ものづくりの精神

何かを創るというものには行為があります。人は思っても知っていても、それを実際に自分でやってみなければ創っているとはいいません。何かに取り組む際に、やってみたかどうかというのは大変な勇気が要りますがそれをしてはじめて自己形成といった本来の成長になるように思います。

本田宗一郎にこんな言葉があります。

「人生は見たり、聞いたり、試したりの3つの知恵でまとまっているが、多くの人は見たり聞いたりばかりで一番重要な“試したり”をほとんどしない。」

人は自分を省み、反省するのは見たり聞いたりしたことをよくよくふり返り自分を観て心に聴きます。しかしそれで反省した気になっては、いつまでたっても次を創ったわけではありません。

次を創るというものは、反省して次にどうするかのほうが大事なことだということを教えているのです。失敗は成功の母とも言われる所以は、本来の失敗とは悪いものではなく、その失敗を糧にそれを転じてモチベーションにし次へのトライのキッカケにするというものです。

何でもそうですが、失敗したら倍返し、失敗を恐れずに思い切って前に進むというのも、目標と目的をはき違えないようにするためです。何のためにから離れない人は、どんな時でも目的が何かということを忘れていません。だから、どんな失敗があってもそれが必然であったこと、その失敗は自分に次への改善を指示してくださったとすぐに気持ちは切り替わります。

しかしそれが与えられた目標になってしまい、自分で目的を深めていないとすぐに失敗しただけで納得してそこで考動を終わらせてしまうことがあるのです。何のためにかというのをモノにするというのは、自分の言葉でその志をものにしないといけません。

そしてそれは本質からずブレずにやってみることではじめてものになるのです。試すというのは、志を試すことであり試練というのは、日々に試しては訪れず失敗と成功にどれだけ真剣に向き合って自他一体に取り組んだかということです。

悔しい思いも悲しい思いも、複雑な思いもそのままに、必ず次こそはものにするという覚悟でその事物と一体になるほどに没頭すれば自ずから創ったことになるのです。真の変化とはそこまでしないと変化と一体にはなれません。

本田宗一郎の「試す人になれ!」と言うのも、この試すことが創ることだからです。創ることは失敗することだからです。

創れないと嘆く前に、今が常に変化の試練だと思ってその試練に思い切って飛び込まないからかもしれません。何のためにこれを与えてくださったのかと思えば、諦めて肚を括って何事も試しに遣り切った方が清々しいものです。

試練を沢山経験することで、創造力もアイデアもはじめて磨かれるように思います。試練を試練にしていけるように、ものづくりの根本精神を大切にしたいと思います。

自然の美意識

日本人が発展させてきた技術には常に座右に日本の美意識というものがあります。この美意識というのはものづくりには必要で、世界中どこでも生き方を含め「美」というものを追及したように思います。

この美とは自然を直観で感じて自然を愛でる時に美しいと感じる美のことであろうと思います。

自然の中には無駄が一切ない、完全にそぎ落とされた美があります。

例えば、雲があの様相なのも、霧がかかった靄がかかるのも、雨が降るのも、突風が吹くのも、そこによく観察すると自然の美があります。そこにはやはり一切の無駄がありません。有機的にあらゆるものがつながって何かの役にたっているところに私たちは美を感じているものです。

そしてその全ての役割が切り離されずに調和した状態を合理的であると私は定義します。この合理的であるというのは、その人が繋がっている中で物を観る感性があるということです。

これを私は一石二鳥を一石百鳥、一石万鳥と一石全鳥としていく中で自然美を実感できるように思います。私が無駄が嫌いなのは、この言葉に換えれば一石一鳥ではいけないと思っているからです。

この無駄があるというのは、そこに次第に知識が増えて我が入るから無駄が生まれます。ここでの無駄というものがないというのは、刷り込みがない幼い子どもの同じ状態のことで物事をあるがままに捉えられることをいいます。

知識を得て技術を真似たとしても、そこに我を消し合理的に自然に近づけていこうとすることがなければそれは単に表面だけをなぞったことになってしまいます。本物にしていくには、表面をなぞるのではなく自分のものにしていく必要があります。それは万人に等しく、自然を直に観てそこから自分を通したものになっていなければなりません。

