家船

私たちはもともと海に囲まれた島国の中に住んでいる民族とも言えます。

海に囲まれているからこそ昔から漁業なども盛んでした。
そこに家船という人たちがいて、陸には土地を持たずに船で生活する人たちがいたようです。
家族全員が船上生活をする中で、生き抜くことを学んでいくのです。

船に生活するのだから、日々の点検を怠らずに船が沈没しないように手入れをし規範と実務、実践を大事に子々孫々へと暮らしを継承してきた様々な智慧があったように思います。

何か大きな出来事があれば、一家の一大事として昔は全員一致団結して困難を乗り越えました。私は今年の一年のテーマは「家」なので、家に関することで先日も思い当たることがあり二宮尊徳の「大海の家台船」の一説を社内で話をしましたが忘れてはならぬ私たちの在り方そのもののように思います。

そこにはこうあります。

『尊徳先生はおっしゃった。「家屋の事を、俗に家船(やふね)また家台船(やたいぶね)と言う。面白い俗言である。実際、家を船と心得ればよい。これを船とする時は、主人は船頭である。一家の者は皆乗合いといえよう。世の中は大海である。そうだとすれば、この家船に事があるときや、また世の大海に事があるときも、皆逃れられない事であって、船頭は勿論、この船に乗り合せた者は、一心協力してこの家船を維持すべきである。さてこの家船を維持するのには、かじの取りようと、船に穴があかないようにするという二つが大切である。この二つによく気を付ければ、家船の維持は疑いない。ところが、かじの取りようにも、心を用いず、家船の底に穴があいても塞ごうともしないで、主人は働かないで酒を飲み、妻は遊芸を楽しんで、せがれは碁や将棋にふけって、二男は詩を作り、歌を読んで、安閑と歳月を送って、終に家船を沈没させてしまう。嘆かわしいことではないか。たとえ大穴でなくても、少しでも穴があいたならば、すぐに乗合一同力を尽して、穴をふせぎ、朝夕ともに穴のあかないように、よくよく心を用いるがよい。これがこの乗合いの者の大切な事である。ところが、既に大穴があいてもなお、これをふさごうともしないで、各々自分の心のままに安閑と暮していて、誰かがふさいでくれそうな物だと、待っていてすむであろうか。助け船を頼みにしていてすむであろうか。船中の乗合一同が、身命をもなげうって働かなければならない時ではないか。』

一緒に暮らすというのは、運命共同体という意識のことです。

どんなに自分だけが助かろうと思っても、この大海原の世の中を生きていくには自分の帰属するコミュニティー(信頼できる仲間)を築き上げなければなりません。それができてはじめて自立したと言えるからです。

だからこそ自分の乗る船が沈没しないように、同じ船に乗り込んだ乗組員は命懸けで守り、それぞれが一心協力し続けていなければ自分も周囲も守れないのです。家族を守るというのは、一家の人達が心を合わせるからできるのです。

今の世の中は、何を守ることが自分も仲間も守ることなのかを勘違いしている人も増えています。すぐに信頼することを忘れ、自分だけでなんとかしようとするのもその信頼そのものの本質や意義が孤立する社会の中で欠落してしまっているのです。これも都市生活をし、画一教育の中で育った人たちの現代病ともいえるのではないかと思います。

自分だけが助かろうとするのではなく、如何に運命共同体を築き上げるかということを考えなければならないと思うのです。それが歴史を顧みれば人類生存の叡智そのものであったからです。

仏教のいう所の自利と利他ではないですが、利他を常に優先する人はそういうコミュニティーを自らで形成できます。なぜなら利他というのは、自分を守ってくれている安心感を常に信頼を心の主軸に置いて行動することができているからです。そうやってはじめて生きる力の根源になる仲間と自然に包まれて生きる幸せを味わっていくことができるように思います。

先人たちの絆や信頼を家というカタチにして残したのは生存の智慧そのものです。今に昔の人達の智慧を学びつつ、それを繋ぎ譲れるよう、遠くの灯台を見つめて子どもたちの未来に残る船を建造し前へと進めていきたいと思います。

プロセス重視と成果

人間学と時務学というものがある。

本質を学び人間を陶冶していくと同時に、知識や技術を磨くということです。日々の体験から、内省をし自らを高めていくのと同時に、自分の強みや能力を磨いていくことが必用だということです。

