未来の逆算

時間というものは今というものを考え方で捉え方が変わってきます。

ある人は今というものは、未来が今になっている今の時間であるとし、またある今は、ただ目先の今というものを今の時間だと思います。

今がゆとりがある人は、常に前者のように未来というものが今だから今努力しようと余裕を持っていますが、後者の人は今の今が時間なのだからいつも過ぎてしまう今のために追われるように焦ってしまうのです。そして後者が余裕を持とうとする場合に無理をして落ち着こうとしても、それでは単に未来を持たないということになってしまうだけだったりするのです。

同じように今を一生懸命といっても、それが未来のためか今のためかで全然違うのです。

仕事でもそうですが、いつも何かに追われてしまうのは過ぎ去ろうとするすぐ今のことにだけ一生懸命なってしまうからなのです。出来る人というのは、未来のためにしか今を使おうとしませんから必然的に未来のために今を活かすのです。

例えば、仕事で言えば、半年後にはこういう結果になるのだから今のうちにそれを準備しておくための今の使い方をするということなのです。よく営業で数字が上がらない人がありますが、これは今の数字を今追ってしまうからなのです。そうではなく、本来は半年後の数字のために今を使う方が確実で、今の時間に未来のための今やることやっていると自然に半年後はその状態になっているのです。

英語や語学なども、いつまでにそれが必用かその目標を設定しそれを逆算してからスケジューリングしてそのために今を活かす、つまりは準備する、余裕とゆとりを持って取り組んでいくということなのです。

目標を設定して、今に取り組むということはこの今は未来のために今の使い方になるのです。それを漠然としたものしかないままに、ただ今を一生懸命に取り組んでいたらどうしてもゆとりや余裕がなくなり準備不足だったといった後悔ばかりをして迷惑をかけてしまうのです。

つまり、今というものに対する自分の在り方を見つめることがまずは大前提なのです。

これはまず思考パターンとしての自分、つい未来をあまり肯定していない自分、目標を設定する勇気のない自分、そういった自分の感情をまず受け容れることが要ります。そしてそれを受け容れたら具体的な訓練としてのスケジューリング、つまりは目標管理を繰り返す中で自分の思考パターンをブレークスルーしていく必要があるのです。

やはりここでも全部ではないですが、今の学校の教育の刷り込みがあるのかもしれません。目標設定をさせずに今だけをやらせて取り組ませるような指導方法が染みつけば、流されるような日々を送らせることにもなるのです。まず未来にどのようなビジョンを設定するか、そしてそれを実現するためにこの今をどのように活かすのか、それが自己管理でもあるのです。

何でもそうですが、未来のために時間を使う人は今に余裕がある人です。

そうやって未来を逆算していくことこそが、今に希望を持つことになっていくのだと思います。目先で何かがあっても、未来から逆算した今はそれが全部学びになり将来への布石になったりもするのです。

常に今は未来の準備だとし、今できることを時間を惜しんで取り組んでいこうと思います。
未来の新商品のために、今を存分に活かしていきます。

置換力

全ての出来事を考えた時、それが自分にとって必然かどうかと思うというものがある。

例えば、他人に起きている問題は他人のことだと思い込んでいる姿勢の人と、他人に起きている問題は自分のことだと思って真摯に受け取るという姿勢の人がいる。

前者は、他人のことなのだからどこか相手のことにしているから相手の問題としてしか考えられずつい出来事なども頭で処理をし目で追ってしまい本質が分からないままに悩んでいたりするものです。しかし後者は、どんな相手の出来事もこれは自分のことではないかと置き換えるから文字通り他人事ではないことだとより自省しつつ真剣に何かのメッセージがあるのではないかと一緒に物事の意味を考えることができるのです。

人の一生は自分と関係のある情報を取捨選択して生きているとも言えます。

この情報を選ぶのも、テレビやニュース、出会った人々、それがどんなに自分が偶然に覚えたことでも実はそれは自分の人生に大変な意味が在ったりするのです。自分のセンスや直観が冴えわたっていれば、すぐにそれが自分の問題を解決するものであることやこの先の将来に関係することであることにハッと気づくことができます。言い換えれば、相手は自分の鏡、向こうからいただける情報はすべて自分へのメッセージであると感じる力があるかどうかということなのです。