言葉一つであろうとも、物一つであろうとも、人生一つであろうとも、全て自分を通過させていく中で自然の浄化のようなことを自らが削り取って削ぎ落として美しくしていかなければならないのです。

水という性質が、先ほどの例えのように様々な様相に姿を変えてもそれが全体とつながって偉大な合理性を持っていることが観えるのです。それを自分の感性を通してどれだけ今の時代に合ったものをアウトプットするか、それが日本の美意識ではないでしょうか。

子どもが没頭して夢中になるような砂遊びが楽しいのも、水遊びが楽しいのも、そういう合理的なものが観えるからです。大人になれば、自然農も自然養鶏も楽しくて仕方がないのは私もその中に合理性が観えるからです。

私は、日本人の美意識は全てにおいて自然の観察によって得られたものであろうと思います。西洋文明も同じく自然から観察した技術を独自の文化で発展させてきましたが、私達日本人はより一層この美しい島国、新鮮で幼児性を保たれている風土の中でまるで幼子のように自然を観察する力を駆使して西洋文化で築いた技術に新たな息吹を加味したように思います。

この幼児性というものは、魂のことでその魂を維持していくことは日本再生のカギであると私は信じているのです。

いつの時代も私達の観察力というものは、自然を観る事で引き出されていくものです。そのものがそのものの価値でいること、そのものの価値をそのものの価値で活かすことができれば自然になっていきます。この合理性、つまり自然の観察力を磨いていくことは、日々に無駄のないところで全身全霊で生き切ってその生死の美学や美意識を高めていくことと同じです。

常に美しくありたいと願う生き方は、自然でいたいと思うことと同じです。

自然の直観力を磨いて、世界に誇るかんながらの魂を今の時代に還元したいと思います。

烏骨鶏の育児~自然から学ぶ~

自然養鶏を実践しつつ、烏骨鶏の育児を観察して色々なことに気づきました。

もともと烏骨鶏は原種で改良をされていない鶏で、子育ての方法なども昔から変わらずにそのままです。誰が教えたわけでもなく、自然に子育てをしていく姿に本来の自然に沿って生きていくことの尊さを感じました。

観察したことを書くと、烏骨鶏は繁殖期に入る2月、3月の春先に卵を温めだします。夏の餌が豊富な時期にあわせて、また子どもは体温を維持できないので暖かい時期に成長するように季節に合わせて孵します。

卵は雌鳥たちが、数羽で身体を寄せ合って協力して温めます。うちでは5羽の雌がいるので数個の卵を絶妙に転がして交換しあったりして温めていきます。約21日前後の間は何も食べず、何も飲まずに少しも卵から離れずに抱卵し続けます。

外敵から襲われようと身動きせず、危険が自分の身に迫ろうとも命懸けて子どもを育てます。またその子どもを守るために、雄も雌も一致協力して守りつづけます。

そして卵から雛が孵り、小さな烏骨鶏が出てくればその子の世話をする雌鳥が担当します。子どももお母さんが誰かというのを認識していて、いつもぴったりお母さん鶏から離れません。

しかし雛には過酷で、生まれてすぐに死ぬのがほとんどで生き残れるものはそんなに多くありません。今年も5羽孵りましたが、結局は3か月で1羽しか生き残れませんでした。必死に生きているものだけを、本気で生きたものだけを遺そうとする自然の本筋には身を引き締める思いがしました。

そしてその1羽がだいぶ大きくなり、今では親鳥の半分くらいの大きさになりましたが親の後ろをついてまわって見て真似ている姿には微笑ましく感じます。先日も、止まり木に上っているお母さんを追って一生懸命に飛びますが高くて乗れず泣いていたらまたお母さんが降りてくるというように、子どもにあわせて自立できるように少しずつ子どもにあわせながらも自分たち大人の生活に合わせられるように見守っています。

自然界の子育てに、本来の子育てを学ぶことが多く、私達人間もきっとそうやって数々の動物から育児を習ったのではないかと思うのです。自然の中で生きていくということは、教えてもらわなくても活きる方法を知るということなのでしょう。

