大切な何か

原発事故があってからエネルギーのことなどを考え直すことがあった。日々の生活の中で私たちが一体何に依存して、何によって安心しているのかと分かり、その刷り込みに気付いてから改めて様々なことを見直すことを決めた。

そう思った人は何人もいたはずである。

しかし日常が過ぎ去っていけば、次第にまた金融都市化された中で大切なことを思い出す暇もないほどに忙しくしそのうちに元の生活にまた慣れてしまうのが人間であろうとも思う。

よほどの強い意志や心で決めた人でなければ周囲の環境の影響を受けてしまうのだから変わるということは難しいのです。

人は目先で感じる急激な変化に対しては反応しますが長い時間かけて緩やかに変化するのを感じるのは苦手であることが多いのです。環境というものの変化は、毎時ゆったりとしっかりと変わっていくものであるからつい気付かないのだと思います。

木々が伸びたり、水かさが増えたり、草花が広がっていることにあるときにハッとされるようなもので変化が大きなものは目先ではないところで起きているのです。

成長も同じく、変わっていないように感じても実は確実に伸びているのです。

よく観ると先日の原発事故から確かに変わっていることがあるように思います。
眼には見えないところで多くの人たちの心に何かが起きています。

もう一度、大切な何かを取り戻そうとする動きは心と心を通じて人々の様々な言葉や表現から感じ取ることができます。

私たち日本人がこの西洋型文化を取り入れたのもついこの間の話です。それ以前はまったくそうではない生活があったと思えば、決して忘れてはいないのだと思います。

遠くの大きな変化が見えれば観えるほどにこれからがとても楽しみです。

情熱燃焼

営業の仕事をしているときによく悔し涙を流したことがある。

営業は結果がはっきりしていてシンプルで、さらに自分で目標を決めて会社に貢献することが何かが明確になっているからこそ、それを成し遂げることができなかった自分が悔しくて何度も何度も涙を流してはさらなる情熱を傾けていました。

いつも現実を受け容れられず、それは自分の熱意が足りなかったからだと振り返り、きっと自分の情熱がまだまだ達していないのだと自分に言い聞かせ、ぐいぐいと仕事に一心不乱に没頭した記憶があります。

今、思い返せばその気持ちは今もこの胸の奥に止まっていていつでもその頃の情熱を思い出すことができることが今の行動力や勇気に繋がっている気がします。

例えば、今でも明日に延ばせることは先にやり、いつでもいいことは今やる、難しいことは事前に取り組み、スケジュールはすべて前倒しにすることなど、それはすべて仕事の体験を積んだことから自己管理できるようになったものです。

「仕事は、情熱をかけるほどに愛が籠り、真心が出てきて奇跡が起きる。」
奇跡を信じることができるのは、仕事に情熱を籠めているからです。

どんな仕事でもそうですがもっとも大切なことはその仕事に全身全霊の情熱をかけることなのです。自分の仕事に誇りを持つのも、自分の仕事が自分を創っていると感じるのも、それはその仕事への責任感や使命感から生まれるものです。

当たり前のことですが、仕事が楽しいことは最高の人生には欠かせません。

何か新しいことに打ち込む際にも、迷っている暇もなく、自分のすべてをまずそこに情熱として行動で注ぎ込みます。そしてそれを注ぎ込めば込むほどに仕事が面白くなってきて、さらに挑戦して没頭していこうとする力が漲ってくるのです。

自分がやりたいかどうかもありますが、それよりも私はもっとも大切なものはすべての仕事に情熱を傾けることであろうと思います。人生は面白くもできれば、あっという間につまらなくもできるものです。

仕事も同じく、面白くもできればつまらなくもできます。
強い熱意こそが、人生を感動させ、他人を感激させるものです。

燃焼していくことは、人生を切り開く上で大切なのだと改めて感じます。
仕事を教えることは上手くないですが、この熱意は私の得意分野です。
自己発奮して燃焼し、周囲や後人へと伝承していきたいと思います。

 

