楽しみ方

ドイツで持ち帰ったものにふり返りの楽しさというものがある。

現在もふり返りを続けていく中で、仕事を含め楽しみというものに3つの大きなものがあるのを感じます。これは旅の楽しみと同じようで、旅は行く前の楽しみ、最中の楽しみ、帰ってからの楽しみと3つあります。

そしてそれを全部楽しむとき、旅の醍醐味を感じて心は遊び旅を楽しみ続けていくのです。そしてその旅が、また次への旅へと誘い、人生がいつも旅によって味わえるという感動を連れてくるように思います。

そして同じように仕事にも楽しみというものがあります。

これは仕事に取り組む前の楽しみ、仕事中の楽しみ、そして仕事後の楽しみなのです。

仕事とはこうやって楽しいものにしていくのは自分の自主的な行動によって得られます。一生かけて取り組む仕事を楽しめるかどうかは、楽しんでいるように旅をするかに似ていて楽しんでいるように仕事ができるから仕事によりのめり込み集中し一体となりより自分から楽しんでいくことができるように思います。

この仕事の楽しみには具体的には3つあります。それは発見や発掘といった気づきの楽しみ、そして創造していく楽しみ、最後にふり返りによる改善の楽しみです。

仕事は全体を通して、色々な気づきを楽しめます。それは今まで気づかなかったことに気づけるということは発見する歓びで、人はオモシロイと感じるものはみんな新しいものを見出した時です。そして創造するという歓びというのは、カタチになっていく楽しみで今まで頭にあったものや漠然としたもの曖昧なものがどんどん顕われていくのはまるで家が建っていくようにオモシロイのです。カタチがどんどん増えていくから、全体が顕われそうしているともうすぐ自分たちの家が建つと思って希望にワクワクしていくからです。最後のふり返りの歓びですが、これはより自分が磨かれていく、上質になる、洗練されて善くなっていく喜びです。仕事がどんどん善くなってきたと感じることは、自分が本物に近づいてきたという歓びで未熟なものが成熟していくように次第に立派に成長していく実感を楽しむものです。

こうやって楽しみというものは、具体的な楽しむものにしていくことで得られます。

ドイツから持ち帰ったものにふり返りがありますが、楽しみ方にもいろいろとあるのだとふり返りをふり返り続ける事から得られています。人生はすべて学びなのだから、見落とさないよう、日々の発掘をより発掘し、日々の想像をより創造し、日々のふり返りでより改善するというのがまさに自分を空にして没頭していくことのように思います。

仕事の仕方というものがあるのなら、それは旅を楽しむように味わうことだと思います。

一番の危険は怠惰と惰性です。
慢心を恐れることは、今、ここへの集中力、即ち常に楽しむかということにあると思います。

日々の生活のなかで、好奇心と集中力を高めてより記憶と渾然一体になりたいと思います。

御土産の種

昨日、クルーの間で先日のドイツ報告を再び行いました。

何を御土産にするのか、何を持ち帰ってきたのか、その御土産の種を共有するのです。その歴史の中にある古き善きもの、その土地にそのまま残っているのもを自分の内面に照らして共通するものを取り出していくのです。

気づきの方の観るということや聴くということもそうですが、何を観たのか何を聴いたのかはすべて自分の中から探していくものです。そうやって自分の中から感じて出てきたもの、探し出したものを観てもので発見したらそれをそのままにせずに掘り起こして思い出したままに自分に活かしていくのです。

これは才能などとも同じで、もともと自分の中に備わっている才能を磨き開花させていくのに似ています。人間は感性が鈍ってくるともともとあるものを使おうとしなくなっています。例えばそれは冷暖房があるところにいると次第に肌感覚や体内器官を衰えさせ自分の内から体温調整をしなくなっていくのと同じです。

人は最初から自分のものを使おうとしないと、次第に他人のものでやろうとしていくものです。つまり自分の力を使わないでも済む方法にマンネリ化されていくのです。

だからこそ人を当てにせず、危機感を持って全ての物事に主体的に自主的に取り組んでいかなければ自分のセンスも永遠に開花していかないのです。成長が止まるというのは、実はこれのことで自分のもともとあるものを磨かなくなることを言うのだと思います。

