修行の要

人は様々なことを経験することで色々なことを感得していくことができます。だから経験するということが気づくことであり、学ぶことは体験するということに他なりません。

しかしよく周りを見渡して話を聴いてみると、経験もしたことをないことをさもわかった気になって話をしていることばかりで徒手空論ばかりを繰り返しているように思います。今のように物質的に大変恵まれた世の中に生きているということで、情報もすぐに手に入りますし、その他のものもまるで自由気ままに手に入るのだと勘違いしているかのようです。

本来の自由というのは、そういう物質的に溢れた生活に浸って生きることではなく、どんな境遇であっても己の精神や自律した厳しい日々の修行によってあらゆるものから執らわれなくなることが真の自由であろうと思います。

現代人の自由の浅はかさというのは、自分にとって怠慢であればあるほどに自由だと勘違いされています。自由には自分自身の生き方の責任が伴うということを知らないままに、物質的なものばかり与えられた中で過ごしているから次第に思い違いをしてしまったのかもしれません。

本来、精神や心というものはどんな状況であっても自由であるということができるものです。

それは真の自由は物質的なことではないからであり、自分の在り方や生き方は何ものにも執らわれないことが可能であるからです。日々に修養するのも、修行をするのも皆その自由の境地に到達したいがためであろうとも思います。

そのためには、何かのメソッドで事足りようと目先のことばかりを追うのではなく、じっくりと腰を据えて正しく実践をし、経験という修行を積むことで学び修養していくことしかないように思います。

たくさんの経験をしようと思うことこそが、素直に愚直に成長意欲を持つことなのかもしれません。物が溢れかえった時代に生きる私たちはよくよく考え直さないといけないのがこの修行という意味なのでしょう。

しっかりと経験を昇華し、精進していこうと思います。

自他一体の境地~共感~

御互いを深く共感し理解し合うのに実践を共にするということがあります。そしてこの共感というものは、実践を通じて同じ感覚を互いに持ち合っているという意味でもあろうと思います。

何かの出来事があるたびに、痛い思いをしたり感動したりし、心と感情が揺さぶられたあと人は反省し素直になって心を決めます。その決めた心を忘れないようにと気づき・言葉・行動・心を合せて新たな実践を増やしていくものです。

そうしていると、周囲には同じような課題に取り組んでいる仲間たちやそれを共にする機会に恵まれるように思います。実践する輪が広がっていくのも、互いに共感し合うものがあるからであろうと思います。

人物の理解というものは、表面上の言葉や姿だけでは本当のその人の苦しみや悩み、歓びや幸せは理解はできず、人生の同体験をし共に実践を行う時にはじめてその人の生き方や考え方、理念などを確認し新たに理解できるように思います。

そうやって人は生き死にの中で共に同体験を通じて語り合ったり、同感するものを分かち合ったりしていく中で言葉にならない感覚を共にしていくのです。これが共感です。

そして人が本当に自分のことを分かってくれていると実感できるのもこの共感するものがあるなと思うときであり、それは自分のために相手が同じ実践をしてくださっていると実感するときが多いようにも思うのです。

いくら何度も言葉で説明しても、共に実践してみないと本当に伝えたいことは伝わりません。だからこそ自分がどうしても相手を思いやり伝えたいことは共に実践してもらうしかないのです。それは自分のためにやってもらうのではなく、共に実践していこうという自他一体の思いやりの中ではじめて共感できるものではないかと思います。

人間は同じ苦しみを共にします。

だからこそ自分の体験が必ず誰かの御役に立てると信じる事から実践を取り組もうという志が芽生えていくのではないかとも思うのです。その同じ苦しみを持つ誰かを自分だと思えるか、自分のことのように感じることができるか、これも共感の芽生えであろうと思うのです。

人生には無駄がないというのは、自分の生きたことが必ず意味が存在すると実感するからであろうと思います。人間は、誰しもこの世にいるだけで必ず何かの御役に立っている、それが自然です。だからこそ、共に実践をして反省をし、さらに改善を続けていくことで共感を高めていくのが人間の育成であり成長し続けているということになるのでしょう。

つながりが観える自他一体の境地で居続けるためにも、御役に立てるところで働き、自らの共感を高めて日々の実践を改善し正していきたいと思います。

 

少しだけ手伝う~自然~

昨年は、自然を学び直しつつさらに深く自然農に取り組みました。その中で自家採取した原種の種を、またこれからの新たな季節に蒔いていのちのめぐりのお手伝いの準備をします。

