言い訳しないとは

何かの物事を決めるのに、言い訳をしないというものがある。

言い訳があるのはある出来事の受け取り方や受け止め方というものに対峙するときの自分の生き方がどうだったかを顕します。例えば、責任というもの一つを取っても相手の問題でこうなったと思うのと自分の問題であると思うのと、もう一つの対応の改善するということではその処し方で本質が変わっているからです。

人間は自他のせいにして言い訳をしていたら、人はいつになっても成長しませんし、自分自身の生き方のことまで気づくこともありません。

以前、私は世の中で自分がとても嫌な気持ちになったり、あの人のせいでや、悪のせいでなど偏っていた経験も得てきました。そうした期間は、結局はそのもののせいにして迷走するばかりで自分自身がほとんど成長することはありませんでしたからそう思います。

しかしその後、次第にこれはひょっとして自分にも問題があるのではないかと思うようになり、自分自身の正しい反省ができていないのではないか、自分が変わろうとしただろうか、自分が清濁を丸ごと受け容れ転じて至善や本物の人格を持てるよう精進しているか、世の中は正しいのではないかと気づき、そののち矢印を自分に向ける中で言い訳が消えていったのです。

言い訳がなくなるというのは、自分に矢印が向いているときだけです。
そしてこれをよく間違うのは、相手のせいではなく自分のせいとするのはただ矢印が相手か自分かという行為でしかなく、これが迷走するということになるのです。

本来の自分に矢印とは、言い訳をしない、誰のせいにもしないということなのです。

それは当然、自分のせいとするのも言い訳、相手のせいとするのも言い訳だということです。

つまり言い訳をしないの本質は、誰のせいにもしないでじっと受け止めて強い意志と本志をやり続けていることなのです。

それができているときだけ、言い訳はなく言行一致しているのです。
そしてそれが本当の自分、本来の自分、絶対的な本心での自分に矢印というのです。

実践躬行や言行一致、知行合一というのは、自分のせいや他人のせいにするのをやめることをいうのです。よく考えて、間違っても自分のせいだなどと言わないよう、あの人のせいだと言わないような気を付けていきたいと思います。

これからも自戒を心に沈め何かのせいや誰のせいにもしないで言ったことは言った通りにやることにこだわっていこうと思います。

 

思い込みの罠

人は何かしらの思い込みというものを持っている。

その時代、その時代で、意識の中で記憶したものをそのまま同じだと思ってしまう事であったり、自分の意識に一度刷り込んだイメージがあれば何かを認識するとき常にその思い込みというもので想像を補っているという具合になる。

人の思い込みは、例えば食べものの好き嫌いであっても、ある人はウニが好きだけれどある人は嫌いとある場合は、その対話をするとき過去の何かの記憶やイメージで話をしているということになる。同じウニを食べたわけではないのに好き嫌いというのは思い込みであるかもしれません。そしてもう一つの例では、幸せの定義でも、幸不幸について語り合うとき、同じ幸せか分からないのだから幸せだ不幸だと話したとしても単に思い込みを伝え合っているだけの場合でもあるのです。

御互いが同じ体験を積んでいないのだから、それは分からないということです。

過去のある時代に残った書物を読んでいても、なぜその真意が汲みとれなかったり、その本質を味わえないかといえば、言葉は今の自分の体験からの憶測でしかないからなのです。

同じ体験をすれば成り立つ対話も、同じ体験をしていなければちぐはぐであるのです。
つまりは、御互いが同じものを持っているかを確かめているものが対話ともいうのです。

先生の「一生懸命やりましたか?」という質問に、生徒の「はい、一生懸命やりました。」がありますが、こんなのはおかしな話で、何を持って一生懸命かという前者も後者も同じだけの一生懸命かが具体的に分からなければ本来はまったく対話にならないはずなのです。

この思い込みでそのままスルーするということは、そもそも勘違いをたくさん産んでいるのです。それで話した気になっているのは大きな勘違いで対話になっていないことを意味します。

その人にとっての言葉は憶測で理解できたとしても同じ経験も体験もしていないものを分かったとはいいません。あくまで分かった気になっているということなのです。思い込みあいながら推測と憶測で進めるということはあまり効果がないのです。

やはり物事は理解することよりも大切なのは、実行することです。例えば同じく誰かのお役に立ちたいと一念発起したのであれば、その人と同じ体験を積むことだと私は思います。

