情報とコミュニケーション

コミュニケーションの語源をたどると、ラテン語のコミュニカーレ(communicare 共有する)やコムニス(communis 共有の)などが出てきます。

もともと対話などとも訳されますが、本質的には互いに共有することをいうのです。

そしてこの共有とは何を共有するかは、信頼であろうと私は思います。

人は信頼関係を維持するために情報を共有するとも言えます。また逆に情報共有がなければ信頼は積み上がっていくことはありません。ここでの情報とは、表面上の情報だけではなく同時に発生する自分の感情などについても共有していくことではじめて信頼が生まれていくのです。

現代の社会は、自分の感情を交えると叱られるとか、感情を仕事に挟むななどと指導されたため一般的には感情は口にも態度にも出してはいけないといわれる傾向があります。またそのためか意図的に自分から感情を抑制して隠して出さないでいる人もいます。

これもよく勘違いされるのは、ネガティブなことを言わないというのはものの観方を変えるために言われている言葉であり、感情を出してはいけないと言っているわけではありません。もともと現実がどうにもならないのだから弱音や愚痴、文句や批判をしたりしてもどうにもならず、それを、如何に善転していいことにするかを考えなさいといつもアドバイスされているのです。

またその際に感情を抑え込む人がいますが、感情を抑え込むのではなく感情を転じてコントロールする方法を身につけるようにして自分を活かしなさいということを諭されているのです。

一昔前は、日中に仕事で感情を挟まなくても夜になれば飲みにでも行きそこで感情を語り合うことで融和しともに信頼関係を築いていたものです。しかし今は、そういう信頼がなくても結果さえだせばそれでいいと勘違いし信頼関係を築くことを優先しないようなつながり方が楽だと勘違いしてしまっている風潮もあります。

人間は互いに信頼を築くことではじめて協力し合うことができます。

そしてそこに至るには確かな共感というものが必用で、そのためにも情報を互いに共有する必要があるのだと思えるのです。この時の情報は、本来は人間がオープンにいるときの素直な感性や感情をあるがままに共有しようとするものを言うのだと思います。

人は居心地が善いところでオープンになれれば自分の長所や強みを存分に発揮し他の弱みに貢献し自由に助け合うことができます。如何に自らが相手を信頼するかは、自分から頼り信じることができる関係を日々にどう構築していくかによるのです。

人間関係は互いに無理をするところから破たんしていくようにも思います。

何を出しても大丈夫と思えるには互いを推測し合ったり疑心暗鬼になるような関係にならないように本来アウトプットしていかなければならない情報を自分だけで持たないようなことから配慮することのように思います。

共有するということや、共通理解するということは人類生存の鍵です。子ども達にもその大人たちの背中を見せてあげて、確かな生き方を示していきたいと思います。

 

 

美しい思い出

二宮尊徳をはじめ、代表的日本人を世界へ紹介した内村鑑三が遺した言葉がある。

『後世へ遺すべき物は、お金、事業、思想もあるが、誰にでもできる最大遺物とは、勇ましい高尚なる生涯である。』

これは、別の著書で2つの講演を記録した「後世への最大の遺物・デンマルク国の話」の中で語られたものです。

死を思うとき、何を遺せるかと思えばやはりその生き方であると思うのです。

どんなことを為したか、どんなに裕福になって偉業をなしたか、誰がやったか思ったかということでもありません。人はどのような人生であったにせよ、どのように素晴らしい生き方を目指したか、どのように素敵に生きていたかということが、子々孫々へ遺せるものではないかということに思えるのです。

日々に内省し、ものの見方を転じ、かんながらの道を歩んでいくなかで実感するのは先人たちが遺してくださった大切な生き方であろうと感じるからです。孔子もブッダも神話の先祖も、すべてはどのような生き方をしたかということを遺してくださっているのです。

私たちは亡くなったものたちから何をいただいているのでしょうか。
そして今生きているものたちから何をいただいているのでしょうか。

それはこの地球上で息吹く間のこの世でのいのちの在り方、生き方であるのです。

すぐに私欲や私心から、形ばかりを遺そうとしてしまいますが欲や心を清めて澄まし、魂の声に耳を傾ければ、美しい思い出を遺したいという感情が湧いてくるのです。

最後に、内村鑑三はこう続きます。

『われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。』

このいのちは全体につながっている中で巡っているのだから、子ども達に譲っていけるのは何よりも美しく生きたその物語、そしてその人の思い出そのものかもしれません。私たちはそこに確かな希望を得て、よりよく生きることを目指していくことができるからです。