孔子とドラッガーではないですが、その両面を常に高め磨く必要があるように思うのです。私も日々の論語と同時に海外のビジネス書を読み込み感覚がズレナイように取り組むのもそれがあるからです。

特に仕事の仕方というものについては、一般常識的な知識を磨くと同時に自分の強みを発揮する仕事の仕方というものも学ばなければならないと思うのです。その人その人にとってもそれが個性であるからです。

P・ドラッッガーの著書「明日を支配するもの」にこうあります。

「自らがどのような仕事を得意とするかは、特に知識労働者にとっては、強みと同じに重要な問題である。」

この時の仕事というのは、単に業務のことを言うのではなくどのような仕事の進め方や在り方を最も得意とするかという広い範囲での自分の得手不得手のことをいうように思います。自分がどのような強みがあるのか、そしてそれをどのように活かすのか、自分を知り自分に合っているかどうかに集中するともいうように思います。

「実際には、強みよりも重要かもしれない。ところが驚くほど多くの人たちが、仕事には、いろいろな仕方があることさえ知らない。そのため得意でない仕方で仕事をし、当然成果は上がらないという状況に陥っている。」

成果というのは、どのような仕事の仕方で進めたか、そのプロセスが徹底したものであればあるほどに確実に成果が実るとも言います。結果さえ出せばいいという考えが常に失敗を呼び込むのは、そもそもプロセスを蔑にして仕事の成果を求めてばかりで本来の仕事の進め方や在り方そのものの方に注力しないことが問題ではないかと思うからです。結果を求めずにプロセスを重視するものだけが最良の結果を生み出すことができるからです。これは結果だけが実力ではなく、本来はプロセスに努力精進しているからその両輪で一流の実力者になると言えるからです。

よくアマチュアとプロフェッショナルの違いで語られますが、アマチュアでは結果だけとか努力だけとか偏っています、しかしプロフェッショナルはプロセスを重視し日々の徹底した仕事の進め方に妥協せず、同時に結果を出すから一流と言われるのです。

この見えないところでの精進と、目に見えてくる精進がプロの所以なのです。

「強みと同じように、仕事の仕方も、人それぞれである。それは個性である。生まれつきのものか、育ちのものかは別として、それらの個性は、仕事に就くはるか前に形成される。したがって、仕事の仕方は強みと同じように与件である。修正できても、変更することはできない。少なくとも簡単にはできない。そして、ちょうど強みを発揮できる仕事で成果が上げられるように、人は得意な仕方で仕事の成果をあげる。」

自分の仕事の仕方を重視している人だけが、自分の強みと同じくらいの個性を発揮するのかもしれません。そしてそれは、その人らしい精進と強みの開花が、最良の成果を引き出すに至るのです。

「フィードバック分析は間違った仕事の仕方も明らかにする。その原因を明らかにできることはあまりない。しかし、間違いを発見することは難しくない。数年の仕事の経験は必要かもしれないが、やがていかなる仕事の仕方が成果をもたらすかは、直ちに答えられるようになる。いくつかの癖が仕事の仕方を規定するからである。」

本来のフィードバックとは、自分を知り自分を活かすということが何かに気づき改善することではないかと私は思います。孫子の兵法ではないですが、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」がありますが、自分の状況を事前に自覚することでより一層のプロセスに注力していくことができるということでしょう。

つい結果のみで判断してしまう昨今ですが、本来の実力とは何か、見定める力も指導者には必要であろうと思います。正直者がバカを見ないためには、正直とは本当は何かということを明るみにしていくことのように思います。

素直に取り組む人は、日々のプロセスの大切を知る者です。
何を自己監督していくべきか、事実は現実とともに明らかになるばかりです。

 

国際感覚

人は自分の価値観を拠り所にして様々なことを判断しています。

先日のインドでもそうでしたが、世界は様々な宗教観などを含め価値観を形成するものがありその価値観に由って生きているともいえます。ヒンドゥー教とやイスラム教などもそうですが、私たちからすればなぜそこまで激しく対立するのかと思うものですがそれだけ価値観というもの中で理解できないものが互いにあるのです。

食べもの一つでもそうですが、豚肉を食べないとか野菜しか食べないとかもその価値観がそうさせるとも言えるのです。自分の価値観が正しいと思い込んでいればいるほどに、相手の価値観は間違っていると思うのです。

本来は、それでも相手の価値観を認めて相手も正しい自分も正しいという柔軟性があればいいのですが相手から自分が間違っていると責め立てられれば同じくそれを仕返すというように対立は激化していくとも言えます。