それは簡単な言い方にすれば、同じことをやるということなのです。

よく語られる真心や徳というものは、理解している世界にあるものではありません。先人たちの言葉もこれはあくまで、心と形を日々の同時の実践を通して学びあっていくのが本質であろうと思います。

本当に人生は上手くできていると感心することばかりです。頭で分かっていても課題を解決できるわけではなく、文字通りそのものと一心一体になってそのものと同じになる努力が必要です。

大切な人たちと苦しみを分かち合うのも、歓びを分かち合うのも、悲しみを分かち合うのも、楽しみを分かち合うのも、人間であるという同じ体験が必要だからだと私は思います。

日々の小さな実践を増やしつつ、先人たちの道と同じ領域が掴めるよう理屈や思い込みを取り除きながら精進していきたいと思います。

自問自答と本気について

人が何かを行うとき、それが本気かどうかというものを確認することがある。

よく巷では本気といえば、その本気度が人それぞれ違うからと言われるけれどそれはあくまでその人がどれだけ深く自問自答しているかのことをいうだけで本気ということではない。

あまり自分で考えもせず、遣っている人は周囲から見ればあまり本気でやっているとは言わないし見える事もない。よくそういう人が注意されるのも、本気を出せという根性論で考える人もいるけれどそうではなく単に自問自答がまだ足りていないぞと言われているのである。

今までの一般的な学校教育を施されてきた人は、自分で考えるよりも先生の答案を探そうとする人が多い。先生が何か言えば、それの答えを言った人が褒められてきたし、先生が問題を出すのだから答えは先生が持っていることになります。

何か問題が起きれば本質的な人であるほど自問自答から入りますが、教育の刷り込みが深い人たちはそうではなく他問他答から探そうとするのです。

今、組織で起きている問題に自分で考えることができない人が多いというのは、その過去の教育の弊害があるからです。大事なことは、自分の頭で考える事、つまり自問自答して根本や根源、大本まで辿りつけば本気に出会うということを言うのです。

本気でなければ、何も実現しないのは自分が人生の主人公であるからです。
誰かに合わせて生きるような教育を受けてきましたが、本来はそうではなく自分に合わせて生きる事、つまりは自問自答することが人生ともいうのではないかとも私は思います。

そしてそれを学問というものです。

今の巷の学問は、実社会ではほとんど役に立ちません。

論語に、「子曰わく、古(いにしえ)の学者(がくしゃ)は己(おのれ)の為にし、今(いま)の学者は人(ひと)の為にす。」とありますが、つまり自問自答していることが学問でありそうではないものは学問ではないと喝破しているのです。

考えない人に自分がなってしまえば、それだけで自立する社会のお役に立つことができません。人が作業的動作的になる理由は、それは考えているようで考えていないことになってしまっています。なぜなら他問他問になっているからです。

作業的、動作的の反対は、本質的や根本的にとなりますがそれは自問自答かどうかによるのです。

実社会では答えなどない問いを求め続けることが求められます、なぜなら人が生きるということは、日々の生活を通した中で自分をより善く生きるということに他ならないからです。

これからも本気のままに、自分らしい人生を自問自答に楽しんでいきたいと思います。

新旧の尊重

いつの時代も、新しいものと古いものはでてくるものである。

生まれ変わるということもそうだけれど、今までのことを否定せず、これからのことを否定せず、どちらも肯定するにはお互いが尊重し合えなければできないことなのです。

そしてそれは古いものや新しいものの、どちらかだけに付加がかかってはいけないのです。

古いものは新しいもののために無理をして、新しくなろうとしてもそう簡単に古い価値観から抜け出すことはできません。しかし、新しいものは無理をしなくても新しい価値観を創造していくことができるのです。

同じく、新しいものは無理をして古いものを理解することはできませんが、古いものは無理をしなくても古い価値観を活かしていくことができるのです。

温故知新というものは、古きを温めてという書き方をします。

これは、古いものを否定するのではなく古いものを活かそうとする発想でもあるのです。

つまりは、古いものが活かせるからこそ新しいものを取り入れることができる。古いものを否定せず、古いものの能力や古いものの普遍的なものを活用することでより一層、新しいものが引き立たされていくのだと思います。