そもそも自然の恵みの中で、様々な木々や植物は育ちます。それは自然の働きでそれぞれが生かされているからです。人間も等しく、心臓が止まらないのも呼吸をやめないのも、知らずしらずに髪の毛や爪などが伸びるのもすべては自然の働きを享受しているからです。

農夫や私たちが何かをして育てたと思っているものは、その実、そのものが自然に育ったのであって正確には私たちが育てたのではありません。私たちはその自然に育つのを少しだけ手伝っただけにすぎないということです。

これは大前提が自然というものの一部として私たちが存在するということであって、今の時代のように自然に逆らい切り離して考えていないことではじめて覚醒する境地です。

私たちの今の時代は、自然に合わせないことで人間の都合の善いようにと発展させてきました。夜の電気も、暗いと都合が悪いので世界中に明々とネオンの光に満ちています。世間の消費で発生するゴミというものも、人間にとって要るか要らないかで取捨選択されます。

自然では、夜は夜に必要なことがあるから夜であり、全てのものには一切の無駄がなく循環しているものです。そういうものを手伝う側として自然と共生するか、自然に逆らい孤立するかはそれぞれの生き方が決めることであろうと思います。

そうはいっても、私たちは太陽の光を浴びなければ生きてはいけません。それに水の潤い、風の揺らぎ、季節のめぐり、土の香り、それらのすべてを実感するとき、とても清々しい気持ちになり私たちがこの世に生きることの素晴らしさを味わっているはずなのです。

どんなに都市化された便利な世の中にいても、人間は自然の美しさに癒されているのです。

本来の科学技術とは、自然を少しだけ手伝うものであろうと私は思います。人間の叡智は、自然を深く理解し、それを現在の生活に反映させることで発展を約束してきたもののように思います。経済原理を推し進め、人間の浅はかな自然を悪用するような技術でお金が増えてもそれは世界や人類の永続的な発展を約束するものではないように私は思います。

本来の自然から学び直し、本来の宇宙の持つ自然発展のサイクルに入っていくこと。

これらの永続していくエネルギーを利用することこそが、私たちの生き方のお手本であろうと思います。また春になり、新たなめぐりの中に身を置いて次の季節も自然に感謝して実践を楽しんでいきたいと思います。

自他全体の四季

ベランダガーデニングをしていると、様々な花の姿に驚くことばかりです。

冬から春にかけ、春から夏にかけ植物たちは様々なめぐりを行います。そのめぐりには、花を咲かせるもの、枯れるもの、種になるものとめぐりは自分の生きる季節に合わせます。

そう考えてみたら、それぞれの生きものには、それぞれに持って生まれた自分の季節がありその季節と自然の季節に寄り添いながら自らの生を全うしているともいえます。

これは大なり小なりすべてが等しく、例えば同じ人間であってもその人固有の季節があるといったようにその人の成長や人生に四季があるのです。春だからといって、春爛漫に咲き誇るような花もあれば、冬にこそ冬爛漫に咲き誇る花もまたあるからです。

自分の季節を感じることは、自分も自然にあわせて自分らしく変化していくことに迷わないようになることかもしれません。人生の四季があることが、私たちを安心させるとしたらその四季を味わっていきていくことで自分が全うしたいと思えるものに出逢い感得するものかもしれません。

毎年、毎年、一年をふり返ってみると自分にとってどのような季節なのかを実感できます。そして周囲を観ていると、自分とは異なる季節の人達が共に道を歩んでいく姿もまた拝見していくことができます。

季節の恵みに私たちは見守られ、成長をしていくのでしょう。

その人の生涯も、死んでから活きるものもあることを想えば決して寿命だけが四季ではなくその存在に四季があるということに不思議な安堵を憶えます。

存在の四季を実感しながら、自他全体の四季を味わっていきたいと思います。

めでたい~御祝~

先日、「めでたい」ということについて触れる機会がありました。昔から、何かの御祝があるたびに私たちは「めでたい」という言葉を使います。

御祝の「祝」は祈る、祭る、祟るといった意味も篭めてあり全ての出来事を福にするという意味もあるように思います。全ての有難いご縁を心が感じて神様から最幸の賛美を贈られていることに感謝しているときがこの「めでたい」というものであろうと思います。

