強く優しく寄り添うこと

正月の能登半島地震の知らせから被災地のことを思っています。同じように同じ国で正月を過ごしても、場所によっては大変な出来事に遭遇しそれまでのあたり前が完全に破壊されることがあることに改めて他人事には思えませんでした。

特に私たちの暮らす日本列島は、地震や火山、そして台風や洪水など自然災害が最も世界でも多い国です自然への畏敬を忘れて謙虚さを失った頃に、自然から畏敬を忘れるなと警告されるかのように災害が次々に発生します。

私は東日本大震災の時に、津波や原発事故の犠牲者を追悼するときに心にとても大きな衝撃を受けてこのままではいけないとそこから様々な生き方と暮らし方をずっと改善してきました。その後に新型コロナウイルスの感染症が流行り、ブレずに着々と地道に子孫のために必要なことを譲り遺していくために「徳」を大黒柱にして取り組んできました。

具体的には古いものを磨き直して甦生して知恵を伝承する仕組みや場を醸成したり、新しいテクノロジーを使って古くから連綿と大切に守られてきた自然循環を可視化したり、かつて当たり前であった自然の恩恵に対して徳を積むことを主軸に、金銭面などの周囲の心配などをよそに邁進してきました。

現在、日本人は世界でも自分のことしか考えない人が増えているといわれているといいます。心の冷たい人が増えたというのは、それだけ心の余裕が消えるような現代や教育の環境の影響を受けたともいえます。みんな時間に追われて、当たり前であったことを見失ってしまっているようにも思います。

しかし、地震などの自然災害で大変な思いをなさっている方々を観るとき離れている私たちには何ができるのかを真摯に向き合うと無力さを感じながらもこの当たり前だったことをもう一度見直し、感謝して暮らしを調えていくことではないかと私はいつも思います。

元々、私の取り組んでいる「暮らしフルネス」もまた東日本大震災の犠牲者の方々の死を決して忘れないと取り組んできたものです。人間中心の飼育された社会のなかで、感性を鈍らせない、野生を忘れない、本能で生きることを大事にすること。そして、先人たちの思いやりや遺徳、知恵を真摯に伝承すること。未来の子孫のためにも、自分たちが暮らしを通して道をきちんと結んでいくこと。これらのことを実践するために起こした事業が暮らしフルネスの本懐です。

私の言う事業の定義とは金もうけのことをいうのではなく、徳を積むことをいいます。利益というものは、本来は子どもたちのものでいいのです。尊敬する先人たちの事業で今でも遺っている素晴らしいものはすべて子孫のために実践されてきたものです。

自然は、平等に人々に災害を与えてくれます。だからこそ、自分の代わりに被災してくださった人たちのためにも自分が何を変えるのかを真摯に考えて生き方を見直していくことがその恩に報いることになると私は思います。

もちろん緊急性のある支援はできることをよく吟味してすぐに行動できるものはやることだと思います。しかし長い目で観て、数年、数十年、数百年先に何がもっとも被災地の子どもたちのためになるのかなどを思うとやはり自分の生き方を変えることだと感じます。

引き続き、私は悲しみに寄り添いながら初心を忘れずに暮らしフルネスの実践と伝道を強く優しく寄り添いながら続けていきたいと思います。

恵みに感謝

全国各地に商売繁盛の神として知られる七福神の一人に、「えびす」さまがいます。ちょうど十日えびすのお祭りがあっているので少し深めてみます。

この「えびす」さまは、ウィキペディアの分類によれば「日本の神。七福神の一柱。狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿が一般的。また、初春の祝福芸として、えびす人形を舞わせてみせた大道芸やその芸人のことも「恵比須(恵比須回し)」と呼んだ。外来の神や渡来の神。客神や門客神や蕃神といわれる神の一柱。神格化された漁業の神としてのクジラのこと。古くは勇魚(いさな)ともいい、クジラを含む大きな魚全般をさした。寄り神。海からたどり着いたクジラを含む、漂着物を信仰したもの。寄り神信仰や漂着神ともいう。」とあります。