自意識という妄想

自意識過剰というものがある。

この自意識というものを思う時、相手から見られている自分と、自分からみている自分というものが存在しています。

営業の仕事で例えてみると、誰でもはじめて営業をする時は自分に自信がないので最初は自分の諸動作や話し方ばかりが気になって商品の話ができずタジタジしてしまうものでこれは相手から見られている自分を過剰に意識しているからでもあります。その逆に、自分から見ている自分に自信があればどのようにすれば相手は喜んでもらえるかを気にするので商談に集中できるものです、しかしもし相手を過剰に意識してしまうと今度はビクビクしてしまい話を進めることができなくなります。

この自意識過剰というものは、この両面を過剰に意識することで発生するのです。本来、この自意識は人との対人関係の問題です。本来、信頼関係があれば相手からどう思われているかなどあまり気にしないし、逆に自分がどう見ているかなども考えません。自分から信頼できる人は、信頼されるように善いイメージを持てるような体験をたくさん積んでいくしかないとも感じます。

これを営業でいえば、その自他を信頼できる状態になるには経験を通して成果を出し自信を持つことで現場での不安はなくなってきてどこでもいつもの自分で接することができるようになるのです。

仕事でいえば一度上司に企画書を突き返されても何度も何度も挑戦し納得いくまでやり遂げたり、先程の営業でいえば契約していただけるまで何度も何度も納得いただけるまで共感していけば次第に力がついてくるものです。

人は途中で諦めるとそれ以上は無理だと思うようになります。人間関係でもそうですが、自信がある人は猛アタックしてでもその人との関係を「もの」にします。しかし自信がない人は、すぐにそれ以上の関わりを避けようとしてしまいます。

相手からどう思われようが、自分がどう感じようが、自分がそうしたいと思った目的を遂げるまで諦めずに関わることで関係は打開できるのです。なんでもそうですが、最初から上手くいく関係などあるはずがありません。

打ちとけ合うまでは何度もぶつかりあいがあります、それに何かを一緒にやろうとすれば遠慮なんてしていられません。それを実現するまでやるしかなく、大事なことはお互いの幸せのために真剣に誠実に取り組むことで関係も良好になるのだと思います。

これは先程の営業では、お客様の幸せのために会社に貢献するために全力で働けば自信は後からついてくるということなのです。先に自信をつけてからという発想ではいつまでたっても仕事の実力もついてはこないのです。

医者や先生と呼ばれる仕事もそうですが、他人に見られるからと意識しすぎていたら本当に善い仕事はできません。仕事への誇りと自覚こそが、その自意識を拭い去るのです。

だからこそ自分の自意識を気にせずに没頭し、気にせずに熱中する、気にせずに集中し、気にせずにやり遂げる、それくらい無我夢中になったり、一心不乱に没頭するくらい目的のために時間を使うことが大切で、それを繰り返せば自信も漲ってきます。

最後に、禅語に、「莫妄想」 (妄想すること莫(なか)れ) があります。

毎時妄想していたら現実はいつまでも変わりませんね。いちいち自意識や過去や未来のことばかりを考えるのではなく、この今こそに集中することが自分との正しい付き合いになるのだと思います。

常にこの今を、この現実を真摯に丹誠を籠めて生きることなのです。

他人に伝えるといことはとても難しいことです、このコミュニケーションというのは胡坐をかいていては上達していきません、仕事は何歳になっても学びなおしが必要だと振り返り反省する日々でもあります。だからこそまずこの今、なすべき課題にこそ集中して改善し新たな習慣を更に獲得していこうと思います。

 

 

伝達

自分にできることを他人に伝えることは難しいことです。自分が努力精進して掴んだものは、知識だけではなくその経験もあわせて理解していく必要があります。

いくら学識だけで分かったと思っても、それは分かった風であるだけで本当に分かったとは言わないからです。人は同体験を通じて分かりあっていくものであったりするのですが、そこには時間差などというものもあります。

同じ量、道を学んでいたとしても、そこに確かに積み上げてきたものの差がある。

20歳で学を志している他人と、60歳までそのままの志で学問をしている人では同じ言葉であったとしてもその裏付けされた体験の質量は同じではないからです。

しかしそれを理解し伝達していくことで、お互いに力をあわせて何かに取り組むことは必要になってきます。その時に必要なのがビジョンの共有、価値観の主軸の設定であるようにも思います。

何かを一緒に行うというのは、その方針や方向性を把握しているかというのは大事なことです。私も何かに取り組む時は、自分から方針や方向性を確認して自分が何を学び、何を共にやるのかを決定します。