今の烏骨鶏の子どもの姿に、一生懸命に生き切ること、本気で真摯に試練に立ち向かうこと、そこに自然界の摂理を学べます。自然界の弱肉強食とは力が弱いから死に強いから生き残るのではなく、自然は常に本気でいのちを遣い切るものだけを長くこの世に遺そうとしているように私には観えます。

自然養鶏を実践しながら、観察して気づくのは自然の中の教えそのものでした。

烏骨鶏の育児の方法は、本当に現代の私たちに大切なことを教えてくれます。この体験を、世の中に還元していきたいと思います。

 

自然治癒の学び

病を得て、治癒を待ち、回復するのには長い時間がかかるものとそうではないものがあります。しかしほとんどがその病そのものの質によるものですか、相応の時間を要するものです。

どこかで何かが無理をすると、バランスが崩れて外部から病が入り込んできます。そうなると感染症に罹ったりすることで、様々な炎症が体内で発生して心身共に苦労することになります。

先月からの体調の不調も落ち着いてきましたが、するとすぐにまたいつものように求道して寝不足になりまたハードに働き向き合いはじめるところを鑑みると自分は元気な証拠だと懲りないことに驚くばかりです。ふり返れば少し体調が悪い時の方が、坦々と安全運転のようでいいのかもしれません。

今回の長い病の体験の中でまた得るものがあったのですが、治癒というのは常に内部から訪れてくるものです。それをじっと待つというのは大変なことです。例えば、外側では様々な出来事が次々に発生してきます。特に自分を捧げていこうとするならば、求められ応じるままに日々は忙しくなっていくものだからです。

しかしその出来事に心が着いてこなかったり、身体が着いてこなかったり、感情が伴わなかったりすると、そこから中心が乱れ治癒が働き難くなってきます。それを薬ですぐに治療だとしても、一時的にその身体や気持ちを整いますが副作用があるもので全体の治癒にはやはり掛かる時間は必ず掛かるのです。

長い時間をかけて治癒をしていると、ちょっとずつですが隅々まで回復していくのが自明で伝わってきます。動的と静的ではないですが、自然と同じく急な災害で何かが崩れても、それを時間をかけて回復していくかのように常に私達の姿も自然と同じように働き治癒も等しくできているものです。

しかし自然治癒をするのは待つだけのように思われますが大変な勇気と決断が必要です。病になればすぐに治さなければという常識を持つ私たち現代人は、すぐに治せる方法ばかりを試しているうちに自然治癒の邪魔をしてしまうことがあるように思います。治ったとか治らないとかあまり考えていると、感情の起伏にまいってしまいます。

そうして急いで修理をしてしまうと、後後で面倒なことにもなります。例えば私の地元の神社が、水害で水路が崩れましたがそれを工事でダムを設けコンクリートで固めてからは水質が汚れ、生き物がいなくなり、暑くなると嫌な匂いが漂っています。そもそもの神社とともに守ってきた自然の水の流れ、浄化という本質から離れて人間の都合が優先してしまうと修理の意味をなさないように思います。

自然を敬い、自然に見習うということは、自分の中にある自然と対話をすることに似ています。自然は常に内部から訪れるものだと私には感じるからです。内部から来る自然によく耳を傾け、勇気を出してじっくりと待つことが本来の自然であろうと思います。

せっかちなのはまだまだ常識に囚われている自分への警鐘であろうと実感しました。自然治癒に感謝し、その自然の自信を今日の実践に換えてまた使命を探求し、捧げ切る日々を楽しみたいと思います。

 

覚醒2

昨日は、瑞厳和尚の話を書きましたが日々の中で常にどれだけ誠実であったかということは全ての教えの本筋に中るように思います。

昔、論語の大学に「小人閑居にして不善を為す」とありましたがあの意味を暇になってしまうとつまらない人はすぐに良からぬことをするという意味かと思っていました。しかしよく実践を省みているとそうではないことに気づくのです。

あれは、暇になると全身全霊で真心を尽くすのを怠り、誠実であることをしなくなるという意味ではないかと自明したのです。つまりは、人は頭が良くなるとつい計算してこうだろうとかああだろうとか脳で考えるだけで、心、体、意を一体になるほど命を懸けて何かに取り組もうとはしなくなるものです。