人はそれぞれに様々なご縁のつながりの中で生きています。

その人生の中では、現実的には出逢い別れと、前に進むためにご縁は常に円満に廻り巡ります。しかし人間には感情がありますから、時折理不尽だと悲しくなったり辛い思いもします。また逆に嬉しいことや喜ばしい思いもします。そういう出来事そのものを、「丸ごと」めでたいことだと実感するときはじめて私たちは前進していく魂の幸せを噛み締めることができるのかもしれません。

そう考えてみると、「おめでとう」という言葉も沢山いただいて今日まで生きてきました。

誕生日おめでとう、卒業おめでとう、入学おめでとう、、、様々な場面でおめでとうと出会いここまで来ました。沢山の方々におめでとうという言葉を戴いて育ってきたように思います。人生には無駄がないからこそ、おめでとうという言葉が最も私たちの生活に深く根付いているのかもしれません。

毎日が、素晴らしい日々であることを祈るように生きていく。
全ての出来事は、出来事そのものが有難いご縁で起きている。
そしてそのご縁そのものが幸福なのだと賞賛していこうという思想。

私たちの大和魂、随神の道にはこの「めでたい」という生活習慣があることを学び直しました。

これからも時あるごとに、事あるごとに、「めでたい」という気持ちを忘れないでいたいと思います。言霊を大切にこれからもかんながらの道を祝っていきたいと思います。

有難いご縁に、邂逅に、めでたし、めでたし。

真実の満足度

先日、尊敬している千日回峰行を遂げられた大阿闍梨の塩沼亮潤の新著「執らわれない心」を拝読する機会があった。その他の著書もすべて大変素晴らしいものばかりで、生き方に共感することばかりです。

素直に正直に生きるということほど、誰にとっても難しいことはありません。しかしそれを修行だとして日々に直向に取り組む中で得た学びや気づきを同じように苦しむ人たちのために乗り越えてそれを伝えていこうとする真心。

こういうものはたとえ仕事がどの仕事であっても、場所や立場がどうであっても私たちの人生の魂や心を磨く大切な使命であろうとも思います。ご自分を磨きながら他も磨くことに私も人との間の幸せを噛み締めることばかりです。

今のような時代には、特にこのような方々の存在に私自身とても勇気を戴きます。さて、その著書の中はすべて素晴らしいのですが最後の方に印象に残る言葉がありました

「苦しさには強いが、ぬるま湯には弱い。これが人の心。」

とあります。

先日、幸せとは何かと考えている機会が多かったのですが人は不満がなくなればなくなるほどに不満を言い始めるように思います。そして満足が続けば続くほどに、自分が不幸であるように実感していくのです。

不思議なことですが、欲や感情が満たされればされるほどに心の方は貧しくなっていくかのようです。目標が高ければ人は不満を抱きます、その目標によってさらにその不満のエネルギーを他の何かに集中していくことができるように思います。例えば、理想が高ければそれが実現しない不満を探究心や道を行じる苦労をする方へと向けていけるからです。

しかし理想が低く、現状に満足してしまえばぬるま湯のようになり心は次第に弱っていき何もしないうちに時間だけを浪費してしまうように思うのです。茹で蛙の故事ではないですが、ぬるま湯に浸かっていて満足しているうちに下から沸騰してきても分からないうちに蛙が死んでしまうとありますが、あれは真実だとも思うのです。

今のように唯物的に社会を形成し、いつもお金や物で満たしていたら心はもう動かなくなってきます。心の不満とは、実は幸せを生み出す種でありそれがあってはじめて心が成長していく歓びもまた実感できるように思うからです。

目標を高くするということは、現状に満足しないということ。そしてそれは成長するということ、いつまでも自分を高め続けて今を充実させていくために挑戦と改革を続けていくということに他なりません。もともと私たちの心は、苦しいことと楽しいことに働き、便利と楽には働けないのかもしれません。

自分を役立てていくということは、進んで自ら苦しみの中に入りその中での成長を楽しんでいくことなのかもしれません。最後に、高杉晋作の言葉で締めくくります。

「艱難を共にすることは出来ても、富貴を共にすることは出来ない」

役立てるというのは、身を捨てるという覚悟なのかもしれません。目標というものを利他で立てようとするのは志に通じているように思えてなりません。志を立てるということは、身を捨てる覚悟のことかもしれません。

