協力ができて一人前~自立の本質~

人間だけではなくあらゆる生き物には個性があります。個性とは何か、そういうことをまともに考える機会も少なくなっているように思います。私にとっての個性とは障碍のことですが、いくらその障碍が個性だといっても今では誤解されることばかりです。障害と思っているのは一体誰のことなのか、そして誰にとってのかということに刷り込みを感じます。

先日、「一人前」について考える機会がありました。

人はみんな一人前になれとか、一人前になりなさいと言われて教育をされてきました。私も学校では、一人でできるようになるように周りと同じことができるようにと教育されてきました。ここでの一人前の定義は、「一人になる」ことです。何を持って一人か、それは全体と同じ中の一人という画一的なものになることです。

しかし実際の世の中に出てみると、もちろん大量生産大量消費の一部として自分が存在するのならいいのですが人間は人間の間で助け合い協力しあって生きていきますから、「一人前」になることの定義は他人を頼れるようになることです。つまりは本来人間は一人で生きていくことはないのだから実社會における一人前は周りの協力を得られるよう「一緒になる」ことなのです。そして一緒になるには個性が必要です、個性とはその人が持っている持ち味のことです。私はこれをユニークさと言い換えてもいいます。

ユニークとは何か、それは唯一つの個性、一人前であるという意味です。

個性を否定してユニークさをなくさせることで一人前と定義している社会と、個性を尊重してユニークさを発揮してもらうことで一人前だと定義している社會はまったくその目指すところが異なっています。自分自身であることを我慢して障害というレッテルを恐れてフツウの人でいようと頑張ってみんなと同じようにしていたら、ますます孤独になり一人ぼっちになってしまうかもしれません。それよりも自分自身のままでいいと、今の自分自身を認めて周りの得意不得意を受け容れ周りに頼り自分を活かすことができるならその人は仲間にめぐり会い一人前のハタラキを発揮していくのです。自然の摂理である共生もまた同じく、すべての生き物は一人前として一緒に暮らしていく中で周りと助け合っているのです。

もしもあなたが自分と違う人が気になって矯正させようと思っていたり、何かしらの偏りがあったり見た目がフツウではないと思う人を偏見で決めつけたり勝手に思い込むのは自分の中に歪んだ個人主義の「刷り込み」があるからかもしれません。それをすべて「個性」であると思い直す時、人間は本当の意味で肩の力が抜けて楽になり自他の個性を丸ごと認めることができるように思います。

自分を活かすのも他人を活かすのもまず、その人に具わっている個性がありのままに観えてはじめてできるものです。御互いが得意不得意があるからこそ、御互いに助け合う必要が出て来ます。独りで完璧なっても一人になるだけで、一人前になるわけではないのです。人間の仕合せの根源は、思いやり助け合うことですから協力するということができて一人前であるのは疑いの余地もありません。

子ども達が本来の個性に目覚め、自分らしく豊かに社會で活躍し仕合わせに暮らしていけるように「協力ができて一人前」であることを働き方の実践で示していきたいと思います。

 

観自在の実践

先日、「あなたはここにある白い紙の中に、ポッカリ浮かぶ白い雲が見えますか?」というお話をお聴きする御縁がありました。これはベトナムの僧侶、ティクナット・ハンさんの「般若心経」の書き出しに書かれているそうです。

つまり白い紙と白い雲の関係が観通すことができますかという問いです。

手元にある一枚の白い紙は、紙になる前は木、樹木として存在していました。その樹木には水が欠かせません。そしてその水はどこから来たかといえば白い雲からというのです。白い紙が出来上がる間には、様々な人々や自然の恩恵が一つに関わり合いがあって存在しているという真実。その単独で存在するものなどこの世に存在しないという真実のことを『一如(すべては一つ)』といいそれが観えるもののことを観自在菩薩と呼ぶそうです。

私が思う観自在というのは水の姿です。

例えば「水」はあらゆるものに形を変えて存在しています。ある時は雲になり、ある時は、霧、雨、氷、空気、川、海、人、全ての中に入り込み寄り添いつつ形を変えて存在しています。これらは分かれているように感じていますが、実際は偉大な循環一如の中で分かれていることはありません。全てこの地球の中でめぐり続けて存在しています。もしも水がなければ私たちは存在することもできません。私たちが気づいていないだけでその恩恵というものは広大無辺であり実感するとまるで有難い存在に深く感謝できるのです。