それに加え今は教えられたや気づかされたという発想が通常ですが、ここでの気づいたことは一般的には足し算のようになっています。つまり気づきが足し算だと思っているのです。そうすると、気づいたのになぜか長続きしないと悩んでいます。しかしそれは私にとっては刷り込みで、単にもともとあるものに気づかず外から借りたものだったりして受身になったり流されたから感覚が鈍って使わなくなってしまっていたともいえるのです。

素直というものでも同じです。

そういうものがもともとあったのを次第にそうではなくても世渡りが上手いこと生きてこれたなどで一度その味をしめてしまうと素直が何かというセンスが衰えていくのです。本来はいつも正直でいることや素直でいること、直向でいることができているから自分の持ち味というのは生き活かされていくのです。

私もすぐにメソッドやノウハウなどに惹かれるときがありますが、その時は心の力、もともとの自分のいのちの力を使おうとしないでやろうと考えているときです。本来はやはり「覚悟」であろうと思いますが、そういうものが出ないのはまだまだ自分にとって都合のよいように身をおくからだと思います。

二宮尊徳に「飯と汁と木綿着物は身を助く。その余はわれを責むるのみなり」があります。

覚悟というのは、自分の内面から出してくるものですから常に内省と学び直しが必要です。

持ち帰ったものをそのままにするのか、それを正しく活かし続けるのかはその覚悟の力です。
そしてそれが長く続けば続くほどに、そこに信の一念が積み重なっていくように思います。

まだ見ても観得ていないことがあり、聞いても聴いていないことがあります。ドイツのふり返りをさらに続けていますが、御蔭でまだ発見が掘り起こされてきます。師友との有難いご縁とその道中に心から感謝しています。

しっかりと、覚悟から観て実践から感じて子どものための本質を貫いていきたいと思います。

気づきの本質

気づきというものは他人から気づかされるものと、自分が気づくというものがある。

気づきというのは、主体性が必用で自発的に先に気づくことを本当の気づきと言います。簡単にいうと他人からいつも言われてから気づくのは、それは気づきではなく気づかされたのだから受動性や他発的ではないという意味です。

気づきという行為は、常に自分で行うことで決して他人からさせられるものではないのです。

何かこの気づきに対して刷り込みを持っている人が沢山いるように思うのです。

そういう私も、ただ闇雲に本を読んだりセミナーなどを聞くと同じようなことになった記憶があります。自分が気づかなくても、気づかされるのです。自己啓発などもその一種ですが、自己啓発とは他己啓発ではなくあくまでも自分己の力を用いて気づくことを言うのです。

会社などでもそうですが、やらされる、させられるとなるのは、問題意識が追い付いていないときにいうのです。それは本を読んで本に追いつかないと同じで、自分の気づきが先に行っていないとどんなものを気づいた気になってもそれは分かった気になるだけで本来の自分のものとしての本物の気づきになりません。

なぜ本物の気づきが長続きして色褪せることなく自分のものになるのかは、そこに自分が気づいたという主体性があるからです。あくまで気づかされたではなく、自分の力そのもので気づくからなのです。もっとわかりやすくいうと、自分が全てを誰にも依存せず自分のこととして丸ごとやっているからです。

私はそれを同時に気づくという言い方もしますが、自他共通自他共生一体であるとき気づきは智慧になり互いを活かすように思うのです。

大切なことは、気づかされたではなく、自分が気づいたとなっているかです。
そしてそれは必ず実践を伴っているということです。

それが自分が気づいたことが気づかされたで終わらないようにすぐに行動するということであり、実践こそが気づきの本質であるのです。

学びの本質、いや本質的な学びというものが何かは気づきの質のことをいうのだろうと私は思います。今後も、子どもたちが気づきの幸せ、学びの歓びを成長の糧にでき自立を楽しめるように自分からそのお手本を示していこうと思います。

母国語と言霊

先日のドイツ研修でも母国語教育についてとても熱心になっているのを聞きました。
確か以前、オランダやフランスでも母国語を正しく指導する教科が入っていました。

今、食べ物をはじめアメリカの文化が流入し日頃の言葉づかいや生活までがもともとあったものから変わってきているようです。先日のドイツでも、ドイツの伝統的な古き善きものを大切にするというものから新しくて便利なものが広がっているのを実感しました。