そう考えてみると、世界での紛争のほとんどは互いの価値観のぶつかり合いとも言えるのです。言葉を話せるようになってから、文化をそれぞれで持ってから、私たちは逆に話し合うことができなくなっているともいえます。

言葉で何万語使って語っても、分かり合えないということも生まれてしまっているのです。

だからこそお互いに共通するものがあることを学ぶことが人間の最上の教育ではないかと思います。それは真心であったり思いやりであったり、勇気であったり優しさであったりといった人間の共通した生き方そのもので分かり合うことがシンプルなかかわり合いであろうとも思います。

そしてそういうものを感じるには、常に自分がシンプルであるように価値観に柔軟でいなければなりません。柔軟であるには智慧と体験、そして素直であることが必用でそういうものこそ学問を修めていく中で体得していくのでしょう。

世界で活躍する一流の人達の共通するものは、やはり価値観に素直である気がします。まずは自分から国際感覚を磨けるように、精進していきたいと思います。

幸せの本質~インドの旅3日目~

今日は、インドにある中でも革新的な学校と盲学校を視察しました。

インドに来てから、様々な貧富の差やあらゆる価値観の矛盾を味わいつつ引き続き幸せの本質とはというテーマで日々を洞察しています。そもそもこの国は身分制度にはじまり、人々が階級などにより棲家を棲み分けています。

インドでは一部の富裕層の生活との違いばかりが気になるような風土が太古の昔から今にいたるまではっきりとあちこちに現存しているように思います。

そしてそれは今の時代の学校や教育の方針などにも反映していて、競争し1人で勝ち残るための指導法などがインドでも人気を要しているようです。本来の幸せとは何かなどはあまり議論されず、世間の求める物質的な豊かさや裕福さといったお金や名誉などにもよって無意識に基準が設けられているようです。

この世には目に見える貧富というものと、目に見えない貧富というものがあるように感じます。そして私には本当の貧富の差は、表面上の差ではなく自分そのもののバランスではないかとも感じるのです。分相応ではないですが、その人に与えられる物資的なものと精神的なものとのバランスがあってこそ本来の豊かさや幸せといったものに出会うようにも思うのです。

ここではより感じたのですが本来の幸せというものは、決して物質的な裕福さだけではなく人生=生き方としての真の裕福さがあるように思うのです。それは自分自身の信じることを自分自身が行うことではじめてバランスが取れるように思うのです。つまりは物か心かではなく、その両面、そのバランスの元となる自分が幸せかどうかということです。

人はどんな環境や境遇に生まれてくるのかはわかりません。今日の盲学校ではないですが、目が見えないからといってそこに不平不満があるのではなくそれを受け容れて卑屈にならず健やかに自分らしく生きている姿にこそ幸せの種を感じるのです。

幸せかどうかというのは、その人のままでいることが幸せなことなのかもしれません。
そしてそれを信じる事ができる人こそ、幸せを素直に感じることができる人かもしれません。

明日は最終日です。

今日も思い出深い貴重な体験をたくさんさせていただきました。
これが何に繋がっているのか、、、ワクワクドキドキのままに楽しみたいと思います。

 

 

 

幸せの本質~インドの旅2日目~

今日は、早朝よりインドのデリー市内からアゴラまで車で移動しつつ現地の観光を行いました。町の中で様々に生きる人たちの様子に、それぞれの運命を感じることにもなりました。

人間は生まれた場所や環境がその後の人生に大きく影響を与えます。もしも自分がここで生まれていたらと思いを巡らせれば、今与えられている環境が感謝できるものです。そしてそれは見聞を深めるということでできるのです。

例えば、寒い気候や厳しい環境の中で成育したものと、温暖で湿潤の穏やかな中で成育したものとでは明らかにその今の自分の姿が異なるはずです。つまりはこのように見聞を広めていくことで本来の自分の今を正しく理解に努めていくことができるようにも思います。

幸せの本質について昨日から考えはじめて今も思いを巡らすとそこには穏やかで安らかといった心の持続ということを思い当たります。インドではこれをニルヴァーナとも言うそうですが、その境地を維持していくことができる心境ということです。

これは私には「真摯に実践を続けて悟ることのない状態の維持」というように感じます。つまりは、悟るというのは、悟るか悟らないかではなく悟ろうと学び実践を続けていることこそが心の平安を持続することのように思うからです。何でもそうですが、分かった気にならないというのは分からないままに実践して腹落ちするまで頭で分かろうとはしないということが現実と理想の中間を得ていると思うからです。