「えびす」さまの名前はとても有名ですが、以上のように外来の神様や渡来の神様、海からの漂流物など、はっきりとしないあらゆるものが混ざり合った姿として存在があります。また一説によれば古代の鴨族が田の神様として祀っていたとか、海人族安曇氏の氏神様であったとか、謂れがあります。この古代の安曇族は本拠地は北九州の志賀島一帯で遠く中国まで交易をし、海部(あまべ)を支配して勢力を誇った有力な豪族だったといいます。水軍を持ち、あちこちに移住しその勢力を拡大した一族です。

もともと日本という国は島国で海路と海の恵みによって豊かな暮らしを育んできました。内陸も今よりも内海や河川が自然のままで、船によって内陸との交易を発達させてきました。

海がある御蔭で私たちは世界とつながります。今では空もありますが、古来は海が中心でしたから多様な文化を受け容れる神様の御蔭で人類は交流を持ったように思います。

そしてこの「えびす」さまは、その象徴だったように思います。

今では商売繁盛のご利益が有名で、よく大黒天と一緒にむかしはお祀りされていたといいます。私の古民家でも常に厨房やおくどさんにはえびすさまと大黒様を一緒にお祀りします。これは豊かさの象徴に感謝するためでもあり、その見守りの中で暮らしが成り立っていることを忘れないようにするためでもあります。

海の恵み、田の恵み、自然の恵みによって私たちは生きていくことができます。いくらお金があっても、これらの自然の恵みがなければ私たちは生きていくことができません。

今、ちょうど十日えびすで私のいるBAでも恵比寿様をお祀りしていますが改めて恵みに感謝する日にしたいと思います。

 

親友の仕合せ

幼馴染がはじめて家族と一緒に聴福庵に来てくれました。小学校5年生の時からの友人で色々なことを星を観ながら毎晩のように語り合った仲です。転校してきたのですが最初からとても気が合い、お互いにタイプも異なることもありとても尊敬していました。

音楽が好きでアコースティックギターを弾き、また工作が好きで半田鏝を使い近くのパチンコ屋さんの廃材で色々なものをつくっていました。他にもパソコンが得意でプログラムなどもかいていました。私はどちらかというと野生児のように自然派でしたからとても理知的で新鮮でした。

中学では同じ部活に入り、レギュラーを競いバンドを組んでは一緒にライブなどを行っていました。塾も一緒で成績でも競い、その御蔭で勉強もできるようになりました。思い返せば、尊敬しあい好敵手という関係だったように思います。

高校卒業後は、私は中国に留学し彼は岡山の大学に行きました。そして社会人になって一緒に起業をして今の会社を立ち上げる頃にまた合流しました。毎日、寝る時間を惜しみ休みもなく働き努力して会社を軌道に乗せました。私の右腕であり、苦楽を共にするパートナーでした。しかし、その後、お互いに頑張りすぎたり結婚をはじめ色々な新しいご縁が出てきてメンタルの不調や社員間の人間関係の問題、過去のトラウマや祖父母の死別など様々な理由が見事に重なり別れることになりました。

そこからは孤独に新たな道をそれぞれに歩むことになりました。もっとも辛い時に、お互いにそれぞれで乗り越えなければならないという苦しみは忘れることはありません。あれから20年ぶりにお互いの親友の通夜で再会してまた語り合うことができています。

離れてみて再会してわかることは、その空白の20年のことを何も知らないということです。当たり前のことを言っているように思いますが、その間にお互いに何があったのか、伝えようにも関係者や周囲がお互いの知らない人ばかりになっていてどこか他所の他人の話になります。私たちの知り合いは20年前に止まったままでその頃の人たちももうほとんど今ではあまり連絡を取っていません。

人のご縁というのは、一緒にいることで折り重なり記憶を共にするものです。同じ空間を持つ関係というのは、同じ記憶を綴り続けている関係ということです。喜怒哀楽、苦楽を共にするときお互いのことが理解しあい存在が深まるからです。