今のように富貴が溢れる時代は、敢えて不満のままやストイックさを忘れないでいることが流されない今を生き切るコツなのかもしれません。

自分自身も満たされ過ぎてはいないか、当たり前が間違っていないか、常に省みて真実の満足度とは何か、幸せを与える、役割を果たすとは何かをもう一度見直したいと思います。

天分を出し切る

一日一日を出し切るという実践をするとはどういうことかと考えてみる。

よく一日一生という言葉で使われるように、日々は二度とないのだから大切に使い切るということで語られることが多いように思います。もしも明日死ぬとしたらと考えて遣り切るのも、人生は二度ないということを認識するためのようにも思います。

しかしこれをよく考えて観たら、それを自分ひとりの野心や野望のために遣ろうとする人と、自分に与えられた天分を活かすために遣り切る人とはまた異なっているようにも思います。それは心の寛さ狭さにもあるようにも思います。

自分自身はどんな天与の才能を与えられているか、それをもっと世の中のために生かそうとする人は、毎日を絞り出し、遣り切り、出し切って、成し遂げようとします。逆に、そういうものは自分のものだと自分本位に与えられていることも忘れてしまっている人は使おうとはせずに自分が楽をする方へと自堕落していくものです。

世界で独りしかいない自分を何に役立てていこうとするかは、与えられた自分の天分や本分に感謝してそれをより皆様のためにお役に立てたいと思う時に発揮されるように思います。自分のものと思うところが心の狭さになり、それはみんなのものだと思うことで心は寛く豊かになります。

そしてリーダーは、自分の天分も活かし、同時に他人の天分も活かすことができるかによるように思います。

庭を眺めればそれぞれの花々や植物が太陽の光と透明な風、そして潤いの雨や互いの存在の中で百花繚乱それぞれに自分の色を放っています。その放っている姿に、天からいただいているものをお返ししようと自分を精一杯出し切っている心があるように感じるのです。

自分の心を出し切るというのは、与えられたこの自分の全てを全部与えらた量をお返ししようといった心の働きのことをいうのかもしれません。幸せというものは、そうやっていただいたものを循環し合う中ではじめて深く寛く実感できるものかもしれません。

日々、ちゃんと使い切ったかどうか、いただいたいのちをお返しできているかどうか、内省し、あの花たちを見習ってどんなお役に立てるのかを楽しみながら自分の花をしっかりと開花させていきたいと思います。

自分の天分を出し切る一日を省みて、自律の日々、御恩返しを味わっていきたいと思います。

目標の意義

人生の目標をどのようにするかで、生き方だけではなくその人の在り方が明確になっていきます。

しかしこの目標というものを自利で立てる人と、利他で立てる人がいるように思います。目標が大切なのではなく、その目標は何のために必要なのかを理解している人たちだけがその目標を自己管理に活かせるのではないかと思うのです。

例えば、緒方洪庵に「医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。 決して有名 になろうと思うな。また利益を追おうとするな。 ただただ自分をすてよ。そして人を救うことだけを考えよ。」(21世紀のきみたちへ朝日出版社)がある。

これは利他から立てられる目標であり、そもそも自分の行いが世の中の御役に立てるようにと願い適塾の基本理念として指導されたものです。同じく吉田松陰もそうですが、目標が高い人は悟ることやできる人になることに興味があるわけではなくその後どうするかということに重きがあるのです。

目標が低すぎるというのは、自分のことだけを考えてしまって立てている目標のように思います。自利というのは、自分が善ければいいだけで止まってしまいそれをどのように世の中の御役に立てていけばいいかが目標とつながっていないからのように思います。

自分が生まれて今あるのは、周りの皆さんが子どもだった自分をここまで育ててくださった御蔭ともいいます。よく賢すぎる人は自分だけで育ったように勘違いをしますが、明らかに周りの方々のご縁や忍耐強く見守っていただいた方々の教えによって今の自分が形成されているともいえます。

人は自分で育ったのではなく、様々な御恩によって育っているからです。

だからこそ、その御恩をご縁をより多くの人達や世界へ還元していこうとするとき、目標が必要になるように思うのです。何をしてお役に立つのかを決めるのは、自分が高い理想に向かって自利の人よりも、利他の人であろうと決める生き方が定まることに似ていると思います。

常に利他でありたい方を優先することが、 ブレナイ生き方を持つこととイコールのように思います。人を信頼するのも、絆を結ぶのも、人生をより多くの方々にお役に立てるのもこの目標というものの根底にある自利か利他かがあってのことのように思います。