その伝達と理解の質量は何よりも大切である気がします。そしてその電線ともいうべき伝導体が何によって繋がれるかといえば信頼であろうと思います。

だからこそ人間関係には信頼関係がまず第一になるのです。自分から信頼されるように努めることは、自分から好かれるように努力することです。好かれたいと思うから好きになるのであり、好きになっている人は好かれたいと素直に感情を表現できる人だからです。

他人を好きになるのは、自分が好きになることで、自分が好きになることは、人から好かれることです。

こんな当たり前のことですが、仕事だからと割り切るのではなくもっと自分から壁を取り払い相手に優しくなれるようになりたいと思います。

歩み寄り

先日、赤ちゃん学会を訪問して話をお伺いすることがあった。そもそも赤ちゃんという存在がどのような能力があるのかはまだあまり解明されておらず、本来の関わり方やあり方などが最新の研究で明らかになってきている。

音を感じる力や言葉の認識力、人間関係の構築など一見、何もできない存在にみえてすごいことをやっているのにはとても驚くことばかりなのです。

人間はどうしても小さいものや動かないもの、言葉をしゃべらないものなどは何もできない存在だと思い込むことが多いのです。しかし、実際は動かないものや新しいもの、言葉にしないものこそが大変は実力を兼ね備えているものも多いのです。文明が進み、知識が豊富になればなるほどに目新しいものに意識が運ばれますがもう一度見直すにはとても善いことだろうと思います。

その会話の中で、軽度発達しょうがいの子どもがあまり健常児の子ども達の気持ちを理解しないなどの誤解について話がありました。もともと偏りが強い子どもは不思議な力を持っています。犬と話ができるや、何か景色を見ては描けるや何かを感じる力が突出していたりします。

もちろん人はそれぞれにみんな異なる力を持っているのだから同じというのはあり得ないのですが、それが偏ると余計に分からなくなるものです。そう考えると、健常児の気持ちが分からない子どもというよりも、では軽度発達しょうがいの子どもの気持ちはあなたたちに分かるのかとなるとお互いが分からないということになるはずです。

一般的には、立場が違う人が皆に理解されなかったり、大多数の平均理解と偏った考えで分かれたりと、それぞれに認識は異なるものです。

だからこそ大事なのは、お互いの歩みよりであろうとも感じます。
特に、大人は自分一人が認識されないことを過度に嫌がる傾向があります。
それは人間が社会を主軸に生きる動物だからであろうとも思います。

だからこそ論語にもこうあります。

「子曰わく、人の己を知らざることを患(うれ)えず、人を知らざることを患う。」

そう考えると、子どもが空気が読めないや認識しないや偏っていることを心配しそれの対策を立てることよりも自分がその子どもの気持ちがわかるのだろうかということの方が大切ではないかということなのです。

どうしても自分のことを分かってもらおうとすればするほどに、誤解は大きくなるのだと思います。だからこそ、そうではなく自分から如何に相手の気持ちを理解しようとした方がいいのです。

特に今のような時代は、そのお互いの歩み寄りをはぐくむためのマネージメントを必要としている気がします。

まだまだ社業で実践していきたいと思います。

 

約束を守る

何かに取り組むとき、もっとも強大な敵は何かといえば心の中にある。
外の敵を破るのは、何とかなるけれどその敵とは本来自分の中にあるものです。

何かを決めたことがあったとしても、それを守れないのは自分が先に負けるからです。そして外の的に勝てるのは結果として自分に克ったからにほかなりません。

人は何かを成し遂げるには、自分の中にある敵に打ち克ちやり遂げたときに結果的に外側の世界で勝利を得たともいえるとも思います。

王陽明に「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し。」があります。

これも同じ意味で、何かをできない原因はすべてこの心の敵に負けているからともいえるのです。

そしてその敵に負ける最大の理由は何かといえば、自分を信じられなくなるからです。そして自分を信じられなくなるもっとも根源的な原因は自分との約束を自分で守ってあげることができないからです。

一番身近にいて、一番自分を助けてくれる最大の支援者で理解者である自分を裏切ってしまっていては何かを信じることはできません。

自分が信頼しているパートナーへの信頼とは、外側で一緒に何かを取り組むパートナーへの信頼とも同じなのです。いくら、外側で信頼しているとメッセージを送ったり表面上はあわせたとしても、自分の信頼を裏切っている人では外から本当に信頼されるはずはありません。

