学道の実践

理念を実践していく中で、なぜ理念は学ぶのではなく実践するのかということを話たことがあります。
これは学の学と道の学との違いのことでもあります。

そもそも学の学というのは、人間学、経営学、等々、何々学というものはすべてに学とつくものは何かの事象を学術研究したものを他に理解できるように明文化したものであり それは互いの知識として共有できるように体系づけらているものになっています。

しかし道の学というのは、人間道、経営道、等々、何々道というものはその人生の実践や実体験を通した分でしか互いに共有できないものでそれは暗黙知や智慧といった気づきとして構成されているものになっています。

学の学だけでは体験しておらず知識の中だけで単に語られているもので、道の学のように実体験からのものがないのだから、その学ばかりで体験をしていなければ学校での勉強のように詰め込むだけでやった気になっていたり、単に分かった気になっているだけでその実は何も変わらないのと一緒なのです。

道の学は例えば、まるで自らの全身全霊を傾け一心不乱に実直な実体験を通して日々にひとつひとつを深く気づき深く潜り深く味わい、かつ繊細に緻密に丁寧に掴み取るようモノにしていくというように体得していくようなものなのです。

同じ学でも、その学の姿勢に頭でっかちでやるのか、一心不乱でやるのかはまったく異としているものなのです。常に躓いている人の話を聴くと、なぜ思った通りにいかず、なぜ停滞するのか、なぜ軽薄になるのか、なぜ浅く広くばかりで分からないのかと言えば自らそれを本気で実践から学ぼうとしていないからでもあります。

言うは易し、行うは難しなのです。

本気で学ぶというのは、道のことであり、それは挑戦をすることなのです。
挑戦とは、頭で分かったことではなく実体験をすることなのです。

この挑戦するというのは、きっとこうだろうなと知っていることよりもまずやってみようと思うことや、よしやってみて分からなければまた学べばいいと、恥ずかしがらずに他人からの評価も気にせずに失敗を恐れず、果敢に高い目標に挑んでいくことではじめて学ではなく道に入っているともいえるのだと思います。

この道を行うというのが、「実践」ともいい、理念も同じくただ理念を読んでいれば理念が分かるようになることはありません。よく実践とは、ちょっとやったら実践だという人もいますが実践というのは道の実践であることを忘れてはいけません。

それは道を行うために理念を用意しているとして、その場合の理念とは行動と必ずセットで紐ずいているものであり、理念をただ知っていることだけをやっているだけではそれは決して理念を実践しているということではないのです。

理念の実践とは、自分から挑戦していく中での主柱であったり、自分から考動していく中での中心軸としてはじめて理念を実践する意義が生まれます。何も挑戦も考動も行っていないのに、理念を分かるようになりましたなどということは絶対にないのです。

目標が崇高で高いからこそ、一生懸命に立ち向かう必要があるのです。
そしてその目標こそが理念に記されているのです。
それを実現するには、果敢に挑んでいっても敵わないものばかりに出逢いその困難に打ち克つときにこそ理念の本質がその人に観えているともいうべきものであるのです。

人は高い目標に真剣に打ち込むときだけ成長します。
そしてその対価として得られるものが智慧であり、その時に残る智慧というものは自分で果敢に挑戦して体得したからこそはじめて自分の中に残るのです。

今の時代は、すぐに知識ばかりで分かった気になり挑戦はしないという人が増えています。むしろ、知識があるから先に結果が分かっているから何もしないという人もいます。

真の学びというものは、たくさんの失敗により生まれます。

それは例えば、子どもが生まれる10か月と10日の間に、46億年の地球の歴史のプロセスを全部胎内で経て今の人間になるように、すべては何度も実体験からチャレンジして遺伝子が今のカタチを生んだのと同じなのです。

体験なくして、それをショートカットしようとするのは人類や世界のために自らを成長することではないのです。色々な恩恵を受けて今の自分の存在があるのだから、成長することは恩を忘れないでいることに繋がっているのです。

だからこそ人は何でもやってみたことのないことに挑戦すること、それを増やせばそれがやってみたいことなのです。しかも誰もできなかったような不可能に挑戦するときこそ、実は理念をもっとも必要とするのです。

理念は、自分が迷ったとき、いや言い方を変えれば自分がどうあるべきか何のためかを自問自答する際の最高の環境を用意してくれるのです。

理念があるから大義が出てきますし、大義を貫くからこそ信念が生まれてくるのです。

まずはその理念を実践するというのは、新しいことに挑戦するという意味なのです。
やったことに無駄はありません、それは理念をちゃんと持っているからでもあるのです。

言葉ではなく、カタチにしていくことは挑戦した姿が次第に周囲に顕われてくるのです。
どんどん成長する方を優先して、至高の目標に向かって自分を進めていきたいと思います。

  1. コメント

    遣っていて気付いたことを新たな取り組みに変換している自分がいます。実践していく中で感じることは、自分自身の性格です。人が見ていないと気が緩み、明日でもいいかと甘くなることもありますが「この差が将来の実力の差」だと自分に喝を入れることがしばしばあります。自分の為なら明日でも明後日でもいいのかもしれませんが、周りの遣っている姿を見たら自分一人やめるわけにはいきません。
    実践には経験して得た智慧と自分のコトを理解する機会だと感じています。自分のコトは一番自分が分かっていると思っても、何かを遣り始め新たな自分に気付いたり、思った通りと感じることもありますが、理解した中で、いかに自分と付き合い、実践していくのかだと感じています。

  2. コメント

    知識や結果ではなく、どのような姿勢で行ったのかが大事なのだという事を改めて感じます。その姿勢の高さ、どこを見て歩んでいるのかが、学びの深さになるのだと実感します。最近、会議の中でも周りのクルーのその姿勢から学ぶことが本当に多くあります。やれるか、やれないか、簡単か大変かではなく、実現したいと思ったその思いを貫き通すことを大事にしていきたいと思います。

  3. コメント

    様々な知識により人には多くの歩むべき道が出来るのかなと思います。しかし大事なのはやはりその道を歩もうと自分で決める事、そして実際に自分の足で歩むことではないかと思います。そして初めて自分の道になるのかなと感じました。いくら選択肢が多くても歩まなければ道の意味も無くなるのだと思います。しっかりと自分の中の道を歩んでいきたいと思います。

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