今では、親友は新しい家族を築き子どもたちも健やかで素敵な奥さんとも結ばれて仕合せそうでした。20年たって、一番嬉しかったのは彼が今、仕合せであることでした。

そう思うと、最も自分が望んでいるものが何かということに気づかされました。私が一番望むのは、私に出会った人たちがその後に仕合せになっていくことです。だからこそ、真心を籠めて一期一会に自分を尽力していきたいと思うのです。

いつまでも一緒にいる関係とは、仕合せを与えあう関係でありたいと思うことかもしれません。親友との再会は、心が安心し嬉しさで満たされました。苦労の末に掴んだ彼の仕合せに感謝と誇りに思いました。

善い一年のはじまりになりました、ご縁に心から感謝しています。

当たり前を拝む暮らし

昨日は、朝から会社の仲間たちと一年を振り返り昼からは結の方々と共に暮らしの中で冬至の時間を過ごしました。また夕方からは祐徳石風呂サウナに入り音楽を味わい直来で備長炭で煮込んだおでんを食べ団欒しました。みんなで持ち寄った「ん」のつく食べ物を発表したり、昨年のことを思い出してみんなで語り合い、来年の予祝をしておめでとうをし運気を上昇させました。

私は、何かのイベントのように物事を行うのが苦手であまり好きではありません。刹那的なものは何か人間の作為的なものを感じてしまいます。もちろん、好き嫌いというだけで悪いことではないので時折それもありますが苦手ということです。

例えば、昨日は冬至で日の入りをみんなで眺めて拝みました。奇跡的に日の入りの瞬間に冬の厚い雲の間から差し込んできた神々しい光に包まれました。お祈りをして法螺貝を奉納したあとさらに光が増し振り返ると一緒に拝んでいる友人たちの顔が光で真っ白になっていました。その神々しさにまた拝みたくなり感謝しました。

私たちは何かを拝もうとするとき、何かの建物越しに拝んだり、あるいは石像やあるいはお経などを通して祈ろうとします。しかし、本来の神々しいものはもっと自然的なものやいつもある当たり前の存在にたいして拝んだ方が深い感動や多幸感が得られるものです。

これは自然であり、人為的ではなく作為もないからです。

古来より私たちの先祖は、自然に太陽や月や水や空気、星空をはじめあらゆる存在の偉大さに気づく感受性を持っていました。だからこそ、当たり前の中に足るを知り真の豊かさや喜びを味わっていたのです。

何かと比較することもなく、何かに勝ち負けもなく、効率や効果なども一切とらわれない、ただそこにあるものに感動していたのではないかと私は思います。

その証拠に、私たちの感受性の中には自然を美しいと感じる調和の心が具わり、同時に五感や六感というような感覚が反応するからです。人間の脳みそで構成された世界ではなく、本来の自然として刷り込みも囚われもない赤子のような心があるのです。

そしてその感性や調和を優先して生きることが、本物の暮らしであり私たちがこの世で許されたいのちの尊厳でもあります。

自然を尊重する生き方は、余計なことをなるべくしないという生き方でもあります。それはあるものを観ては、足るを知り、真の豊かさを謳歌するという一期一会の日々を生きるということでしょう。

子孫のためにどのような暮らしを遺していけるか、そして今にその暮らしをどう甦生して伝承を続けていくか、遠大な理想にむけて日々は小さな暮らしの連続です。この日を大切にして、次回の立春に向けて暮らしを調えていきたいと思います。

浄化の一日

今日は、冬至です。外は一面の銀世界で雪景色です。畑の高菜もすっぽりと雪に隠れ、寒々しくもところどころ深い碧い空から光が漏れてきます。日本は四季が豊かで、毎日外を眺めては変化を已まず飽きることがありません。

同じ場所にじっと佇んでいても、これだけ四季の変化の彩りがあれば退屈することはありません。むかしの先人たちは、この変化に驚き好奇心を働かせ色々な暮らしを紡いできたのでしょう。

時代が変わっても、自然の巡りや変化、その循環の妙には魅せられ続けます。故郷にあってその変化を味わえることに深い喜びを感じます。

今年は振り返ってみると、病気に怪我に死別にと苦しく辛いことが思い出されます。しかし同時に、新たな出会いと挑戦、徳を実感するような出来事も思い出します。人生は、一期一会とはわかってはいても生々しい出会いと別れに一喜一憂するものです。