常になるべく動かなくても善い方法、大変ではない方法ばかりを選択しはじめ、自分にとって不利にならないようにとか、自分の都合のことばかりを考えだし、自力を出し切らないのです。言う換えれば真心であることよりも、こんなものでいいだろうといった打算や妥協が入ってくるのです。

つまりやることがないことが続く時、もっとできるのに遣らないときにこそ人は不善になりやすいということなのです。大学にはそれをこう書かれています。

「所謂其の意の誠なるとは、自らを欺くこと無きなり。」

意訳ですがつまり感情が全身全霊であるというのは、自分を欺かないほどに実践しているということなのです。常に真心を尽くそうと、閑になって頭でっかちに計算したりしないよう、自分の心と感情と身体を一体にして考動を尽くしていけば次第に誠実になっていくものです。

誠実であれば、天道や人道の本筋に触れるので次第に善転をはじめて万事ことは運ばれていくものと思います。私の造語ですが「人事を尽くして天事を待つ」というのは、どれだけ今の自分があるがままの一体であったか、つまりは誠実で真心を使ったかということだと私は思うのです。

自分を優先せずに、常に相手のことを自分のことのように思いやる中ではじめて全身全霊は出てくるものです。それを出し切る実践を積み上げることによってのみ、はじめて己事究明も為されるように思います。

やはりどれだけ相手のために使ったかというのは誤魔化せません。常に戒めて、心配する人たちのためにも、自分が大切にしたいものを大切にするためにも、全力を出し切っていきたいと思います。

最後に大学にはこの言葉の後に二回同じ文章でこう続きます。

「故に君子は必ず其の獨を慎むなり。」

一人のときも、二人のときも、何人でいるときであろうとも、自我一にあろうと、素直で誠実であろうと努力するということだと思います。暇になるのは、暇をもてあそぶのは全力であることを忘れてしまうからです。

遣り切る先にこそ真の自我一の覚醒はあると信じます。すぐに人は自発でなければ流されるものですから主体を遣い切れるよう日々全身全霊であるかの自問自答を内省により大事にしていこうと思います。

覚醒

毎日を生きている中で、本来の自分のままで素直に全てを発揮しているときと周りに合わせて自分のようなものでいると勘違いするときがあります。

例えば、ぼやっとした中で自分が何となく生きているときと、本気で生きていると実感するというものがあります。今というものに流されてしまうのは、常に目覚めた自分を維持するのは自らが主体で発揮し続ける必要があるからです。

風に吹かれて飛んでいる鳥も、風任せではなく風に乗り風と共に一体になって目的を達しています。これと同じように、人も日々に吹いている風とどれだけ一体になって自らを主人公として一体となったか、つまり自己を発揮したかということによるものだと思います。

簡単に分かるようなものはこの世には存在せず、常に自問自答、己事究明していくのが今に生きるということでしょう。

その今をどれだけ追及するか、何の意味があるのか、それが何を繋がっているのか、自分はどう言っているのか、自分が何をしたいのか、自分の使命とはと、常に主体が自分であって相手や周りにあってはならないのです。

相手がどうであれ、自分が何を探究し究明したのかというのは常に本番である今に問われます。その人が単に知識として得たものを振りかざすことが意味があるのではなく、主人公であったかということに本来の絶対的な意味があるのです。

禅の無門関に瑞巌和尚の問答が紹介されています。
ここに目覚めること、自発的であること、主人公とは何かを自明しています。

「瑞巌ずいがん和尚、毎日自ら主人公と喚よび、復また自ら応諾おうだくす。及ち云く「惺惺着せいせいじゃくや、喏だく。他時異日、人の瞞まんを受くること莫れ、喏喏だくだく」(『無門関』第十二則)

日々に自分に問いかける。「オイ、目覚めているか主人公、オウ、醒めているよ。そしてどんな時も自他を騙すんではないぞ」と。

これは何よりも大切なことです。

人は刷り込まれて本来の自己を見失いますが、まさか自分が刷り込んでしまっているとは思いもしないものです。しかし実際は、自分の安易な知識の流用やモノにしていない理解のせいで周りを惑わしてしまうことがあるからです。