何が大切で変えてはいけないものか、そして何を変えるのか、そういうものがよく精査されたものもその国の母国語によって形成されていると私は思います。

特に日本語というものは、言霊というように「有難う」「勿体ない」「御蔭様」をはじめお天道様の前にとても謙虚に生きたものや、また日本古来より素直に生きた先祖たちが生きた生きざまを学びそこから今の自分たちの生き方を習っていたのです。

つまり、国語というものは単に読み書きをするものではなく本来は先祖から代々受け継がれた生き方や思想を習うものなのです。どのような文化を私たちは生きているのか、その文化をどのように活かしたか、そういうものを学びその国の人の骨格を得ていくように私は思います。

その国語を教えるということは、その国語が使えるということです。

つまりその国の歴史や思想、また正しい言葉を使えるような生き方をするからこそはじめて国語は教え導き学ぶことができるように思うのです。単に知識として得るものではなく、それは日本という国を愛し、そして学び、そのものの文化を尊び謙虚に生きるということがそういうものではないかと思います。

私には恩師がいて、その方は国語を教えていた方です。

その人の生き方に触れてみると、とても日本のことを愛し、日本という文化と歴史、そして世界のことに精通し、融通無碍に歩んでいらっしゃいます。こういう人から学ぶ国語の中にこそ、真の母国語があるのではないかと思うのです。どこで育ち、どこで生まれたかというのはとても大切なことで私たちが先祖から脈々と受け継がれて魂や心を母国語に感じます。

自分たちの使っている言葉、その母国の言霊を大切にしていきたいと思います。

 

 

理の実践

先日、ドイツ研修の帰国の際に隣の席に座っていた栃木の老夫婦と親しくなった。

その老夫婦は、毎年、この時期にヨーロッパへ旅をするとのことで道中のお話などをたくさん伺うことができました。奥様には、玄米食の話や健康の話、教育の話などをしたり、またどのような人生の歩みをしたかなど話をしてくださいました。

また旦那様は、元々技術職を遣り抜かれて海外指導なども出てご活躍だった生涯のお話をお聴きしながら本物と偽物ということについてのお話を深めることができました。如何に本物の商品を創っても廉価版が出たり偽物が流通するということについていろいろと教えてくださいました。

これには考えさせられる善い機会になりました。

本物と偽物の違いということについては、色々な観方があるように思います。成功事例などもそうですが、嘘がないことをどれだけ持っているか、それが真実かということにどれだけ精通したか、原則や法理に則って取り組まれたかというものがあります。

偽物はあまりそれ自体が考え抜かれておらず本物をなぞるようにしていて、しかもよくその理由もわかっていませんが見た目をあわせてきます。この本物を見極めるというものは、そこには磨き抜かれてシンプルになった答えが必ず存在しています。ここでのシンプルさというものは、理に適うものが誰にが見ても明確ということです。

私はそれを理の実践によって表現することにしています。

もちろん違いが表面では分かりずらいのですから商品がさも本物のように語ることで人々を集めることもできますがそれではどうせ長続きしないからすぐに分かります。本物は理に沿って長く続くし、そこには王道ともいえるものが存在しています。私たちが取り組むソフトなども、発達という法理に沿っているから普遍性があるのです。

そして法則や法理に照らしているものは自然なのだから本物だと感じるように、同じく自然であることが本物だと定義しているのです。何が不自然かというものは、自然から照らせばよく分かります。

それが私の言う、自然をお手本にするということです。

さて、今回の旅では他にも行きの飛行機内ではせっかくなので久しぶりに日頃話をしない話をしようとして充実した会話をクルーとでき、帰国の飛行機内では栃木の老夫婦以外にもドイツ人の11歳の子どもに日本語を2時間も教えたり日本のことを伝え語ったりといった出会いに恵まれました。

あれから2週間の滞在予定とあったので、あの子はどのような体験を日本でして帰国してその人生に影響を受け与えるのだろうかと思うと、誰にせよ運によってその人らしい未来が開けているのを実感します。

