頑固と柔軟

変化する組織に必要なのは柔軟性だとこの頃は特に思います。そして変化というものを一番嫌うのは頑固であろうと思います。

頑固とは辞書で調べると、「かたくなで、なかなか自分の態度や考え を改めようとしないこと。また、そのさま。」と書かれています。

頑固というのは、自分が正しいと思い込んでいることや自分の意見しか耳を貸さないということで結局は誰の話を聞いても聴く耳は持たず自分の思い通りに意固地になっている様を想像できます。

これもよく信念とか芯があるとか誤解されますが、本来の信念とは大切なもののためなら常に柔軟に自分を変えることができるのを言うのです。

例えば会社が目指している理念が明確にあるのなら、自分の意地を優先すればそれは理念から外れたことを一人頑固に行おうとするところに変化できない理由を生むのです。自分にとっては都合が悪いものでも理念を優先できるかというのは、常に自分の柔軟性を試されるものです。それは変化に対して変化するのは、大切な守りたいもののために変化を遂げ続けていくことが理念の実践だからです。

変化というものは、柔軟性が必用なのは優先したい価値があるのなら自分の方を融通無碍に変えていけばいいという素直な心の顕われです。どこかで理念を認めていなく、自分の都合や自分の思い込みを優先すればそれはすぐに事故か事件として表出してくるものです。

特に働き方や生き方などを一致となると、余計に公私の別がなくなるのだから誰が観ていようが観ていないが関係なくいつも自分が素直にその理念に忠実であることが必要になるのです。

そもそも頑固というのは、自分は間違っていないという反省しない心の顕われです。

もしも自分が間違っていたと素直に反省するのなら、今まで頑固に自分の意見を通そうとしたこともひょっとしたらこれは理念から外れているのではないか、間違っているのは本当は自分ではないかと矢印をちゃんと自分へ向けることができます。

よく笑い話で、矢印を他人に向けるなとありますがしかし頑固であればその矢印は必ず内側ではなく外側に出ているということと同じであるのです。

自分を変えないために無理をして意地を通すというのも生き方でしょうが、自然界では通用せずそれは淘汰されていくものです。本来の自然は、謙虚で素直に自分を柔軟に対応してもその信念は自ずから揺るがないというのがそのものの姿であろうと思います。

柔軟性は、他人の助言や好意を素直に聴ける、そして本当に素直に聴けたならそれを正しく取捨選択できる、善転していくことを楽しめるという境地に入るようにも思います。変わることを楽しむことで柔軟性は身についていくように思います。

そう考えるとまさに刷り込みとは頑固の象徴かもしれません。

周囲のためにも大切な理念のためにも子ども達のように自分が変わるを楽しむで取り組んでいこうと思います。

道は遠く、そして任は重い。

人にはそれぞれに道があり、その人の生きる道があるように思います。

このブログも5年前や6年前の記事を読んでみると、自分の道はそこにはあってそれが次第に明らかになってきているように思えるからです。

世の中には、正しいとか正しくないとか、法則とか原理とかもあります。

天には道があり、人には情があります。

そのどちらを優先するかといえば、そのどちらにもバランスがあってその割り切れない中で自分というものを確かめていく中で道は顕現し、道を確かめ、道を歩むのであろうとも思うのです。

矛盾することばかりの日々の中で、その全てが善いことだと認められるには何度も何度も道を歩んで往く覚悟もいただけこの世に別れを継げるまで続きます。そしてその後も、その道はまた別のものたちに受け継がれ太古から歩まれているものが永遠となっていくのです。

その道は、それぞれに異なりますが全ては天人合一、道情合一のようであろうと思います。
一見、それが同じになるまで歩む道の先に何があるのか分かりません。

ただ、それに惹かれるのは道があるから生きていられるとも感じるからです。
道に対して、論語の一説で大学を記した曾子に好きな言葉があります。

「曾子曰く、士人はおおらかで強くなければならない。任務は重くして道は遠い。仁をおのれの任務とする、なんと重いじゃないか。死ぬまでやめない、なんと遠いじゃないか。」

道を歩むということにこの任を得ていると実感することに嬉しさや面白さを感じてしまうのです。

そう考えると、私も身のまわりに尊敬する方々、大好きな方々はそれぞれの座右を持っています。その座に道に刻まれた言霊があるように思え、何だか懐かしくまた温かく有難く感じるのです。

