自律と自立~苦しいよりも楽しい方を選ぶ~

以前、見守ることの話の一つで、ある園から自律の話を聴いたことを思い出しました。

普通の保育園では、一般的に子どもたちは大人の言うとおりに厳しくしつけられ、一斉画一の中では放任か指導かという二極の考え方で保育を行っています。なので子どもたちは自分で考えて自分を律するというよりも、先生の顔色をみたり空気を読んだり、むしろ好き放題に過ごしているところが多いそうです。

しかし見守る保育を行う園では、子どもたちが自分で選択をし、自分で責任を持ち行動していく中で周りに甘えずに自らを律する力を持てるようになっていきます。社会で共生していくには、この甘えは禁物で甘えてしまうことで周囲に迷惑をかけるようになってしまうからです。甘えるのではなく他人に頼ることの大切さを身につけるのもこの幼少期の社会での体験が活きるように思います。

以前、私が最初に就職したところである上司にこんなことを言われたことがあります。「君は私から厳しく注意され指導されるのと、私から何も言われないのはどちらが本当に厳しいと思うか?」と尋ねらました。その上司は、かなり厳しく言う人だったので言われる方が厳しいのではとその時は返事したのですが実際は「君は私に何も言われなくなったら御仕舞でそこからは自分でやらなければならないんだぞ、言われているうちはまだいい、それを忘れずに必死に私が厳しいうちに学んでおきなさい」と諭されたことがありました。

これは今思い返せば、他人から注意されず誰からも言われないということはこれはよくよく自分を厳しく律し、甘えを捨て去らなければ責任を持った一社会人として会社で自立できないのだぞということを言われていたんだと思います。そのあとは、実際に何も言われなくなり自分で必死に言われないことの厳しさを味わいながら難しい仕事を取り組んだ思い出があります。

もう一つ別の話に以前、師から子どもの夢をみた話を聴いたことがあります。園にいる他所から転園してきた在る子が「僕はまえの園のように先生や周りに何でも指示して指導されて遊びも全部決めてもらった方がいい」と言われたそうです。しかしそれに対して「そうだね、大変だよね。でもこの園はお友達のみんなと自分で選択して自分で決めて、自分で全部やっていく園だからね」というと、「まえの方が楽だったのにね、、うん、分かった、いいよ」といったやり取りがあったそうです。

これは一つの自律のことを指すことで、甘えないというのは自分で甘えないということが分かるということができるようになるということです。例えば、仕事でいえば接客もそうですし、日々の業務連絡や全体への参画もそうですがそこで甘えるというのは自分のできることのモノサシで自ら周囲に甘えて妥協してしまうことをいいます。ここでは他人を頼ってでも品質を徹底して維持していこうではなく、自分に出来ない場合は出来ないのだから仕方がないと誰か任せにしてしまい甘えてしまうが妥協という意味です。

例えば、高級な旅館や飛行機のファーストクラスに乗ったとするでしょう。いくら常連だし、株主であったり、経営者の親友だからといってもそこでのサービスが二流であったり、いい加減な対応をされたらいくら仲が善いからといってもそれは大変不愉快な思いをします。

以前、伊勢神宮でご縁があった運転手や神職の人達もお仕事が大変厳しかったと言っていました。そこには公職や皇族の方々もいらっしゃるし、信奉していらっしゃる方々もいるので24時間365日、全く一切の気を抜かずに勤めていたと話を聴いたこともあります。自分でそれができない人たちは1,2年ですぐに辞めてしまったと言っていたのが印象的でした。

自律するというのは、甘えを断ち切り集団が目指す夢や理想のために自ら妥協点をてっぺんに合わせるために他と協力して他に頼りながら進めることができるようになるということであろうと思います。もちろん、理念をどうしても優先するからと他のことができなかったということはあるかもしれません。しかし本来は、それも実力をつけて理念をやって現実もそれに見合ったものがあって当然といった甘えのない自分を打ち立てていくことで会社もはじめてその価値に見合ったサービスや営業を展開していけるのではないかと思います。

この見守るの大変気を付けないといけない点は、そこが甘えになって本来の「らしさ」というものをはき違えてしまうことかもしれません。自由奔放に自分の好き放題でいることはらしさではなく甘えです。本来のらしさというのは、見守られる中で自律し自立することではじめて自分にしかできないことができるようになる、つまり社会や集団、世界へ貢献することができるように思います。