このように旅の不思議は余韻にもあります。

旅の妙味と五感の余韻に心は遊び、それをまだまだ楽しんでいます。

シンプル

思想に遊び、本質でいるために刷り込みを取り除くのはシンプルを目指すからです。

シンプルというものは、全てのものがそぎ落とされ必要であるものだけに絞り込まれるともいいます。つまりは真善美そのままがそのままに顕われたともいえます。言葉では表現しにくいものですが、大変複雑なものを一つのカタチで表したり、一つの言葉で伝えたり、一つの道具で観得るようにしたりとも言うものです。

東洋西洋の垣根もなく、本質やシンプルさというものは人間が自然そのものになったというものに如何に近づけていくかということであるのです。特に今の時代のように複雑に生きている時代は、何が生きる事かということも忘れてしまっているものです。

もちろん山中で仙人のように暮らすのではないのだから、何が本質的に生きるのかということも考え抜かなければ自らの本質に近づくことはできません。周囲から分かりづらいと言われるのはそれだけ世の中がシンプルではないからでもあろうと思います。

何をしようとしているのかというのを、何のためにかを透徹するまで深め磨けばやっている実践はシンプルであることを証明するのですが周りにはそれが観えないだけであるのです。言葉も行動も思想も全部はシンプルであることが本質であるという証拠なのです。

アップルの創業者であるスティーブジョブスもシンプルに徹底してこだわった人のようで著書「Think Simple」に下記のような語録が残っています。

「シンプルであることは、複雑であることよりもむずかしい。物事をシンプルにするためには、懸命に努力して思考を明瞭にしなければならないからだ。だが、それだけの価値はある。なぜなら、ひとたびそこに到達できれば山をも動かせるからだ」

心を打つ言葉やカタチや行動には普遍性があります、それはその人が探求し已まない情熱で究めた真実が存在しているからです。そしてここでの到達するという場所そのものが本質のことです。

子ども達のためにももっと気づきに気づき掘り下げてそこから引き揚げ、本来の真理が観えるところをカタチまでへと昇華しかんながらの今へと辿り着きたいと思います。

そして世の中をシンプルに、商品をシンプルに、自分をシンプルに同時に一変していきたいと思います。

発見とブランディング

ものの観方というのは、その時の問題意識次第でどうにでも発見していくことができます。

どれだけたくさんの問題意識を持っているかで、一つのことを見ても一つだけを観ていないといこともできるのです。

例えば、先日のドイツ視察でも同じ施設見学をしますが自分がどのような問題意識を持つのかで観ているものは全く異なります。もちろん見る人でも違いますが、それだけではなく観る人の問題意識の量や質で無限に観え方は持てるのです。

つまり自分が日頃からどのような問いを持ち続けているかで発見していくものは異なるのです。だからこそ、その問いを持つ人たちとの同行での発見がすぐに互いの智慧になっていくように思います。

また同時に、自分自身がどれだけの問題意識と危機感があるかで情報の質量は変わってきます。本気で悩んでいればいるほど、上質な情報が入手できますし、心懸けがどのようになっているかでその観得るものも善くなるのです。

先日、ドイツ視察ではたくさんの発見があり持ち帰りましたが、自然のめぐりのこと、ふり返り響くこと、リアルというものの実験を含めて、せっかくドイツにまでいくのだからと五感を澄ませていたら発見ばかりがあった旅でした。

これも日頃の本気の問題意識が自分を助けてくださっているのだと思います。
如何に本気で実現させようと思っているか、危機感があるかで、心はいつも自分を助けます。

つまり発見があるというのは、そもそもそういうものを探しているということです。
自分が何を探しているのか、何を探そうとするのか、それが「問い」です。

問いがあるというのは、本来ないものを探しているのではなくあると信じているのです。
この差に発見発掘の本質があるのです。

先日のドイツ視察では、大変人気がある施設を視察することができました。

その施設の特徴は、ものや配置が雑然としておらず統一感と調和があり、配置も含めてとてもこだわりが明確に顕現されているように感じました。そこでは、リストを現場から集めてそれを運営メンバーで長期的に合致するものを探し出し配置しているとのことでした。

行き当たりばったりで物を揃えるのではなく、正しい順序、何のためか、どうすれば全体のビジョンやデザインに適うものができるかと、部分最適ではなく全体最適のために取り組むのです。