かんながらの道は遠く、そして大和魂の任は重い。

そうやって、不惑に近づけるよう来たものを正しく受け取ってまた自問していこうと思います。

譲るとは役割交代

種を観察していく中で「譲る」ということについて見直しています。

もともと譲り合いや譲るというのは、自分を我慢してでも他の人に譲るということを譲るのイメージとして刷り込まれているように思います。幼いときから、譲りなさいと言われたことは自分のことは差し置いてでも誰かのために我慢するようにと使われることが多かったように思います。

しかし本来の譲るとはそういう意味ではないのではないかと思うのです。

もともと自然をよく観てみると自然は譲ることを意図的にするのではなく、自分の生を全うして役割を交代することを譲るとしているように感じるのです。

季節のめぐりにあわせて、それぞれは一生懸命に自分のいのちを生き抜いていきます。そこには遠慮が在ったり手を抜いたり、何かに合わせて我慢したりするのではなく一生懸命に自分の使命に生きぬくのです。

それが途中で無念にも最期まで生きられなかったとして、自然に淘汰することになったとしてもそれは他のものに思いやりから譲ったのではなくただいのちの役割を代わってもらったとしているのではないかと思うのです。種どりをしていく中で発見したのは、あれだけ一度に多くの種がなぜ必要なのかということ、あれだけたくさんのいのちがなぜ同時に目覚めてそして一部のみが生き残るかということを知覚するのです。果たして今の人間社会が言うように、全部のいのちを残すことが本当に思いやりなのかと疑問に思うのです。

正しく謙虚に素直にものごとを観るのなら、大事なのはいのちへの在り方ではないかと。つまり本来のいのちは、自分の生を何がなんでもと全身全霊一心不乱に生き切ることで周囲と共生し、そしてそのいのちが全うされるときにこそ譲るになるということ。

今、足元の自然の畑でも、秋から冬に向け今まで生きていたいのちたちが種をつくりその分、体は乾涸びてきて隣にいるいのちが新しくこれから生きはじめていくのです。これは別に思いやりでそうしたのではなく、自然に一生懸命に生き切ることこそが真の思いやりであり譲り合いであることを証明しているのが自然ということなのです。

今はチームワークもそうですが、無理に何かと協調しようや譲り合おうなどとするのはおかしなことのように思います。それはかなり自分都合になっているのではないかとも思うのです。誰かを思うために力を抜くことは本当に優しさであるのかということです。

本来は、自分がやるべきことを一生懸命に全身全霊で遣り切ること、自分のすべきこと、そのいのちを遠慮なく発揮していくこと、それを無理に周りとあわせようとするのではなくそういう自分を生き切るということの中にこそ合うと譲るがあるように思うのです。

そしてそれは譲り合いという、万物のいのちのために正しく役割交代をするということです。

自分だけでできないことは役割を交代して永続していのちのバトンタッチをして種を遺していく。その役割交代していくから今の自分たちが生き残っている。先祖がそのように生きたからこそ、今の私たちがこの時代を生きていられ、そして今の私たちが同じく生き切ることではじめて子ども達に譲ることができる。

そうやって一生懸命に生き切った後には、必ず種が残り、その種からまた新たに広がっていくということなのです。種は蒔かれるときにこそ、そこに新たないのちがはじまり、種は生まれるときにこそ役割交代がある。

自然の安堵を安心を実感し、天命や使命の有難さを憶えます。
種をテーマにしてきたこの一年、いよいよ残りは半月ほど。

心に刻んでいこうと思います。
そして世の中にカタチとして出す日を天虚に待とうと思います。

協力の本質

協力というものを深めてみます。

そもそも協力とは何かというと手伝ってもらうことや支援してもらうことではないように思います。本来、協力という意味では何か誰かに力を貸してもらったり、誰かの力を借りたりといったお互いに協力関係をギブアンドテイクで出しあったり貸しあったりするイメージがあります。

しかしどちらかが意図的に手伝ったり手伝ってもらおうと意識すると、なかなか協調できずにスムーズに事が運びにくいという経験をすることがあるように思うのです。

本来の協力とは何かと感じてみると、力を合わせるということ、一丸となるや一体となる、心も気持ちも合わせるということをいうように思うのです。それは相手をみるとかではなく、同じ目標やゴールに向かってそれぞれが全力で力を使うことを言うように思うのです。気が合うもの同士が力が合いやすいのもそれはそもそも気が合っているからです。ここでの気は本気の気のことです。

