一期一会の糸

日々は様々な出来事が滝のように流れていきますが、人の一生は誰にせよ当たり前ではないことに包まれています。当たり前ではないことを言い換えればそれを「奇跡」と呼びます。

人の運命は人それぞれで異なり、霊妙数奇な組み合わせによってご縁が彩られます。あの時、あの一瞬で自分が変わったという体験が今の自分に出会わせています。

そう考えてみると、どれだけ必死に今を大切に生き切るかというのが当たり前ではない奇跡を味わえるということになるのです。

奇跡とはラテン語の古語によれば「驚き」のことを指します。驚きとは人智を超えた何か偉大な力が働いているということです。この驚いた出来事に遭遇する、その奇跡がミラクルという言葉になっていきます。

それに対して日本では御蔭様や有難い、勿体ないという言霊があります。これもまた奇跡に出会うからこそ顕現する言葉です。

人間はなんでも自分の思い通りにしていくことに執着する人や、自分の野心や願望ばかりに囚われていると、足元にある本当の倖せや、他人様から頂戴した思いやりや真心に気づかなくなるものです。そういうときは驚く心や感謝の心を忘れてしまっているかもしれません。

人は自分勝手で生きているのではなく自分が全体に活かされているという一期一会の実感は、当たり前ではないという奇跡の今を歩んでいく中でこそはじめて磨かれていくように思います。

出会いで人格を高めるということは、全体に活かされていることをいつも学び気づき直すということでしょう。

数奇な運命を生きるわたしと、数奇な運命をいただくわたし。
この「驚き」と「感謝」こそが一期一会の糸を結びます。

悠久のめぐりのなかで出会う自己との内省と対話こそ生活の基本です。

一期一会は私の自戒ですが、時は誰にせよ等しく過ぎ去っていきます。いちいち小我に呑まれてできそうにもないことに妄想を走らせず、自分の野望や願望に固執せず、二度とない今に素直心を定めて、訪れ来たものを選ばずに一期一会の糸を紡いでいきたいと思います。

御米

私たちは親祖よりずっと御米を食べて暮らしてきました。

それは国内にある様々な遺跡の中から、炭化した御米が発掘されていることからわかります。縄文遺跡の以前は、陸稲を中心に栽培され、弥生遺跡以後は、水田を中心に栽培されています。

そもそも私たちは自然の一部ですから何と共生をするのかを選択して生きています。この共生とはなくてはならないいのち同根、生死一道の関係のことです。その共生の相手に御米を選んだというのが私たちの親祖です。

人は食べたものでできているものです。何を今まで食べてきたかを観れば、その人のからだが何でできているのか、どこからでてきているのかが理解できます。その元を知ることが自分を知ることであり、その根を確かめることが自分を実現させることのように私は思います。

日本の全ての行事は御米と一緒に学んできたことがカタチになっているものです。それが今では私たちが一番長く食べてきたものを育てたことがないということに大変な危険を覚えます。古来からあるものから離れるということは、自分たちの姿を正しく理解できなくなるということでもあるからです。

御米作りというものは、一生涯の働きであり、御米を食べるということは私たちがなんであるかを知るただ一つの道だと私は感じています。

日本の自然思想家であり医者である安藤昌益という人物がいます。この方の「自然真営道」という著書の中で下記の一文があります。ここに御米とは何かということの真実が書かれているように思うので紹介します。

「米(こめ)は神と同音、米(よね)は世根、稲は寿根(いのちね)の略。稲荷とは人の神身皆稲なれば人常に稲を荷(にな)ふ意。飯は命師(めし)又は身師(みし)の転訛。寿(いのち)は飯中(いいのうち)の略。迷は米吾(わ)を去りて他にゆく意。即ち食を離れた時の心理状態に名づけしものである」

つまり古来、御米こそ日本人のいのちの糧であり心であったということです。

自分がどこから来たのかというのは、これからどこへ向かえばいいのかを自覚する唯一の鍵です。その鍵こそ私は御米であると確信しています。

今年もまた自然に沿った御米作りがはじまりますが、ここで御米から学んだことを後世のために譲り、そして人類の初心のために活かしていきたいと思います。

 