私たちが譲られた美しい思い出を、子ども達にも譲り渡していきたいと思います。

 

自然でいること

イキイキしているかどうかの判断基準に、そのものらしいかというものがある。

野生に生きている生きものは、自然界で自分らしく生きているから生命力に漲っているように観えます。海や、川などでも天然で生きている魚も養殖のものと違ってその魚らしさが漲っています。動物園の動物と、実際の野生の山に棲むものも同じではなく自然界に棲むものはやはり漲っています。

野生で生きるということは、そのままでいるということです。つまりはいのちや生きる力はそのものらしくいるということに本質があると思えるのです。

人が元気をなくすのも、いつまでも何かに縛られ囚われるのも、すべてそのものらしさという徳のようなものが顕われてこないからのように思うのです。

そのものらしくというものを忘れている人が多いように思います。そのものらしくとは、信じること、頼ること、つまりは共生しているということであろうとも私には思えるのです。

今の社会やこの時代の環境がそのものらしさを認められないような世界であれば、そこに棲むものたちは元気を失っていくものです。自然ではなく、人工的につくられたものの中では主体は自分そのものではなくシステムのようなものが優先されていくからでもあります。

人工的なものは基本的には、自分の思い通りにしようと思うばかり、天や周囲のすべてを信頼することよりも現実的なところに焦点をあてられているものです。

そうしているうちに、頼り合っている姿よりも、頼らないでもいいものを追及する世の中になっていくのです。特に通貨などができてから、経済効率を優先するようになってからますますそれは顕著になってきているようにも思うのです。

私たちは果たして今のような価値観が幸せであるのかということに向き合う時代に生きているともいえます。

自然はいつも信じる事で頼り合うこと、頼り合うことで信じる事と共生の理念に生きています。

まだまだ自然の実践現場にて深めていこうと思います。

信頼するということ~心の在り様

先読みと先待ちというものがある。

先読みができるとうのは、将来に何が起きるのかを予想しているということです。ありとあらゆることを想定して、どのようになるのかを見通しているからこそできるものです。

考えられるすべてを想定して心で配慮し、その通りに行おうとするときこの先読み力が問われます。しかしこの先読みは経験や体験の中で気付くことであり、責任感などに裏打ちされて強くまた繊細になっていくようにも思います。会社でもホスピタリティと言っていますが、どれだけの気配りと配慮ができるかでその信頼の絆を深めていくことができるのです。

もう一つ、先待ちというのがあります。

私は直観系でシンクロニシティを感じるタイプなので、きっとこちらの方が強いように思います。

これは将来起きることを事前に知覚しそれを待つというものです。

自分の人生や運命を信頼して、必ず光が当たりお役立ちできる日がくるのを信じて必要な力を醸成し準備を怠らずに待っているということです。これは、信仰心があるからだと思いますが世間は正しい、天は正しい、すべてのことは正しいと素直に信じるからこそ信じているともいえます。

一般的に人は先に確証がなければ動こうとはしないものです。

何かをやろうとすると、計画を出してや結果を見せろなどと、何でも現実に存在しているものを基準に信じるか信じないかと確認してからどうするかを決めているように思います。これも科学で証明されたものしか信じないという用い方をしますが、例えば脳科学でそうなっているから信じられるや、学術的に研究され解明されたから信じるというように、まずは奇跡や真理というものに接するときは疑いの眼差しから入っているのです。

しかし実際の世の中で起きることは、宇宙を丸ごと理解するのと同じようにほとんどがすべて人智を超えていることしかおきておらずそれを信じるかどうかというのはその人の心の在り様によって左右すると思えるのです。

全ての人生、全ての出来事を信じることから入るのか、疑うことから入るのか、それはその人の心の在り様だと思いますが如何に自分から周囲を信頼するか、しないかはとても生涯において人との関係を築く上で何よりも生き方として大切なように思うのです。

実際には人間関係の中にも、相手に対し疑心暗鬼になっていて約束も守ったら信じるというような接し方をしている人が多いように思います。結果を出したらはじめて信じるという具合に、信じる前があり信じられないことが前提で接しているのです。本来はそうではなく、守ろうが守るまいがご縁を信じる、出会いというものを信頼しているということが良好な人間関係を築くことになるのだろうと思えるのです。