この自律は人生の中では大変厳しく辛く苦しいものかもしれません。しかし甘えてしまうことはそれ以上にもっと苦しむことになるだろうと思います。同じ苦しみも甘えているときと、頼るときでは質が異なっているからです。苦中楽ありの方の苦にしていくことが、私が善く言う「一緒にやれば苦しみは半分、歓びは倍」の意味になるからです。

楽しくなるにはやはり自らで自律できるようになり、自らが自立していくしかありません。人生は自然と同じものだからそこから習い、そもそも厳しいものだからこそ甘えて苦しむよりも、信じて楽しむ方を選んでいく方が尊いように思います。

理念から自分で考え抜いて、どうあることがもっとも自立なのかと出来事から内省し子どものことで深めていきたいと思います。

自分を尋ね、道を訪ねる

道を歩んでいく中で先覚者という人たちに出会うことがあります。

私の師もそうですが、その後ろ姿からどのように道を歩んでいるのかを学び習い歩んでいく楽しさを味わっていくことができるのです。他にも何百年も何千年も時のふるいにかけられても残存している書物や言霊、その生きざまや思想にも道の心得が学べます。

畢竟、この世に何をしにきたのかと問われれば人は学びに来たといっても過言ではないと思います。だからこそ、真我というものに気づけるかどうかはとても大切なことであるように思います。

人間には感情がありますし、根深いところに我が入るので真我といった無我の境地でいることはなかなかできません。いくら自分が素直になったと思っていてもそれは怪しいものだったりするからです。ただ穏やかでいることと静かでいることと、真実を信じるというのは同じことではないからです。

先日、師が常に他人の話を聴いて自分を確かめるようにいるのではないかとインスピレーションがあったのも道はそうやって正しいかどうか確かめていくものであるからかもしれません。そうして自分でいくら善いはずと思い込んだとしても、そのどこかに我が入り混じっているかもしれない、気づいていないかもしれない、そう自戒しているようにも思うのです。

だからこそ無我の境地や素直な姿というのはいつも周りを信頼して今の自分を正しく観つめては道が正しいかを確かめていくのかもしれません。自分の中には、自我と真我が存在していて共存して日々の生活を送っているものですからどちらの自分も自分ですからこのバランスを維持していくには多くの矛盾を抱え込まないといけないからでしょう。

だからこそ、自分でバランスが取り難いのだから他人を頼り、信じている証として、まずは相手の話を傾聴していく姿勢を忘れないでいることのように思います。分からないときは道を尋ねる、不安なときは先覚者に習い道を訪ねていくのがいいのかもしれません。

道は一人ではなく、仲間がいるから楽しいように思います。この時の仲間は別にただ一緒に居る仲間のことではなく、何を信じて生きるかを持っている人たち、同志と一緒に歩んでいるのだという楽しみのことです。

距離も時空も場所も超え、正しい道を一つ心に歩んでいこうとすることが天にお任せしていく生き方なのかもしれません。学びを昇華し、子どもたちに少しでも自分を譲っていきたいと思います。

新しい旅立ち

夢や理想があると、様々な困難や艱難というものはつきものといえます。

それに本当に同じような思いの方々に寄り添おうとしたら、同じように悩み苦しむ人たちと共感できるような体験を持っていなければできません。理想を諦めずに夢を追い続けていくのは、時として愛が枯渇していくような感覚も体験するかもしれません。

そんな時は、同じような体験をしている人たちを思いながら自分の夢を支えてくれる人たちを思いながら、遠くを視ては自分を立て直すように思います。

下を向きたくなる時こそ、上を向いて歩こうと思うような感覚に似ているのかもしれません。

人は誰しも必ず愛を育てていくような体験があるように思います。

そこには誰もが持つ、真我の道が存在しているからです。

道が異なるからと寂しいと思うのではなく、道が異なるのは自分の道を歩んでいるのだと歓びそして自分も道を歩んでいくことに誇りに思うことがいいのかもしれません。一緒に歩んだ道が楽しかったからこそ、心は辛く悲しいと思うこともありますがその先にある希望がその人だけのものであるからこそ信じることをあきらめてはいけないと思えるのです。

