実体験こそ

素直に思えばこの世の中はおかしなことに満ちています。

そのおかしなことに気づかないことで様々なおかしなことが起きていることに気づいている人は多くはありません。私たちが特に悩み混乱するのに、教わるというものがあります。朱子学や陽明学などではないですが、昔から知識が先に横行するようになると、同じような問題が発生しそのことから真実を解明していくような葛藤は何度も繰り返されるのです。

特に今の時代も同じく、様々な情報が先に行き渡りそれを体験する量が減っていくという現象が起きているのです。

何かの立派な経典みたいなものも、それは体験するうえでの指標のようなものの一つであり別にそれを記憶して暗記してそれをテクニックとして使うようなものではないのです。

学校でも今は先に答えを先生が用意して、生徒がそれを答えるという教え方をしていますがこれでは実際に人生で役立つことを学んでいるとはいえません。人が共に生きるということも、それは単に知識として教わってできるのではなく、それを実体験して自分のものにしたからできるのです。

そしてその実体験というものが、生きる力というのです。
生きる力を育むとしているのに、子どもに体験させないような教育というはおかしなものです。

先日もおかしなことに気づいたのですが、言葉というものを考えてみてもそうです。

人を深く愛するという言葉一つでも、どのようにすれば深く愛するのですかとは学校でも先生が言葉で具体的に教えることができます。例えば、相手の気持ちになってや、その人の身代わりにや、証明するような犠牲を払ってもなど、言い方なども多種多様に話をしますがそんなものは実際に自分が深く愛するような体験をしなければ分かるはずがないのです。

それを先に知ってしまうことで、何かメリットなどはあるのでしょうか。
脳で疑似体験したものにはその人の真実はありません。

自分の人生の中での愛というものは、それぞれにまったく異なるものだからです。 しかし今は誰もが愛といえば知っていることになるのです。ドラマやテレビの影響もあるのだと思いますが、先に知ってしまうのです。

この先に知るというのが答えを先に聴くというのと同じなのです。

その時点で自分にはできるやできないと判断してしまい、自分の思い込みで選択すると純粋にそれを実体験する機会を失ってしまうのです。答えを誰かが持っていると思えば人は間違っているのではないかと不安になるものです。

答えというものは、本当はないのです。

誰かの答えをなぞるように生きるのは、単にロボットや機械のように操作されて生きるようなものなのです。そういう教育に負けてしまっては、人と生きる幸せや人として感動して感激するような生々しい生身の自分を味わっていくことができなくなるからです。

今は、特に自分からそういう刷り込みに負けないような力を持っていなければなりません。
つまりは得た知識を常に自分から消去し続けるような実体験を積んでいくことが肝心です。

自ら恐れずに目標を定めて行動するとき、はじめて力がつき育つ歓びを知るのです。
育つということは、とても幸せなことでそこには感じて掴みとるという味わいがあります。

生きているという実感は脳みそだけでは得られず、それは心で感じるからなのです。
知識が心の出番を奪うような教育は、幸せを目指しているとは言わないのです。

自分から自主的に主体的に人生を生き切る人は、誰の意見もどのような答えもそれは冒険心を駆り立てるワクワクドキドキするような好奇心の一端にしかならないのですからどんどん積極的に心の赴くままに実体験を求めていくことだと思います。

誰も分からない世界は自分から掴み取る。
好奇心こそが、今の世の中を変革する大きな奇跡になると思います。

子ども達を信じます。

 

歩む

本人が本当に幸せかどうかという基準がある。

誰かが決めた人生や、誰かから期待されるような自分では本心の底から幸せを実感することはできません。

今の自分が本当に幸せかどうかは、自分で決めた自分の人生を生き切る時にこそ感じることができるのです。人は皆の幸せを望むことで、沢山の人達からリーダーだと認めてもらえるようになるものです。しかしそれは、自分がそうしたいからやるのか無理をしてやるのかでは同じやっているのでも意味は異なります。

自分自身がこうあらなければというものは、自分の感情や自分の本心からやろうとするのでは楽しみも歓びも異なってくるのです。これで幸せなはずだと言い聞かせるようになっているのならそれが自分を我慢しているという証拠であるのです。

いくら周りから見て幸せそうに見えたとしても、幸せは本人が決めるものです。

満足する生き方をするというのは、自分で決めたことを遣り切るときにこそ実感できるものです。それをどこか誰かのせいや何かのせいにするのは、どこか素直ではない心が出ているからだともいえます。