そのアンテナでどのように自分への意味を受信して今の瞬間瞬間の決断をし続けるかことが置換力とも言えるのです。

人は意味のない人生など一つもありません。

それはその人が目指しているもの、生まれてきた達したいこと、いのちを活かしたい何かが必ずあり、そしてその役目役割が必然的に存在するからです。人の一生はそれを探しているうちに終えるともいえます。

生きていればどんな情報もそれが自分の役割に繋がっていると思えば、どんなものも必然として一つ一つを自分のことだとするのか、関係がないとして自分以外の誰かのものとするのかでは今までと今、そしてこれからの生き方が変わってしまいます。

共感することも、自他を信じ、活かすことも、これは自分のことだと思えるか。そういう懐や器を養成していくことも、学問の醍醐味であろうと思います。

どんな小さなことも見逃さないよう、日々を振り返り様々な出来事を置き換えていこうと思います。将来の子ども達のためにも、今の自分の身の周りのことに置き換えてひとつひとつ丹誠を籠めて解決していこうと思います。

刷り込みを取り除く

学校での一斉画一化された教育を受けてそのままにしていると、たくさんの刷り込みにあってしまいます。

例えば、自分らしくいることはよくないことであったり、自分が自由にいることが罪悪であったりと、本来の自分というものを自然に理解していくことが難しくなるのです。

そのことから、弱みばかりを注目して弱みばかりを解決しようとしてしまう癖を持ってしまったりしてあまり変わらないけれど努力していればそれでもいいというような非建設的な方法ばかりを選択してしまうこともあるのです。

本来、強みを伸ばすという考え方は自分らしくいるとき、自分が自然で居るときもっとも貢献できるもの、皆に喜んでもらえるものを優先することで伸ばされてきます。

引き出すというのは、誰かによって引き出されるのではなくその人が自然に自由であるとき、つまりは安心して自分らしさを発揮することを喜びに感じているときにこそ出てくるものなのです。

いつも何かを行うときに、主語がどちらかということでその人の刷り込みが観えるのです。

例えば、私たちの仕事でも大人が主語なのか、子どもが主語なのか、発酵技術でも人間が主語なのか菌が主語なのかでも、その人の刷り込みはよくわかるのです。

そして当然、この国では国家が主語であるから個々の人権というのは主語ではありません。

教育は誰のためにあるのかと思うとき、それはやはり本来はその人たちの幸福で豊かな人生のために用意されているはずのものなのです。しかし、それが今の社会システムなどに呑みこまれ、本来の姿から外れてしまっていることに気づかなくなっている人も多いのです。

子どものための施設が、実際は主語は誰のために施設になっているでしょうか。

人間は謙虚でなければ、相手を主語にできません。

自分がやったのだや、自分の力でなど自己満足や自己欲求が優先するのでしょうが本来は感謝や御蔭様、皆様の協力があってと思う方を優先しなければ、結局は刷り込みに巻き込まれるのです。

もっとも刷り込みを取り除く方法は、今の現実が当たり前だと思わないことです。
それは自然のことを当たり前に思わないこと、元々の姿を実感することだと私は思います。

子ども達のためにも、何が本当のことかから外れないような生き方を示していこうと思います。

基本姿勢~努力の心~

何かを取り組むのに基本姿勢というものがある。

中学の頃、バレーボールなどでもそうだけれど最初はほとんどボールを持たせてもらえず只管に走り込みや筋力トレーニングを行う日々が一年近く続く、そしてはじめてボールを持たせてもらってもその後の一年はほとんど基本中のパスやトス、サーブを徹底して練習し、持ち前の基本の実力だけで最初の公式試合を迎えるという感じだった。その後は、試合の中で自分たちの強みを見つけては技術や技能といったスキルを向上させるという順番だった。

何でもそうだけれど、自分の基礎力や基本の体力がどこまであるのかはとても重要なことです。もしもこれが最初に誰かの受け売りのテクニックを覚えてそれですぐに試合に出て運よく勝ってしまったりもするのです。

そうなると次第に難易度が上がっていくたびに次第に勝負に負けるようになり、その時の負ける理由は全部自分のスキル不足のせいなのだとその人が勘違いしてしまうことがもっとも大きな問題なのです。

スキルというものは、実は結果論として後で勝手に身に着くだけでその大前提としてのまず基本や基礎があっての話であるのです。

私の言う基本や基礎というのは、「努力の心」というものなのです。
先ほどのスポーツでもそうですが、基本はすべて「諦めない」「粘り強く」「妥協しない」「遣り抜く」「真剣に打ち込む」などの自分の姿勢、取り組む時の自分の真摯なハートを身に着けることをいうのです。