人は自分勝手に目に見えるものをすべて自分のもののように偉そうに勘違いしてしまうものです。自分のカラダであっても自分のものだとして大事にせず、自分に纏わるものを自分勝手に解釈しては自分の都合に合わせようとします。その上、自分事のように割り切って他を思いやることもありません。

本来の自分事というのは、全体のことを自分事にしているかという意味であり自分勝手という意味ではないのですが歪んだ個人主義の影響で自分のことしか考えない人が増えたようにも思います。これでは全体を観通すこともできず、御縁の世界に気づくこともまた少なくなるように思います。

今まであったことが有機的につながっており、様々に結ばれ紡がれてきたものの一部として私たちは存在しているのですからその一つとして無駄なものは本来は存在していないはずです。自分に御縁があったものを、自分が天から授かった恩恵をどれだけ大切に生きるかはその信仰の強さにあるように私は思います。

天から授かったご恩を忘れない生き方の実践の中にのみ、観自在菩薩はいらっしゃるのかもしれません。そしてあなたや私たちがその自然の恩恵である観自在菩薩になるかどうかは、その人の感謝報恩に生きる生き方の実践が必要なのでしょう。

感謝報恩という言葉の中には偉大な循環が息づいており、ちっぽけな自我妄執などをはるかに超越した本物の自然存在としての自分自身の恩恵を丸ごと授かってままで活かしているということです。これを親祖たちは「もったいない」といったのでしょう。以前、どこかで見かけた自戒の言がありました。

「かけた情けは水に流し、受けた恩は石に刻め」

御蔭様の感謝の存在をいつも忘れないように、そして天から授かっている御恩に報い自分を活かし切るためにも、自我妄執を手放し、子ども達の未来のために観自在の実践を積み重ねていきたいと思います。

 

本物の暮らし~魂の伝承~

昨日は石見銀山にある群言堂本店に訪問し、他郷阿部家を見学し松場登美様と御縁をいただくことができました。

ここの全てを見学しながらすぐに実感するのは、随所に心の風景のようなふるさとの懐かしさです。場所場所に配置されているものはすべて御縁から頂いたものしかなく、その一つ一つにはすべて物語があります。天から授かったものを大切に向き合っていく生き方が、その気配りの随所に顕れていて絶妙な安心感に包まれる空間がありました。

そして松場登美様のお話の中で何より感動したのは、「暮らしの基本」のお話です。

そもそも人間に与えられているものには宗教、哲学、芸術があるといいます。そしてそれは暮らしの中に存在しているものです。その基本として感謝する気持ちが宗教であり、哲学は学問ではなく美しく生きることであり、芸術は子どものようにアーティストであることだといいます。そして暮らしの中にある長い間の文化が如何に美しいかを思い出すことが大切であるといいそのモノサシは「正しいかどうかよりも美しいかどうか」だと仰っていました。

私たちが本来持っていた暮らしはどこからか分断され今では経済優先、効率優先、お金ばかりで「もったいない」の意味もすり替えられてしまいました。本来のもったいないという”御縁をつむぐ”ような考え方ではなく、単に貧乏性のような用いられ方になってしまっているように私は思います。

私たちの暮らしを後回しにしてきたツケは、必ずこれからの子ども達にまわってしまいます。どんな未来にもどんな事業にも暮らしは欠かせないものですから「本物の暮らし」を見つめ直す時代に入っているように思います。如何にこれからの日本にかつての「本物の暮らし」といった根のある生き方を遺していくか、それは古いものか新しいものかではないのですから子ども達にその根を譲っていくために私たちもしっかりと実践しなければと改めて気づき直すことができました。

文化が壊れていくなかで何を遺していけばいいか、時代の変遷の中で何を大切に譲っていけばいいか、それは「本物の暮らし」であり、「先祖たちの真心」、それは「美しい生き方」であると確認しました。そして悠久のもの、古いものの全てには”魂が宿っている”からこそその魂が慶ぶ生き方や使い方をしていきたいと思います。

そしてこれからもずっと子どもは私たちの未来であり、子どもたちは先祖から譲られてきたクニの宝です。その子どもたちに何が遺せるか、そういう視点からカグヤでも今回の御縁を活かし実践を根気強く発信していきたいと思います。