人は素直になれば、全ての問題は自分にあると気づき謙虚に見つめていくことができます。
そうではなくどこか素直になれないとやはり問題を転嫁して気づくこともなくなるのです。

自然美というものがあります。

それは自然の中で自然に生きるものが美しいと感じるようなものです。
あの草花もそして木々も、様々な虫たちも一生懸命だから美しいのです。

自分を生きることを我慢しているものはどこか元気がないので美しく感じません。
生長するというのは、常に自分の全身全霊を発揮することです。

そしてそうして新しい一歩を歩むと決めて歩む時、幸せを感じることができるのです。

最後に水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」の歌詞を思い出しました。

「しあわせは 歩いてこない だから歩いて ゆくんだね
一日一歩 三日で三歩 三歩進んで 二歩さがる
人生は ワン・ツー・パンチ 汗かき べそかき 歩こうよ
あなたのつけた 足あとにゃ きれいな花が 咲くでしょう
腕を振って 足をあげて ワン・ツー ワン・ツー
休まないで 歩け ソレ
ワン・ツー ワン・ツー ワン・ツー ワン・ツー」

同じ気持ちで変化を怖がる人たちへ応援メッセージを発信していきたいと思います。

性根

以前、樹木医のことでこのブログに書いたことがある。

樹のことを診断するのにその根がどのようになっているかを診断するのです。
そこで地中の様子を観て、その根に合わせて環境を整えるというものです。

これは樹だけではなく、すべてのいのちに関わるものはすべてその根っこがどうなっているのかを洞察することで判断していくことができるものです。なぜなら自然界というものは、目に見える表面的なものや、現れている姿カタチはその根が具象化したものともいえます。必ず根があって実ができるものなのだから、当然その実はその根そのままが表現されているともいいます。

多様な植物もすべてはその根がどのようになっているかは、大きさだけではなくその色、そのカタチ、その伸び方、生育のプロセス、得意不得意などからでも理解できるのです。これを人に置き換えても同じで、その性根がどうなっているのかは外側に顕われているのだからそこを理解していけばその本質を捉えることができるのです。

しかしその根がどこにあるのか、その性根がどこに伸びているのか、そこを見抜くことは大変難しいことだと思います。人間のことに精通し、根を観る訓練をすれば多少は課題が見抜けるのでしょうがその性根があまりにも根深いとそれを改善することも同じく難しくなるのです。

植物でいえば、根をほぐすことで新しい環境に植え替えたりその根にあわせて枝葉をすいたりすることでその根にあわせていくこともできます。しかしそこを観るというのは、自分との向き合いが必要になりその根を辿るというのは自分の過去に遡る感情とも正対する必要があるのです。

感情の滞留から自分を閉じ込め、根腐れを起こさないようにしないといけません。

生活改善をやるにも自覚が先です。常に自己受容のセルフマネージメントが必要です。
その自覚を促せるかどうかは、その感情の根深さへの受容と理解にもよるのだと思います。

子ども達の心に寄り添いながら、その根が健やかになるように見守りたいと思います。

選択の主体

人が生きるということは、日々に選択をするということでもある。

何かの事象があったとき、それをどう決断するかで人生は大きく変わっていく。その決めた結果は自分の人生で全責任を持つのだから、決めているのはいつも自分ということになる。

例えば、選択をするというのは二者択一といった相対的にどちらかを選ぶというものと、唯一無二といった絶対的に選ぶというものがある。前者は、どちらにしようかと選ぶとき自分の都合や自分にとってメリットかデメリットなどで選択しています。しかし後者の場合は、今の自分に必要だや必然だからと全て来たものを受け取るという選択をするのです。この場合は、人生の主体がはっきりするともいえ自分自身の人生を丸ごと生きているということになります。

この主体性というものは、一般的にはその反対が受身と言われますが私はそうは思いません。本来の主体性というものは絶対的なもので、それは人生を丸ごと肯定するときに使うものだからです。外界や周りのせい、誰かのせいにしているうちでは自分自身の丸ごとの力と意志で生き切ろうとするのではなくどこかに依存して生きているということになります。つまりは依存性があるといった方がよく、この依存は自分が遣らないことを何かの理由をつけて自分外のせいにしようとする傾向があるということなのです。

もともと活かされているという言葉も、あれは依存の時に使う言葉ではなく自分が全ての人生の主人公であるとし与えらえたすべてを受け取らせていただきますと選ぶのを止めるときにはじめて実感できる境地だからです。