他人の御役に立てるようにしてはじめて、人間を育成していると思います。その人だけをよくするのではなく、その人が世の中を善くする人にしていくことが塾の本質かもしれません。今は大事な分水嶺、目標の在り方について深めてみようと思います。

天の計らい~体験の妙味~

人生は様々な体験をすることで新しい自分を発見し広げていくことができるとも言えます。
また体験こそが人生だといっても過言ではありません。

しかし今まで体験していないことはどこか敷居が高く勇気がいるものです。そういうものを好奇心や向上心で取り組んでみるとそこに自分が今まで気づきもしなかった新たな世界が広がっているように思います。

どうも私は、好奇心旺盛のタイプで自分の直観に従って新しいことに取り組みたくなる性分のようでワクワクドキドキしながらもいつも新しい体験をしたいと感じてしまうようです。そう考えてみたら、その先にある未来に対してのイメージが善いか悪いかではなく体験することを大事にしているからかもしれません。

人生は一度きりですから、教科書通りやマニュアル通りにいったから幸せというわけではないはずです。一度しかない人生であるから、様々な体験をしていこうと覚悟を決めればその日々は如何様にも装飾していくことができるからです。

そしてこの装飾していけることで一日の終わりの夜と新たな一日のはじまりの朝に面白いなぁと元気いっぱいに天の計らいとご縁の不思議さに驚きと感謝が湧いてくるのです。

面白かった一日は、ご縁や体験を心から楽しみ切った日であったように思いますし子どもはそうやって体験を通して感動し好奇心を全開にして充実した幸せの時間をもっていくように思います。

体験をすることも体験をさせてもらうことも、すべては天の計らいと思えば怖くてもいってみようと思えるのかもしれません。そしてそうやって何かの天の計らいといつも感じていれば同じ体験であっても楽しみ方を工夫したり気づかなったところを発見して工夫ができたりと常に学びに彩りが足されていくように思います。

すべきばかりで日々を過ごすのではなく、体験をしたいと飛び込んでいくことが好奇心に刺激を与えて育てていくことかもしれません。そして幸せとは体験そのものができる豊かさの中に飛び込んで生き切っているときのことをいうのかもしれません。

人生は苦しいことも悲しいことも辛いことも嬉しいことも有難いことも、体験があってこそです。大人たちがまず子どもたち以上に楽しめば子どももきっと体験の尊さに気づいていつまでも子ども心を失わない元気いっぱいの人生を謳歌していけるように思います。

好奇心が求める日々を分かち合いながら充実した学びの妙味を感じていきたいと思います。

道跡

昨日、京都農園の関係で福知山にある石原の大師山霊場を尋ねる機会がありました。

ちょうど時間があったので古文書を調べていると、戦国時代の頃には大きな聖地として栄え参拝者がたくさん訪れていたようです。今では高速道路ができて、区画整理され、目立たないところでひっそりとお地蔵様が安置されています。

先日の地元の神社もそうですが、かつては家々に伝承され大切にされてきたものも繫がりが薄れていく中で消失していきます。時代時代の激変の中で、今でも残り私たちに継承されているというのはかつてそれを守り続けて改革を怠らずに取り組んだ方々の真心が残っているからのように思うのです。

そういうものを感じようとひとたび思えば、今まで見えてこなかった人の繋がりや地域の文化、歴史、そして人々の生活や心を感じることができるように思います。

史跡を巡るのも、歴史を辿るのも、巡礼するのもすべてはかつてのご縁に触れて今の自分の有難さを実感するためかもしれません。

当たり前に生活している私たちですが、この当たり前ができるのは今までの時代を生きた人たちが精いっぱい自分たちの責任を果たしたからのように思います。今を生きる私たちは、自分の人生の責任をどれだけ持っているのでしょうか。

歴史も文化も、生活も習慣もすべては今の責任を果たして行く中で次世代に継承していくものかもしれません。破壊されても、消えかけていても、それを継ぐものがあればまた必ず復興し、道心は続いていくように思います。

昨日も消えかけた八十八箇所を感謝で廻りながら、そこに確かにかつての人々が踏み固めた道跡を確かめました。

時代時代に塵あまたが降り積もり消えかけようとする道に出逢えば、自らの埃被った手垢を洗い清めつつ跡を辿り、永劫のかんながらの道を践みしめていきたいと思います。