人間関係だけではなく、信頼というものはすべてにおいて必要です。

先待ちができるからこそ、理念を掲げて信念を持って優先順位を決めて実践を継続していくことができるのです。なぜなら、将来を信じているから、信頼しているからそれがやれるということなのです。人はすぐに自分の思い通りではないと気が済まないとなんでも自分都合で諦めたり悩んだりするものです。これは単に信頼しようとしないのです、信じるということよりも疑う方が楽だと思っているからです。

しかし本来は、それも一つの通過点、ちゃんと最終的には思った以上のことを用意してくださっていると分かって信頼しているのだからワクワクドキドキと日々を楽しみに過ごしていくことが心を高めていく精進のように思います。そしてその心境があってはじめて先待ちなのです。

先読みも先待ちも、どちらも心の力を使わなければできないものです。

読めないのも待てないのも、それは心で観ようとすることができないからのように思います。
心が安定し穏やかで、心が落ち着いているのも、心で観ようと、心を大切にしているからです。

人間学を学ぶのも、そういった心の鍛錬、心の練磨による穏やかな境地に達するために続けていくのだと私は思います。子ども達にも、信じるということの大切さ、周囲を信頼するということの偉大さを伝承していけるよう実践を深めていきたいと思います。

人類存続の危機

当事者意識というものを考えてみる機会がありました。

これは簡単に言えば発生している問題が自分の中のことにするか、自分の外のことにするかで意識というのは異なってきます。

例えば、テレビのニュースなどで災害や事件などを見ていながらそれは別の人で起きているのだからといって自分のことではないとどこか傍観しているという姿勢が自分の中に存在していると思います。

何を見ても何を聞いても、それはどこか自分と離れた遠くで起きていることだろうと思えてしまっていて別に自分には関係がないと思っているのだから情報が日々に入ってきてもまるで他人事のように感じているのです。

こういうのは国家でも会社などの組織でも同じことが起きていて、自分の国家や会社がピンチであるのにそれをどこか自分とは関係がないところで見ている自分があったり、何かの問題を解決するのは自分がやるのではなく誰かの仕事だと勘違いして自分のことになっていなかったりということがあるのです。

先延ばしや先送り、または知っているけれど何もしないし、気づいていてもそのままでも気にならないという感性はすべてこの当事者意識が欠けているということになるのです。

極端な言い方かもしれませんが、自分の人生のすべては自分に起きている全ての出来事であるのは自明の理です。情報というものも、どんなニュースも、どんな環境の変化も、全てはご縁として実際の自分の身に起きていることであるはずです。

先日ある組織の相談をのったときも、職員は園長へ不平不満ばかり言いますがあなたが園長だったらどうしますかと聞くとみんな黙ってしまいます。これも当事者意識が欠けていて、もしも自分が相手だったらもしも自分が相手の立場だったらと考えているのなら他人事ではなく自分自身がそれを解決する担い手なのだと気づくことができるはずなのです。

どこか相手任せにしてしまうのは、自分から任命されることが大変だから避けたいという気持ちがあるからではないでしょうか。もしも相手の出来事が自分に降りかかってきたとしたら面倒くさいや大変だ、やりたくないし巻き込まれたくないと、無難な方を選択している気持ちがあるからではないかとも感じるのです。

便利で楽を選べば得だという発想は苦しいだけで、大変だけど明日は我が身なのだから自分のことだと思って自他の別を持たず真摯に苦しみを選べば楽しむことができるように思います。そんなのがいいと思っている価値観が横行しているのは今の時代の特徴かもしれません。努力して精進したからこそ手に入る価値があるという昔のものは失われてきているかのようです。

しかし、どんなことも全部他人のせいにしていたら、では自分は何をやり遂げたのか、自分は何を遣ったのかということになってしまいます。最初から誰かがやっているのを手伝っているだけで自分がやっているわけではないのだからという姿勢そのものが、自分の持っている力をつかわないでいようと楽で便利な方を選んだという結果になっていくのです。

人生の当事者は自分であるということ。

そして自分の人生は自分で切り開くという強い情熱が、今のように甘い環境に恵まれた中ではとても大切なことのように思うのです。昔は私もそれが嫌で、わざと厳しい環境に身をおくことによって逃げ道を断っていましたが今は逆にこの甘えた環境の中でどれだけ自律することができるかということが大切だと実感しています。

それは自分の人生は誰かのものではなく、主人公は自分だとすることが当事者意識のように私には感じるからです。他人事なんてあるわけないと信じているからだろうと思います。

最初から妥協することが前提でやっているのでは、人は誰しも本気になれるはずがありません。全部の問題は自分を鍛えてくれる磨いてくれるとし、使命をいただいたのだから任命されたことで世界のために貢献しようと思う志が何よりも当事者意識を高めてくれると私は思います。

そしてそこには共感力、つまりは人類の存続に必要不可欠であった人類の得てきた至宝の智慧、つまり「繫がりや絆」を強くすることに関係しているように私には思えます。

今の時代は何が欠落してきているのか?、何が人類存続の危機なのか?