それにこの協力という字は、「力」が合わさって重なった姿が顕われています。

協力して下さいとか、協力しようとか、色々と協力のメッセージを出すことがありますが本来は自分が力を合わせようとすることができにくくなっているときにそう使うのです。

世界では様々な協力のやり方があり、国際協力などもどちらかだけが依存したりする関係もあると聞いたことがありますがこれは互いの力を合わせるのではなく力を借りようとか力を貸そうとか互いのどちらかだけに偏ってしまうからのように思うのです。

みんなで力を合わせるというのは、どのことに対しても全身全霊で力を出すということ、そして自他を割り切るのではなく全員で力を合わせるということの繰り返しが必要に思うのです。誰かが手抜きをしたり、お見合いをして力を抜いたりしていたら、協力や協調はできなくなります。

誰かがするだろうではなく、自分からすべてを取りに行く姿勢や自分が求める力が合わせるというものに近づいていくように思います。

そしてその根幹は、対人関係や人間関係の感情が大きな理由になっていると思います。表面上の気づきは色々とありますがそこに確かな人間関係の共生の本質が存在しているものと思います。

人が素直であることは、自分を認めて受け容れてあるがままでいることのようにも思います。
人生は多くのヒントの中で、その体験を他人の御役に立てることができるようになります。

いのちは誰かの役に立てるためにあるものだから、体験を価値に転換していきたいと思います。

孤立から協力へ~協調和~

皆で働くというのは、一人が皆のために協力するということです。

先日、体調を崩したクルーがいて仕事の在り方というより協力について深く考えさせられることがありました。

もともと仕事は自分だけがうまくやるや、自分はできているからとやっていたらそれでいいわけではありません。誰かが残業して困っていたら、それを手伝って早く帰れるようにするとか、このままでは期限通り終わらないことなども手伝って一緒に片付けるとか、その人一人が困らないようにすることが協力です。

誰かだけがいつも残業するというのはおかしな話で、では残業しないで帰ってもそれを自宅や休日に行うだけですからそれは正しく協力できて皆で営んでいるわけではありません。これはその人のやり方がおかしいと責める人もいますが本来はそうではなく周りの協力が足りないだけとも言えるのです。

周りがもっと協力すれば時間通りに進みますし、周りが手伝ってあげればその人は安心する中で働くことができより効率的に効果的な仕事ができるようになるのです。なぜならもともと仕事は全体とつながっていてその人だけで完結することはほぼありません。それを一人だけでやろうとするところに無理がかかり、そして病気や体調を崩すということになると思うのです。

その仕事はもともと全員で取り組むべき仕事で、それを自分だけで持ち帰り一人でやろうとするその姿勢そのものが無理させ体調を崩すことになるのだろうとも思うのです。善い上司、善い部下があるかはわかりませんが善い上司は部下のそういう無理がでないようにと自分から協力をして全体の仕事にしてタコ壺化しないように配慮を欠かさないことのように思うのです。これは見守りです、そしてまた部下も、自分の仕事がいつも一人のものにならないように確認や報告をすることで安心していつでも協力してもらえるようにと見守られることにつとめることが正しい互いの協調和の在り方のように思うのです。

結論から言えば、仕事とは皆で取り組むことで一人でやることではないということです。

一人にならないようにするには、皆が協力するのが先決です。

一人が頑張って皆に協力を求めようとするのではなく、周りが本気で一人ひとりの皆に協力しようとする意識、そのものが安心感につながりその人の持ち味を活かしそして全体を最適にしていくように思います。

協力をするというのは、「せーの」で合わせるようなことを毎回、その都度、何の仕事であっても全身全霊みんなで一緒にやろうとする姿勢、簡単に言えば自分の仕事ではなく協力していこうとする積み上げが仲間を思いやり仲間と共に居るという絶対安心へと調和させていくように思います。

個々に分断された個人主義は一斉画一のかつて我々が受けてきた教育によって刷り込まれたものです。それは人間の本来の共生の姿ではなく、そうなるようにと何かの都合によって仕込まれたものだったのかもしれません。しかしそれが大人になって社会に出てみて体験し、実は間違っていると素直に反省したらまずは自分から変わっていくことだと思うのです。