スキル云々やテクニックや技術がどうこう言う前に、まずそこがどうなっているかなのです。
何かに取り組むときは、まず努力です。

そしてその努力の質量が結果を生むのです。

一般的に若い時に、本気で努力して精進し仕事をしてきた人はこの真摯に直向に取り組む姿勢ができています。するとその人はどんな困難があっても、その時の努力の厚みや広さ深さの幅の御蔭でその困難を乗り越えます。

逆に、そういう努力を体験していない人はその努力の厚みが薄く浅く、その範囲内を超えればすぐに妥協を繰り返すようになり負け癖がついてしまってなぜか何をしても躓いてしまうようになっていくのです。

そう考えると、自分が煮詰まったときは仕事を学び直すときであり、それは必ず一度は真剣に仕事を始めて努力するぞと決めた時の頃の初心に帰って何よりも向上心を持って我武者羅に一心不乱に打ち込むということが何よりも大切なのです。

それは営業では、必死に飛び込みをしながら自分の何が足りないのかを見つめて知識を蓄え、何度も鏡を見ながら自分を正し、大きなプレッシャーや使命感の中で、本懐を遂げ、お客様のために真摯に取り組んでいくという、言い換えれば「汗と涙の結晶」といった根気強くても地味に努力精進するといった基本姿勢から出直すのです。

これは営業を例えただけですが、どの仕事でも同じくまず基本というのは向上心を持ってまだまだだと根気を据えてそのモノゴトと一体になるほどに打ち込む姿勢のことをいいます。

今はすぐに頭でっかちにスキルを追おうとする人もいますが、人間は誰しも平等でそんなに天才や完璧な人などもそうはいませんし、すべては努力の上に花が咲くのです。

そういう必死に努力していく体験は、その後の人生を大きく支えてくれるものです。

なぜできないのと嘆くのではなく、もう一度ゼロからやり直そう、この本意は努力の心という基本姿勢からとやっていくといいと思います。

そうすればいつかスキルは必ず活かせるレベルに達すると思います。

「理」に生きる

ある時、閃いて「理」という字がどう成り立っているかに気づくことがあった。

もともとこの理という字は、「王」という字と「里」という字が組み合わさっている。
まず王という字は、一が上中下、その天地人の間に真っ直ぐ1が立っている。
そして里という字は、土の上に田が合わさっている。

どちらも、下から上に伸びる一直線で文字ができているのがよくわかる。

そう考えてみると、この理というものは、どれも実践を通じて自らが伸びた証として顕われるものであることがよく分かる。

真理も調理も、原理もすべてこの理というものは本来の自らの生のようにあるものを実践しそこから伸びて醸成されていくようにそれを得ていくという意味になるのであろうと思う。

言葉だけで分からないのは、どれもすべてはやっている中でしか理解しないようにできているからなのです。私の話すこともそうですが、師の話すこともそうですが、すべては実践していく中でそれを継続し積み上げていく中で自然に成長しそれが天地の道理と繋がったときはじめて腹にストンとおちるというように、それが根っこと繋がって実がなるのだと思います。

よくやってもいないのに頭でっかちに分かろうとする人がいたり、知識が豊富でなんとなく真理を分かった気になって、実際の実践を怠りそういうことだろうと素通りする人もいますがそれではこの「理」というものは解さないのだと思います。

常に現場に答えがあるのは、現場はそれをやっているからなのです。
常に頭でっかちの世界が答えがズレているのは、それはただ実践ではないところだからです。

現場というものは、この理に繋がっている場所です。

料理もそうですが、いくら何度も頭で分かっても実際はたくさんのものに出逢い、気づきを繰り返し集積し、本当にその素材そのものの素晴らしさに感動しなければそれも理解することがないように、これもやってからの世界なのです。

やる前から分かった気になろうとするのは、頭で何とかしようといった動かないことが前提になった消極的な行為で生き方にまでは反映されてこないのです。

常に理を悟るためにも、まずは実践する中で自らが気づき学び生長する方を優先していくことだと思います。これからも子ども達の見本足るべく、まずはこの理に生きようと思います。

