長老の木

昨日、古民家和楽の銀杏の対応のためにシートなどを設置しました。毎年、1万粒くらいの銀杏が実をつけてくれます。その銀杏を拾って、炭火で食べるのが仕合せで毎年仲間やご縁のある方々を招待して楽しんでいます。

短い期間に大量に拾えますから、とても数人では食べきれません。むかしもきっと、近隣の方々や家族親族で分け合って食べていたのでしょう。一気にとると、下処理が大変で辟易としますが毎日、落ちてくる分をその都度下処理をするのなら特に大変には感じません。

むかしの暮らしの時間では、この9月の1か月は銀杏祭りで毎日が美味しい食卓の一つの旬として楽しく味わえたように思います。

この銀杏の木は、あの氷河期を乗り越えてきた貴重な木だといいます。ほとんどの植物が枯れても生きているという、まさに生きる化石だといわれます。また同時に火にも強く、寺や神社、都市でも防火で植えられています。荘厳で長寿、まさに長老のような佇まいの木です。

私は、この銀杏の木が好きでもう20年くらい育てているものもあります。特に葉っぱの形や色が綺麗でうっとりします。銀杏の木陰もまた心地よく、木漏れ日が優しく穏やかな気持ちになります。

黄色に染まった姿に光が当たれば、輝きが反射してとても幻想的です。冬も間も、強い風から守ってくれていますし春の新芽もかわいらしくて瑞々しい水気を周囲に放ってくれます。鳥たちの休憩所にもなり、一年を通してあらゆる鳥たちがこの木に集まってきます。

この木の一生は、節目節目に私たち生き物のいのちを潤します。まさにご神木ともいってよい、長老の木です。

いつまでもこういう長老の見守りのなかで子孫たちが暮らしていけることは平和で幸せなことです。世間では、簡単に伐採したり自然から離れてさらに人間中心の世の中になっていきますがそこにこの銀杏の豊かさは失われて寂しさを感じます。

子孫たちのためにも、身近なところから自然と共生し、未来世代への責任を果たしていきたいと思います。

自分のままでいられる場所

自分のあるがままを受け容れるということは大切なことです。それができないと苦しでいる人が多いといいます。では、なぜその自分のあるがままを受け容れることができないのか。言い換えれば、自分のままではいけないという他者や周囲からの影響を受けるからです。

例えば、全部がまっすぐに同じ大きさと長さ、形で同じスピードでと求められる植物があったとします。他はみんなそう育っているのに、自分だけ他と異なる状態になればこのままではいけないと焦るものです。しかしどうやって演じてもそうならない場合は、自分を責めてなぜこんなことになど悲嘆にくれます。あるいは、開き直って諦めてしまうこともあるでしょう。しかし、周囲と比べて奇怪な目で見られたり差別や排除されると苦しくなるのです。

本能的に私たちは社会をつくりますし、周囲と調和したいと思うものです。生き残るためには、周囲のお役に立ちたい、自分の存在が認められたいと思うものです。だからこそ、頑張って自分もそうなろうと思うのです。

しかしその自分が周囲から求められる姿が、あまりにも自分とは異なる歪なものであれば本人はとても苦しみます。鳥にカエルになれと言われても無理ですし、蛇にライオンになれというのも無理です。しかし、人間の可能性は無限で特に小さな子どもならほとんどどんなものにもなれるような気もするものです。

人間は、誰がどのように育てるかで変わります。動物に育てられれば、動物のようにもなります。そうやって、どのようなものにするのかというのが教育というものです。

自分らしくいられなくなるはじまりは、みんな同じように金太郎飴のようになる社会設計に組み込まれるときにはじまっています。

お互いを尊重しあう社会というのは、持ち味を発揮する社会です。持ち味が発揮されるというのは、その人がその人らしくいることができてそれをみんなもわかっているという社会です。みんなもそれをわかっているから、それをそのままに活かそうとします。自分がこれを役にたちたいと思っても、もっとお役に立てるものがあるとみんなが気づいてその人を尊重できるのです。

その人らしくいられる環境というのは、みんなが持ち味を活かせる場があるということです。こうならねばならないという、無理や頑張りは心を痛めていきます。

居心地のよい場所は、自分のままでいられる場所ということです。

子どもたちにも無理をしないでいいように、場の大切さを感じてもらいそれぞれの個性や持ち味、自分らしさをみんなで活かしあう豊かで平和な社会になるようにその実践事例やモデルケースを場でととのえていきたいと思います。