自分を大切にするというのは、自分を甘やかすことではなく、自分との約束を守ってあげることで自分を信じることだと思います。

人間は弱いもので、そんなにいつも勝てるわけではありません。それでも強い意志で戦っていく、勝負する、克つのだという信念があるからできない原因がなくなるのです。

何かをやるにはできるようにならないといけません。
そしてそれは、何が何でも約束を守る、目標を達するとの決心なのです。

私もまだまだ自分に克てていないこともたくさんあります、全てを一度受け容れてゼロになりまずは自らとの戦いに挑み打ち克ち世の中に貢献の輪を広げていこうと思います。

学道の実践

理念を実践していく中で、なぜ理念は学ぶのではなく実践するのかということを話たことがあります。
これは学の学と道の学との違いのことでもあります。

そもそも学の学というのは、人間学、経営学、等々、何々学というものはすべてに学とつくものは何かの事象を学術研究したものを他に理解できるように明文化したものであり それは互いの知識として共有できるように体系づけらているものになっています。

しかし道の学というのは、人間道、経営道、等々、何々道というものはその人生の実践や実体験を通した分でしか互いに共有できないものでそれは暗黙知や智慧といった気づきとして構成されているものになっています。

学の学だけでは体験しておらず知識の中だけで単に語られているもので、道の学のように実体験からのものがないのだから、その学ばかりで体験をしていなければ学校での勉強のように詰め込むだけでやった気になっていたり、単に分かった気になっているだけでその実は何も変わらないのと一緒なのです。

道の学は例えば、まるで自らの全身全霊を傾け一心不乱に実直な実体験を通して日々にひとつひとつを深く気づき深く潜り深く味わい、かつ繊細に緻密に丁寧に掴み取るようモノにしていくというように体得していくようなものなのです。

同じ学でも、その学の姿勢に頭でっかちでやるのか、一心不乱でやるのかはまったく異としているものなのです。常に躓いている人の話を聴くと、なぜ思った通りにいかず、なぜ停滞するのか、なぜ軽薄になるのか、なぜ浅く広くばかりで分からないのかと言えば自らそれを本気で実践から学ぼうとしていないからでもあります。

言うは易し、行うは難しなのです。

本気で学ぶというのは、道のことであり、それは挑戦をすることなのです。
挑戦とは、頭で分かったことではなく実体験をすることなのです。

この挑戦するというのは、きっとこうだろうなと知っていることよりもまずやってみようと思うことや、よしやってみて分からなければまた学べばいいと、恥ずかしがらずに他人からの評価も気にせずに失敗を恐れず、果敢に高い目標に挑んでいくことではじめて学ではなく道に入っているともいえるのだと思います。

この道を行うというのが、「実践」ともいい、理念も同じくただ理念を読んでいれば理念が分かるようになることはありません。よく実践とは、ちょっとやったら実践だという人もいますが実践というのは道の実践であることを忘れてはいけません。

それは道を行うために理念を用意しているとして、その場合の理念とは行動と必ずセットで紐ずいているものであり、理念をただ知っていることだけをやっているだけではそれは決して理念を実践しているということではないのです。

理念の実践とは、自分から挑戦していく中での主柱であったり、自分から考動していく中での中心軸としてはじめて理念を実践する意義が生まれます。何も挑戦も考動も行っていないのに、理念を分かるようになりましたなどということは絶対にないのです。

目標が崇高で高いからこそ、一生懸命に立ち向かう必要があるのです。
そしてその目標こそが理念に記されているのです。
それを実現するには、果敢に挑んでいっても敵わないものばかりに出逢いその困難に打ち克つときにこそ理念の本質がその人に観えているともいうべきものであるのです。

人は高い目標に真剣に打ち込むときだけ成長します。
そしてその対価として得られるものが智慧であり、その時に残る智慧というものは自分で果敢に挑戦して体得したからこそはじめて自分の中に残るのです。

今の時代は、すぐに知識ばかりで分かった気になり挑戦はしないという人が増えています。むしろ、知識があるから先に結果が分かっているから何もしないという人もいます。

真の学びというものは、たくさんの失敗により生まれます。

それは例えば、子どもが生まれる10か月と10日の間に、46億年の地球の歴史のプロセスを全部胎内で経て今の人間になるように、すべては何度も実体験からチャレンジして遺伝子が今のカタチを生んだのと同じなのです。