御蔭様の奇妙な御縁に心から感謝しております。次回は、一家総出でぜひお伺いしてお世話になります。ありがとうございました。

 

いのちとは何か~病の根源~

昨日、あうん健康庵の小松健治先生にお会いすることができました。「医者が学んだ祈りの力 自然治癒のパワーを細胞に取り込む生き方」(幻冬舎)が出版された時にすぐに手に取り拝読した際に、私と自然観が同じでしたのでずっとお会いしたいと思っていました。

治療の前に対話を通して教えてくださったのが「自然治癒は楽になる」ということです。この楽になるというのは、自然の生き方になると楽(素直)になるという意味を直感しました。素直ではないことがあれば、病気というものが天から与えられてカラダがそれを見せて気づかせてくださる。

そのことに対して、どれだけ自分が素直になって向き合い執着を手放し、心、魂、肉体、つまりはカラダを直していくかということではないかとお話を通して私は実感しました。かつて、常岡一郎さんが「病は天からの手紙」ということを仰っていました。そしてその人がその手紙を読んで如何に自ら「手放せるか」ということについてのやり取りをお聴きしたことがあります。

そのことと同じように、自らが長い年月でつくってきた執着や固執がカラダに沁み付いたものをどのように素直になって自然治癒していくかということを感じました。自然治癒には勇気が必要で、自然と向き合い、不自然を直す勇気が要ります。その勇気は希望になり、その人のカラダを原点回帰していくことができるように思います。私たちのカラダもまた自然の一部分でつながっていますから信じて手放すことによって元気に戻っていくのでしょう。

人が元気がなくなるのも病気になるのも、不自然なことを続けていくからです。不自然が分かるというのは、それまでの刷り込みが取り払わられるということです。まず自分の刷り込みに気付けるかどうかは、自分のカラダから出てきた兆しを素直に受け止めることができ、その上で素直に手放すことができるかによります。

古語にある「病は気から」というのは「元気ではなくなる」という意味なのでしょう。本来、私たちには元気があるのだから自然から与えられるチカラを存分に与えられるからカラダのままで御気楽極楽に生きていきたいと思います。

小松庵主と奥様にお会いできたことで、本来の人間の根本、そして病の根源とは何かを考え直す新たな機会になりました。いのちといのりによる自然治癒の生き方を体現し伝承しつつ、引き続き子どもたちが安心して暮らしていける世の中を譲っていくためにも、学びを深めて実践を高めていきたいと思います。

一期一会のご縁に深く感謝しております。

 

リーダー~責任感とは何か~

人は誰しも自分の人生に責任が伴うものです。自分自身であることは自分の人生に責任を持つということです。その自己責任を深めるとき、それは常に覚悟のことを思います。どのような覚悟を決めるか、そしてその覚悟をもってどのように生きるかということを感じます。これは生き方を決めるということに似ています。

人はどんな星の下に生まれてくるのか、それは誰にもわからずその人の持って産まれた天運だとも言えます。その生まれ落ちたところの星に従ってその人の人生が廻りますからその時々の人生の幸不幸をどう受け止めて、今の自分を受け容れていくかは自分の足で立ち、正直に人生を歩んでいくための最初の課題であろうとも思います。

正直に歩むと決めて歩み始めれば、必ず日々様々な困難に出会います。その出会いの一つ一つを大切にしていくことで、本当の自分に出会い、本物の自分の心を知るように思います。「自分になる」ということはまさに「自分である」ということであり、それは嘘偽りない素直な自分で生きていくということです。

しかしそれを邪魔するのは、今の自分に対する不足や不満、何でも他人のせいにしたりすることで次第に素直ではなくなっていきます。そういう時こそ自分に矢印という言い方を私たちはしますが、自分自身が自戒を持つことで一度きりの自分の人生で生きられ、周りのお役に立てる仕合せに出会えるのではないかと私は思います。

自戒といえば、「徳川家康の人生訓」というものがあります。自分自身の責任を自覚し、その上で自分の脚で積極的に歩くということの大切さについて自戒しているように思え大変共感しますのでご紹介します。

「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし
急ぐべからず
不自由を、常と思えば不足なし
心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし
堪忍は、無事のいしずえ
怒りは、敵と思え
勝つことばかりを知って、負くることを知らざれば、
害、其の身に到る
己を責めて、人を責めるな
及ばざるは、過ぎたるに優れり」
(慶長八年正月十五日)