今思えば、二度と同じことはなくそしてこれからも二度と同じことはない。この世のすべては変化しないことはなく、元に戻ることはないということを実感することばかりの一年でした。

健康の有難さは年々より明白になり、自分の役割や天命もまた近づいてくることも明瞭になります。

家族や仲間との旅路もいつか終わる日がきます。恩師やメンター、同志たちも同様です。冬至だからか一年の終焉と人生の終了を思います。そして同時に、甦生といって新たになることの意味を感じます。何が終わり、何がまた新たになるのか。何が集まってそして役目を終え分散し、何がまた新たに集まるのか。

思いというものがこの世を創造し、思いによって世界はできます。

一つの思いを思い出し、新たな思いを思い出す。

出てくる思いにしたがって、また綴る新たなご縁と物語に一期一会は存在します。太陽を浴びる時間が一番少ないからこそ、闇の有難さを感じます。穢れを祓い、浄化するよい一日にしていきたいと思います。

暮らしフルネスの冬至祭

いよいよ明日は、暮らしフルネスの冬至祭が行われます。そもそも暮らしフルネスは、足るを知る暮らしのことで暮らすだけで仕合せという暮らしそのものに生き方や人生の在り方、生きざまなどがすべて凝縮されたものです。人間は自然のリズムから遠ざかり人間だけの刷り込まれた世界にいると喜びが半減していきます。もともと私たちは、全体と一緒に生きているいのちであり、その循環のなかで役割をいただき天寿を全うしていきます。この寿命というものを深めると、自然に四季のめぐりの素晴らしさや暮らしができる喜びを味わえるものです。

話を冬至に戻せば、明日が北半球において太陽の位置が1年で最も低くなり、日照時間が最も短くなる日です。この冬至を境に、23日から日照時間が長くなります。むかしの人たちは、太陽を観て生活をし、月を観ては内省をして暮らしを紡いできましたからこの太陽が最も短い日はもっとも不安になった日でもあったでしょう。そこから、生まれ変わりという「甦生」の意識が誕生し、古いものが新たになりそして力を取り戻すと信じられたのでしょう。

この甦生は、日本だけでなく古来から世界各地でも似たような行事がありこの冬至の祝祭が盛大に行われています。クリスマスなども誕生祭ともいいますが、この太陽とのつながりからだともいわれます。

中国においては、陰が極まり再び陽にかえる日という意味で「一陽来復(いちようらいふく)」といって、冬至を境に運が上昇すると信じられていました。運とは、下降もすれば上昇もします。太陽がまた上昇してくるということを意識して、太陽の力の恩恵を肖り自分も天高く昇っていこうとしたのかもしれません。

この冬至には、運を上昇するために「ん」のつくものをたくさん食べるといいといいます。由来は、いろはにほへとの最後が「ん」になるのでそこからまたはじまるという意味もあるとの説も。阿吽のうんも「ん」で終わり、すべての終わりは「ん」からというのできちんと終わるということを意味するのかもしれません。

また春の七草があるように、冬の七草というものがあります。これは、なんきん:南京、かぼちゃ、れんこん:蓮根、にんじん:人参、ぎんなん:銀杏、きんかん:金柑、かんてん:寒天、うんどん:饂飩です。

他にも、体を温める作用の強い野菜を七つ集めて冬の七草ともいいます。それは白菜、大根、ネギ、春菊、キャベツ、小松菜、ホウレンソウの七つです。またゆず湯といって、強い臭いで邪気払いをして穢れを祓うというものもあります。冬至にゆず湯に入ると風邪をひかずに冬を越せると信じられてきました。

こうやって私たちの先祖は、自然を深く尊敬し暮らしの中で自然と共に生きてきました。現代は、お金や経済のことばかりで忙しく仕事ばかりに追われる日々に流されてしまいそうですがふと足を止めて、一生に一度しかないこの日を深く味わうことで人生の真の豊かさや自然への感謝に気づきたいものです。そしてそういう偉大な存在への感謝を仲間と共に音楽を奏でながら喜んでもらおうとするのがお祭りです。