自分の都合で選択をせず、誠実に真心で生きていく中で来たものを全部受け取る謙虚な姿勢が本来の感謝で生きているともいえます。あの動植物も同じく、日々の天候に合わせてすべてを受け取り文句ひとつ言わずに自力を使って精一杯生きています。全てをご縁だとすれば、戴きますや有難うという言葉も、そういう精一杯で言い訳をせずに自らを生きるときにはじめて顕われる言葉です。

精一杯の自力を出していれば、そこに偉大な他力が入りその時機にこそ全体と調和し自らのいのちが見事に発揮されていくのだと思います。

つまり究極の選択とは何かと言えば、選択をしないということだと私は思うのです。

これは来たものに対して全てを引き受けさせていただきますと逃げずに受け容れること、全肯定全受容しそういう自分が主人公で主体となる生き方をするからこそ本来の自分の持って生まれた天命や個性が生き共生が成り立つのだと思います。

何で自分がや、誰かのせいや、何かの生にするのは、そのこと自体が依存であることに気づくことです。そうなってしまったのは、自分で間違った選択をしているからなのです。そうやって生きているのは活かされているのではなく、単に依りついて存在させているといった人工栽培のような状態になっているのです。これでは、自分で生きているとは思えずどうしてもすぐに折れて枯れてしまうような脆弱なものになってしまいます。

自然の中で野生のように生きることは、強く優しく嫋やかに生きていくことが楽しむことです。
大変なことがあろうが、選ばず全て受け取る至誠にこそ生きる醍醐味があるのだと思います。
そしてそれが本来の自然です。

子ども達には周囲の大人の生き方が大きな影響を与えます。
選ばない生き方をすることが勇気であるとし、あの蓮の花のように泥の中から花を咲かせてみたいと思います。

永遠に学びと選びの道は続いています。

新生不変の技術

時というものに気づいたことがある。

そもそも時間というものは、自分の脳が認識している世界であり実際はその時間を忘れてしまえば今は今というものになる。

例えば、年齢などもそうだけれど今が36歳という認識の自分がいると思い込んでいるだけで実際は年齢というものは存在していない。自分が体験してきた量が年齢というのであればまだ分かるけれどその歳だからどうだこうだというのは何かを基準にして自分を認識するだけだからです。

グリニッジで時間を決め、世界中は同じ時間という刷り込みの中で生きています。
もしもこの時間というものを取り除けば、時間というものはないのです。

ただ今在るだけということになりますが、人は寝ぼけたりモルヒネなどを打てばすぐに自分が何歳であるのかを忘れることができます。幼児に戻ったとか、今に戻ったとか、その記憶や記録の状態を認識することで自分というものを創りあげているのです。

自分の認識というもののズレというものは、必ず起きるものでそれも刷り込みによるのです。2年前の自分がこうだったからと今はきっとこうなるはずだと思い込んだりもします。しかし人の成長曲線は右肩上がりではなく、ただ今が在るというものに過ぎず体験の質量が変わるというだけであるのです。

年齢がいったからではなく、年月が経ったからこうなっているはずだではなく、単に体験の質量で歳が経ったというだけであるはずです。つまりは脳の中の計算で生きようとするから時間に刷り込まれるもので、ただ今を時間を気にせずに精一杯生きていれば今の自分に自然になっているともいえます。

言い換えれば、時が流れていると思い込んでいるからこそ時を遡るという毎日をどう過ごしていくかが歳をとらないコツなのではないかと私は思います。時を止めるとも時を超越するとも言ってもいいと思います。

つまりは、毎日が過ぎるということを逆手にとって毎日を思うということにするのです。

時という概念は、過ぎていくというものです。

時が過ぎていくということは実はなく、それは単に体験や経験がただ在るということが事実です。だから、その体験を毎日新しくしていくことは、新しい自分でいるということであり、この新しいというものが時間が過ぎ去ることを逆手に取り、時間という認識を無くすということになるのです。

理解が難しくなっていると思いますが、これは脳という心とは別の認識世界を私たちは共有して生きていることを意味しているから難しいだけで、心の世界、もともとの本心、自分というものはそういう時を超越して存在だけをするものであるとも言えます。