釈迦にこのような説法があるのを発見しました。

「欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世でこの執著をのり超える。人が、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、無力のように見えるものがかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が浸入するように。それ故に、人はよく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。」
意訳すると、欲というものがあるから色々な苦が付き纏う。だからこそそれに気をつけながら歩みなさいということですが私は欲が善いとか悪いとかではなく、ここでは気をつけなさいということが実践そのものであろうとも思うのです。自分という舟を川に浮かべて進んでいけば、波風や様々な試練から転覆しそうに揺ら揺らしていくものです。
最終的には大海原へと向かうのでしょうが、そこまでの旅路に安らかに流れ流され達していくことが幸せのように思えるのです。そしてそれは例えば菩薩行の実践をすることにより、その様々な欲と上手に付き合いつつ、自然循環の一部と一体になった境地にはじめて入っていけるようにも思うのです。
自利と利他がありますが、やはり人は自分のことよりも誰かの御役に立てることを優先しているときの方が欲も回避して自分らしい正しい行いができるように思います。これも実践というもので、それを行ってはじめて心静かな気持ちで義を優先していくことができるように思うのです。
そう考えれば、自分号という舟との正対の実践こそが幸せの本質かもしれません。
明日からは子ども達の施設の視察ですが、さらにインスピレーションを高めていきたいと思います。

物来順応~変化自在~

昨日は新年の祈祷と会議が行われました。
心新たに書初めをし、昨年のふり返りをして今年の方針を確認するのは大切な機会です。

私たちは根本が変わることがないので昨年に引き続き「リカンパニー」ですが、その他の課題は常に変化し改善していく必要があるので節目節目に確認することを大切にしています。 不易と流行ではないですが、何を変えずに何を変えるのかはそれは変化というものを正しく受け止めているからできることであろうと思います。

変化し続ける日々というのは、何をやめて何をはじめるかということの繰り返しです。
何度も何度も今までの習慣を新しいものへ変化させていくようなものです。

慣れてくるとマンネリ化してそのうちに本質が見失われてきたりするものです。
だからこそ客観的に間違いに気づけばそれを変えるという連続が今の自分を醸成します。

今までは要らなかったものでも、それがもう一度必要となったりもし、またはいくら苦手だと避けていてもそれは必ず通らないといけない道であったりもするのです。

自分の都合の良い道ばかりではなく、時には荊の道もあれば歩けないようなでこぼこの道もあるのです。それをちゃんと自分にばかり合わせずにもっと踏み込んでその道を楽しんでいこうと取り組む先にこそ変化の兆しを得るように思います。舗装された道路ばかりしかない今の時代にそんなところばかり歩いていても次第に面白くなくなっていくのかもしれません。

気づいたらその次には改善するくらいで居る方が考えすぎなくて心地好いのかもしれません。目標や計画、効果検証も期限を切るというものも、実際は道を楽しくするためにこそ用意するものかもしれません。

昨日は、その他に久しぶりに佐藤一斎の「言志四緑」からの文章に出会いました。

それは「物来順応」という言葉です。

これは剣の極意、武士道の在り方を示したものでこうあります。

「剣術や槍術の試合には、臆病な心を持った者は敗れ、勇気を頼む者も敗れる。勇気や臆病という考えを一つの静の中に融合し、勝敗を一つの動の中で忘れ去り、これを動かすのには自然のままに動き、わだかまりなく実に広く万事万物にかたよることなく公平な公明正大であることである。これを静にするには、あたかも地の寂然不動なるが如くであり、物来たればこれに応じて対処する。このような者は必ず勝利を得る。心を修養する学問もこれにほかならない。」

これは私の意識する「先待ち」という思想にも共通し、どのような事件があっても動じずに穏やかに処していこうとする錬磨修身の私の目指す生き方とも同じです。その境地へはまだまだ道は遠いですが、遠いということはそれだけ有難いことではないかとも思える日々です。

今日からはそれをいつも体現してくださる師と同行しインドに行きます。
どんな出来事が待っているのか、もう今この瞬間から旅のシンクロニシティに出会っています。

自分と我

日々に生活していく中で、自分というものと我というものがあるように思います。

どこまでが自分で、どこまでが我なのか、この境界線はとても曖昧のように思います。なのでそれを割り切るということは難しいように思います。自分の中で我に囚われているときは、周りのことも観えず自分のことも観えず、その我を通そうとばかりに躍起になっていくものです。