子孫のためにも、知恵や慈悲を伝承してよりよい徳を循環させていきたいと思います。

日本の甦生

明治時代に、文明開化といって政府がスローガンを打ち出しそれまでの伝統や伝承文化がおざなりになりました。急速に西洋化を促進し、それまでの日本の国体を海外のものに倣い換えていきました。

かつて菅原道真公が、菅家遺誡のなかでわが国固有の精神と中国の学問とこの両者を融合し日本固有の精神を以って中国から伝来した学問を活用することの重要性を強調していたともいわれます。色々な説がありますが、遣唐使を廃止したのち天平文化を開いたその後の日本人たちはその意味を深く理解していたようにも思います。

今の日本は、本来の日本人の大切にしてきた和魂の道を歩んでいるでしょうか。風土も国土も文化も異なるなかで、何が真の文化かということも失われ、そして何が本物なのかということも忘れてしまっています。権威のある人が本物といえば本物と信じ込み、生まれたときからあると思えば最初からあったと思っています。

しかし、和魂というもっと原初からあったもの、そしてもともとこの風土によってとても長い年月を経て自分たちの風土に適ってきたものがわからなくなっているようにも思います。

明治時代に挿げ替えられた様々な文化は、今の日本にも大きな影響を与え続けています。西郷隆盛もまた明治のころの人ですが、その人はこういう言葉を遺しています。

「広く諸外国の制度を取り入れ、文明開化をめざして進もうと思うならば、まず我が国の本体をよくわきまえ、道徳心を高めることに努め、そのうえで、徐々に外国の長所を取り入れるべきである。ただみだりに模倣すると、国体は衰え、徳も廃れて、救いようがなくなってしまい、結局は外国の支配を受けるようなってしまうのである。」

この最後の「結局は外国の支配を受けるようになってしまう」という言葉は今を予見しているようにも思います。

私たちの国体とは何か、それをよく見極めるとありますがこれができている人がどれだけいるのかということに由ります。日本とは何かということを真に自覚できているかということです。そうすれば、徳はさらに増し、国体も栄え、ますます日本は救われるということです。そうすれば独立自尊した国家として、日本人は世界の中の日本として世界の中で大切な役割を果たしていけるように思います。

この先の時代のことを思えば、日本という国体は今こそ見直し、原点回帰してそこからもう一度、学び直す必要を感じています。根源的なものから取り組むというのは、大変なことのように思えますがこれほど安心できるものはありません。

良いところを取り入れるには、基礎や基本が立っている必要があります。今はその原初の日本、根源の日本がどこにあるのかもわからないでしょう。それを私は暮らしの中で甦生しています。

引き続き、子孫のためにも暮らしフルネスを磨いていきたいと思います。

捨聖の甦生

空也上人の生き方に憧れて遊行を実践した人物に、一遍上人がいます。この人物は鎌倉時代の方ですから空也上人が逝去されてから270年後の人物になります。一遍上人特に止住する寺をもたず、一生涯全国を巡り、衆生済度のため民衆に踊り念仏をすすめ、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)、捨聖(すてひじり)といわれた方です。

その一遍上人が門人への説法で空也上人がどういう人物であったかを語られています。そこには、こうあります。

「また上人、空也上人は吾が先達なりとて、かの御詞を心にそめて口ずさび給ひき。空也の御詞に云(いわく)『心無所縁(中略)譲四儀於菩提《心に所縁なければ、日の暮るるに随つて止まり、身に所住なければ、夜の明くるに随つて去る。忍辱の衣厚ければ杖木瓦石を痛しとせず。慈悲の室深ければ、罵詈誹謗を聞かず。口に信(まか)する三昧なれば、市中もこれ道場。声に随ふ見仏なれば、息精即ち念珠なり。夜々の仏の来迎を待ち、朝々最後の近づくを喜ぶ。三業を天運に任せ、四儀を菩提に譲る》』と。