信じるというのは、道を信じるということで現象を信じるということではないと思います。
どんな今も丸ごと受け容れていくことが、道の実践者であろうと思います。

未来を信じるというのは、自他の今とこれからを丸ごとで信じるということです。

理念に守られていること、同じ道を辿る仲間がいることに心強く励まされます。
新しい旅立ちを祝福できるような今を愛していきたいと思います。

被災地と震源地~心がけの妙~

先日、問題の本質を見極めるのに身体で考えてみるという機会があった。

自分が凝り固まっているというのは、どこかに自分でも気づかないような不自然になっていること、つまり偏って力んでいることをいうのは先日のブログで書いた通りです。

この力むというのは、自分の我が強くでてしまい保身やメンツ、その他の不安からどこかに力が入り過ぎているからバランスが取れずそこの筋肉が収縮しそれが凝りになっていくのです。そしてその凝りだけをいくらほぐしてもまたそれがまたいつも通りに凝りはじめるのは、水たまりだけの水をいくらほぐしてもそのうちに元の水たまりにまた水がたまってしまうかのように部分最適ばかりやってもいつまでも解消されることができません。

身体で言えば、全体最適というように凝ったところだけではなくその震源地がどこであるかというのを見出していくために身体全体を調べていく必要があるからです。震源地と被災地の違いではないですが、どうしても余裕がなくなると被災地ばかりに目がいきますが本来の震源地はどこにあるのかを正しく見出していくことが対処療法ではなく根源治癒になっていくように思います。

身体でいっても、肩こりの問題が足元にあったり、頭痛の問題が内臓であったり、実際は全体をよく観てみないと分からないからです。自分の中で治ったといくらいっても、震源地が其処に在る以上、また時間が経てば同じところが出てくるのが世の常だからです。

先人たちの地震の対策に色々と思うことがあります。

どこまで津波が来るのか、過去の人達がどこまで体験したのかそれを神社を設置し語り継ぐことで子々孫々へ同じことが起きた時の対応を示しているのです。決して津波が来るからと下流に住まないというわけではなく、そういうことが必ずあるから日頃から怠らないようにと伝承していくのです。

これは長く深いところで出来事を洞察しているからこその根源治癒法の一つであろうとも思います。西洋的な対処療法もいいですが、何が根源治癒なのか、考えてみる必要を感じます。

そう感じても、やはり機会をどのように活かすか、その活かし方にその人の心がけがでてくるように思います。自分の状態を正しく知るには、まず自分から肩の力を抜いてリラックスして心を開いて委ねるというような良心が出ている状態をつくるのが先決です。

最後に、ちょうど安岡正篤氏(東洋人物学・致知出版社)の言葉に学びとりたいと思います。

「日本では、観音信仰に次いで地蔵菩薩の功徳がいろいろ説かれておるが、「多逢(たほう)勝因」は心掛け次第で可能である。自分一人ではなかなか結ぶことが出来ないけれども、逢うことはできる。いや、自分を取り戻すためには、逢う必要がある。つまり、人間は出来るだけいい機会、いい場所、いい人、いい書物、そういうものにバッタリ出くわすことを考えなければならない。これを「多逢勝因」という。」

人は心がけを重んじていけば、様々な機会に回り逢いその機会を活かすことでより深く学んでいけるように思います。路を歩む中で、同志に出会い、師に出会い、友に恵まれることこそ人生の幸せや福を味わっていく機会の兆しのように思います。

日々の心がけ次第では、多くの人達の思いやりの中で安心して暮らしていけるように思います。足ることを知るのも、感謝をすることも、それが活かそうという心がけから来ているからです。力むときはどこか不自然であるとき、そういう時は心がけから立て直し出会いを重ねて歩んでいくことが処世かもしれません。

智慧は、心がけからはじまり心がけに終わるように思います。

日々修練できる場があることに感謝いたします。

 

呼び覚ます

生活をしていく中で、観直してみると元々持っていたものが色々と消失していることが分かります。

例えば、暖房器具などもそうですが日頃から自分の身体で温めるよりも外側の便利な道具を用いていつも身体を温めていたら元々持っていた体温調節の機能が次第に衰えてきて周りのものに依存するようになってきます。