しかし自分を持つことができている人は、我に流されずに自分というものを優先してより周囲に役立て自分を活かすことができるようにも思います。

自分を持つことができるというのは、何のために自分があるのかその使命や信念に沿って取り組んでいく中で醸成されていくように思います。そして我は、やはりどれだけ省いていくかということのように思うのです。

我が出てくるのは、自信のなさや焦りといった欲望から生み出されていくように思います。それに人間関係でもそうですが、無意識のレベルで常に自他よりも我欲を守ろうとして常に自分を押しのけて出てきてはそのまままに我を通そうとしたりするもののように思います。

この我を抜けて自分というものと平常から対話していくことが、本質そのものでいることのようにも思います。そしてそれは大元にある理念と具体的な実践を通じで行っていく中ではじめて本来の自分を優先することを維持していくことができるようにも思うのです。

パターンとしてはそれを左右している自分と我を修めている感情を観れば一目瞭然のように思います。感情には表面の波立っているものと深層の静かなものがありますが常に全体を俯瞰して調和し直観的にいるときは安心しているものです。それがひとたび我が次第に全面を支配し侵食して何かしらの不安というものが発生することからどうしても感情が波立っていき我の雲や霧によって視界を覆いつくして自分が隠れてしまいおかしなことになっていくようにも思います。

自分と正対していくというのは、自分を持つということで我をなくすということだろうと思います。

なかなか実践は難しく日々は葛藤の連続ですが、大切なのは内省であろうと思います。日々に内省することで何が我であったのか、何が自分であったのかを確認していくことができるからです。

こうやって日々に、そして週に、そして月に、そして年にと、心正しく内省を繰り返していけば、そのうち自分というものを正しく持つことができるように思います。ここで内なるものから省いていくものは、それは我そのものであろうと思うからです。

そうして我が省かれて自分が顕われれば、自分を知り自分を学び自分を楽しむことができるように思います。自分との付き合いもまた変わっていき、融通無碍な自由な自分と邂逅する日々を味わえるのです。こうやって自分との旅を今に味わえることはとても上質で楽しく豊かな一期一会でもあります。気づいて変わっていくということは、こういう自分と我の最中で味わっていくものかもしれません。

道筋は長くても焦らずに穏やかに内省をしながら丹誠籠めて歩んでいきたいと思います。

執念

新しいことに挑戦するときや、様々なことを清算し前進するとき大切なのは最期の瞬間までのやる気の維持であるように思います。

どうしても行動よりも妄想が増えてしまえば、やる気というものは減退してきます。そもそもやる気というのは動いているときは下がらず、動かずに考えるだけという妄想を続けているから次第にそれが不安や恐怖を呼び込みやる気が減退していくのです。

そして一番減退する時期というのは、あと少しで達成するという所であろうと思います。

人が成功体験と失敗体験を感じる境目はここで、これを乗り越えるかどうかによるのです。

論語に、こうあります。

「たとえば山を為(つく)るが如し、未だ成らざること一簣なるも、止むは我止むなり。たとえば地を平らにするが如し、一簣を覆すといえども、進むは吾往くなり。」

意訳ですが、「学問も人生もその全ては山を土で積み重ねていくようなものである。それがならないのは自分が土を盛ることをやめてしまうからである。そして積まれた土をならしていくのも同じである。それを一つ覆せるのは、自分がそれをやったからである。」と。

つまりは、それを最期まで遣り遂げるのも途中で投げ出すのもだれのせいでもなくすべては自分がそうしたからだという戒めでもあろうと思います。自分に矢印を向けてみれば、事が為らないのは全部自分のせいということだろうと思います。

だからこそ最後の瞬間や、後半のあと少しのときこそ今までの数倍のやる気を出して走り抜かなければならないのです。長距離マラソンと一緒で、今まで走ってきたことや今まで取り組んできたことを必ず善いことにするという覚悟、そしてその決心が最後に出てくるからのように思います。

そしてそれが粘りと最期まで諦めない心といった執念、そういうものが「信」を生み出していくように思います。根気強く続けていくというのは、その諦めない心の醸成でもあります。