シンプルさというものは、長い時間をかけて余計なものをそぎ落としてできるものです。
そしてそれは、本物に近づけるという言い方もします。

どこに本物があるのかを発見するという旅路は、一生をかけて行っていくものです。
改善というものの本質は、シンプルにすることと同義であるのでしょう。

一緒に進めていく仲間がいることで、智慧も創意も工夫が生まれていくように思います。
問題意識を共に持ち合う人がいることが、道の友かもしれません。
有難いことです。

これからリブランディングについて本格的な取り組みがはじまります。

 

克己心

人は相手に要望することは、その問題が自分の中に存在することがほとんどです。

こうしてほしいとか、ああしてほしいとか、自己中心的になる時は何かの囚われの中にいるともいえます。 自分が望んでいるように周囲をしようとするのは、自分自身の中の何かが自分を変えることを拒んでいるとも言えるのです。

自分というものを理解するというのは、何よりも難しいからこそ他人の意見を素直に聴き容れそれを実際の現実に照らして観る必要があるのです。

知らないうちに囚われていくのだから、身近にアドバイスしてくださる方がどれくらいいるか、また自分からそれを確認することを怠らないかということが大切なことであろうと思うのです。

例えば、チームという概念があります。

チームには、情報共有というものがあり、御互いに知っておきたいと思う情報がたくさんあります。しかし、それが円滑にいくかどうかは自分自身の意識の壁を取り除けるかどうかというものがあるのです。

みんな相手に求めることを優先しますが、本来は自分がどう思っているかはチェックしようとはしないものです。何かを誰かと行う際も、自他を分けてこれは自分の仕事、あれはあの人の仕事と割り切ってやっていると協力していくことはできません。

全ての仕事は一緒にやっているのだという意識、自分側に一緒に取り組んでいるという気持ちがどうなっているのかをチェックしていくことが協力しようとしているかに関わるのです。なぜなら、相手に合させようと皆が考えるよりも自分から合わせていこうとする方が本質的な協力関係を築き上げることができるからです。

どうしても、人は楽をしてしまい自分の方を変えるよりも相手に変わってもらおうと要求してしまいます。それは、こうでなければならないはずという思い込みであったり、こうあるべきだという自分の価値観の囚われだったりするのです。

大切なことは、自分から一緒にやることになっているかという自分の意識のチェックを相手に矢印を向ける前に行うことができているかを常に自問することのように思います。自分を正していくということが、一番難しいのが人間のように思います。

私自身も焦ってしまい、何のためにかという本質を見失うと迷うこともありますが、自らに省みて克己心を磨いていこうと思います。

発酵~活循環の法理~

先日、クルーの一人が実家の新潟の上越市に帰郷した時の御土産に隣の石川県の特産の「ふぐの卵巣の糠漬け」を買ってきてくれました。

今年は発酵がテーマにしているので色々な発酵食品も食べていますがこの奇跡の食品と呼ばれるものを体験してなるほど深い味わいがあると実感し大変驚きました。

もともとふぐの毒性というものは大変な猛毒で、この卵巣一つの中のテトロドトキシンで大人15人が死んでしまうほどの強いもののようです。これを独自の製法を使い無毒化していくという過程に発酵が入っています。

つまり発酵が毒をも消し去るということです。

ここでは糠漬けの製法を使うのですが、いまだにその無毒化の謎は科学で解明されておらず世界でも類をみないほどの発酵の奇跡の力を証明しています。

そもそもこの発酵とは、微生物が協力し合って活動した代謝物であると私は定義しています。簡単にいえば私たちのいのちの営みで積み重ねた活きたエネルギーの跡です。

しかしこのミクロの世界にある営みそのものの役割分担が大変見事だからこそ、そのいのちのめぐりを通して私たちは大変な恩恵を受けているとも言えるのです。そこには分解しよう、もっと変換しよう、つまりは万物をさらに活かそう、もう一度、活かしあおうという力が働いているように私には感じるのです。

以前、発酵の学びの中でキノコをやりましたがこのキノコも菌の集合体です。生き延び菌糸を伸ばし飛散していくためにも形成し子々孫々へと繋がるために森を移動していきます。土の中には、様々な微生物が生活をしていてその代謝したものが肥沃な土となっていきます。