そういう状態で外に出たら、すぐにしもやけになったり風邪をひいたりしやすくなるから、余計にマスクやホッカイロ、その他の移動手段での工夫などより便利なものを求めて対処していくようになるのです。

これも一つの元々持っていたものが消失していく事例です。
もう一つ例えると、カタチだけではなく人々の絆なども同じです。

日頃から契約とか立場とか、お金とか法律だとかの外側の便利な枠組みの中で人との関係を築いていたら元々もっていた信頼のきずなという機能も次第に衰えてきて表面上のつながりに依存していくようになっていきます。

本来、元々は人は絆を大切にしていくことで助け合い長くお互いを生き残らせる智慧があったのです。それをお金などを中心に便利なものを活用して自分だけ生き延びようなどと思うことからもともとあった絆の力が消失していっていると思うのです。

文明というものは、生きていくために工夫しては生きやすくしていくためには欠かせません。しかしそのことで、今まで大切に守ってきた元々持っていたものを消失していくことで生き難くなっているとも言えるように思います。

やはりどちらかに偏ってしまうと、長く中庸や中道に止まっていることはできないようです。

温故知新ではないですが、こういう時代だからこそ敢えて温故が何かを大切にし、そして敢えて知新していくという勇気が必要ではないかと実践の重要さを改めて実感します。

時代は日々に変化していきます。

自分の中で消失していると感じている元々持っている力に声掛けをして呼び覚ましつつ、変化の象徴でもある子どもたちからその力を学んで実践していきたいと思います。

ゼロベース

刷り込みの中の一つに、無理をするというものがあります。この無理というものを深めてみると、いつもではなくどこかが無理に力んでいるともいうように思います。

先日、整体を学んでいる方とのご縁があり体のことについて教えていただきました。

本来、穏やかで静かな時は体に力んでいくことは少ないように思います。それがどこか感情の波に揺られていたり不安で落ち着かないと体に無駄に力を入れているのです。こういう状態を無理というように思います。

リラックスしているということは、無駄な力が抜けている状態であるということ。無理をしていないということになるのです。

そもそもこの無理というのは、全て感情が根底にあり自我に囚われていることに起因するように思います。そして知らないうちに無理をしたというのがあるのも、それは知らないうちに感情に呑まれたともいうように思うのです。

人は感情と理性ではないですが、自律神経が安定していると日常は安心してバランスよく平静に過ごしていくことができるように思います。だからこそ、偏ったなと思ったときは一度リセットしゼロベースから作り直すというように自分を整えていくのだとも思います。日々の日課を持つのも、自分が同じところに回帰しているかと立脚するところから見直すのに役立つからです。

バランスを崩しているのにそのまま無理に自然体になれば、他人に対する思いやりや配慮を欠き、真心は通じにくくなるように思います。焦ることや急ぐこと、押し付けや批判などもそういう自分の状態が周りに感化していくように思うからです。

一番人間関係で不幸なことは、ひょっとしたら自分の焦りを人に押し付けているときかもしれません。だからこそ、他人のことを思いやれる優しく強い人になりたいのであろうと思います。

しかしそれでも人は忙しい時や余裕がない時もあるのが普通ですから、そういう時は開き直ってできるところからやっていくのがいいように思います。そういう時こそ周囲が感動してくれたり、深く学んでいたりするからだと教わりました。

自分が無理をしているのは、一度すべてをゼロベースにしてみないと分からないものです。自信とは、そういう白紙のところに止まることができていることをいうのかもしれません。

最後に、四書の大学の三要領一節を省みて終わります。

「大学の道は、明徳を明らかにするに在り。民に親しむに在り。至善に止まるに在り。」

この至善に止まるというのが、本来の自分の居るところ、つまりは自然体ということなのでしょう。日々をチャンスと捉えて、実践から正しく学んでいきたいと思います。

愛と義と信と楽と幸

先日、愛着関係について話をする機会がありました。

最近の私はこの愛着というところに使っている愛は、古来から日本に存在している愛ではないのではないかと思っています。今の時代の義も、古来の義ではなく外来の言葉によって意味が変わってしまったのではないかと思うのです。本来の翻訳ミスもあるのかもしれませんが、実際は価値観によって言葉は形成されるのですから間違っていくこともあるように思うのです。