時を科学すれば、存在というものに気づきます。

この存在のままでいるということ、虚無の有を感じている世界に居るということが自分というものとの出会いの入り口なのでしょう。

最後に、ここから新生不変の技術と名付けた「ただ今=存在の自分」、それは時を思い出さないくらい同じことをいつも思い続けて生きること。つまりは簡単に言えば、時間を忘れるくらい夢中になればいいということでそれが今に一生懸命に思い続ける事、過ぎ去った過去を認識する暇もないくらいに朝起きたら過ぎ去ったことを気にせず常に新しい一日に全力ですることで時の刷り込みを超えられます。

変われなくて苦しんでいる人はみんな時に縛られてしまっている人がほとんどです。

人は何歳になっても永遠の若さを持てますし、それが一生青春を味わえるのでしょう。
認識の刷り込みを超えて、新しく生きる日々を創造し続けていこうと思います。

ブレナイ経営

現場でコンサルティングをしている中で、「元に戻す」というものがある。

今までやっていたことがおかしいと分かっているのに、今までの方が安心だからと何も変えようとせずにいることで様々なことが次第におかしくなってくる。例えば、年齢でもそうだけれど20歳の時に合っていたことを35歳になっても合っていると思い込んでそのままのやり方で続けていると15年もたっているのだからその人は周囲から見ても環境から見ても同じ人ではない。

同じように、自分の過去に体験した成功にしがみ付いたり、いつまでも過去の自分を捨てられないと今の本当の自分に合わなくなるのです。そういうものを指摘してくださる事件や周囲の助言があったとき如何に謙虚に素直に聴くかということが重要なのです。

しかしほどんどの人は、今までのやり方が合っていると変えない方が安全だと盲目に信じてなかなか自分を変えようとはしません。そして変えようと思っても、元のやり方の方が安全で安心だと思い込んでいるから変わろうとしても変われないのです。

この仕事をしていると、「やっぱり保育を元に戻します」や「以前のやり方にします」などと途中で諦めて元のやり方に戻そうとします。それは単に決めた結果が訪れるのを「待てない」ということであり、言い換えれば新しく決めた今を信じる事が出来ない、新しい自分になることを途中で諦めますという意味でもあるのです。

ブレナイ経営というものは、私が意訳すると待てる経営ともいうのです。

それは待てるということが、信じるということになるからです。

そしてそれは単に待てばいいというものではなく、人事を尽くして天命を待つときの待つということでもあります。その待つというのは、過去の自分に囚われずに怠らずに決めたままの実践の今を真摯に精進する、今の自分に合うように必死に精を出して一生懸命に取り組むということ、日々を新たに真剣勝負を続けるということでもあるのです。

過去に囚われているから、過去の遺産にしがみ付くからいつまでも変わることがないのです。人は誰でも変わらない方が楽だからと次第に一生懸命に取り組むよりも、安易に小手先でやれる方へと流されてしまうものです。しかしそれでは、この今に必要なことは必然として受け取っていくことができなくなり今を生き切っていることにもならないのです。

同じことをしていたとしても、20歳で気づくことと50歳で気づくことは異なります。しかし怖いことに、変化をしなくなるというのは20歳に気づいたことで50歳を生きてしまうことなのです。 それは昨日気づいても、また翌日には気づき直すということをしないからそのように変化が止まるということです。

変化というのは、同じ日はありえないと思うことです。

そして同じ自分も絶対にいないと思うことなのです。ブレナイ経営とは、同じ経営は二度とないと思うことです。だからこそ、日々を全身全霊で生きるということ、人事を尽くして天命を待つといった信じる実践こそが大切なのです。

全てのいのちは、同じように見えて同じ成長をしません、それが進化とも変化とも言うものだからです、生まれてきて生きるというのは、今を真摯に生き切るということにほかならず、ブレナイ経営というのはそういう今を信じ切るということ、つまりは決めたことを最期まで遣り切る経営とも言うのです。

このブログもそうですが、日々は変化の連続ですから日々新たにしていくのです。

過去は過ぎ去ったものですから、今を生き切るためにいつも今の自分の変化を最大限活かしていくような実践を楽しみたいと思います。

偏りを愛する

子どもの頃、発達の偏りがあることで人と異なることは悪いことだという認識を持つようになる。自分が他の子どもと違うということ、それ自体はつらいことではないけれど何がつらいかと言えば理解してくれる人たちがいないという孤独感なのです。

特に学校に入るころからは、自分ができないことばかりが増えて先生から指導され周囲の友達から置いていかれないようにと必死に皆ができることを自分もできなければど半ば強迫観念のように自分を責めて無理をして追い立てていきます。