場の原点

昨日から久しぶりに鞍馬寺に来ています。コロナもありまた色々とあったのでじっくりとお山に来てお話をする機会もありませんでした。改めて、感じるのはお山の持つ場の素晴らしさです。

私は、今、英彦山をはじめ場づくりをしていますがその原点はこの鞍馬山です。鞍馬山で修養してきた十数年が今の私の血肉になりこの感覚を忘れずに実践しています。私たちはお山を大切にすることで、お山からたくさんの気づきをいただきます。その気づきをもってまたいつもの日常生活に活かしていくのです。

太古のむかしから、私たちは言葉ではなくても場によって多くのものを気づいてきました。不思議なことですが、ある場所にいくとそこには何かがあるという気づきがあります。その何かというものが、私たちが気づいていく本体であり正体です。

そしてその場を大切に磨きととのえていく人たちは、たとえ寿命が尽きていらっしゃらなくなったとしてもその場所の他のいのちと共に存在し続けていきます。

私たちは自分や個人といった、自他を分けてものごとを理解するようになってきました。この言葉や文字などもそうですが、分けることで理解する仕組みから世の中は分かれているものとして認識するようになっています。しかし、実際の現実のこの世は分かれているものなど一つもなく渾然一体になっているものです。

この渾然として一体になっているものに気づいているかというのが、先ほどのお山でいただく気づきと同化しているのです。

あらゆるいのちや物質も、分かれているものは一つとしてこの宇宙に存在しないという真実。わかれていないからこそ、場がそれを伝えていくことができるのです。そしてその場を伝える人々は、その場に渾然一体となって暮らしています。

何かを教えるのではなく、何かに気づいていくこと。

人は気づいたことでしか、変わりませんし、気づくだけで救われる境地もあるのです。むかしの先人たちは、なぜ山に入り山で修養してきたのか。そしてその山をお山として心や魂の故郷を実現させていったのか。

この感覚を忘れずに、丁寧に自分の今いる場を磨き上げていきたいと思います。

聴福人の実践

先日、あることで松下幸之助さんの生前の講演動画を拝見する機会がありました。そこでは、私心を消すことについて謙虚にお話をされておられ色々と省みる機会になりました。

そもそも私心というのは、小我やエゴなど自分がという己の存在を過少過大評価をしている状態のことです。何物もでもない、存在している自分をよほどの存在として独善的になっていくと私心に囚われた状態になります。

本当の自信を持つというのは、難しいことでそれだけ日々に自分というものと向き合い、自分の中の私心がどうなっているのかを見つめ続ける必要があるように思います。

松下幸之助さんも、自分の私心が毎日出てくるからそれを危険だと思って気を付けていると。賢い人こそ、危険であるから要注意であると。賢いからこそ会社をつぶすことがあると、使い方次第であると仰っていました。

確かに、今の能力も才能もそして自分というものもそれをどう使うかというのは心が決めるものです。それを世のため人のため、そして社会のため世界のためにと自分を天から預かりものとして使うときは私心はなくなっていきます。しかし、それを自分のものだからと勘違いして特別な存在だと勘違いしてしまうと私心にまみれて判断がすべて己の方に引き寄せようと欲望に吞まれます。

この世のすべてはみんな天が与えた存在であると自覚すれば、天命というものの声も聴けるように思います。しかし、天命がわからなくなるのは自分勝手、得手勝手に勘違いし視野が狭くなるからのようにも思います。

視野の広さとは、自分はとても小さな存在と思えるとき視野は広がります。永遠から結ばれている先祖からの自分を感じたり、この世のすべてのいのちは繋がっていると感じたり、宇宙や星々、光や道を感じるときもそう感じます。しかし便利さや自分の権利が当然のような環境の世の中では、そういう感覚は麻痺してみんな私心まみれ我欲まみれになりたいように思います。

夏目漱石が晩年の境地に「則天去私」(天に則り私を去る=てんにのっとりわたくしをさる)ということを語っておられます。天命に生きることの要諦で、亡くなるまでずっとその道に挑戦されたことを想像できます。