体験なくして、それをショートカットしようとするのは人類や世界のために自らを成長することではないのです。色々な恩恵を受けて今の自分の存在があるのだから、成長することは恩を忘れないでいることに繋がっているのです。

だからこそ人は何でもやってみたことのないことに挑戦すること、それを増やせばそれがやってみたいことなのです。しかも誰もできなかったような不可能に挑戦するときこそ、実は理念をもっとも必要とするのです。

理念は、自分が迷ったとき、いや言い方を変えれば自分がどうあるべきか何のためかを自問自答する際の最高の環境を用意してくれるのです。

理念があるから大義が出てきますし、大義を貫くからこそ信念が生まれてくるのです。

まずはその理念を実践するというのは、新しいことに挑戦するという意味なのです。
やったことに無駄はありません、それは理念をちゃんと持っているからでもあるのです。

言葉ではなく、カタチにしていくことは挑戦した姿が次第に周囲に顕われてくるのです。
どんどん成長する方を優先して、至高の目標に向かって自分を進めていきたいと思います。

自然界と人間界3

元々集団で生きている動物に猿やチンパンジーなどがある。
人間がよく例えられるのは行動が似ているからでもある。

例えば、先日ある農園で最近イノシシやシカやタヌキなどが、畑を荒らすという話をしていたときに彼らはまだましでもっとも面倒なのはサルだと口を揃えて皆が話をしていたのを聴いた。それはなぜかと話をしていると、道具を使う上に狡猾だからだと話をしていた。

まるでどこかの話だなと思いながら聞いていたけれど、人間界での出来事と同じく自分たちの群れを守るためなら猿山合戦を繰り返して終わりのない勢力争いを続けている姿を見ていても似たようなものだなと思います。

その群れの中でも徳の高いサルが出れば群れはよく治まります。ジャングルなどでも、繰り返される弱肉強食の世界でそういう群れのリーダーがいれば争いも少なくなり平和に修まっていくのです。

それをまず理解し、人間界ではどうあるべきかを考えるときもしもこのサルで例えればすべての動物のことを考えるサルがいたらどうかということなのです。サルが自らの群れのことだけを優先せずに全動物の調和や豊かな森を維持するためにと考えるならばどうなるでしょうか。

人間が自分たち人間のことしか考えなくなると、必ず所属する群れという国家というものを優先し争いはいつまでもなくなりません。それは元々生存していくためのそういう本能を持っているからだともいえます。 しかしそういうものを乗り越えていくことで、リーダーとして自然の調和を司ることができるのだともいえるのではないでしょうか。

自然界では、当たり前にそれぞれがそれぞれで自分らしくいることで調和を永続しています。人間は群れの大きさや安定などのために、何度も何度も争い続けます。

目先の集団の利益ではなく、全体の集団として捉える壮大な理想が必要なのだと思います。
もしも自然界というもので生きている人間としての使命を覚えれば、動物たちや植物たちが安心して暮らしていけるような世の中にしようと思うことはこれだけ科学技術を発達させてきた私たちの役割ではないでしょうか。

また人間の社会が、また目先にならないように如何に全体のために生きようとする人々を育てるかはその人間を全人類としてひとまとまりとして考えるのがすべての国のリーダーの共通理解であるべきではないでしょうか。

今、時代は二度の大戦を経てついに次への舵取りを迫られています。

視野を広げ、本来の人類がどうあるべきかを色の違う、住処が異なる生活ゾーンが分かれているサル集団同士の問題だけに躍起になるのではなく どうやってこの刷り込みから抜け出せるのかを議論して人道というものをまとめていくことではないかとも私は思います。

結局、派閥争いや集団のいがみ合いではいつまでも目先に囚われるのだからもっと全体としての自然界から学び直していくことで原点回帰し新たな役割というものを再定義していくことになるのだと思います。

子ども達と一緒にこれからも考えて動いていきたいと思います。

自然界と人間界2

元々、自然界というものには全体にとってどうかというモノサシがあります。
そして人間界には、その集団にとってどうかというモノサシがあります。

つまりは、自然界は常に宇宙全体としての調和というものを感じさせるものであり一部の特定の個体や集団のみを特別扱いすることはなく遍く全ての生き物たちに無償の慈しみを与え続ける存在だともいえます。