今では愛着とは、親が子どもに対して無条件で可愛がるかのように言われますが本来の愛はとても厳しいものです。今の愛は、親が子どもを甘やかし、子どもも親に甘えるだけの関係の愛着だということになっていることが多いのです。

そういう愛着を持っていたとしても、それでは他人との信を結ぶことができにくいように思います。そのことから、他人に頼るのではなく他人に甘えることで社会に自分を立てることができずに苦しんでいる人が多いように思うのです。

本来は、人間はまずこの世で行うのは、親から愛を学び、そして友から義を学ぶ、そして社会から信を得るというように成長していくのだと思います。

その最初の段階の愛で、何か躓けばそのあとの義が立たず、そして信も歪んでしまうのです。

人は信があるから、人から信頼されるのです。これは自分が根本に何を信じて生きているかを自覚していることであり、それを決めていることをいうのです。

私は会社でも仕事でもよく生き方と働き方の一致という説きますが、これはそもそもこれが分かれているはずがないと思っているからです。そして仕事も生活も重なりあった理念を主軸に、人事を尽くしいつまでも中道を学び続けて自分を生まれ変わらせていくというのを方針に設定しています。

そうすれば必然として、様々なところの問題を相手に内外左右されずに自らで自らの人生の価値を決心していくことを優先していくことができるようになるのではないかと思うのです。そうしていることが、保育を学び、さらにその生き方を通してはじめて子どものお手本ではないかと感じているからです。

この愛というものを学ぶのは、親から厳しい愛を受け取ったものでなければ分かりません。親代わりが必要な時代というのはおかしいと思います。本来は、親が愛を学び、子も愛を学び、そして義を貫くという生き方を実践し、そして信を得て、楽しい幸せな世の中にしていけるのではないかと思います。

見守るを実践していれば、見守り愛のことも学びます。
自立は、厳しさと慈しみの中で育まれるということは普遍の真理のように思います。

人生の中で人は人になるために道を通して互いに学びあい、見守りあい、人はそこから成長し、より魂の望むままに自分らしさに出会っていけるように思います。だからこそ日々を流されるのではなく、常に納得のいくように心研ぎ澄まして様々な出会いからキャッチしていきたいと思います。

心の絆を結ぶ~自分へのサイン~

人は信頼関係をどう築き上げ、自分のコミュニティを形成していくかというのは生きていく上で何よりも大切なことであろうと思います。

今の社会では、個人主義が横行し、自分が自分がとやっているうちに自分のことしか考えられず、他人のことにあまり関心を持たないような人たちも増えて孤立化してきています。昔は、家という考え方があり一家、つまりはファミリーだとしてその顕現したカタチとしての「御家」をみんなで一丸となって盛り上げていこうと一心協力して取り組むことができていたといいます。

それが今では、何でも一人でやれることを尊び、一人でやれたときに褒められるような教育を施され、一人で何でもできる人が能力のある人かのように錯覚してきているように思います。心を開いて自分から裸になりさらけだすことはまるで弱い人がすることであるかのように、美徳が勘違いされてきているのです。今の教育でいう美徳などというものは、単に人を頼らずに一個人で生きていけと言っているかのように伝わっています。

そういうことから大多数の人は心を閉ざしてしまい、相手が自分に手を差し伸べてくれるのをいつまでも待つような人たちが増えてきています。そして社会を彷徨いまるで親代わりになる人を探してはいつも自分を助けてくれる人を求めて、甘えを断ち切ることができないでいます。しかし本来の人生とは自分から進んでどんなことも経験をし、体験をし、全部を一々自分で納得して自分で決めて自分で生きる価値を実感していくものです。

よく日本人は、空気を読むといいながら相手の出方ばかりを様子見して絆を結ぼうとせずに距離を取ろうとばかりを気にします。本来は、絆は本心と本心が重なり合う場所、つまり私の言うタイミング、御互いの腹が決まったときにこそ絆は結べます。それを自分が傷つくことを恐れたり、傷つけてしまうことを恐れたりして相手に合わせようと思うばかりに無理をしてしまうと絆が正しく結べません。当然、自分から先に本心や本音で心を開いていくことは心も丸裸ですから多少の傷つくこともあるかもしれません。しかしそれでも自分から絆を結ぼうと近づいていくから相手も近づき、相手の出方を待っているから相手が遠ざかってみえて離れていくように感じて孤立してしまうのです。