木造空也上人像にある、口から迸る六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)の実践とはこのような遊行の姿を示されたことがわかります。暮らしの中で、生き方として念仏の生き方を実践されたことが何よりも尊いと感じます。遊行のなかで如何に暮らしの徳を磨いていくか、まるで仏陀のような生きざまに感銘を受けます。

またこうもいいます。

『求名領衆(中略)更盗賊怖《名を求め衆を領すれば身心疲れ、功を積み善を修すれば希望多し。孤独にして境界なきにはしかず。称名して万事を抛(なげう)つにはしかず。間居の隠士は貧を楽とし、禅観の幽室は静なるを友とす。藤衣・紙の衾はこれ浄服、求め易くして、さらに盗賊の怖れなしと》』

閑居で暮らせば貧も楽しく、座禅のように暮らせば静寂であることが仕合せである。シンプルな衣装や紙の袋は手に入りやすく清浄である、それに盗賊に奪われるものもないとあります。

「上人これらの法語によりて、身命を山野に捨て、居住を風雲にまかせ、機縁に随て徒衆を領し給ふといへども、心に諸縁を遠離し、身に一塵もたくはへず、絹帛の類を膚にふれず、金銀の具を手に取る事なく、酒肉五辛をたちて、十重の戒珠をみがき給へりと云々。」

このように空也上人は、いのちは山野に捨て居住を持たず云々とあります。つまりは、色々なものを手放してそぎ落とされて顕現した徳そのものの姿があったように思います。

今の時代でも空也上人のような生き方ができるでしょうか。この時代のことに思いを馳せてみると、政治的な宗教が盛んな世の中で民衆の中で何も持たずにただ遊行している姿で歩んでいく僧がいる。

文字も読めず学識もそんなにない民衆に、さらにいうなら言葉も異なり地域の特殊な文化があるなかで普遍的な徳の生き方を伝道し伝承していく、ただ南無阿弥陀仏と唱えるだけでいいと。そして上記のような、六波羅蜜の姿を体現してみせること。

そぎ落とした先にあったのがこの念仏だったと思うと、今の時代でもこれはとても大切なことがわかります。知識をつけて、みんな言葉も文化も理解している世の中ですが苦しみは相変わらず増え、さらに執着や欲望や争いは際限なく拡大を続けています。

手放したりそぎ落としていくというのは、私の言葉では「磨く」といいます。磨いてシンプルにしていくことは、足るを知る暮らしを甦生することになり一人一人が徳に目覚める生き方になっていくように思います。

先人の遺徳を偲び、その道を後から踏みしめながら道を甦生させていきたいと思います。

 

遊行の源流

暮らしの中の遊行巡礼をはじめると、空也上人とのご縁が出てきました。もともとこの空也上人という方は平安時代中期に活躍した念仏僧で、阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人(いちのしょうにん)とも呼ばれています。生れは延喜3年(903)とされ、醍醐天皇の皇子とも言われています。

もともと空也上人は、「優婆塞」と呼ばれ、「俗聖(ぞくひじり)」とも呼ばれていました。得度しても僧名の光勝を名乗らず自らは空也の沙弥(しゃみ)を名乗っていたといいます。

「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路や橋、井戸や寺院をつくり町中を遊行して乞食し、布施を得れば貧者や病人に施したと伝承されています。そして遊行のありさまは絵画や彫刻にあるように短い衣を脛高(はぎだか)に着て草鞋(わらじ)を履き、胸に鉦鼓(しょうこ)台をつけて鉦(かね)を下げ、手に撞木(しゅもく)と鹿角杖(わさづえ)を持ち行われていたといいます。この遊行の鑑のような生き方をなさっておられた方でその後の一遍上人などにも多大な影響を与えています。

有名なものに木造空也上人立像があります。死後250年以上経ってから制作されたものですがまるで、目の前にいるかのような一度見ると忘れられない像です。これは運慶の四男 康勝の作といわれます。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、草鞋履きで遊行する姿です。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられています。