信頼の実践

人と信頼関係を結ぶのにオープンさというものがある。

どこまで自分を隠さずに相手にさらけ出せるか、そういう自分の弱みとも言えるものまで周りを信頼してオープンにいるかというのは大切なことです。

例えば、弱音を吐いたりするのもそうですが自分ができないことを誰かに頼めたり、自分が苦手なことを他人に話せたりするのは、その組織風土や環境がオープンであるからとも言えるのです。

上司や部下との信頼関係もそうですが、部下は自分ができないことを遠慮なく上司に相談して上司から最適なアドバイスを戴くというものがあります。また上司も部下に、自分のありのままをさらけ出してその上で意見を求めるというものがあります。

つまりここでの関係というものは、御互いに深い信頼を置いているという意味なのです。

他人とうまく信頼関係を築けない人は、自分が信頼されていないことが前提で振る舞います。ですから、何かをすぐに隠そうとしたり遠慮をしたり、または自分のプライドやエゴをつい優先してしまい裸になることができないのです。

そうしているうちに、自分から信頼していないというメッセージを発信することになり、次第に周囲からの信頼が失われていくのです。何かの過失があったにせよ、それは事実なのだと受け容れてすぐに改善し、周囲から再び信頼されるような自分になっていこうとするのが誠意でありまたチームの一員としての力を引き出していくのです。

今のような全員リーダーのようになって多様な価値観に応じていく時代では、皆が如何にオープンな環境を意識しているかというのはチーム力にとって何よりも大切なのです。

これが例えば、自分が傷つきやすいや、自分がメンタルが弱い、自分がこうだ、自分がああだと、常に自分が自分がと自分のことばかりを先に考えるというのがもっとも自閉、つまりはクローズしてチームにならなくしていく理由になっていきます。

そうではなく、皆にどうか、皆に役に立てているか、皆を信頼しているか、周りのためになっているかと、自分を周囲に活かそう、自他を活かそうと自分が意識しているときは自開、つまりオープンなのです。私も、自分が周囲を明るくしているか、周囲を楽しませているか、周囲が自分の存在で元気になっているかというのは、いつも意識しています。

しかしすぐに自分が自分がと考える癖がある人は、どうしても周りと一緒に仕事ができません。
自己肯定感も、周囲との信頼関係の中で築かれていくものですから自分だけでは無理です。
そして人間は誰しも信頼関係がない人同士では絶対に善い仕事はできません。
信じ合うからこそ、不思議な力が発揮され不可能を可能にしていくのです。

だからこそ、自分がどうかではなく、自分から信頼していこう、自分からオープンにいよう、自分から自分の全部を開いていこう、「常に自分の方から」とすることが、他人からの信頼を得るための近道であろうと私は思います。

自分がと思うのはやっぱりプライドやエゴが残っているからで、それでは周囲を活かそうという発想にはなりません。周囲を活かすには、そういった自分のプライドやエゴを手放すことがいるのです。

自分の立場が不安で守ろうとばかりを気にして委縮するのではなく、相手のためになるかどうか、皆のためにもと勇気を出して取り組むこと、つまりはそういった利他の心で取り組んでいくことがそういうプライドやエゴを打開するコツなのでしょう。

信頼されれば安全ですし、信頼していれば安心です。

子ども達にも、あまり自分のことばかりを考えなくていいように、自分から皆のためにとやっていればどうせ最後には自分は観えてくるとし、まずは日々の思いやりと実践を高めていこうと思います。

まず理念から

そもそも人はその優先しているところで、何をしたいかが分かるものです。

それは国家もそうだし、何かの組織もそうだけれど、まず何を優先するかで大事にしていることが分かるのです。

ある国では、経済や国益を優先し国民の人権よりもそれを優先していることがあります。またある国では、権力者と言われる人たちの利益が国民の暮らしよりも優先されていることがあります。またある国では、国民一人一人の幸せを優先し平和な社会を築くためにと創意工夫して取り組むところもあるのです。

つまりその国々の理念がどうなっているのか、何を目指しているのか、何を優先しているかで自分たちの置かれた環境が変わっていくのです。

人は優先順位を決めていないと、気が付くとあっという間に流されてその優先されているものに合わせてしまいます。自分がどうしたいのか、その理念がどうかということを深めていなければ優先していることは相手任せになってしまうのです。

もちろん、全体が優先していることは何かの理由があってそうしているのですが本来、自分が全体を観て何を優先するかは自分自身できちんと定義し持つ必要があるのです。

生き方などもそうですが、何を大切にするか、そういうものを常に大事にしていること、そういうものが理念として常に不動の場所で優先順位を決めていくのです。

優先順位は、どちらかをやろうということではなく、そのどちらもやるけれどまずどちらから優先しておくかという意味になります。まずどちらが先かと思えば、自分が何をもっとも大切にしているかがわかるので所謂ブレナイ生き方ができているともいえます。