どうもそこには当事者意識という名の共感共生力の欠落、繋がりや絆の消失そのものが見え隠れしているように私には思えるのです。これは身近な組織の中にも侵食してきているのだから早急に気づいて早期に手を打たないといけません。

この辺は、まだまだ深めてみようと思います。

天与の才、天与の心

人はつい油断すると傲慢になって自分の存在に驕りが出てくるのものです。

例えば、自分の力というものでもそうであろうと思います。

もともと自分の力は自分でつけたものだと思っている人がほとんどですが、実際はその力は何かによって与えられたものです。例えば、両親によって身体が与えられ、たくさんのいのちをいただきながら維持し、天地自然の中で私たちは生命を持続させていくようにその自分の力というものも同じく天から与えられたものであると思うのです。

自分というものを私物化するところから、傲慢さというものはでてくるのだと思います。

その延長が国家であり、組織であり、資本主義の課題でもあろうとも思うのです。

もともと自分のものと思うのは、それが私的なもの、つまりは私物であるというところから問題が発生するのだと思います。これがもしも自分や自分の能力、才能はみんなのもの、自分は公器であること、自分のお役目は皆さんへ貢献することだと気づいていればいつまでも謙虚さを失わないようにも思うのです。

会社も自分の私物にし、仕事も自分の私物にし、時間も私物、気づきも私物、何でも私物化すればみんなと一緒に何かを行うずっと以前に自分勝手に自己中心的な人たちなのだからいつまでも同化せずにバラバラになってしまうと思うのです。

すべてはお借りしているもの、いつかはお返ししないといけないと正しく思っていたり、もしくはこれは天から頂いたものだから皆さんに活かさないといけない、または有難い能力を授けてくださったのだからお役目を果たそうと思う心にこそ、素直さや謙虚さが働くようにも思います。

それが一人はみんなのために、みんなは一人のためにの本質であろうと思います。
つまりはもともとは自分もみんなも個人の私物ではない、公物、みんなのものという意味です。

今の時代は、何でも自分のものかどうかということをはっきりさせる世の中のように思います。だからつい人は自分のものばかりにしようと躍起になっているようにも思います。しかしもともとは自分だけのものにしていいはずがないのです。

子ども達だって、子どもたちは天から与えられた大切な宝でもあります。そして自分の子どもではなく、子どもたちはいのちの中のみんなの子どもであるのです。だからどんな子どもも大人たちは育ちを見守っていく必要があるようにも私は思うのです。

そして話を戻しますが、この自分自身で生来からいただいたこの力も祈りの中で磨かれ授かったものですし、真摯に志を実践し、一期一会の真心の出逢いによって顕われてきた天与のものであろうと思います。

つまりその天与の自分、天与の才を如何に多くの人達の役立てていくか、それを思うとき私物としている自分を内省し、これでは宝の持ち腐れになってはいないかと姿勢を謙虚に見つめ直さなければならないのではないかと反省するのです。

この天与のものを活かすとは、天与のものであるという自覚によって生まれると思います。
いつも天の心を感じていたら、心が震えてきます。

忘れないためにも感謝の気持ちをカタチにしていきたいと思います。

体験の意味づけ

人は体験を共有することで思い出というものを分かち合うことができる。

思い出というものは、御互いが同体験をしそこで意味づけしたものこそが共に分かち合ったものになると私は思うのです。

毎日は流れていくものです、それは時がそうなっているように自分の知らないところで最終的な目的地に向かって流されていくともいえると思います。生まれれば、必ず死に向かって流されていくのと同じく最終的なゴールに向かって突き進んでいるのです。

よく流されてしまったと悔いている人もいますが、流されることが悪いことのように思っています。私はそうではなく、流されることではなく流れていなかったことが善くないのではないかと思うのです。

例えば、川に船を浮かべて旅をすれば川下に向かって船も進んでいくものです。そこで観えた景色やそこでの体験というものを意味づけし味わおうとはせずに船着き場へ到着してしまったらそこでの旅は何を学びそしてどうだったかということになるのです。