しかし人間界は、一部の集団の維持や存続というものを優先していることを感じさせるものであり自分が所属する集団にどれだけ貢献することができるかということを重んじます。これは例えば、猿が猿の生息地争いをいつまでも続けるようにその集団を維持していくためには時としては争い、時としては調停して折り合いをつけることに似ています。

今の人間界の問題は、全人類という発想ではなく、自らの所属している集団の正義や利権においていつまでも目先の発想から抜け出せないからだともいえます。

集団を形成する動物たちも同じく、自然の法則よりも集団の法則を優先して自然に対抗していこうとする勢力があることも事実です。しかし、人間はより狡猾で如何に他のそれぞれの境界をまたぎ自分たちの陣地を拡げていくかということにいまだに囚われています。

今の時代を観れば、もう自然界あっての人間界ではなくなってきており、その自然界そのものを人間界が征服できるとさえ思っているような感じもあります。動物たちの絶滅を観ても、それぞれの動物にはそれぞれの世界がありました。それぞれの言語とコミュニケーションを通して、自然界の中で平等に暮らしながら役割を果たしながら学んでいたのです。

その境界線を越えてやってきた人間界を押し付けられ、住処を奪われているのです。
そして同じく人間同士の中でもそれぞれの住処を奪われていく小さな種族や、生き方を異にしてきた古からの伝統そのものを壊すような痛ましいことなどもおこしています。

今の環境問題も、自然破壊の問題も、非人道的行為も、戦争も、人権無視も貧困も、すべては人間界で起きている事件であるのです。これは人間が何かの教育により、私たちが自然界の中の人間界であることを分からなくなるようなことを刷り込みでやっているとも言えるのではないでしょうか。

例えば、今の環境問題の本などは地球が泣いている絵を見せて、地球が可哀そうだからゴミは捨てないようにねと小学校などで説明している授業がありました。これは完全におかしな話で昨日書いた愛護という考え方で地球に対峙させようとします。そもそも地球は愛護するものではなく、地球は保護するのは畏怖尊敬の念があるからです。偉大な山や川を守ろうとするのは、人間の科学で何かを施すのではなく、そのままでいただこうという畏む念より生じるのが本来の在り方なのです。

太陽が弱くなってきたから、核爆弾でも打ち込んで活性化させようという発想も、地球がゴミがいっぱいになるから宇宙に捨てにいこうなどという愚策も、すべてはそういう自然を征服できると勘違いしている人間の傲慢さから生じているのです。

人間界というものは、自然界がなければ存在することはできません、人間が食べているものもすべては栽培養殖をあらゆる手を使ったにせよ、そこに空気や風、太陽、土、水などの偉大な恩恵がなければ何も生み出すことはできません。

自然界の中に人間界があるように、他の動植物の世界もまた同じく自然界の中に存在しているのです。それをなくなって可哀そうと思うのではなく、互いを尊重してそれぞれの世界も存在させていく方が真の豊かさであるのだと如何に全体のために目覚めるかが人類における覚醒であるのだと私は思います。

人類は今、大変な過渡期を迎えています。

この自然界を人間界一色に塗り替えようとするような勢いで人間が蔓延っています。そしてそれを書く私もまた人間を深く愛している一人なのです。だからこそ、もっと自然界のことに目覚め私たちが人間界のことに気づけるように色々と手を打っていかなければなりません。気づいても形にできなければ何も変わらないからです。

まだまだ自然界と人間界の様々なズレを書いていこうと思います。

自然界と人間界

ここ数日、野生の生き物との接触をするという機会がありもう一度、自然界とは何か、人間界とは何かを考えキッカケがあった。

そしてそれは同時に、保護というものと愛護という言葉があることを考え直すことができた。
私の定義では保護とは自然界のルールを守ることであり、愛護は人間界でのルールを守ることである。

これを例えてみると、自然界には食べるものと食べられるものがあり一定数が互いに受容循環の中で存在している、それと同時に互いに食べるものとしてまた食べられるものとして生死を平等に共有しているということである。