全ては主体を誰かに預けたり、他発的な行為を繰り返す中で、本来の自分は刷り込まれ出て来れなくなるのです。毎日、掃除をするかのように目的を確認したり、目覚めているか、醒めているかと確認することは、その意味を確かなものにするのに似ています。

常に惑いから覚めるような、決断や決心のところに帰ることこそが修行の本質かもしれません。日々に覚醒しているかどうかをチェックしていきたいと思います。

 

自分の仕合~コーチング1~

人は自分の持っている力を引き出していくことで自分を発揮し活かしていくことができます。自分を自分で存分に発揮さえしていけば、自分のベストで挑んだとも言えるからです。

しかし一般的には自分では自分のことが分からず、自分の持ち味に気づかないものが多いとも言えます。それは自分というものを外からみて自分はこうなんだという刷り込みや先入観、固定概念があるから本来の自分というものが分からなくなっているのです。

自分がこんなタイプだろうといつまでも誤解したままでいると、自分には合っていないことを追い続け無理して合わせようとしたりします。本来の自分の凄さというものを発掘していくのは、自分を自分で変化させていく面白さを感じたり、新たな自分を引き出してくれるコーチがいることで自分というものを知る楽しさを得るように思います。

スポーツなどでもそうですが、自分というものを発揮していくのに、「自分の試合をする」という言葉があります。これは相手の試合でもなく、誰かの試合でもなく、何かに合わせるのではなく、「自分の試合」だったかどうかを常に持つということです。

いつも何かに合わせていたら、本来の自分を発揮していくことはできません。例えば試合になれば相手に呑まれたり、自分のコンディションが悪かったり、環境やメンタル、その全てが本番では求められます。

そういう時こそ、主人は自分、自分を発揮しようと、自分の最良のものを出し切っていくという姿勢が大切になります。自分が主人であるには、目的が必用です。つまりは何のために遣るのか、そして自分は何を伝えようとしたのかという自問自答が一本立った状態とも言えます。

自分の最善のもの、自分の最良のものというのは、自分の持ち味全てを出して勝負するといいうことです。相手に合わせて誰かに合わせて何かをするのではなく、自分の試合をしたかどうか、主人公は自分のままで最期まで遣り切ったかどうかが問われるのです。

コーチの役目というのは、この自分らしさや自分の試合をさせてあげることに他なりません。その人の最も価値のあるものを引き出すのです。

そうやってどんな時でも、その人が自分の持てる全力を出し切れたなら勝敗を超えた清々しさが其処に顕現されるのです。それを積み重ねることによってその人は、その人らしく本物に成長していきます。

またそういう人たちの最善の仕合がお互いの持ち味が活かされることで互いに成長し、また尊敬しあっていくことができるのです。善い仕合というのは、単に勝ち負けが決まるものをいうのではなく、互いに持てるものを全部出し切ったと思える時に実感するように思います。

日ごろの努力も、日頃の練習も、本番で「自分の仕合」をするためとも言えます。日頃が本番だという意味は、日頃から出し切ろうとしていないのでは本番でも出し切れないからです。

力というものは何か自分が加減をするもののような刷り込みがありますが本来は静も動も強いも弱いも、全ての力を出し切ることではじめて力という存在を実感するものです。

自発的であったり主人公であったり、自分らしくであったりというものは、自分のベストを常に尽くすことを忘れないでいることのように思います。環境に合わせて力を出すのは自力ではないのです。

自力を出して勝負をすることは清々しいものです。

スポーツマンシップの本質は、自力を出したかに尽きるように思います。
さらにコーチングを深めていこうと思います。

自然の整備

自然の中では、気候の変化に対して大地の自然も順応します。

例えば、雨が降ればその雨にあわせて土が流され川も形を変えていきます。天候に対して、自然は素直に自分たちの方を変化させていくものです。

しかし、人間は気候が変わっても自分たちの都合の悪い形にならないようにと頑強な整備をして変化に対抗しようとしていくものです。

もちろん、人道として何事も人事を尽くすことは大切ですがそれはただ同じままでいるために自分を頑なに変えないというものではなく、自然の流れが変われば自分の方を変えて自然に合わせていくという意味が本質です。天道として、自然が色々なものを破壊し創造していく中で、私たちもその自然にあわせて変化していくということが本来の整備になるのです。