そしてそういうものは流されやすいのでやはり理念がしっかりしている必要があるのです。当たり前すぎて分からないことほど、当たり前をはっきりしていくことで、当たり前ではないということに気づけるものなのです。

常に自分が何を優先しているか、常にその理念から取り組むことを大事にしていこうと思います。

食養調和

ここ数日、発酵を使い料理をしていると様々なことに気づくことがある。

今まで使えないと思っていたものが使えるようになったり、今までアクだと思っていたものが旨みになったり、様々な材料を重ねあわせることで絶妙な甘みが出てきたりと、それは不思議な感覚がある。

もともと私たちが美味しいと思うものは、舌と五感を使って感じているものです。

それぞれに好き嫌いというものがあったとしても、私たちが本当に美味しいと思えるものにはある一定の法則のようなものがあるようにも思います。

それはちょうどバランスが整ったところ、その素材と自分との関係性、全体との調和というようなところにどのように創意工夫して中庸に合わせていくかというものです。

例えば、舌や胃袋、体で味わうものは、それぞれの持ち味を私たちの舌にあわせて引き出します。私たち人間がより食べやすいように取り込みやすいようにと工夫するのです。心で感じるところでは新鮮な旬やいのちをいただくことで私たちはそれを本能で取り入れ、また料理する人や関わる人々の真心や愛情をかけた時間を心で感じているのです。

トータルで考えてみたら、私たちは食物連鎖の中でいのちを成り立たせています。食べる食べられるという関係ではじめて私たちはいのちを繋いでいくことができているのです。当たり前ではありますが、食べるということはそういう自然の当たり前を思い出すことでもあるのです。

身土不二ではないですが、自分の身体がどのように成り立っているのか、自分のいのちがどのような繫がりの中で活かされているのか、目には観えないものを含めて私たちは大いなる循環の中に生きているとも言えるのです。循環から途絶えたところで食べていると、私たちの感覚も鈍ってきてどこに私たちが繋がっているのかが分からなくなったりもしてくるものです。

物が溢れ、繫がりが見えにくい今のような時代にはこのような当たり前の中の本来の自分の姿にあえて気づきを与えるような料理と思想が必要なのかもしれません。

調味料をたくさん加え、美味しく料理するのも必要かもしれませんがもともと私たちの暮らしの中でどのような自然を活かした料理があったか、素材を得て活かしたかというものの一つひとつのプロセスこそが、この当たり前のことに気づかせ、私たちの心身を調和させるものに繋がるのだと思います。

私たちの今の社会は油断をすると、すぐに周りから流入してくる様々な物流にバランスを壊してしまうものです。日々に生きていたら、気づかないところで正しくないことをしてしまって気づいたらまた改善するという日々です。自然を汚すような合成洗剤をはじめ、調味料、食品、その他、様々な人口加工物に溢れてそれが気が付くと身のまわりに迫ってくるからです。

だからこそ、食べるということは全部自分で管理できるものなのだから食べるところから生き方を見直すというのは本当に大切なことだと思います。

私自身、自然食養、自然料理というものも新たに取り入れて学び直していこうと思います。

変化のコツ

知識や技術は自分のものにすることではじめて実用可能な財産となっていきます。

いくら知っていても、分かっていても、ただ見てちょっとやっていっても、それが具体的な生活の一部になったり、自分の生き方と一体とならなければそれは真に学んだとは言いません。

よくちょっとかじってそれをさもわかった気になっている人がいますが、これは私もよく注意していることでそれは分かっただけで自分のものになったのではないとし、常に基本を維持するために何を継続するか、何に取り組む実践をするのかを決めています。

先日の発酵研修でもそうですが、料理の作り方や技術、考え方などは言葉で聴けて学べたとしても、その大前提とした生き方がどれだけ自分のものとして持ち帰ったかはその持ち帰った量とそれを持続している分だけが決意の量だと言えるのです。