全ての責任は自分が負うという覚悟、言い換えればどんな人生であっても積極的に主体的に生きるのは自分自身だという覚悟、受け身になり逃げようとはせず、常に積極的に主体が減退しないように「全ては自分の責任である」という自分に矢印を向けているのを感じるのです。

もしも全ては自分の責任だとし、他人のせいにする人生をやめてしまえば全ての問題は自分の中にあることに気づけるものです。自分の中にあるのだから、自分の方を変えていこうということに迷いもなくなっていきます。

覚悟というのは結局は自分に矢印を向けているかということに由るのです。

どんなことも決めるのはたった一人の自分次第です。

自分が決めるからこそ、周りもまた決めることができます。自分が決めた人生はどんな結果が待ち受けていても悔いもなく、また清々しいものです。生き方を決めるということや、初心を定めるということは自分の人生を自分で歩むということを決断したということになります。

自分自身が自分自身のリーダーになることで自分自身が自分自身のことを認めますから、周りもまたその人を自分のリーダーと認めるのかもしれません。自分自身のリーダーは自分自身、リードしていくのは自分なのだとし責任感を持ち常に矢印を自分に向けて精進していきたいと思います。

 

いのちのままに

昨日から鞍馬山に来ています。

不思議ですがこの山に来ると、いつも何かに包まれている感覚になります。もう何年になるでしょうか、子ども達の御志事をいただき参拝させていただくたびに山の気の有難さを感じます。

昨日も鬱蒼とした雨の九十九折坂を歩きながら、山全体と共に生きている波長や波動のような振動に触れては自然に包まれる御縁を感じていました。

私たちは出会いに包まれることで御縁に気づきます。その御縁に気づけば、自然に感謝する気持ちになります。それは私たちも同じように目には見えないものに包まれて活かされるいのちの存在だからでしょう。

いのちの存在は空気、水、火、そして宇宙、そういうものにいつも包まれています。

当たり前すぎて分からなくなったいのちの存在を、もう一度思い出すことの大切さは私たちが謙虚に生きてきたことの生命の記憶に触れていくことです。そしてそれを祖親は御縁といい、その御縁を感じる心を勿体ないといい、この世には一つも無駄なものがなく役に立つことという本質を今までカタチにして伝承してきました。

常に変わらず御指導いただける御縁によって、自分の真心を鑑にして徳磨きは高まっていくものです。人生の砥石は日々の初心の内省と、我執の削ぎ落としと実践による研鑽にこそありますが、時折、清水を沁みこませるように真心を洗い清めて静かに包まれていることを見つめ直す時間は人生にとってかけがえのない仕合せの余韻でもあります。

自然の厳しさの中には慈しみがあります。そういう厳慈の愛に包まれている私たちが包まれていることを思い出すことは本当のいのちの豊かさの意味に気づくことに似ています。

いつからか私たちは大自然の暮らしから遠く離れてしまい、同時にいのちを見つめることがなくなってきました。いのちに近づくとは、自然に寄り添ってみるということです。

自然は私たちよりもずっと長く悠久の歳月を暮してきました。

だから自然は私たちの先生です。

先生はだからみんな丸ごとで先生です

本来の先生は人間が偉そうにすることではなく、丸ごとみんな先生であるということを自覚することで全てが先生になっていきます。一視同仁、いのちの先生の言うことを素直に謙虚に聴けるいのちの生徒としての師弟一如の真心をこれからもあるがままのいのちのままに歩んでいきたいと思います。

 

尊

台風が通り過ぎると、とても空気が澄んで空が眩いほどに光り輝いてきます。空に流れた濁流が水と一緒にあらゆるものを風とともに持ち去ってくれます。そのあと、またすべての生き物たちがゆっくりと出てきてはいつものように活動をはじめます。

太古の昔から今までずっと、自然は地球の一部です。

その地球の一部である私たちは言い換えれば自然の分け御魂です。分け御魂とは、その大きなものの一部であるということで地球そのものであるといってもいいのかもしれません。そして地球はまた宇宙の一部です。

そうしてみると、あらゆる気象の変化は私たちであり、そしてあらゆるいきものたちの存在も私たちだと言えます。みんな同じ一つを分け合っているのだからすべてのことに共感する宇宙自然を持っているということです。