自然農の畑に出れば、四季だけではなく雨や風、日照りなどもその時機や時流によって異なってきているのが分かります。

だからこそそういう自然の変化に合わせて、よく観察し、自然全体で何が起きているのかを察知して年々に準備していくことが自然の整備であろうと思うのです。

突然の変化に対応できるように自然に変化に合わせているのが、本来の自然の姿であろうと思います。不自然さというのは、そういう変化にも気づかず、変化にも抗い、いつまでも変化することよりも現状を維持していこうとすることの方が歪みを出していくように思います。

自然体というものは、常に変化に合わせて自分を変化させていくことです。

それはこれでなければならないから、変化を楽しむ、日々の新たな挑戦を自然に応じて任せて準じて備えていくことのように思います。

自らの整備を怠らず、自然をよく観る目を養っていこうと思います。

劣等感の刷り込み

通知表というものがあります。

通知表を文部科学省のサイトで調べてみると、「保護者に対して子どもの学習指導の状況を連絡し、家庭の理解や協力を求める目的で作成。法的な根拠はなし。 」と書かれています。さらに、「作成、様式、内容等はすべて校長の裁量。 」ともあります。この通知表の歴史を調べてみると、起源はアメリカの翻訳教育学書のようですが驚く事実ばかりでてきます。

実際は単なる家庭との連絡帳のようなものだったものがなぜ今でも優劣表のようになっているのか、そして連絡帳が一方的に学校から「通知」されるものになったのか、本当におかしな刷り込みばかりです。名前の通知というこの言葉もどうしたものかと感じるものです。

どこでもなんでもそうですが、前からやっていたことの意味を考えないのは人間の持つ癖の一つです。なぜそれが行われているのかを考えないままにやっていたら、たいして意味のないものを誰かが間違いで思いつきでやったこともずっと続けられてしまうものです。そうやって間違いの連鎖というのものは、今の時代に引き継がれていきますからちゃんと自分で考え抜かなければならないのです。なぜなら、一度やっていたことは変えてはいけないと思い込むと頑固に意固地になってしまうことが多いからです。

実際に、通知表というものがそもそも何かということを考える人は少ないかもしれません。改めて通知表を見ていると、この仕組みの問題点と課題が観えてきます。

私の子どもの頃は通知表を貰うのがとても嫌でした。子どもは通知表とは何かというのが分かっていませんから数字や〇をみては、周りの子ども達からもバカだと指摘され、人格を否定されるような嘲笑も感じたものです。

そういう時は、先生からのコメントや親からの励ましを救いにした記憶もあります。せっかく指導されても、通知されたものが納得いかないものであれば裁かれたと勘違いするものです。本来は指導計画や指導要領など、その課題を共有し、先生と生徒、保護者、全ての課題を確認し互いに自ら反省し改善するときに使うものです。

以前、ヨーロッパの海外研修で教育施設を視察した時に子どもが自分を評価し、先生も自分を評価し、互いに内省して取り組む姿を観たことがあります。これが連絡帳が道具として活かされている本質だと思ったことがありました。

本来、成績や学力というのは社会の御役に立つ人になるようにお互いに高めていこうと個々の持ち味を高めて共に学んでいくことではじめて身に着いてくるもののように思います・

自分の昔話になりますが中学校のときに第二次成長の性の勉強のところで恥ずかしいからと照れたらそれに怒った先生が授業態度が悪いとそこから何をいっても無視されその学期の通知表に最低評価の1が入りました。実際のテストとは別に品行の優劣を一方的に通知するというのはどういうことかと憤りを覚えたのもその時です。はじめてのことだったので、その通知にとても理解に苦しみ、その記憶と先生はいまでも忘れることができません。