執らわれない

人が一人前に仕事ができるようになるというのは、様々が定義があるように思います。例えばそれは技術力が極まりミスがなくなることという人もいれば、結果が出せるようになるという人もいます。しかし私が思う一人前は思いやりで仕事ができるようになることであり、なるべく周りに迷惑をかけないようにしていくことのように思っています。

実際、人として当たり前のことができればそういうことは少なくなってきます。しかし実際にそれは大変に難しく、日常の挨拶から片付け、情報共有や労い、御礼など言い出せばきりがありませんが心構えができてその一つ一つのことを実践できつつも同時に一つのことに執らわれない心を如何に持てるかということが大切ではないかと齢と体験を経るたびに思えるからです。

どれだけ自分に打ち克ち我儘をしないで周りを思いやれるかは人間人格修養の一生の課題かとは思いますが、仕事というのはその人格を磨くための大切な機会になっているように私は思います。仕事が面白いのは、そういう自分の心を高め磨くリハビリにもなっているからです。

私がよく讀み直す大好きな本の一つに、千日回峰行を満行された塩沼亮潤さんがいます。この方の著書「執らわれない」(PHP研究所)の中にはその人生体験の中で得られたことを自分の言葉にして紹介している箇所がたくさんあります。

ここで仕事の思いやりについていくつかご紹介します。

『自分が正しいからと言って、強さが先行して優しさに欠けたり、心配りが足りなかったりすると、陰で涙を流す人がいたりします。ちょっとした加減で微妙に変化する人生は、方程式のように毎回同じようにはいきません。』

人は得てしてうまくいったパターンにとらわれてしまうと自分が正しいと思い込みます、そしてそれをやることが一番なのだと周囲を省みずに強引に進めていると周りを知らず知らずに傷つけてしまうものです。独りよがりの正義は思いやりを内包しませんから、正しいよりも楽しい方を選んだり、正しいからいいではなく真心を籠めるという力をつけなければなかなかみんなが倖せになるような行動ができないものです。私もいつも気を付けていますが、どうしても理想と現実の中にある中で頭で思い込み刷り込みに負けて真心や感謝が欠けると人間関係に失敗をしてしまうことばかりです。

『みんなのためにと思って行動しているときに、何か一つのことにとらわれすぎると、周囲との隔たりができたり、ものごとが裏目に出て、逆にみんなに迷惑をかけてしまうことがあります。』

よく法理法則では「部分最適ではなく全体最適を」という言い方をします。人は自分の考えに固執するのではなく、よく周りの意見を聴き相手を慮り譲歩しながら歩むならあまり行動が裏目に出ることもないように思います。きっとこれでいいはずだという思い込みは、不確定な状態では頼りになるのもしれませんがいつも心を周囲に開いていたり、真心や思いやりを忘れないように小まめに自己内省していき聴く姿勢を正していくことが本質的に迷惑をあまりかけない方法かもしれません。

どちらにしても「執らわれない」という塩沼亮潤さんが目指す理想が、私が目標にする姿と一致してその生き方に共感することばかりです。離れていても共に歩んでいる道があること、真っ直ぐに歩まれているその有難い存在に深い感謝を覚えます。

『強くなんかない。清くなんかない。唯そうありたいと、願い続けているだけ。人の一生はみじかい。いかなる道を歩もうか。思いなやむことなく、唯この道をひたすらに。』

執らわれない実践を積み重ねて歩んでいきたいと思います。

自他の尊重~聴く真価~

ブログで何回か聴くということについて書いていますが、改めて聴くことの大切な意味を感じます。人は人の話が聴けなくなるとき、その身が亡ぶと言われます。それはなぜかということです。