そこで一緒に旅をした仲間との思い出、そこで一緒に体験した素敵な思い出、苦しみもまた楽しみも悲しみも、どんな些細なことでもこの無二の旅を楽しみたいと決めていたならば大切なのはゴールすることではなくそのプロセスの方であったと誰でも気づくことができるのです。

そしてこれは体験の意味づけにこそあるように思うのです。

みんなで体験したことをどれだけ沢山の人達と意味づけしそれを共有するかで、思い出の質も量もかけがえのない美しいものにしていくことができるように思います。

日々の出来事ひとつひとつを気づき掘り下げ、それを流れながら意味づけるということこそが人生の点を線にして面にするような生き方であろうとも思うのです。

生き方というものは、如何に日々の出来事を大切に過ごしていくか、如何に流れることを味わうかに尽きると私には思えます。

そういう旅を一緒に味わえる人たち事がパートナーであり、朋であり仲間であろうと思います。

体験の意味づけをしつつ、これは本当は何かという連続の中で様々な真善美に気づいていこうと思います。

最幸の流され方を楽しんでいきたいと思います。

最幸の仲間 人間とは

人は一人で頑張ろうと無理をすると仲間を頼ろうとはしなくなるものです。

仲間を頼るというものは、一人でやらないということにも繋がっています。

頼れないというのは、信じる事が出来ないということの裏返しでもあるのです。困ったことがあれば、仲間に相談することや、悩んでいることがあれば仲間に吐露すること、苦しみがあれば分かち合うことではじめて人は信頼関係を築き上げていくことができるのです。

もちろん信頼には誠実さというものがあり、自分にも他人にも正直にいることが重要で自分自身への信頼度合いこそが他人への信頼度合いになっていきます。ですから、自分に克ことができている人や、自分を尊重している人、自分に素直な人ほど周囲から認めてもらえるのです。その逆に、自分を認めない人や、自分に甘い人、自分を蔑む人や、自己中心的な人、自分に厳しすぎる人はかえって周囲から信頼されにくくなってしまうのです。

これらはすべて一人で頑張るという悪循環から生まれてきているようにも私は思います。

責任というものは一人だけで取れるものなどほとんどありません。社会の一員、組織の一員、会社でも一員である以上、周囲を頼りにしながら任された使命を正しく成就実現していくのがその責であると思うからです。それが社会人の自立ということになるのだろうと思います。

自立ができずすぐに自分が負いこまれてしまう人は、自分が全部一人でやらなければならないと思うばかりで仲間に頼ろうとしない、助けを求めない人に多いような気がしています。つまりそんな過酷で孤独な状況になってまでも自分一人を自分一人でいつまでも責め続けているのです。これはもちろん、トップダウンの組織で育ってきた過去があったり、それを誰かにやられたりと、今の白黒はっきりさせる単眼的な社会の中でトラウマ的に自分がそれで傷ついてきたからだとも感じます。

しかしだからこそ、自分を変えてもっと仲間を信じる事や、もっと自分を見守る人を信じる事、もっと周囲の温かい真心に自分を委ねながら取り組むことなどを通して、決して自分から一人ぼっちにならないように常に意識していくことが自立にはとても大切なように思います。

それがチームの一員としての自覚、つまりは仲間を信じるという黄金のルールになるのです。

会社でも自分から仲間を頼っている人は、常に仲間に遠慮なく頼れますし、自分も頼りたいのだから日頃から頼られやすいように情報を共有したり、御互い一緒にやっているというメッセージを発信しあったり、些細なことを助けてもらっていたりと日頃から何かを頼みあっているままに働いています。

一人で頑張るよりも、仲間に頼る事の方が本来は勇気がいることだし素直であることのように思います。信じるという実践は、もっと仲間を信頼していく実践からのように思います。一人でできるようになることが自立ではなく、仲間をつくりそこに頼りあうことができるようになってはじめて自立であることのように思います。

遠慮なく頼れる関係が持てるよう本音や本心がでているフラットな絆を紡ぎながら、日々に「自分たちは最幸の仲間なんだ」ということを決して忘れないようにしていきたいと思います。