また松下幸之助さんを尊敬されておられた稲盛和夫さんもこう仰っています。

「私心を捨てて、世のため人のためによかれと思って行う行為は、誰も妨げることができず、逆に天が助けてくれる。」

動機善なりか、私心なかりしかと、自問自答を日々に繰り返されたいたそうです。毎日、私心はないかと自分に尋ねるというのは本当に大切なことだと反省するばかりです。

最後に、私が大好きな良寛さんの遺した言葉だそうです。

「おらがおらがの「が」を捨て、おかげおかげの「げ」で生きよ」

感謝や御蔭様というのは、私心を毎日お手入れすることに似ています。自己の徳を磨いていくのは、それが天命であることを忘れないようにしていくためかもしれません。

よくよく反省して、自ら勘違いしないように周囲の声に耳を澄ませ、聴福人の実践を真摯に取り組んでいきたいと思います。

本当の自分に近づく

人間は自分の力を過信するときに、同時に慢心が生まれます。この過信と慢心は別の意味のように語られます。つまり過信は自分の力を信じすぎる、慢心は自分を信じすぎておごり高ぶるという具合でしょうか。しかし、実際にこの過信も慢心も同じ意味です。

そうではない姿とは何か、それは謙虚です。

この謙虚さというのは、ある意味自分というものの理解を正しくしているものです。例えば、自分ではないと思えるということです。今の自分があるのは、ご縁、ご先祖様、お導き、仲間や家族、あるいは私であればお山やお家、風土や先人の遺徳、自然、太陽、お水、あらゆるものが自分ではないものになっていきます。

その時、私たちは御蔭様に気づき、有難いと自然に感謝ができます。そういう自分ではないものの存在に気づくとき、その中にあり「活かされている自分」というものに出会います。

自分で勝手に生きているのではないし、自分の力だけで生きてきたのではないという事実を知るのです。

その事実を知るとき、人は過信や慢心というものから遠ざかり現実を受け入れ真実を見つめることができます。

どうしても自分に意識が行き過ぎれば、人は過信となり、そして自分の力でのみ乗り越えられると思えば慢心となります。結局は、事実として人は誰かの助けによって共生の原理によって存在しますから現実に苦しめられるだけになります。

だからこそ現実を直視して、活かされている自分のままでいることに徹することで事は成就していくのでしょう。それが謙虚さであり、本当の自分を知るということになると思います。

色々と勘違いして、私もまだまだ迷い悩む日々ですが常に初心や原点を磨きながら、周囲の御蔭さまと有難さに感謝をして本当の自分に近づいていきたいと思います。

場を磨く

弱っている場所や荒廃している場所が、活き活きと甦ると周囲の気配も空気も変化していくものです。不思議ですが、私たちの生きるところでは外すことはできない大切な場所というものがあります。

例えば、水が分岐するところにも神社を設けて清浄に保ち調えて祈ります。他にも、湧水が出てくるところ、あるいは巨石が鎮座するところなども同じです。

重要な場所には、それぞれに大きな役割がありその役割が全体を守っていたりするものです。風水なども、その原理や掟を守ります。

今では、観光的に便利で目立つ場所や商業的に繁盛をするところなどを大切な場所にして、むかしから守られてきた要所や場所をおざなりにしています。そこで気の流れも変わり、場所全体が荒廃に進んでいくものです。

人間だけがこの世にいるわけではないので、私たちは共生しながらもっとも自分たちの場所が居心地がよくなにはどうすればいいかを突き詰めてきました。そうすると、よくよく観察し大切な場所は丁寧にお手入れしていこうとする伝承が繋がります。

私が取り組んでいるのは、世間ではどうでもいいと思われて放棄され荒廃したところを地域全体最適や地球全体最適をみて、それを守り調えていくことで場所を守りその場づくりをしていこうとするものです。

子どもたちには、場を一つでも甦生し遺していく必要性を感じます。なぜなら、子どもたちは場によって育つからです。

場づくりは時間がかかり労力もかかりますが、場を磨き続けていきたいと思います。

大家族主義の徳

互譲互助という言葉を知りました。これは出光創業者の出光佐三さんの遺した言葉です。日本人は、本来、お互いを尊重しあい譲り合う和の精神がありました。それが個人主義で失われていくのは違うのではないかと、さらに和の精神を磨こうと発信されました。

出光興産のホームページには「互譲互助」がこう紹介されています。

『個人主義は利己主義になって、自分さえ良ければいい、自分が金を儲ければ人はどうでもいい、人を搾取しても自分が儲ければいいということになっている。ところが本当の個人主義というのは、そうではなくてお互いに良くなるという個人主義でなければならない。それから自由主義はわがまま勝手をするということになってしまった。それに権利思想は、利己、わがままを主張するための手段として人権を主張する。この立派な個人主義、自由主義、権利思想というものが悪用されているのが今の時代で、行き詰っている。