人は様々ですぐに決心をして自分を変える人がいますが逆にいつまでも決心せずに流され続けている人もいます。

いくら決めましたといっても同じことに戻るのはよく自分に甘いからとか、自分が逃げているからなどと言い訳もありますが、本来の理由はそうではないと私は思います。それは単に自分を信頼することができない、だから怖くて勇気がない、自分が不信だと言っているのだと思います。決めたとなってもいつまでの決まらないときは、本心からの自分を信じる事が出来ていないと思って間違いないのです。

もしも変わると決めたなら、その後に行うのは失敗を恐れずに取り組む勇気です。そしてそのとき、決めたときの心をどれだけ自分自身が大切にできているかが関わってくるのです。自分に正直に、自分の大切にしたいと思っている側の自分の味方をしてあげるのか、自分自身が本当に望んでいることを信じてあげてそれを手伝ってあげるのか。

その際に、自分自身が先に分かった気になったことや、今までの刷り込みの知識などが邪魔して動けないのを思い切って捨ててでも新たな今の自分を信じてあげるという思いやりが必要になるのです。

そして思いやりをもったあと、本当の自分に正直にやりたいことをしていればそのうち怖くはなくなってくるのです。自分のやりたいことが、全体の貢献になるのなら別に誰かへの遠慮などいらない必ず自分のお役目を果たすと腹を据えてやっていればいいだけなのです。

そのようにまず何よりも自他への貢献を一生懸命に実践すること、そしてそれを続ける事、そしてそれを自分の人生でのお役目、つまりは天命にすること。そうしていれば、自分への信頼の積み上げと、いつでも変化を受け容れられる勇気を発し続ける事が出来るのです。

具体的にはどうすればいいかといえば、何でも「先手必勝!先手必勝!」と、自分を鼓舞し決めたことを後に延ばさず、考えるまでの時間をかけず瞬時に心で感じたことを頭に流されないうちにすぐに取り組むことこそが変化のための最大のコツであろうと思います。

何でも思ったら即行動、感じたらすぐに決断、気づいたらすぐに改善、常に勇気が滾々と湧き出しやすい「今、ここ」にいのちが輝いている状態の心で日々を大切にしていきたいと思います。

自他を活かす

3日間無事に研修が終わり、そのまま福山にて新人研修を行っている。

私たちの会社では、如何に学んだことを活かすか、何を持ち帰るのかというのを常に大事にしていてただ知るだけではなく、すぐに行動するという実践を何よりも大切にしています。

早速甘酒やどぶろくなど、実地研修をしながらさらに何に気づき、何を今後実践するかというものを定めることができました。

振り返りの気づきの中では、真の豊かさとは何か、また自分らしさとは何か、生き方とは何か、そういうことも語り合い、また本質についてなど語り合いを行いました。

私にとっては、このプロセスやこの時間が何よりも幸福なことでありお互いが気づき成長しあい貢献に結びついていくということに何よりの見守りを感じてしまいます。同じ時や同じ場所を共有するというご縁というのは、何かの深い関わりが存在しているのです。

心から祈るように、子ども達に貢献していこう、お客様に貢献していこう、会社のために貢献していこう、貢献、貢献と、常に自分を他にも活かしてみんなが円満になるようにと念じていくことが私たちの生き方を決めているように思います。

人生というのは、気づいていませんが確かな法則というものがあるように思います。

それは天地の道理ともいい、如何に天の受容の中で、人が精進していくか、言い換えれば、いのちの廻りの中で如何に成長していくかともいっていいと思います。

そこには素直に育とうとする心、皆様の御蔭だと感謝する心、そういった当たり前すぎて考えもしないことに気づいていくことが必要であるということを実感するのです。

今回の研修でも出会い新たに明確になったものがあります。
それは貢献というものは、如何に自他を活かすかということです。

自分だけで生きるというのは、何も活かそうとしていません。
そして他人の期待するだけの自分でいようとするのもまた、何も活かそうとしていません。

自他を活かすとは、自分を如何に周囲に活かすか、他を如何に自分に活かすかということなのです。そういう理念やスタンスで活きようとしているのが自然界であるのです。自他が活かせないことは自然界の中では共生と貢献ができないということになりこれが何よりも辛く苦しいことなのです。

自然を征服するような生き方を続けるか、自然に溶け込み合わせていく生き方か。
私たちは地上にいる無限のいのちの中で繋がっている一部なのだから答えは明確です。

新しい価値観に触れることも新鮮ですが、懐かしい価値観に触れることもまた新鮮なのです。常に旬を頂きながら、老廃物を取り除き、活き活き溌剌と自他を活かしていこうと思います。