これらの宇宙自然の感得というものは、尊敬により顕現します。

西郷隆盛は「敬天愛人」と言いました。

あらゆるものを尊敬し、その真心をもって人を愛すと。

宇宙をはじめすべての目に見えるもの見えないものもすべて尊敬しているか、当たり前のことを忘れて非科学的だとか宗教だとか言う前に本来の人間としての初心を忘れないで生きたいものです。

自然の中に在る分け御魂としての依代になれるよう、真心を澄まして洗い清めその魂を磨いていきたいと思います。

 

人類の未来予測

昨日、新潟のカマキリ博士こと酒井與喜夫先生にお会いすることができました。以前、「カマキリは大雪を知っていた」(人間選書)を拝読し感動してずっとお会いしたいと思っていた方です。

お話をお聴きしていると、その範囲は丸ごと自然全体に及び、カマキリだけに限らずあらゆる生き物たちの声を聴いて未来を予測していました。それは単なる天気予報ではなく、人類の未来の予測といってもいいかもしれません。

人類がこれからどう生きていくか、自然災害に対してどう生き残っていくか、本来の私たちが長年何を大切に暮らしてきたかを考えさせられる機会になりました。

昔から私たちは「民間伝承」というものが口伝でたくさん残っています。それは先祖たちが、長年の自然の観察をもとに分析してきた財産とも言えます。それらはすべてマグレではなく、場数によって得られた智慧です。

例えば、本来の農家の農は、自然に精通している農の農です。今の農は、農学を優先しあまり自然の姿からの洞察を重要視しません。本来の職業の本質は、昔は学ではなく道としてすべてそのもの(自然)と対話する中で磨き上げれてきた智慧集類とも言えます。

道から離れて文字や記憶にある学だけを正しいと信じるということ自体が自然を見失っていった原因ではないかと思います。文字や記憶にないものは、そのものが必死に生きているという現実味です。現場というものは、常に真摯であり必死です。生き残るために必死ですから本来の本能が働いています。今のように平和ボケしてなまってしまったセンスではなく、本来のセンスがハタラキあらゆるものを感受感得できたように思います。

そういう目に見えないものを観る力があってこそ、見えるものを素直に観ることができるように思います。世の中は、常に見える世界と見えない世界が合わさって丸ごと動いています。見える世界ばかりを知って、さもそれだけが正しいと思い込めば見えない世界があることを信じなくなります。もしくは見えない世界だけを信じて、見える世界をなおざりにすると見える世界が知らせてくる兆しすら感じられなくなります。

自然を見つめるとき、それは見える世界と見えない世界の両方”丸ごと”で理解していくのが自然そのものの智慧の理解であろうと思います。そしてそれは、自分の手と足、目と耳、全ての感覚を遣って「カラダ」で理解していくものです。「カラダ」は見える見えないに関わらず、全身全霊で必死ですから本来の智慧を感受できるのでしょう。

それが自然の智慧そのものであり、私たちに具わっている生きる力の源流です。

酒井先生の毎年1万キロに及ぶ、数十年の観察を通した生き方から自然の周波数とは何か、本来の未来予測とは何か、そして結びの中にある声聞縁覚とは何かをもう一度見つめ直す有難い機会になりました。様々なことを学ぶには第一に謙虚さが必要で、その謙虚さは常に丸ごとで自然に寄り添うことを肝に命じたいと思います。

自然界の生き物の中でもっとも自然災害に弱いのが人間ですから、その人間がこの先の気候変動の中でどう生きていけばいいか、子ども達にも自分たちの生き方が譲れるようにさらに実践を高めて精進していきたいと思います。

有難うございました。

本元の味

昨日、ある方にお会いすることができました。ずっと以前から知っている方でしたが、ご縁はいつも不思議で「場・間・和」の織りなす今のタイミングをいただけます。あの頃ではお会いしても全く分からなかったと、今、過去を振り返れば思うものです。

自分が通ってきた道の延長上にいらっしゃる方とのめぐり会いというのは、自分が通っているからこそその存在の価値を認識し、まるで過去と未来が回転します。

改めて道縁の素晴らしさに感謝するばかりです。

人は無意識ですが、風土の魂が宿るのではないかと私は思います。その風土とは、この私たちの住まう土地のことですがいつもそことつながり結ばれているのが私たちのいのちのように思います。