一人で悩み病気になり倒れたりし孤独になったりする人たちが生まれないように協力していくことを優先していけば共に生きる歓びと安心感に満たされた最幸のチームは実現します。

子ども達の模範になるよう、孤立ではなく協力を学び直したいと思います。

 

理論=実践

理論と実践というものがあります。理論では合っていると気づいても、それを実践しなければ分からないということです。

この「分からない」とは何かといえば、「分かれない」という意味でもあろうと思うのです。

全ての出来事は、渾然一体となっていて分かれているところがない。それを理論づけるために無理に境界線を明確にし分かったとなりますが、これは単に分かった気になっているわけで切り離される前の状態を丸ごと全体で理解したわけではありません。

それを実践を行うときにはじめて理解というのは本物になるのです。

よく真理などもそうですが、理屈で理解してそのままにする人もいますがそれでは言っていることの半分しか分かっていないということになるのです。本当にその人が言っていることを理解するには同じ実践を積み上げるしかありません。

そうしてみてはじめて、その真理やその意味、その意義、その夢、その価値などを肚におとし消化することができるように思うのです。

先日、仕事と生活を分けないという話をしましたがこれも同じで分けているということは生き方と働き方という意味が分かるはずがないのです。もともと生活と仕事ということもどこからが仕事でどこからが生活なのか、人は一生をかけてもっとも長い時間をかけているのが仕事の時間とも言います。それは明らかに生活の一部であって切り離せるようなものではありません。

そして生き方を換えることは働き方を換えることなのだから、それが矛盾しているのではそれでは換わることができません。自分にとって都合のいいように変えようとするのは素直な姿ではなく、善いと理屈で感じたことはすぐに実践して近づいて深めてものにしていくという取り組みそのものが丸ごと全体で理解していくことになるのです。

先日、若杉友子さんの講演の中で印象に残ったものの一つに「ここに来て私の言うことを聴いて実践しないのなら時間の無駄です。私もやると決める人にしか話さない。」と言っていました。

何でもそうですが自分の生活に同時に取り組んでその中で理論と実践を深めていく、求めていく気持ちが何よりも尊いのであってそのために共に学ぶということの歓びも味わうことができるように思います。

相手と自分との分けて、自分はこういうタイプだからとか、自分はまだこうだからとか、自分はやらない人だからとか、そういうのを事前に決めて固執していたら理屈っぽくなるばかりでもともとの正しいことにも気づけないように思います。

感情がコントロールできないのは、実践が足りていないか理論が立っていないかのどちらかになっているようにも私は思います。理論と実践を取り組む中で、本当のことが理解できるからこそ長い年月を懸ける価値に気づけるように思います。

論語読みの論語知らずにようにならないよう、論語の三省にある習っていないものを伝えなくていいように気づいたことに負けないくらいの猛烈な情熱の実践で渾然一体にいたいと思います。

発酵し楽しむ~求道の心~

先日、千葉の自然のままのお酒を醸造している寺田本家を訪問することができました。

先代の著書、「発酵道」というものを拝読し生き方が似ていたところから関心を持ったものです。人は道から外れていると色々な体験をします、それでもと求道するからこそ敢えて大変な方へと飛び込んで自らその道に気づくようにできているように思います。

私の場合も、善かれと思って取り組んだことがその通りにいかず人間関係に悩み、仕事に悩み、善悪に悩み、結局は自分の方が間違っていたと素直に反省するに至ることがありました。

求めていけば与えられるというのは真実で、どんなことでも自分が求めていけば必ずそれが道につながっていくようにも思うのです。そしてその道に出会えば、その道を歩むことを楽しもうと精進していくこともまた人生であるように思います。

さて、発酵の話になりますがご当主ともお会いし訪問した時にも言われ改めて深く実感したことがあります。そのご当主の御挨拶の中にこのように書いてあります。

「寺田本家で無添加でお酒を造るのも無農薬の原料米を使うのも、そのほうが楽しいか らです。手造りにこだわるのも、造っている僕たちがそのほうがワクワクと楽しいからです。正しいことよりも、楽しいことを選ぶと、自然と本物へと近づいていくってことですね。発酵するって楽しいほうへどんどん変わっていくことなのかも知れません。」

正しいことをしようとすると自分が窮屈になり価値観に縛られ、全体も歪んでいきます。誰かが正しいと言い出せば言い出すほどに正しくないものが顕われ、それが邪魔をしてまた素直でなくなっていくように思うのです。