新商品が間もなく一つの軌道を見せますが、ここが正念場だと思い丁寧に取り組んでいこうと思います。

天才とは何か

昨日、スティーブンホーキングの自伝がテレビで放映していて久しぶりに昔の感覚を思い出しました。

中学生の時に、その著書「ホーキング、宇宙を語る」を読んだ時の衝撃が忘れられません。内容がどうであったかというよりも、その好奇心、その驚きを求めていく姿に自分の中にあった真理への探究の気持ちなどが刺激され感動したからのように思います。

宇宙がどうなっているのか、ブラックホールは何でできたのか、それを様々な客観的事実や例えを交えながら説明していく姿にこの学問の面白さを感じたのです。

もちろん、そのころの自分といえば何もわからずただただ驚いて内容がどうであるよるもすぐにホーキング博士に会いにいきたいと思い、必死で英語の勉強をしたことを憶えています。もともとの動機がホーキング博士に会うことでしたが御蔭で英語の成績がぐんぐん上がるというようなこともありましたから意欲は何がキッカケになるのかわかりません。

そのホーキング博士の生い立ちを映像でみて、娘さんのインタビュー記事をインターネットで拝読すると決してご自分の境遇を憐れまず、星を眺めて自分のやりたいことだけに専念していく姿に、改めて生きるということ、その生き方を学ばせていただきました。

通常なら2年と宣告された余命も、その後40年以上たった今もご健在で、これから宇宙に行くという目標も立てているようで流石は博士だと改めてその好奇心への情熱に感動し、今の自分も新たに触発されました。こうやって人は何をやったかとかではなく、何をやることに信念と情熱を傾けるかということが本来の人生であろうと思います。

一人一人、生まれたらそれぞれにテーマは異なりますが宇宙やはじまりについて人生を懸けて取り組むという姿に天才ということの定義を見出してしまうのは私だけではないでしょう。
天才というものは、その無限に湧き出る自分の好奇心かもしれません。

最後にそのホーキング博士の言葉についてとても好きな言葉を紹介します。

「人生はできることに集中することであり、できないことを悔やむことではない。」
「私が人生で学んだことは、自分がいま持っている力を、ぜんぶ使えということです。」

まさにこれが好奇心の源流である気がします。さらに大切な戒めも続きます。

「今の仕事を好きになれないのでは、違う仕事に就いても好きになれない。今の仕事に一生懸命になれないのでは、違う仕事でも一生懸命になれない。今の仕事を好きになって一生懸命やったとき、次なる道が見えてくるものだ。そもそも天職はなるものじゃない、気がついたらなっているものだ。」

自分の大好きなことを遣り続ける力が、生死を超えたところで存在する宇宙かもしれません。
宇宙はまるで心の世界そのものです、阿吽の呼吸ではないですが自分なりの宇宙を生き方で表現していきたいと思います。

 

 

考えるという実践

行動するというのは考えるということ、考えるためには行動しないとできません。

これは当たり前のことなのですが、頭で考えているようなことが実際の現実や現場で合っているということはほとんどありません。言い換えれば脳が、無理やりに現実をそうであったかのように合わせているともいえるように思います。

そもそも考えるというものは現実は何も変わることはありません。本来の考えるというものは、行い動く際にこれはどういうことだろうと実際の場面場面で智慧を出し、それを工夫していることをいうように思います。

実際は考えても行動しないとかいう言葉がありますが、あれはとても変な言葉で考えることは行動することで行動している最中こそが考えているということになるのです。

ですから考えるだけで実践しなければそれは考えているとも言ってはならず、それは単に妄想していると思うという方が当たっているように思います。妄想は現実を変えませんから、やはり具体的に動くや実践することが先でそのあとにはじめて考えているというものが本来の姿であろうと思います。

机上の学びというものは、そういうもので実際の学問は自分の実体験や現在の体験を深掘りそれを腹落ちしてくなかでこそ得ているように思います。巧遅拙速という言葉がありますが、妄想するよりも行動する、悩み停滞するよりも実践するという方が本来の姿であるという意味で解釈してもいいように思います。

まず考えてからという言葉がありますが、あれは考えてからという意味で妄想するのではなく具体的な計画を立てるという考動をしているから妄想してからという意味ではないのです。とにかく動くやとにかく実践するということは、考えることにおいてはとても大切なことです。

決心したらその次には動いている、覚悟を決めたらその次には実践している。

これではじめてスピードが上がるように思います。

何がスピードアップなのか、しっかりと捉えて新たな挑戦を楽しんでいきたいと思います。