諺に「聞くは一時の恥、聴かぬは一生の恥」があります。

「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥とは、知らないことは積極的に質問するべきだという教えです。つまり知らないことを人に聞くのは、そのときは恥ずかしいと思っても、聞かなければ一生知らぬまま過ごすことになるので、そのほうが恥ずかしい。知らないことを恥ずかしがったり知ったかぶったりせずに、素直に聞いて学ぶべきだという教えということです。」(故事ことわざ辞典より)

人は自分というものがありますから、自分の中でだけで物事を整理していたらそのうち現実からズレてしまうものです。それは人間には自我感情がありますから次第に感情の影響を受けては現実が捻じ曲げられてしまうのです。いくら物事をあるがままにありのままにみていると本人が思っていても、実際は自分の感情が入り込んでいる現実ですから様々な執着がこびりついてしまうのです。

そういう時、優れたリーダーというものは必ず自分に意見するものを近くに置くものです。松下幸之助さんはこういう言葉を遺しています。

「よく人の意見を聞く、これは経営者の第一条件です。私は学問のある他人が全部、私より良く見え、どんな話でも素直に耳を傾け、自分自身に吸収しようと努めました。」

人が話を聞けなくなるというのは、聴きたくないからです。周りの人たちの話を聴くというのは、自分の間違いに気づかなくてはなりません。それは単に間違いに気づけばいいのではなく、真の間違いに気づくということです。

人は分からないことを分かっていたら改善することはできません。自分が分からないことがあると気付いているからこそはじめて分からないことを知るのです。分からない部分が自分の改善点ですが、分からないことを知ろうとしないから改善することがなくなるのです。

人は大なり小なり必ず小さなズレが現実の間で発生します。いくら正論を語り正しい法則を知り尽くしていたにせよ、自然に必ず矛盾は発生します。その矛盾は沢山の人たちの意見に耳を傾けることで矛盾を内包できるようになり絶妙な判断をしていくことができるのです。

自分だけの判断が絶対だと我儘になれば、無理やりに真実を捻じ曲げて上手くいったように錯覚するようになります。その時、その身が亡ぶように思います。周りの人からの意見に耳を傾けることを「衆知を集める」といいます。これは言い換えれば「叡智を結集する」という意味と同義です。

自分一人だけで正解探しをするよりも、もっと信頼できる人たちと一緒に矛盾の中にある真心探しをしていく方が人生はより豊かで楽しいように思います。手段と目的を見失うことがないように、自ら省みて自他を尊重して聴く訓練を積み重ねていきたいと思います。

 

奇跡の今

人類は何万年も前からこの地球で暮らしていたことが遺跡からわかっています。宇宙はどこまで広がっているのか、またどこからはじまったのかも興味があるかもしれませんが同時に人類はどこから来たのかというルーツについても同じく興味があるものです。

そうして時間というものを考えてみると、いつはじまりいつおわるのかは誰にもわからないことに気づきます。ある生き物は7日間で生死をめぐり、ある生き物は数千年で生死をめぐります。生死の長さはそれぞれにとって異なり、人間が定めた時間を物差しにしてみると短命、長命と分別しています。

しかし実際の生物たちは、過ぎた過去のことを憂い、まだ見ぬ未来のこと憂いているか、時間という概念がもしもないのならそういうことを思い煩うこともないように思うのです。

例えば人類があと5万年生きようとします、すると5万年をどう生きるのかを悩めば悩むほどにありとあらゆる準備をしなければなりません。文明を発展させては、もしも地球が滅んだ時のためにと宇宙にも脱出していかなければなりません。そのためにありとあらゆるテクノロジーを開発していくのでしょう。

しかし実際はどうかといえば、宇宙の大きさからみても私たちが準備してもどうにもならないものもあります。太陽が爆発したらおしまいですし、ブラックホールが急に出現してもおしまいです。地球の中にいても急に大噴火が発生し氷河期がきても大変ですし、大地震で大津波がくるかもしれません。何が起きるかはだれでもわかりません。これは決して対処しなくていいというわけではなく、あまりそういうことばかりを考えていたら本当の今という現実から離れてしまわないかということです。