腐葉土というものも、枯葉が発酵することで大変な栄養分となり虫を活かし、植物を活かし、そして私たちの生活そのものを活かします。本来は活動を終えたはずのものが、地に落ちてそこからさらなる新たな活動がはじまり終わりなく循環される元になっているのです。

このいらないものがないということ、捨てるものがない、つまりゴミなどは存在しないと証明するものもまたこの「発酵」というものであるように思うのです。このふぐの卵巣の糠漬けに観えるように、本来ならば毒であるものが美味しい食品に様変わりするのです。

こんな料理の方法があるということ自体が、自然の叡智そのものではないかと私には思えるのです。要らないものなどはない、その活かし方によるものだという考え方は私たちがここまで生き延びてきた智慧なのかもしれません。

今の時代は、不足が不足していると言われる時代で何かあればすぐに買い替えるや捨てればいいと安易に身のまわりのものを粗末にしていきます。しかし、昔はどんなものにもいのちがある、どんなものにもお役目があると何でも大事に扱ってきたのです。

八百万の神々がいらっしゃるのですからと大切に大事に接してきたのであろうと思います。そこに日本の心、かんながらの道も覚えるのです。発酵というものは、万物を活かそうとする私たちのいのちの道であろうと思います。

発酵とは活かし続ける力、循環する源、私たちが自然の一部である在り方そのものなのです。

まだ古き善き心が残っているものをもっと掘り起こし見つけ出し、この思想や生き方を伝承していきたいと思います。素晴らしいキッカケがあったことに心から感謝しています。

ふり返りでふり還る

先ほど無事に帰国し、帰宅して今は一休みしています。

今年も色々と学びがありましたが、ふり返りについて深めることができまた有難いご縁をいただいたことに感謝しています。

ふり返りという言葉は、その意味を自分で掴んでみるとその体験したものに気づくことで現実のものに換えるということができます。例えば、日々の起きる出来事を同時に省察したり熟考したり内省をしているから今、何があっているのかを自覚します。

よく忙しいからといっては流される人は、単に内省をする癖がなく内省をしないからまた次の日には次の日の経験が上書きするから理想と現実の間がどこであったかもわからなくなるのです。時間は有限ですしご縁は紡いで積み重ねるのだから大変勿体ないことと思います。

もともと内省するのは、自分が体験した気づきを現実世界に投影していくために行います。
それが生きているということですし、人生で学んでいるということです。

この体験は一体何だったのか、これをするのはなぜか、何のために行うのかと本質という理想と現実の間に観える中庸の世界、つまりは「本当の自分の今」を正しく認識できるのです。

よくズレたとか、また刷り込まれたとかいう人がいますが、単に内省が不足しているだけです。

例えば一日をどう過ごして何に気づいたか、あれは何かをふり返ればその意味が何に繋がっているのか、そしてどのようなカタチになっていくものなのかを気づき、その気づきをまた深めて真実や本質に辿り着くのです。

人生は生きていても、ふり返りをしなければ実際には仮想の世界で生きているようにしているだけのこともあるのです。だからそうやって日々にふり返りつつ歩み続けることを正しい実践というのです。実践をしたかどうかとかするかどうかではなく、これは実践できているということはちゃんとふり返りという内省をしましたよという意味であるのです。

せっかく生まれてきたのに、内省しなければ業務をこなすかのような日々になってしまいます。人生は短いのだから、時間を惜しんで学びをしていきたいと思うのが人情であるはずです。

それに人間はふり返ることで、本当の使命にふり還ることができるのです。
言いきれば、ふり返りのない人生は自分の人生ではないのです。
自分の本当の人生にふり還るのも体験した気づきを内省し実践することで観るからです。

どんな事情があったにせよ、忙しいからふり返れないとか、ふり返る時間がとれないとか言い訳をするのではなく、そういう時こそ離れたところから主観的な自分と客観的な自分を重ね合わせてもう一度自分を省みて本来の自分の姿のままでいるための実践が人生の陶冶でもあります。

もし流されふり返りをしないで生きてると、あっという間に体験も気づきも学びのキッカケも過ぎ去ってしまいただ時間が流れます。

この人生は一度しかない一期一会なのだから、体験や時間が過ぎ去るだけになるのはあまりにも勿体ないのです。二度とないこの人生を深く味わい尽くして体験を感じて学びの実践を大切にしていきたいと思います。