのに止めようとしなかった。そうなることは予想がつくのにいつまでも欲に任せて変えようとしなかったということです。人間の欲望によって発生するもの、それが人災なのです。

人災は現在、世界中のありとあらゆるところで発生しています。その人災を未然に防ぐには、それぞれが自律的に自然に寄り添いながら自然の摂理を学び直し、自己抑制しながらみんなで全体調和していけるように人間力を高めていくしかありません。

道徳ともいいますが、人間の道徳心を高めていくしか人災を未然に防ぐ方法はないように思うのです。しかし現代のように、目先の損得、個人の利益ばかりを優先する社会の中ではそういう行為は滑稽さのようにも映ります。徳を積む行為をしていたら、周囲からそれは何のメリットがあるのかとすぐに聞かれるのもまた道徳が荒廃してきているからです。

二宮尊徳は、飢饉や飢餓があった際、ただの自然災害として受け取っているわけではないように私は思います。それでは心田を耕すとは言わないからです。人々の心の荒蕪こそが、この飢饉と飢餓を発生させたことを誰よりも先に見抜いていました。

自然災害の発生は、その原因をよく見つめてみたらすべて人間が起因になっているものがほとんどなのです。膨大な欲望を貪る前に、その欲望を膨大な道徳心に換えて自然から学び直し、自然の智慧を尊敬し、自然と共生しながら豊かに歩む道を我々人類は求めなければなりません。

私たちは今、試されています。

今回の新型コロナもまた人災ですし、世界中の気候変動もまた人災です。まだ間に合うと信じる人たちがそれぞれの場所でそれぞれの生き方で、人災を未然に防ぐために最大限の努力を一緒に取り組んでいくことを望みます。

私も今、できることで子どもたちのために最善を盡していきたいと思います。

想定外の意味

人生は生きていると様々な世界的な災害や出来事に遭遇します。歴史が証明するように人類は、何度も同様な危険に出会い、命懸けで乗り越えてきた子孫が私たちということです。

先人たちは、その時々にその禍いに真摯に向き合い多くの犠牲者が出る中で福に転じて子孫たちに教訓や支援、智慧を授けていきました。それが様々な暮らしの伝承の中に息づいていますし、私たちの遺伝子や本能の中に刻まれてもいます。

しかし喉元過ぎれば熱さを忘れるように、私たちは先人たちの学んだことをすぐに忘れてしまいます。当たり前の生活が当たり前になってしまうのは、それだけ忘れてしまっているということです。

忘れない仕組みというものが、本来はもっとも伝承において必要なことです。忘れないために暮らしを工夫してきたともいっても過言ではありません。津波であれば、石碑や口伝を通して生き残るための教訓を与えました。それを忘れないように、常に暮らしの一部に組み込んでみんなに知れ渡るようにしていきました。

それも時代が変われば、石碑を移動させ、口伝もやめてしまいみんながわからなくなってきたところでまた津波が来ます。犠牲者が出て、それを忘れないようにするには残された人たちがそこからの意味や教訓を守ってこそできるものです。

私たちが先祖を大切にするのは、先祖が人生を懸けて子孫のために人生を使って遺してくれたもの、伝えてくれたものが自分の体内に存在しているからでもあります。この身体の一つ一つもまた、先祖が磨き上げてきた一部です。そういうものを分けていただき生きているのだから、私たちはその意味を深め、自分を大切にすることで先祖の願いや祈りも大切に守っていくことができるように思います。

現在、新型コロナウイルスの感染がはじまり大きな禍が降り注ぎ始めています。過去にも似たようなものではスペイン風邪や、インフルエンザで犠牲になりました。想定外だからという理由で無為無策で行政や国家に頼り切ったり、もしくは誰かのニュースに踊らされるのではなく、自ら想定外と向き合い現実を直視し、自らで事実を集め歴史に学び、最善を盡していくしかありません。

そうやって生き延びるたびに、先人たちのことを思い出し、その子孫への徳の推譲に感謝の思いが湧いてきます。先人や先祖に報いるためにも、真摯に子どもたちのいのちを守っていきたいと思います。

いい仕事

先日、新潟で「えにし屋」を主宰する清水義晴さんにお会いしてお話をお聴きする機会がありました。透き通る感性と、先見の明、また福祉の原点をお持ちの方でいつも大きな学びをいただいております。

まさに魂のままの方というか、自分の魂に従ってそのまま素直に物事の本質を観続けてこられたのではないかという感じをいつもお受けします。私たちは何を観続けるかで、物事の審美眼というか本物を見極める能力を磨いていくことができます。

私の知る求道者は皆、同様に真実をみつめ物事の本質を研ぎ澄ませます。それはその人の語る言葉や文章から出てくるものです。その清水義晴様から、「一行詩」の中の一つをご紹介いただきましたのでこのブログでご紹介したいと思います。

「いい仕事」

「いい仕事をしたら それだけで報われている 仕事自体が報酬だ 報酬がなくとも 報われないかたちで報われている はじめから報いを求めていないのだから それでいいのだ いい仕事をしたい ただそれだけなのだ」 (一行詩 清水義晴)

人は報われることで仕合せを感じるものです。しかしその報われるものを何にするかでその人の目指したものが決まっていきます。ある人は目先の利益が出れば報われたといい、またある人は、目標が達成したら報われたともいいます。他にも、徳を積むことができることを報われるとする人もいれば、報われないことで報われているという人もいます。つまりは、何をもって報われるかの中にその人の生き方や生き様が入っているということでしょう。

存在そのものが報われていると思っている人は、感謝を生きる人です。そして何かの報酬を期待せずにただ純粋に初心や目的をもって生きている人はそれが何よりの報酬だと感じているのです。

二宮尊徳がかつてその生き方の理念に「報徳」つまり「万物にはすべて徳があり、その徳に報いる」という言い方を遺しました。この徳に報いる生き方をしていることこそが、まさに報酬であると。

今回の清水義晴様の一行詩に、同様な感銘を受けました。

私たちはどう生きるのかは自分で決めることができます。自分を生きるというのは、まさに与えられた自分の徳を活かすことに努力を惜しまないということでしょう。それは言い換えるのなら「いい仕事をしたい」という言葉でもいいのかもしれません。

自分自身を磨くことが徳を高め、徳を積むことにつながります。子どもたちに希望を紡いでいけるようにこれからもいい仕事をしていきたいと思います。