それで私はよく会議で言うんだが、「お互いという傘をかぶせてみたまえ。個人主義も結構じゃないか。個人が立派に力強くなっておって、そしてお互いのために尽くすというのが、日本の無我無私の道徳の根源である。自由に働いて能率を上げて、お互いのために尽くすというならこれまた結構である。それから自分が人間としてしっかり権利をもって、お互いのために尽くすというなら結構だ。」と言うんです。互譲互助、無我無私、義理人情、犠牲とかはみんな「お互い」からでてきている。

大家族主義なんていうのも「お互い」からでてきている。
その「お互い」ということを世界が探しているということなんだ。』

本当の個人主義とは何か、それはお互いが善くなると定義されています。そもそも自今主義は利己主義でもなければわがままするものでもない。権利思想が悪用されているというのです。

私はこの権利思想というものは、人権を含め、お互いを尊重しあうという意味で人としてとても大切なことだと感じています。しかし今の使われている権利は、戦うため、争うための材料になってしまっています。

そこで本来の意味に回帰しようと「お互い様」という日本の精神を説きます。みんなで自立するのはいいことだと、そうやって自立してお互いのために支え合うのが日本人の生き方ではないかと。そのうえで、自分の権利を保っていこうではないかと。その道の先にこそ、みんながお互い様で生きていこうとする大家族としての地球があるのではないかと、私はそう仰っているように思います。

自分の国や自分のことだけ、そのために奪い合い争い合うというのは平和的ではありませんし自然の掟に反するものです。自然は、よく観察するとお互い様で成り立っており、みんなそれぞれが尊重しあうなかでお互いに譲り合って助け合って存在しています。

例えば、野菜でもそれを育て見守り喜んで一生を歩んでいく過程でその作物や食料として私たちは食べていくことができます。そして種をいただき、その種を育てていくことで共に生のパートナーとしてお互いを見守り合う関係で家族になります。

思いやりをもって歩んでいくことで、このお互い様がはじまりそこに譲り合いという知恵が生まれます。権利と勝ち負けではなく、尊重と譲り合いが世界をつくるのです。

時代が変わっていろいろと世の中も毒がたまってきています。毒を取り除くには、日頃から毒を出すかのように浄化し続けることが必要です。この出光佐三さんの大家族主義というのはまさに今の時代に求められている気がしています。

子どもたちの健やかな未来のためにもお互いというところをさらに突き詰め、徳積循環経済の仕組みに挑戦を続けていきたいと思います。

未来の可能性

未来の可能性というものは、今の自分の能力で推し量ることはできません。それは未来が予測できないことと似ています。今の自分が、今こうなっていることを40年前やもっと前に予測できたかといえばほとんど予測できていません。そこには数多くの奇跡やお導きがあり、今に結んでいます。

ビジョンというものは、方向性を決めるものですがこうなると未来が予測できるものではないように思います。しかし、そうなると未来を信じるのだからその信じるものを実現するために自分の能力を磨いていくのです。

そうやって人は成長し、進化していくものであろうと思います。

しかし、あまりにも高い理想や現実の世界の価値観とかけ離れたようなことに取り組もうとなると未来の可能性がどんどん小さく感じるものです。本当に実現するのか、実際には不可能ではないかと不安にもなるものです。

実際には、小さく感じても小さなことからコツコツと挑戦をし積み重ねて可能性を広げていきます。特に自然を相手にしてみるとわかりますが、思いどおりなどにはいかず、自分を謙虚に素直に改善していくしかありません。

そうやってコツコツと取り組んでいると暮らしが次第に変わってきます。日々の日常の中で、変化が出てきます。その変化こそ、未来の可能性ともいえるものです。

実践するというのは、日常の暮らしから変わっていくものです。

時間がかかっても、未来の可能性を信じて知恵を活かす新たな能力を磨いていきたいと思います。

保存食の知恵

燻製の歴史を考えてみると、どこからどう誕生したのかを想像してみます。歴史をたどれば、今から13000年前くらいの石器時代にその原型があるともいわれます。それから古代ローマに入り、ゲルマン人が塩を使い保存し、その後はスパイスが混じり今のような燻製の形になっているともいわれます。

随分長くこの燻製という調理法は大切に伝承されてきました。煙を嫌う生き物たち、煙が如何に防虫防カビ、除菌などにすぐれているかに気づいた先人たちの知恵の御蔭で今私たちはこの調理法をもっています。