これは「南無阿弥陀仏」の6文字を唱えると、空也上人が阿弥陀如来の姿に変わったという伝承を表しているからだといいます。

六波羅蜜を遊行を通して実践し、それがその時代の人々の心を癒し苦しみを安らげ、心魂を鎮めたのかもしれません。

また私は鞍馬寺に深いご縁がありますが、空也上人が鞍馬山に閑居されていた話も知りました。その閑居していたときに、いつも鳴いている鹿を愛していましたが定盛という猟師が射殺しました。これを知った空也は大変悲しみ、その皮と角を請い受け、皮を皮衣とし、角を杖頭につけて生涯離さなかったといいます。また、鹿を射殺した定盛も自らの殺生を悔いて空也の弟子となったともあります。これは英彦山の伝説とも似ていて共通点があります。そのことから鞍馬寺は浄土教の聖地として発展したといいます。鞍馬山にはその旧跡という「空也の平」という名の場所もあるそうです。

大分では国東に空也上人の開基した興満山興導寺というお寺もあります。また九重町の宝泉寺では空也上人が諸国遊行の途中この場所に経ちより農家に宿泊したお礼として持っていた杖を大地に立てたといいます。その杖がのちの大杉となり、天禄三年(972)この地に大地震がありその大杉が倒れたあと根元より突然温泉が湧出したといいます。そこで驚いた村人たちは、わき出る温泉のほとりに一宇の寺院を建立して空也上人が宝の泉を下さったということで寺を平原山宝泉寺と定 め本尊に空也上人と大日如来を安置したという伝承もあります。

歩きはじめて、まさかのご縁がこの空也上人でした。てっきり法連上人かと思い込んでいましたから、道はやはり歩いてみなければわかりません。引き続き、遊行を深めながら知恵を学び直していきたいと思います。

信仰と感謝の暮らし

この時期の英彦山の宿坊は、空氣が澄み渡っていてとても心地よい季節です。あちこちの木々の葉も紅葉づいて秋の静けさに合わせて綺麗な光が差し込んできます。夜の月も清浄で美しく、明けの明星も一際煌めいています。守静坊では、囲炉裏の火がゆらめき、煙の懐かしい香りの余韻が充満していて穏やかです。

季節季節に喜びはありますが、この秋の豊かさは何よりの贅沢です。

そして今の英彦山は、水が少なく井戸の水量が激減しています。いつもは宿坊の周囲の小川もさらさらとたくさんの水が流れていますが今はほんの少しちょろちょろと流れる程度です。

水がなくなってくると、生活に利用するための水をもったいなく丁寧に使うようになってきます。

以前、鞍馬寺ですべての水道の蛇口に「お水さんありがとう」と書かれたものが括りつけてありました。それに感動し、すぐに自宅の蛇口にも同じように括りつけて忘れないようにと実践していました。しかし、水道水は蛇口をひねれば自由に出てくるためそんなにもったいないと感じにくいように思いました。今でも、ついシャワーなどは高温が出るまで出しっぱなしで水のことなどあまり気にしていません。

しかし英彦山の宿坊に来ると、水がなくなるとまた水量が元に戻るのにかなりの時間がかかってしまいます。そこで少しでも水が使い過ぎにならないように気を付けながら使います。すると、自然にお水さんありがというという気持ちになり、お水の使い方も変わってきます。あまりお水を使わなくていい方法を模索したり考えたりするのです。

洗い物や洗濯、水洗トイレ、シャワーなど今では当たり前に水があることが前提の生活用品や生活家電であふれています。水が足りないところでは使えないようなものばかりです。

不便によって本来の当たり前が変わっていくことで、意識も暮らし方も変わってきます。しかしその暮らし方の中に、もったいないと感じる豊かさと有難さがあり、感謝や信仰の仕合せもまた味わえるものです。

暮らしフルネスの一つに、このもったいないというものを味わうことがありますが英彦山の宿坊はお水のことをいつも深く感じられることが多くあります。一年中、水で溢れる梅雨や冬から春までの大雪にいたるまでお水の影響をかなり受けます。お水のありがたさを感じるほどに、また火の有難さも感じる場所です。

都会や都市にはない、真の豊かさはかつての信仰と感謝の暮らしのなかにこそあります。いつまでも大切な恵みを忘れないように、場をととのえていきたいと思います。