だからこそその自然の中には風土の魂ともいい、そういう人物のことを大和人と呼ぶのかもしれません。私自身の中に流れるその大和魂との邂逅も、道縁によって顕現してきます。

昨日は、ワークショップについてや様々な西洋からの教育手法についてのお話を拝聴することができました。この方の素晴らしいのは西洋から来たものを自分で美事にアレンジし、自ら風土に合うように仕上げていくところです。それはまるで海外の料理を、日本人が日本に合うようにアレンジしまた世界に返り咲かせるかかのように日本の和の精神を存分に取り入れたものに調理していきます。

私が目指した味付けをもう随分と先に現場で実現されており、ただ感動するばかりでした。なぜそうなるのかと内省するとき私が直観したのは、そこに「師弟一体心の境地」を感じました。

これは、日本の職人文化に似ています。師が全身全霊で弟子のことを思い、弟子も命がけで師を思う、その間、まるで自他一体の真心で智慧を受け継ぎます。そのようにして様々なことを結和させたのではないかと、これは智慧の感得力です。

そういうそもそも別であるものを自分のものにしていくチカラというのは、風土の魂や和の心が存分に発揮されたものではないかと私には感じます。そしてそういう人だけが「本元の味」を知っているのでしょう。本元の味を知るからこそ、様々な文化を含有でき異質なものを融和させていくことができるように思います。

本元の味が分かる人物に出会えるというのは、本当に仕合せなことです。
御蔭様の御引き合わせと、めぐり会いに心から感謝しております。

子ども達の未来のためにも引き続きこの縁起と学問を味わい楽しんでいきたいと思います。

自然の世界

私たちは無意識に自分の観えている世界が世界だと信じ込んでいます。しかし実際に虫の目や動物の目には同じものが観えているとは限りません。また目がついていないと思われている生き物、菌類や植物でさえその感覚器官を通して観えている世界があるのが実際の世界です。

例えば、色であっても私たちが観ているように花が観えているかどうかは分かりません。それはまるで特別な嗅覚で花のあるところを探し当てる昆虫たちや、生き物の残り香をかぎ分ける動物たちのように私たちには臭わないものでも彼らには臭うのです。

色も同じく、紫外線や毒のあるなし、危険かどうかも彼らはその模様や色で識別しているのではないかと思います。以前、庭先で一緒に暮らしている烏骨鶏の小屋にアシナガバチの巣ができたのでそれを切り取り下に落としたことがあります。もう成虫になり飛べる状態で下に何匹も落ちましたが烏骨鶏はそれを食べようともしませんでした。日頃あらゆる虫を食べるのに、一切食べようとも近づこうともしませんでしたからきっと彼らの持つ臭いや色、模様、何かが気になるのでしょう。

私自身も、昆虫や生き物と触れるとき、なんとなく嫌な予感があるものは毒があったり攻撃的であったり、気分が悪くなったりしたことがあります。無意識ですが、昔は観えていた感覚が残っているのかもしれません。

私たちは知識がなくても本能というものがあります。その本能は、知識を持つ以前から体験や経験、または感覚を進化させて他の生き物と同じように自然界の中で生きていくための智慧として発達発展させてきたように思います。

今になってみたら、人間のみの人工社会の中で森や自然の中にいるわけではないのでそういう感覚は減退していくのでしょうがあの虫たちや動物たちはその感覚がなければ自然では生きてはいけません。

自然に照らせばどのような意識で自分がいるのか、その観えている世界が変わっているということの自覚が必要です。自分が観たい世界があるのなら、その観たい世界に合わせていくことでそれまで観得なかった世界が近づいてくるように思います。そのものを理解するのなら、そのものに近づく努力と実践があってはじめて近づくのでしょう。

自然の智慧は、そのものに近づこうと本能から真似をするところからはじまります。そして本能を呼び覚ますのは、もともとの野生を取り戻していくということです。そしてそれは自然に近づいて自然と共に暮らしていく中で研ぎ澄まされていくのでしょう。知識で暗記する以前の祖神たちは、きっとその自然の世界が当たり前に観えていたのでしょう。

本来の自然の世界が分かるとなってはじめて、あらゆる多様な自分を獲得していくことができるのかもしれません。変化成長のコツはこの自然からの獲得に由るように思います。子ども達のためにも、自然からの学び直しの自己実践を譲り遺していきたいと思います。