私はこれが分からず、古いものをどう新しくすることなどにとても心を砕きました。しかしよくよく観直せば、新しいものに古いものが合流する、新しいものが自由に羽ばたける時代がやってくるように古いものは古いものを活用するように促していくことが大切であったのです。

古きを温めるのは、古きものの方が先で古きものがそれを正しく活用するからこそ新しきものがそれを生まれ変わらせることができるのだと思います。

新しいことは今までを否定することではありませんし、それを拒絶することでもありません。

ないものねだりではなく、あるもの探し、足るを知るという観点がそれを打開するでしょう。
新旧交代を正しくするためには、まず何よりも互いの尊敬が必要です。

尊敬するというのは、御互いの価値観を無理に押し付けるのではなく、御互いの価値観を上手く活かし合おうという観点が入るのです。そしてそこに信が入ってきます。

これからもう一度、やり直すプロジェクトもありますが温故知新は尊敬と尊重からを基盤としまず自分から刷新していこうと思います。

天分のマッチング

人には自分に与えられた天分というものがある。

すべての自然のいのちも、その天分を活かそうとするようにみんなそれぞれに生きている。自分の持ち味や、自分の魅力、それが誰かの役に立てることほどそのいのちにとって幸せなことはない。

もちろん、自然の中にいたら、草花は虫や鳥、おおなる循環の中で自分が何かの役に立っていることを実感するから自分の天分を最大限活かすというつまりは自分の生を存分に発揮することがお役に立つことなのだと直結することができています。

しかしこれがもし、お役に立てていないと思ったのならば辛いだけで自分なんてという風にみじめな気持になるものです。自然の中だと、それでも必ず役に立つと感じるのは太陽も風も月も水もみんなそれぞれに絶えることなく続いているから自然にそれを理解するのです。

人間だけの社会では、それが見えずどうしても一喜一憂しながら天分を捜し歩いています。

そのものが元々から備わっている天命や天分というものをどう活かせるかというのは、自分で探す場合は自分から自分には何が備わっていてその備わっているものが何の役に立つのかを素直な心で自覚している必要があります。

同時に、その天分をたくさんの人に分かってもらいそれを活かしてくださる周囲を自ら見出しそこに近づいていき有限のいのちの中で自分の天命を果たすことで幸福な生涯を送れたとも言えるのです。

そしてそれはその人を中心とした周囲にも同じくいえることで、自分の天分を活かそうとすれば他人の天分をよくみてそれを適材適所に活かし、もっとも活躍できる場所、重用できるところで信頼して存分に活用していかなければいけません。それは分とは分けているのだから自他の分を活かし合うというのは、そのまま即全体の幸福を意味するからです。

もしそこに、自分正しく認識せず自分に都合の良い人ばかりを集めようとするならばその人は決して自分の思い通りになることはないのです。自分が活かせる人を探すことと、自分を活かせる人を見出すことは、人生の善きパートナー探しをすることに近いのです。

天分やマッチングというものの本質は、御互いが活かし合えるかということではないでしょうか。自分というものを正しく理解し、その自分を正しく活かす、これほど難しいことはあるのでしょうか、それはとても澄んだ状態でのみできる境地ではないかとも思え、それこそが自然体であるのです。

どちらかにとって都合の良いものは活かし合っている尊敬しあっている関係ではありません。
これは何よりも人との関係の重要なことで、何のお役に立てるかを互いに探し当てる旅が人の幸せに辿り着く道であるように今は感じます。

私自身、反省するところもばかりですが過ぎた過去は過ぎた過去、より善いことでお返しできるよう、当下一念、今をひたすらに正していこうと思います。

周回遅れ

成長は螺旋的に行われているとも言われている、そうすれば一つの円を廻り続けながら次のステージへと周りながら成長し続けているということにもなる。ちゃんと走った分だけ、次に回る円へと移動していくという具合であろうと思う。

例えば、その中で起きる事の一つに周回遅れというものがある。レースやマラソンとかではよく見るけれど同じところを走っている気になっていても、実際は自分が周囲と比べて何周か遅れてしまっているという現象である。

事故や脱線から走りに着いていけなかったり、正しい速度で周囲と走らなかったりすると起きる事だけれど、自分は同じところを走っているつもりでも実際は違うところを走っているという現象が起きているのである。レースでは決められた数があり、何周目かを表示されることで自覚することになる。