誰かの基準で裁かれたと感じたことは、一生の心の傷に残るものです。

人が誰かの評価を気にして自分を発揮しないようになるのも、この評価を気にすることを刷り込まれたからかもしれません。そして評価には、優劣の評価というものがありこれが一方的であることが問題なのです。

人は劣等感が高まればその逆に頑張りますが、そんなやり方で一時的に学力を上げて本当にそれが将来のその人の幸せを実感できるように生きられるのかとといえば疑問ばかりです。

何でもそうですが、思い込みで動き、思い込みで勘違いすることが多いからこそ、本当のその意味を考えて自らで正しいものにしていかなければなりません。

天才児

障害児という言葉があります。今では障害の害の字が合わないからと障碍児としています。

私は前から何を持って障害かということについては色々と自分で調べてきました。誰が言いだしたのか、そして本当にそういう意味かということをです。

かつては「障礙」とか「障碍」と書いていたものが戦後の漢字制限で「礙」「碍」の漢字が表外漢字になってしまったため、「害」という漢字を宛てて「障害」と書くことが広まったということや、また保育施設などに補助金を出すためには特別な子どものための費用とはできず、障害児だと出せるからという理由で省庁の担当者が名目をそうしたこと、ほとんど本質的ではない安易な理由でその言葉の定義が書き換えられたことに憤りを覚えたものです。

その後はヨーロッパへ視察し、保育現場で問答したときも日本で使われる障害という意味と世界で使われる障害という意味が異なることも知りました。大前提で使われる人間の尊厳や人権という言葉の意味も日本とヨーロッパでは使われ方が異なります。子どものためにという言葉も、大人主体で使うか子ども主体で使うかで異なります。

先日のドイツ視察でも、向こうでは障碍児のことを天才児であると定義していました。例えばIQが高い子どもも障碍児ですし、アスペルガーやLD児と呼ばれる子どもたちも障碍児、もしくは非常に何かに突出した能力を持つ子どもも障碍児ということで天才をつぶさないようにと丁寧に配慮します。

しかし海を渡って日本の現場を見ての認識は、普通のことができない子ども、何か病的なものを生まれながらに持つ子、気になる子というような何かネガティブな意識を持っている人が多いように思います。天才から問題に換わるのです。

だから配慮の仕方も、天才を扱うのだから天才に接するためにどうするかという配慮の考え方と、問題を扱うのだから問題に接するためにどうするかという配慮の考え方という配慮する側の考え方に相違があるのです。

そもそも動物と話ができるとか、直観的にイメージで理解するとか、透明なセンスを持っているとか、心の世界を映せるとかいったことは、その人の役割や天命から生まれながらに必要だと自分に持たせている能力です。それはその人の徳が、世の中の役に立てるようにと自らが選んで発達しようとしているものです。

それを阻害するのは何かといえば、周りの人たちの刷り込みではないかと私は思うのです。矢印を相手へではなく自分へと向けてみれば、平均的ではないものを普通ではないとし、それをネガティブに捉えるか、それをポジティブに捉えるかは、社会を形成していこうとする私達大人たちの生き方、あり方、工夫が常に問われているだけです。

思いやりのある社会を創ろうとしたら、そういう多様な能力を持った人たちがそのままでもいい環境を創りだそうとすることが本当の豊かさにつながっているはずです。

障害になっているのは、子どもの方ではなく、自分自身の先入観や固定概念が障害になっていないかと内省することこそが配慮の本質ではないかと私は思います。異なっている能力そのものを引き出し、認め、活かそうとすることに社会の真の価値があるように思います。

障碍児については全ての子どもが天才だと配慮していくことが、私たち大人の固定概念を取り払うことになるのでしょう。気になる子がたくさんいるということは、それだけ天才児がたくさんいるということです。そして天才が良い悪いではなく、普通が良い悪いではなく、ただその天が与えた才がある、そして人にはそれぞれお役目という差異があるのだと認め、大切にしていくのが自然の見守りと同じような視点の姿勢に立ち返ることです。

多様な自然がイキイキするように、それぞれの役目という持ち味を活かすためにこの障害という先入観と言葉の定義そのものを発達を通じてひっくり返していこうと思います。ミマモリングプラスの、差異分析も、天才児の意味もそこに籠められています。