学校の行事や授業も、自分がどれだけ皆と同じくらいか、つまりは遅れないか鈍くないかを指摘され、違うということは悪いことだと思い込んでいきました。また厳しいことを言われるたびに深く傷つき焦りと不安から必死に勉強し何とかして早く時が過ぎ去るようにと願いつつも乗り切りながら胸をなでおろしたものです。

それが思春期になると、認めない周囲に対して怒りを覚えて自分を貫くことで自分を必死に守ろうとしその間も孤独感は続くのです。そして社会に出ても、如何に平均の中でいるか自分が変わり過ぎていてはダメかということを周りから次々に指摘され続け遂には自分を出さないようにと周囲の期待を演じるようにと身のまわりが囲われていきまた孤独を味わうのです。

そして自分らしさというものは、周囲の無理解の中で消えていくのです。
そしてそれがいつかは復讐心にもなったりし、さらに自らの孤立を深めていくのです。

偏りのある人たちのことをみんなで理解し合う社会ができるとき、それは今の社会がみんな違ってみんないいと思える豊かで平和な思いやりに満ちた社会に変わっていくのだと思います。偏りのある人たちがみんな無理をして、自分を押し殺していけば社会全体は結局は閉塞感が広がり多様性のない画一化されたものになるのです。

そのままでもいいと理解していくことは、自分もそのままでもいいと許していくことです。そしてそれが自他を認めて大切にしていくことだとも思います。それはその人の偏りというものを愛するということであり、尊重していくということでもあるのです。その人の得意を伸ばす、強みを活かすというのもそれは以上のような人という集団の本質を捉えた視点でみるからです。

幼いときから成長していく過程で、如何に皆に自分が活かせるようにしていくか、そして皆もその人の存在を重宝するか、つまりはお互いに無理をしないで自然にいられるかで共生の社会は開けていくのです。

無理に強がっていてもいつのかは我慢も限界が来るものです、今こそ全ての傷を丸ごと癒やす必要があるのです。偏りの大切さは集団を維持するために人類が大切にしてきた智慧そのもののはずです。

これからの子どもたちがあまり我慢しなくてもいいようにそのままの姿を認めていけるようなオープンな関係を築くためにもさらに深く本業で掘り下げていきたいと思います。

平和な社会のためにここを打開することに自ずから使命を感じています。

泥と土から

泥臭い仕事、地味な仕事が大切だというものがある。

泥臭いというのは、田んぼで言えば土が水を混ざり合ってドロドロに粘っているようなもので、地味というものは足元にあってなくてはならないというものというイメージがある。

つまりは大切な仕事は全部その基本は上記のような当たり前すぎるけれどもっとも生育に必要な条件が揃っているかが大切だということです。

若い時に、如何に泥臭い仕事をしたか、地味な仕事を集積したかでその後の仕事への姿勢、自らの心技体の能力が世の中に活かし発揮できるかどうかが決まるのです。

色々なコンサルティングの仕事をするにせよ、常に人が仕事の中心になるのだから感情的にも心情的にも、そして精神的にも肉体的にも総合的に重く組み合わさっていく中でどれも泥臭く地味なことができるかどうかで事の成否が決まるとも言えます。

派手な仕事というものは、すべては日頃の地味や泥臭いことの集積で成り立つのです。そして最期まで諦めないという仕事はすべてこの土がどのような状態かが左右するのです。

例えばヒアリングやコーチング、その他もそうですが粘り強く丁寧に、見えないところも一切手を抜かないで進めていくことがはじめて他人のお役に立てるとも言えます。

成長を見守るということも同じく、土壌がどのような状態であるかでそのものの生育の本性が発揮されるかどうかが分かります。ある植物や野菜、稲もそうですが土の状態が最終的には実になるかどうかを決めるとも言えるのです。

仕事で言えばよく新入社員がやらされているような御用番などはどんな仕事でもやりなさいといった地味で泥臭い作業、あまり仕事には見えないようなことをたくさんさせることを意味します。その他、経理や事務が行うような目立ちませんが必ず大切にしなければならないことをいいます。そういう仕事に喜びを感じたり、そういう仕事が楽しいと感じているならば将来大きく伸びる可能性があるとも言えるのです。

仕事の応用とは、全てにおいて基礎があってこそ可能なものです。若い時にどれだけ他人の嫌がるような泥臭い地味なことを積み上げたかで今の仕事が決まったともいえます。成長を望む場合は、あえて泥臭いことや地味なことを大切にすることが重要です。