これはレースに限らず、様々な場面で起きる事です。

この周回遅れというものは なぜ起きるかといえば、自分で考えず他の考えを鵜呑みして自分の足で正しく走らなかったり、本質を捉えず問題や課題を避けて通ろうとしてしまうことで停滞したりまわり道をしすぎてしまい起きるということもあります。

こ一昨年訪問したオランダで同じように感じたことだけれど、日本の教育界でもオランダと同じ議論が行われているようで実際は何周も遅れているという話がありました。

以前の体験では、現場で子どもの環境の話を海外でするときに子どもにとっての善い環境は子どもが選択できるものだといい、そうだそうだと日本の教育関係者も現地の関係者も話がはずみ共感している場面をみたことがある。しかし実際に、今度は海外の方々が日本に来て実際の現場を見てもらうと、まったくそれがなっていない保育の環境になぜ彼らは先日の視察であんなことを言ったんだ、言行不一致だと不信に思われてしまっていることの方が多い。
話が外から見れば、深まっていそうな議論をしているようでもなぜかズレてしまっているというのは確実に周回遅れが発生しているともいっていい。歴史がそもそもどうであったかなども考えないし、途中から考えていても本質は見えないのです。

仕事でも同じく、分かっていそうで分かった気になっているというのには周回遅れが原因であることが多いのもこれと同じで、刷り込みがあるということなのです。

ズレが分からないからズレてしまっているとも言えるのです。自分で気づけないズレに翻弄されているとも言えるのであり、それは正しく自らの本質を捉えていないから起きるのです。

この刷り込みを取り除くには、心を平らに正しく素直に気づくことで、もう一度新しくスタートからやり直したり、ゼロから話を理解し直したり、現実を正しく受け容れたりと、まずははじめから学び直せるかということでもあるのです。

どちらにしても、周回遅れに自らで気づける感性があれば課題は解決することはできるのです。

ほとんどの人は「今、自分がいったいどこを走っているのか」を無自覚のまま、ただ走ったり走らされていることの方が多いのです。

そうやって走っていても追いつけないのを続けていたら、みんなとのペースも崩れてくるし、周囲との連係もうまく取れなくなるものです。自らが周回遅れということが起きないよう、ちゃんと現在の立っている場所、何周目にいるのか、ゴールまではどれくらいかなど、自らで考え自らメンテナンスすることで世界や周囲の中での自分との正しい距離感を保っていくことだと思います。

つまり本当の意味での周回遅れとは、「今の自分の地点」が正しく分からないということなのです。

目標と地点を正しく理解するためにも心を平らに現実を受け容れ、日々に確認しつつ、正しい今を積み上げられるように怠らず勤めていこうと思います。

気持ちの持ち様

昔から「あなたはやればできる」という言葉がある。

よく色々な人たちから、あなたはやればできる人だからと言われている人は多いと思う。
身近でもやればできるのにと残念がられる人たちもたくさんいるし、自分の中でもやればできるはずだと言い聞かせて頑張っている人たちもたくさんいる。

このやればできるという言葉の本質は何であろうか考えてみた。

そもそも人はできるかできないかの境界線はどこかといえば、その人のやる気の問題になる。
やればできるという言葉は、その言葉の前に必ず「やる気になれば」というものが隠れている。

それに気づかずに、なぜか自分はできるはずなのにできないと悩んでいても解決はしないのです。この「気」というものは、目には見えないもので気は「纏う(まとう)」とも表現されるように、一般的にはオーラとかエネルギーとか言えるものです。出来る人と言われる人は、できるかできないかのところで悩むよりも、自分が纏う気、オーラやエネルギーというものを大切にしているのです。

もともと「やる気」というものは、意欲ともいい、それをやろうと決めることでそれを持続させることをやる気があると言えると思います。このやる気というのは、まずやろうと決める事、そしてやろうとしたことを継続すること、やり遂げるまで諦めないことという3つのことができていることをいいます。

つまり、やる気とは、この3つを行えることをいうのです。やる気を引き出すというのは、この3つのことをできるようにすればいいのです。よく勘違いしていつもやればできるはずなのにできないと嘆く人は、この3つ気のコントロールのどこかに躓いているのです。