人類は、人間は仲間を創ることができてはじめて自立するのだと私は確信しました。

子ども達のためにも、仲間を信じることの尊さを自らの実践で伝えていきたいと思います。

希望

人は自分の与えられた環境を本人がどのように捉えるかによってその人生もまるで変わってくるように思います。

例えば、それがどのような状況であろうともその人がどう感じているかによっていくらでも最高でもあれば最低でもあるように変化してしまうからです。

そしてそこには2つの選択、希望と妥協というものがあるようにも思うのです。

何か理想を掲げて取り組む時、それを自分が先に諦めることは妥協を選択したともいえます。それは「どうせ無理」からはじまるあの言葉のことであり、人が希望を捨てる時に使う呪文のようなものです。

人はいつ負けてしまうのか、受け身になって自分らしさを失うかと言えばこの妥協に甘んじるときに負けたのです。人はどのようにして今まで自分を貫き人類を存続させてきたか、私はそれは希望だと思います。そして希望あるところには、必ず勇気というものがあります。人はできたかできないか、やれたかやれなかったかの前に、その選択に希望を失わなかったかということが何よりも大切だと思うのです。

いつだって希望は、私たちを心から支え、どんな試練にも立ち向かわせるパワーがあります。

どんな時も希望はまだあると信じて取り組んでいたら、そこに必ず未来が開けるキッカケが訪れるようにも思うのです。そこまで待てるかどうかというものが、信念ですがその信念にはやはり希望を失わないことではないかと思います。

人は何度も何度も挑戦するうちに、それでも失敗が続くとすぐに希望を諦めてしまうようになっていきます。特に同じようなことが起きそうなシーンが来たら、またかと思ってしまいその時に勝敗が決してしまうように思います。

私も昔のバレーボールの試合で何度も同じパターンになったときに、負けが入ったことがありました。その時こそ、ピンチをチャンスにと打開してチャレンジすることで希望を捨てなかったように思います。

今の日本の社会は失敗を嫌いますし、一度でもうまくいかないとすぐに切り捨てるような厳しさがあるように感じます。それはやはり希望を見失っているからではないかとも思うのです、自己肯定感とか何かを言う人は沢山いますが、私は今はそうは思っていません。

この国に必要なのは「希望」ではないか、子ども達に本当に必要なのはやはり希望だと。
私はそう確信するのです。

その希望をどのように育てるか、希望を与えるかは、自らの生き方で示すしかありません。道のりは長く、そして果てしないのですが、正義のヒーローは希望とともにこの心にいると信じて取り組んでいきたいと思います。

 

好奇心は魂の道しるべ

心が遊べばどんなことへも好奇心を抱き、様々な「なぜだろう?」という物語を楽しめます。

この「なぜだろう?」と永遠に探求し続ける事ができる人は、必ずいつの日か真理に到達してその人生の妙味や意味を深く味わって楽しむことができます。この好奇心があればどんなことがあってもその種が芽をだし生長していくように、ぐんぐん伸びていくのです。

私の体験でもそうですが、今でも自分を駆り立てている力の泉は無限の好奇心です。

このままやっていたらどうなるのだろう?、この先はどんなふうになるのだろう?、これはどうしてこうなるのだろう?と、いつも心は自由に遊んでいてそこには悪意もなく邪気もないのです。そしてそれが子どもであると思うのです。

人にはその人にしかない興味や関心というものが必ずあります。

その人がもっとも興味関心があるところにその好奇心の種はしっかりと眠っているのです。

ひとたび何かのキッカケ、その出会いによってその周囲の土が潤ってきたり、光がさしたり、風が吹いたり、その季節が訪れたなら、好奇心という名の魂が次第に恐怖や不安よりも冒険したいという気持ちや、挑戦したいという気持ち、オモシロイという気持ちに転じて後押しし、勇気と遊び心が同時に沸々と湧き上がってくるのです。

つまり子どもは何にでも興味を持つように観えますが、私からすればそうではなく自分が興味関心があるものを探しているのです。

この好奇心という名の魂は自分の人生で求めているもの、今回の生で望んでいる魂の問いかけに応えようと自らが様々なものに興味関心を持つことでそれを探し当てようとしているように私には観えます。

外の世界は目に見ているところは複雑怪奇にできていて不思議なことばかりに心を奪われてしまいそうになりますが、自分の好奇心に素直になって委ねていたら次第に心が澄んできてその先に魂の道しるべが顕われ、そして自分の本来の居場所ということが自明するように思います。

好奇心は真実を求めていくための大切な魂の道しるべ。

これからもワクワクドキドキしていきながら、自らのビジョンを楽しく描いていきたいと思います。