自分が気にもしていない分かってもいない場所の根底に甘えが棲みつけば、無意識にいつも助けてもらおうとか、誰かに気にしてもらおうとか、皆に手を差し伸べてもらおうとかの内面が、周りににじみ出てしまい、周りも絆を結びにくくなってしまうものです。自分の中に甘えが存在しているから人は信頼関係が正しく結べないのです。自分がやることになっていないというのも、実際はその言葉以前にまず心の中に巣食う甘えが断ちきれていないということに気づくべきなのです。

甘えていてあてにすることは、決して人を頼ることを学んでいるのではないのです。社会の中での自立というのは人を頼ることができてはじめて成るのだと私の師も語ります。これはまず自分から相手に心を開き、どんなに傷ついたとしてのその人と絆を結んでその繫がりをまずしっかりと持ち自他を役に立たせていこうとするとき全体の中に必要な自分に自信を持てるようになるのです。

仲間との絆、社会との絆、友との絆、同志との絆、そういう絆に共感することができれば決して人は孤独にも孤立にもなりません。心の絆を結ぶというのは、いつも絆を通して相手の心に共感していることを言い、決して絆を避けて自分のことだけの心に閉じこもらないことを言うのです。

随分と長くなりましたが、自分から心を開くというのはもっと周りの人達と自ら心の絆を結ぼうとしていけば次第に思いやりを持てコミュニティに入って同化していけるはずです。もしも今自分が孤立や孤独を感じてしまうのは、「自分のことばかりを考えてしまっている自分への自分の心からのサイン」であろうと思います。

まずは相手との絆を結ぶのが先、そのあとに相手を思いやればきっと人の気持ちに共感できる人になるだろうと思います。

結局はこの甘えの問題も、心を閉ざす問題も、過去から今への社会問題が、その人に降りかかってきているかもしれません。だからといってそれに流され幸せを諦めないで何でも自分で考え抜いてその生き方を決め、それまでの自分に打ち克つ勇気を出して天から与えられたたった一つの自分の人生の幸せを心の絆の中で結んでほしいとも願います。

そしてその幸せの変化を多くの人達へ伝道してさらにその輪を大きくしてほしいと思います。この世の刷り込みもまた、自分を成長させ学ぶために存在するものです。どんなこともから貪欲に学び、機会を子どもたちへ活かしていきたいと思います。

人生を育てる

先日、あるコンサルティングを行っている園で研修を行いました。

そこはもう6年以上前から一緒に理念を策定し取り組み、実践を共にしているのですが一心協力して日々の保育に精進しています。いつもお会いしていくたびに皆さんが思想的にも技術的にも、また人間的にも全てにおいて大成していきていることに気づけます。

それもそこの皆さんが素直に学び続ける姿勢をいつまでも維持しているからです。先日も変化も学びも自分からするものであることをよく理解してくださっていました。子どもを見守るとは一体何なのかを、皆さんがよく日頃から保育で実践なさっている姿に改めて感心いたしました。

人はまず、反省をよくできる人が伸びる人のように思います。

自分が理に反することから様々な事件が起きて自分にとって難儀なことが発生してもそこから学ぶ人と学ばない人がいるのは事実です。学ばない人は、繰り返し似たようなことがいつまでも発生してはそこから後悔はしても正しく反省ができないのです。

それとは別に、毎回、正しく反省できる人は、自分が何が道理に反したのか、何が筋道に逆らったのかを深く掘り下げ自己観照ができ、そこからはじめて自分の生き方を変えることができるようになるのです。

人は成長していく方を選ぶという言葉を聞いたことがあります。

それは学び直せる方を選択していくと言い直してもいいように思います。この「直」という字は、毎回、自分が正しい方へと転じていく、本質や道理に照らして自分の方を変えていくということがいつもできるという意味であろうと思います。