自分のやる気をどう引き出すかは、人それぞれに異なります。それを学ぶことをまずどうやったらできるかばかりを悩む前に自分の本当の気持ちがどうか、またその持ち様をいつもメンテナンスしておくことだと思います。

人は何でもまずは「やる気」の問題だということが、やればできるの本質であろうと思います。
「やる気満々!!」そういう人の周りには次第に楽しく元気な雰囲気ができていきます。

まずはやる気を育てていくために、自分のやる「気」や本「気」といった『「気」持ちの持ち様』を大切にしていきたいと思います。

他問他問の罠

人は誰かと対話をするとき、話をする人、話を聴く人というどちらかになる。
そして出会いというものは、その一瞬の邂逅で最適な質問ができるかどうかによる。

私の場合も、この人に会いたいと思ってからすぐに出会える場合と、すぐに出会えない場合がある。それはタイミングがあり、今ではないと思うときには会いたくても会えないと思っているから難しい。

この今ではないというのは、質問できる状態ではないということに近いものがある。
会いたいと思えば思うほどに、自問自答し、何を質問するかを真剣に考える。

それは師との面談でもそうだし、自然との対話でもそう、自分というものの対話でもちゃんと準備をして話ができる土俵に上がっているかどうかを吟味するから慎重になるのです。

大切な人に大切なことを教わる時、それは「永い時間温めた」という言い方をします。

企画書でも、永い時間温めたものや、言葉も自分が永い時間かけて温めたかというのが一瞬や一言で言い表せるのです。だから、実力がある人への質問や一般的には経営者への質問というのは自分が思いついたことを話してはいけないのです。

思い付きやその場での対応というものは、決して自問したものではありません。
上司の出し直しなさいは、考え直して出しなさいという意味で、これは自問してきなさいです。

言われたから反応しただけだったり、それは相手発信だからあわせただけで動作的なものが多いのです。例えば、「それを取ってくれる?であったり、あれをこっちに持ってきてくれる」というだけであるのです。しかし、もしも準備して臨んでいれば、相手から何かを言われる前に「これですねや、それはもう済んでいます」というように心地よく相手に対話をあわせていくことができます。

つまりコミュニケーションとは何かといえば、 相手のことを先に配慮し自分から寄り添い相手の問題を自分が解決することになっているかということでもあるのです。特に、仕事に情熱を傾けられる人は相手の問題を自分の問題以上に真摯に取り組むから一心不乱に取り組めるのです。だからそうしているうちに、仕事が上達するのです。

働き方として、そういう風に生きている人たちは成功します。自分の問題もやっていますがそれ以上に他人の問題解決に余念がないからです、協力する姿勢、お役に立とうとする姿勢が生き方としてできているのでその人は周りにいつも必要とされまた上達する好循環にのるのです。

そしてそれを具体的に実現するには、まず質問する力があるかどうかによります。
これは私の言葉の定義では、ちゃんと事前に自問してきたかということなのです。

言われたことをやるのは自問ではなく、他問ですし、自答ではなく、他答です。
他問他答していたら、一向に質問する力も、そして正しく答えを導ける力もつきません。

仕事で楽をおぼえてしまうのというのは、この他問他問の怠慢の罠に嵌っていますよとも言えるのです。だから私はそれを「わかった気になってはならない」と、その都度、その場で繰り返し自戒して、その自分で考えず答えに縋るような罠に嵌らないようにと習慣づけを行っているのです。

人と協力して何かを行うというのは、この力は何よりも鍵を握るのです。
そしてそれがビジネスでは何よりも大切な仕事の技術になるのだと私は思います。

いくら見栄えのよい企画書があってもダメですし、いくら話が上手な人でもそれではダメです、本質は質問してきたかということに尽きるのです。

自問自答を続けることは、学ぶことだと思います。
大切にしていきたいと思います。

癖

癖というものがある、この癖は意外と重要視されていないけれどその人の人生において大きく影響を与えるものである。

「なくて七癖」という諺にもある通り、癖がないと見える人でもよく見たら七つくらいは癖があるものであるという意味になる。

辞書でこの癖の意味を調べてみると、 1 かたよった嗜好または習慣。 2 いつもそうであること。ならい。ならわし。 3 欠点。非難すべきこと。 4 ある状態になって、もとに戻しにくくなること。5 そういう傾向になること。「怠け癖がつく」 (広辞苑)とある。