他には発酵や乾燥、冷凍、焼く、水で洗う、干すなどもすべて常温保存のための知恵です。特に水が多い日本では、水を上手に活かして保存していきました。どんぐりなどのアクの強いものも水にさらすことで食べれるようにし冬の間の保存食にしました。干し野菜や焼き米なども同様です。

つまりは、今のように冷蔵庫や保存料、防腐剤などがなかった時代、如何に栄養がありいのちが充実し飢餓や飢饉から身を守ろうかと生み出した知恵でもあります。特に燻製は、動物性の肉を保存するには最適でした。普通にしていたら腐ります。それが燻製になると腐りにくくなります。そこには熟成という知恵が働きます。

この熟成は肉の中に酵素という物質があり、それが肉のタンパク質を分解し旨み成分であるアミノ酸に変わる工程のことをいいます。酵素がタンパク質を分解するには日数が必要です、その間、腐敗に傾かないように塩漬けにしておきます。この塩漬けは、水分を脱水し味をよくするためです。水分が残ると腐敗がつよくなりますから、そこに塩を入れて腐敗の微生物たちをおとなしくさせておくうちに熟成するのです。

なぜ人は熟成するものを美味しいと感じるかというと、化学的にはタンパク質がアミノ酸やペプチドに変化し増量するからだといわれます。人間の舌はこのアミノ酸を旨味として捉えておいしいと感じるからだといわれます。また人間の体はのたんぱく質は、そのままでは吸収されずペプチド・アミノ酸に分解され吸収されますが熟成肉はすでにアミノ酸になっているのでそのまま栄養が吸収されるそうです。

肉は腐る前が一番うまいという言葉もあります。この熟成の技術は、食べるものをよく観察することで得られるように思います。むかしの人たちは、どこまで食べれるか、いつまで食べれるか、そしてどうすれば長持ちするかとその3つを真摯に研究してきたように思います。

今のような飽食の時代、ありあまり食料を捨てている時代にはわからなくなっているでしょうが本来は食べるという営みの源流はこの保存食の知恵にこそあります。

子どもたちに保存食の意味を伝承していきたいと思います。

天地自然の学問

早朝から鳥の鳴き声が聞こえてきます。鳥はなぜ鳴くのか、それぞれに縄張りを知らせるからや雌への求愛からなど一般的に言われています。私たちはほかの生き物を認識するとき、人間が特別で別の生き物は別のもののような認識をします。

しかし実際には、目もあり耳もありそして手足もあります。共通するところをよく観察すると似ているところがとても多いことに気づきます。違いばかりを探すよりも、似ているところを観察すると自分というものと同じところがあることを認識します。すると次第に、その生物のことを深く感得していくことができるように思います。

そもそも多様性というものは、尊重するために必要な言葉です。生物も何らかの天性や個性があり、固有の意識や魂もあります。それぞれに意味があって生まれてきて、この自然界の中で大切な役割を果たしていきます。それを尊重しようとするのが多様性を理解する本質だと思います。

鳥もまた、季節ごとに活動していますが自然の役割があります。その役割をよく観察するとき、豊かに生きることや仕合せであることなどが共通していることに気づきます。

鳥が鳴くのは、私の感覚では感情があるからです。単なる合図だけで鳴いているのでもなく、対話をするだけではなく、私たちが自然に感情がこみあげてくるように鳥にも同じように感情が湧きます。私は烏骨鶏を長いこと飼育していますが、その日その日の感情で鳴き声が微妙に異なっているのがわかります。悲しいときには悲しい鳴き声を発し、怖がっているときには怖がっている鳴き声を発する。自分の感情を鳴き声で伝えているのです。

私たちの体は感情を伝えるように機能が発達しています。例えば、目というもの。目は口ほどにものをいうともいわれますが目は自分の感情をそのままに現わします。鳥もまた同じく、苦しそうな時には苦しそうに目が表情を映します。楽しそうなとき、うれしそうなときも同じように表情が出てきます。

そしてこれは鳥に限りません、犬にも猫にも同じことがいえますしもっといえば、虫や植物にも同じことが言えます。つまりこの「感情」というものは、この地球のすべてのいのちに宿っている共通のものということです。

私たちは変に勉強しているうちに細部がわかっても全体がわからなくなっていきました。本来は、自分と同一であるということを忘れて人間だけが特別かのように勘違いしていきました。ここから学問は崩れ、専門家たちのものになり本来の天地自然を尊敬し尊重するという意識が薄れてきたように思います。

本物の学問は、天地自然を相手にするものだと私は思います。古来の普遍的な大道を生きた先達たちような生き方をこれから結んでいきたいと思います。