しかし本来、自分が楽しいと思うものは道につながっているものでそれを究めていくことがもっとも自分に合っているということになるように思うのです。

楽しくなくても正しいのだからと遣っている人たちはたくさんいます。これは今の仕事をみていてもそうかもしれません。

ただ楽しいというものは、自分の中から込み上げてくるもので何度も楽しい楽しいとつぶやくのは自分の求めている道につながっているという実感のことであろうとも思います。

私は保育道のお手伝いをしながら、その道が広がっていくことを祈ってやみません。
そしてそれは正しいからとやっていたことが多いように思います。

しかしここにきて、これは楽しいからだと思えるようになっています。
それは共に歩んだ時間が何よりも幸せであったといつ回顧しても思えるからでしょう。

子ども達のためにも自分から発酵し続けるため、求道し大好きなことをしようと思います。
ご縁に心から感謝しています。

いのちの糧~生態系の循環~

昨日、千葉にある藤崎農場さんを訪ね不耕起栽培の実践を拝見し学ぶご縁を頂くことができました。

25年もの間、一度も耕したことのない田の土は触るととてもトロトロでその中ではまだたくさんの生きものたちが活動を続けていました。この時期は冬期潅水をして水をはっているのですが藻類、浮草、貝類、イトミミズなどが活動して代謝したものが沈殿し独特な土の甘い匂いを醸していたのが印象的でした。

生態系の話では、人間が全部を取り過ぎないということで生きものたち全体が食べられるようにと配慮してお米の育成をその中心に据えている謙虚な姿勢にとても感動しました。今は、一部の生きものは人間都合で要らないとして農薬をつかったり肥料を増やしたりと都合都合でやろうとする農業が当たり前ですが、それでは長期的に継続することはできません。そのことから、あらゆる地球上の種が絶滅の危機に瀕しているのです。

本来は自分だけで搾取するのではなくみんなのことも思いやりながら同時に取り組むということが自然の共生です。かつての私たちは自然に棲み決してそれを独占し全部を取ることはしませんでした。それでいてお互いに恩恵を享受し合い、助け合い、響き合い、見守り合い、今までいのちを共にしてきたのです。

今回の出逢いを通して本来のもっと目には見えない小さな存在や、弱いと思われるような微かな存在を大切にすることが生態系そのものをもう一度正しい循環に導くのだと確信したのです。

生態系は決してピラミッドでできているわけではなく、私は〇でできていると思うのです。つまりは球体であるというのはそれがどれだけ長いスパンで観るのかで決まるからです。長い目で遠い心でみれば全部はつながっていて必ず此処に戻って来るということです。

出したものが帰って来るという真理も、因果応報もそれはすべて長いスパンで語られる言葉です。自然は偉大で悠久、つまりおおきくゆっくりだからこそ、その一番の元になっている小さなもの微かなものを大切にしていくことが大切なのです。

天の道理にしたがって謙虚でいる藤崎先生の姿は人柄からも感じられこれは以前お会いした自然農の川口先生も同じような姿をみせていただきました。天の道理にいる人たちのあの穏やかな様子に自分の憧れもありかんながらの道の先覚者であることを知り本当に嬉しくなりました。

それと同時に、日々に自分の道を楽しみまで昇華させ往く年に向けて創意工夫と学びの姿にも経営者として多くを反省する機会になりました。今の道を楽しむというのは、着実に少しずつ実績をつくりながら広げていくのだというお言葉には勇気をいただきました。

人の道理にしたがって創意工夫をして已まずに精進し続ける姿に、道を楽しみつつしっかりと利益と収量を保持していくという経営の豊かさも感じてまた嬉しくなりました。

人は謙虚と素直があれば、天道地理の自然の道理に沿っていくことに実感を深めます。

今回の体験を通して、私たちのいのちを通して生み出させていく代謝物を次のいのちの糧になるよう、今回教えていただいたことを、実践に換えて子ども達へと継承していこうと思います。