自然農で土づくりをしていますが、泥臭いものはみんな嫌がるし足元の雑草の手入れなども嫌がる作業なのかもしれません。しかし私には、この作業こそが何よりも尊いもので、ここがすべての肝であるかのように感じています。

微生物の活性化もこの土と水、光と風と温度で決まります。

土づくりというのは、いのちの成長の基本、どこまで自分の土を創るのかはその人がどこまで伸びるのかを決める程に重要なのです。新人が雑用をするのは本気で大切に育てようと見守るからです。そしてベテランも雑用をするのは、それがより高度な雑用になるからです。

今の私が行う雑草の手入れも土づくりもすべてはコンサルティングを自然に学ぶのです。
常に土から入ってドロドロに塗れてそこから美しい華を咲かせていこうと思います。

暗黙知

人は頭で考える世界だけに住んでいるのではなく、感覚で獲得する世界にも住んでいる。

最近は複雑系の研究も進み、何かのことは全体や総合で捉えていくことで理解するということを分析されるようになってきた。簡単に1+1は2という答えではないということは明白で、それはそこには複雑怪奇に絡み合っている偉大なる他力が存在していることを理解するからです。

何かの出来事も、自分の周囲に起きることもすべて単純ではなくそれは計り知れない調和の中に在り、立体になったものがバランスよく混じりあって存在しているかのようです。

自分だけの主観で一方的に見てしまうのが脳だとして、それに対して主客一体となった全体調和の中で観得るのは全方向を捉えてくるのです。

なぜと考えるのも、途中からなぜと見つめるのと、湧き上がってくる根本からのなぜではその広さも深さも真実も変わってくるからです。つい頭で考えてしまうのは、感情なども邪魔をして自分都合で判断するのでしょうが自明ではないのだから意味の後付になるのでしょう。

そもそも暗黙知や形式知というものがあります。

形式知にすればするほどに、総合的な話は枝葉末節になってしまいます。
しかし暗黙知であれば、直観的に大極を伝えていくことができます。

その技術も多種多様で、昔は師弟一体、同時一体に行う方法から、手順や作法、基本を充実させることを伝えたものもあったのであろうと私は思います。大事なことはすべて肉眼では見えないのだからこそ、そういう境地で共有することで伝えてきたのだと思います。

今は科学技術も発展し、目には見えないものを観得るようになってはきました。
しかし大切なことはまだ目の届かないところにあるのです。

それは元々、追えないような場所にこそ真実があることが証明されているともいえます。
偉大な科学者がいくら真理を発見しても、それは全体の一部の可視化に他なりません。

可視化するということは、何を世に出すかということで何を世に見せるかなのです。
子どもたちのために正しく伝承していけるように心を念じていきたいと思います。

風を興す

何かの真似をするというものにも本質と異質のような違いがあります。

学ぶときには誰かの真似をすることはいいのですが、その真似をするにもその人の単なる真似かその人が求めたものの真似であるかは同じように見えて同じではないのです。

仕事の中でもそうですが、やり方や結果などは似せて伝える事も話すことは何度も繰り返し練習していけばかなり近づけていくことはできます。そしてある程度の結果も出すこともできるようになるのです。それは例えば営業の仕事でも、現場を共有し何度も話し方や伝え方、その他の方法をマスターしていけばある程度は自分のものになっていきます。

しかし、それも限界がありその時得たものでずっと維持していくことはできません。ステージを上げていく人たちは元々理想が高く、そのプロセスの過程で各分野の一流の仕事をマスターしていくからです。

人が真似をするとき単に知識をカバーすれば真似が完成して自分のものになるのではなく、その人が求めている理想の高さを真似するときだけはじめてその人に近づくことができるのです。

かの松尾芭蕉に「故人の求むるところを求む」があります。これは偉大な先人の志を如何に求めるか、そして「古人の跡を求めず個人のもとめたる所をもとめよ。」とあるのも、古人のカタチをなぞるのではなく自らの志を求めなさいと私は意訳しています。

これは自分自身が本気で理想を掲げて取り組むことの大切さを語るのです。

人は誰でも自ずからの真心から願うこと、自ずからあるがままに祈ることには敵いません。
本気で自分自身の心から発するように念じることこそが理想の実現になるのです。

与えられたものではなく、求めること、求めるだけではなく、自分から祈ること。日々の積み重ねの上に、理想の実現があるのだから子ども達のことを祈り歩む日々を確かめつつ、新しい風を興していこうと思います。