何かをやろうとするときどうしても邪魔をし、障害になるのは今まで身についた自分の癖であることが多いのです。以前、どのような生き方をしてきたか、過ごし方をしてきたかを思えば、長い時間をかけて間違ったことをしていたり、長い期間をかけて楽なやり方を身に着けたりして一度、その方法を自分の方法だと身に着くとそれをもとに戻すのが難しくなるのです。

例えば、食生活でも同じく食べたいものばかりを食べて偏食していた人が粗食に戻そうとしてもつい何度も外食を繰り返してしまい元の生活には戻れません。仕事でも同じく、一度自分の楽な方法を覚えてしまったら元のカタチに戻すことができません、例えば営業でも一度楽をして結果を出せる方法が身に着いたら、地道に丁寧に積み上げていくような営業のやり方に戻すというのはなかなかできないのです。

つまりは人間は習慣の生き物であるのです。

善い習慣も悪しき習慣も、その人の過ごし方などに出てくるのです。
そしてそれは無意識に行われるから自分の癖に気づけないということになるのです。

人は生き方を変えると決心するとき、まずその癖を見切り、その癖から修正していく必要があります。知らないうちについた癖であれば、まず自分の癖が分かりません。それにその癖を修正するには新しい癖をつけ直すしかないのです。

セルフマネージメントをするにも、コーチングが必要になります。
特に、誰にも言ってもらえないくらい偏屈に頑固になったらもう癖の塊になります。

言われた時にすぐに改善できるかというのは長い時間で大きな差になるはずです。
自らの癖に気づき、自ら癖を指摘していただき、自ら新しい癖をつけていくこと。

学問を通して、さらなる技術を学んでいこうと思います。

自他の癖

人は生来身に着けてきた癖というものを持っています。

一般的には仕草や行動パターンなどにも出てくるものですが、正確にはその人の今までの「生き方」が関係しているともいえます。過去に何かの癖がついてしまったものが、いつまでも抜けないというのは多々あります。朝寝坊もそうだし、遅刻もそう、飲み過ぎもそうだし、小さなことを観ていたら人はみんな癖があります。

自分がすべて問題の原因だと自覚できる人は、この刷り込みに気づきやすい環境が用意されています。自分はなぜか一生懸命に取り組んでいるのに、上手くいかないのだろうかと何度も挑戦しては失敗しているからそれを正しく受け容れる土壌があるのです。

癖と向き合うときは、それが原因だと気づいてその元を正すため自分がまだまだ本来の道理から外れているのではないかと覚醒し、それを行動とセットで本気で直すことができて可能となるのです。ここで間違うと気づいたら、そこをやめるために行動を正すという具合です。

この道理というものは、例えば親子の道理であれば親は子の幸せを望み、子は親の幸せを望むというものが道理なので、親が子どもを自分の思い通りに利用したり、子どもも親の文句をいって都合よくしようとしていたら道理から外れるのでその間は何をやっても失敗します。だからこそ、親子で尊敬・尊重しあい、いつも互いに恥ずかしくない生き方をするようにつとめていくしかないのです。

仕事の道理でいえば、三方よしというように売って喜び、買って喜び、みんなが喜ぶというようにしていくことが道理なので、もしも会社だけが喜んだり、お客様だけが喜んだりするのではなく関わる人たち、社会全体も喜ぶように全てが幸せになるように正しく勤めていなければやっぱり無理がきて失敗するのです。だからこそ、理念を尊敬・尊重し合い、いつも正しい判断ができるように恥ずかしくないような生き方に仕事につとめていくしかないのです。

特にこの道理というものを見失うのは、どこか過去の体験した刷り込みが影響します。
しかしこれも根治改善すれば、在る時を境にきっぱりと断ち切ることができるのです。

それは生き方を変えるために細部の癖を直し、細部の癖を直すことで生き方を変えるという具合に常に行動と考え方を正していけば、心も次第に変わっていくのです。

気づかないうちに得た癖は、自分から気づいて変えるしかありません。
お酒やタバコといったようなものも、同じプロセスでやめることができるのだと思います。
意志と勇気が要りますが、大切なものを守るために人はみんな取り組むのです。

難しいことですが、経営者やリーダーはそのことに対して厳しい決断を迫られるのです。
他人の癖と自分の癖の相性が間違いを続けさせますから常に見つめていこうと思います。