貴重なお時間とご縁を有難うございました。

自然は私たちの先生

私たちは運が善くなる生き方というものを知ろうとしますがそれが何かというとバランスであると思います。

このバランスというものは、どれだけ自分がシンプルであるかというものと同じで自分がどれだけ素直のままの自分でいるかということをいいます。

人は自分の都合を優先し様々な問題を招いているともいえます。

つまりは余計なことをするから余計なことがおき、どこが中心であったのかと悩むのです。そうやってまた反省をしてもとのバランスに戻す。この元のというのは、本来のシンプルな自分に戻るともいい生まれる前からそのままの姿のものに近づいていくことをいうように思うのです。

この生まれる前からの姿というのは、今の世の中では刷り込みの教育や社会システムの中で価値が低いと思われているものですが本来はそれに近づくことが自然で運が善いというのもそういう循環の中に身をおくことで安心できることをいうのです。

運が善いと感じるのは、周りの自然循環のままに存在がスパンと当てはまっているからです。

どの時代もその時代時代に人間の都合によって自然から離れ真実が歪みおかしな世の中が出現すればそれをまた元に戻す自然の力がはたらいてきます。

そうやって私たちは何度も何度も素直でありなさい謙虚でありなさいということを自然に学ぶように思うのです。

本来の姿、自分が謙虚であれば真心のままに実相が世の中を照らすようにも思います。

自分の都合での偽りの謙虚さではなく、生まれる前から持つ素直さともいう謙虚さを忘れない子どものままでいればいつも自分を正直に素直に周囲にさらけ出せるシンプルな社会を形成していけるように思います。

私たちが謙虚さを忘れなければいつも自然は私たちの先生です。

お天道様の見守りの中で今日もまた素晴らしい人たちのご縁に出会い、イキイキワクワクドキドキと楽しんでいきたいと思います。

 

同じということ

同じと思うことにも色々な同じというものがあります。

例えば、自分と同じことをしていないと相手はダメなのだと思う時の同じという使い方があるとします。この皆と同じでないといけないという時の同じというのは、自分の正解が一つでその正解に無理に周囲を合わせていこうとするときの同じという意味です。

この時に使われる同じというものが実際は教え込まれた刷り込みの張本人で、もともとは正解というものはその人その人の人生においてやりたいことがあるのだからそれはその人のやりたいことが本来の正しいことであるのです。

もともとはじめから違うものを同じにさせようとするのは、同じでないと正しくないと思う所からはじまります。これを同じに合わせようとすると一つの価値観で従うものだけを育てるようになります。よく聞く話で親が子どもに自分と同じ能力を要求するのも、子どもも親と同じでないといけないと必死に思い込んで自分をなくしていくのもこの同じということへの認識によるものです。

本来の同じというものは、もっと原則や法理に近いものでもっと万人に共通するものがあると思えるようなことを同じであるというものだと思います。例えば、因果応報とか人類皆兄弟とか、生老病死とか、さらには仁義礼智信、愛とか、共通しているものが同じであるというのが同じというものの在り方のように思います。

同じでなければと無理に同じではないものを同じにしようとするところに人間関係の歪が発生するように思うのです。同じくしていると安心するのは、自分もそれで正しいことだと思い込みたいからのように思います。

しかし実際は、生まれた場所も願いも境遇もまたその使命も異なるのだからその人のやりたいこと正しいことはその人の事を尊重し見守ることでお互いが異なっていても同じものがあることをはじめて共有することができるように思うのです。

そしてやりたいことがはっきりしてきたとき、そこに同志に巡り合えたり、パートナーとして契りを交わしたりといった出会いに感動しより人生を共にする仲間に出会えるように思うのです。

何を同じと定義するかで人生の幅も器の広さも変わっていくように思います。

もっと普遍的なところで同じところを観るようにしていくことが安心できる関係を広げていけるようにも思います。同じにするのではなく、同じところを探していくこと、それは異なっていてもそれもその人そのものと丸ごと認めていくことから相手のことを自分と同じく信じることができるように思います。

信の実践には、そのものを素直にそのままに観ることが肝要に思います。

金子みすずに「みんな違ってみんないい」の詩がありますが、私なら「違っているからみんないい」、「みんなも自分と同じく違っていい」、「違うことはみんな正しい」と感じています。

しかし幼少期の刷り込みはとても深く、どうしてもそれが強く惹きあってしまいます。

もしも気づいたならすぐに反省し、そこからまた新たな発見を伝え広げていきたいと思います。
子どもたちが自分の人生を素直に受け容れ、自分のやりたいことややり方が尊重される世の中になるよう自然の姿を体現していきたいと思います。