自然界では、何かの事故に遭い大けがをすればその個体は自らの死を覚悟し受け容れるしかなく、また自分の運命もまたその繋がりの一部としての役割を果たすことで命を丸ごと全うしていると言えるのである。

もしもこの自然の中にある掟を無視し、怪我をした生き物やある捕食動物だけを人間の都合で可哀そうだと決めつけて愛護してしまえば自然のバランスが壊れ捕食される側が大量に増えたり人間界のおかしな癖を身に着けたりしてしまい竟にはその自然の森を破壊して種が生態系を維持することができなくなることもある。

それが人間が踏み込むことを犯した自然破壊というものである。
自然とは本当の意味で聖域なのです。

しかし人間界はこれとは異なり、人間が生息を続けていくために食べるものは食べるものとして栽培や養殖をおこない動植物も人間生活の需要と供給によって存在させている。これを自然だと思い込んで保護するとしただ単に自然に任せていればぐちゃぐちゃの無法地帯になって人間界は争いが尽きず強いては人間界を安定維持していくことができなくなる。

人間には、人間界を維持していくための法があり掟があり人の道に従って互いに助け合っていかなければ人間界というもの自体を成り立たせることができなくなるのです。人間界のルールは自然界では使えないように、自然界でのルールも人間界では使えません、それは人間というものが自然から離れて人間界のみで世界を構成しているからともいいます。

はっきり言えば、私たちが自然界から離れて人間界というものを構成しているのだから今私たちが自然自然と呼んで自然と思っているものは実は本来の自然ではないということなのです。

もう一つのたとえ話をすれば、人間が飼っている動植物とは、自然かというとそうではありません。それは人間が飼うからであり、うさぎであっても犬であっても猫であってもニワトリであっても、あれは人間が人間界で成り立つように飼育したものでありあの子たちを自然に戻せばすぐに死滅してしまうのである。

それはその主は誰かといえば、人間だからです。

この人間というものが飼っている、または栽培するというのは人間界として行っているのであり自然が行うのではありません。

そうではなく、自然で生きている野生の動植物とは自然そのものであるのです。それは主はそれぞれであり野犬、野鳥、野兎、野生は自然の中で存在していて、これを人間界に連れてくれば主は人間になるのだから自然ではいられないのです。

つまり自然の中で野生でいるものは、自然に野に発生しているのであり人間が何かをしたわけではないのです。

この観点で物事を観れば、自然保護というものと自然愛護とは完全に違います。

如何に自然が壊れるからとエコ活動をしているのは人間界における愛護の観点であり、本来自然とは一定の距離感を保ち自然を邪魔しないことの方が自然界の保護の観点であるのです。

動物を可哀そうだからと、どんどん野生であるものを人間界に連れてきてペットとして飼っているのはまったくの勘違いであり、本来は神社などの杜をなるべくたくさん遺し、動物たちが自然界で生きていけるように保護していくことの方が価値があるのです。遺産というのは、どれだけかつての自然を遺しているかということなのです。

言い換えれば、自然界あっての人間界が、その自然界自体を乗っ取ろうとする行為に対してそれだけいけないと自然の遺産を遺そうという取り組みであるのが本質であろうと私は思います。

自然で生きているものを人間の都合ですべて飼うということは絶体にできません。そしてもしもそれでも人間界を維持していくために人間界で共に生きるように選択した動植物は人間が正しく愛を持って見守る責任があるのです。

現代では本当にたくさんの飼い犬が捨てられたりしていますがあれは人間界のの掟に反しています。一度人間界で飼ったものは最期まで責任をとると決めたはずなのに経済的理由が優先されその契約を人間の方が先に放棄するというのはおかしな話なのです。

私からすれば犬が野犬になるのではなく、人間界に絶望して復讐しているのです。ああいうことをやるから、この人間界では争いが尽きずいつまでも命を奪い合う痛ましい事件がなくならないのです。

人間は、本来、皆が仲良くして暮らしていくことで成り立ちます。
人道とは、人間が共に生きていくものに感謝しながら助け合って存在さしめるのです。

今のように間違えば、そのうち人道に反したことから私たちは学び直すことになります。
少しでも早く気づくためにも、この自然界と人間界はちゃんと定義されるべきだと思います。

これは1回では書き終わらないのでまだ続きを書いていきます。