それをいつもの日常の中で行うことができて「素」、素養の素が入ることで素直とも言うのでしょう。日々は変化するかしないかの連続であろうと思います。しかし、有難いのは必ず変化というのは起こりますし変化はこの世の常であり、これこそが私たちを学ばせて成長させていくのです。

人は結果を選ばず、生き方や学びを選ぶというのは勇気のいる事です。

しかしそれでも遣りたいと思う人だけが、ビジョンを持ち、夢を実現していく充実な生き方を全うしていかれるのでしょう。

常に、「自分は何のために此処にいるのか」「天は何をお望みか」を自問自答し内省し、焦らずじっくりと自ずから己の人生を育てていきたいと思います。

自立の勘違い

先日、自立の勘違いについて大きく気づき直すことがありました。
それは自分流というものを持っている人が自立を勘違いしているということからです。

例えば、自分流などという言葉は、自分では真似ていると勘違いするときに使う言葉です。実際は自分に自信がない人ほど自分流などというものでコピーではないものをコピーしていると勘違いしているからそう思っているのです。

一流の仕事を真似るや習うというのはどういうことかというと、その人の背景にある今までの体験を習うや真似るということに他なりません。表面上だけを似せてそれで自分はいいとなるのは、決して本当の真似ではないのです。

イチロー選手の振り子打法のコピーをしたといくら本人が思っていても、それは決してイチロー選手の真似とはいわないのです。イチロー選手がやっていることはその心技体全てに到達した本質をいい、それを自分もできると安易に勘違いしているのは大きな間違いだからです。振り子を似せてもなぜ振り子なのかの本質は真似していないからです。なので自分ではもうやれると先に思い込んで自分流で勝手にやっていても、本番になれば誰の目にも振り子打法の本質と全く違うことをしていることは明白です。

だからこそ、本当にコピーするのならイチロー選手が行った全ての本質を自分で”ものにしたか”どうかを自分でやりながら真摯に確認してこそはじめて自立できているかどうかの確認になるのです。これは武道の師弟関係のようなものと同じく師から弟子が己で学び己で習うのに似ています。

本当の習うというのは、その人が過去に取り組んできた練習や訓練の仕方、仕事で言えば取り組み方やプロセス、積み上げてきた修練などの全てを”自分のもの”にするために真摯に直向に習うことではじめて仕事の仕方が理解できてくるともいいます。習うというのは、鳥が親鳥のやってきたことと同じように体験を積み確認しそれをものになっているかどうかを見守ってもらうことをいうからです。

例えば、身近な例でいえば一流の経営者の仕事を真似るというのはとても至難のことです。

なぜなら、その一流の経営者は過去にどれだけ質の高い体験と経験、自分のリスクで修羅場や真剣勝負などを得て、膨大な量の知識と膨大な量の智慧を己から一流に習いものにしているから一流の仕事ができるのです。一流が難しい仕事を簡単にやってのけるのも、それは頭がいいからや能力が高いからではなく過去にそれに掛けた時間があったからです。つまり一流の経営者の仕事がわかっても、一流の経営者のように一流の仕事ができないのは一流の仕事の仕方を学んでいないからです。

なぜ人はこうやって自立の勘違いが発生する本質は、頼ることができないからです。

例えばイチロー選手に頼ることができれば、それを習うことができるようになります。それを一人で頑張り頼ろうとしなければ、単にコピーですからそれは自分流になるしかないのです。いつも大事な場面でイチロー選手をあてにしなくてもいいようになるには自分でできるようになるための真の実力をつけるしかありません。

本来の自立というのは、自分から信頼関係を築き、自分から習い、そして自分から頼ることができて自分でできるようになることではじめて自分で立ったとなります。

過去の教育や家庭環境から誰も信頼せず、一人で頑張り一人で立てることが正しいと間違った価値観を植え付けられた人たちが結局は一人で無理をしていつまでも自立を勘違いしてただ一人だけでやることを正しいと思い込んでしまうのかもしれません。

本来の一緒に取り組むというのは、それぞれが己でできるようになるという互いに認め信頼しているという証であり、それがあってはじめて社会の共生と自立を育んでいくのだろうと私は思います。

子どもたちに自立のモデルを志すからこそ、真摯にこのことは考えていなければなりません。