生物たちは今の一瞬一瞬を面白く楽しく過ごしています。どんなことがあっても今から離れずに今を生き切っていきます。そこには自分が7日の生命かどうかなど煩わず、もしくは1000年であろうが関係がありません。今日一日、この今の一瞬一瞬を大事にしていきます。心を今から離さないといった方がいいかもしれません。そうして今から離れないからこそ沢山の奇跡に出会っていくように思います。

よく考えれば、この先のことを憂うよりも今があることがどれだけ有難いことか、昔のことをくよくよするよりも今があることがどれだけ御蔭様であるか、物事の善い方を感じることができることは仕合せなことです。

畢竟、今を大切に生きるということが心でいつも奇跡を感じる方法かもしれません。

奇跡の星に生まれて奇跡の星に今あることが愉しいのでしょう。

ありのままに正しく物事をみるためにも今を愉しみたいと思います。

心の実践

人は共感することで相手のことを深く理解していくことができます。この共感とは単に相手を知ればいいということではないことはすぐにわかります。しかし実際、共感をするということが何かということを理解している人は少ないように思います。

例えば、相手の話を聴くということがあります。これも単に話を聞けばいいのではなく、聴くというのは相手のことを自分のことのように関心をもっているか、もしくはどれだけ自分が心をありのままに開いているかということが関係します。

しかし実際は関心も心も開くこともなく、心を遣わないままに頭が先に出て心が入らないことがあったりするように思うのです。それを自分で気づける人は修正できますが人間が幼いころから大人の社会を身に着けるために世渡りが上手くなって刷り込まれてくる過程でその心の実践を忘れてしまうことがあるように思うのです。

それでは心の実践とは何かということです。

極端な例かもしれませんが、1990年、フランス人の野生動物専門カメラマンを両親にアフリカのナミビアで生まれたティッピという少女がいます。10歳になるまで、原住民たちと共にアフリカの野生動物に囲まれて育ち、生まれつきどんな野生動物とでも仲良くなれたと言います。

この子の動物と戯れている写真を見たら、まるで兄弟か家族のように動物たちと仲良くなっています。動物たちもその子に警戒せず、その子も警戒しません。本来の野生動物は食べ食べられる本能がありますが、生命の進化を観ていたらその相手ではないと思えば自然に近づくことができるのかもしれません。

その中でその子がこういう言葉を語っています。

「私も裸にならなければ、動物たちは心を開かないわ」

ここに共感するということの真意が潜んでいるように私にも感じます。相手が心を開かないのは自分が先に心を開かないからです。そうして開かないからこそ相手は自分に対して心を開いている分しか開いてくださらないのです。

まず自分が心を開くのは相手が先に心を開いてくれてからという人もいますが、人が自ら共感するというのは自分の心をまず開いてから行うことをいうのでしょう。もちろん、心を開けば傷つく時は大きな痛みを伴うかもしれません。しかしそれ以上に相手を思いやり、もしくはそれ以上に冒険したいという気持ちがあれば心はいつも先に出てきてくれるようにも思います。

勿論幼いころの心の傷や痛みは古傷となって今でもズキズキするかもしれません。しかしその傷や痛みは相手を分かろうとした痛みであり、相手を近づこうと冒険した証の傷なのですから自分の誇りであり、また勲章なのです。

仲良くなり助け合いわかり合う共感とは、心のかかわりつながりを持つことです。

小さな勇気を振り絞り小さな一歩を踏み出すことで心は開いていきます。
自然はいつも私たちに心をまるごと開いてくださっています。

仲間に出会える倖せのためにも、敢えて自分から裸になる心の実践を積み重ねていきたいと思います。

 

同化の法理

先日、NHKの「ダーウィンが来た」という番組で「ハナカマキリ(ランカマキリ)」の特集が放映されていました。

もともとカマキリは、擬態をして稲の間に生きるものは稲の色になり、草草の中に生きるものは同じような緑色になっています。しかしこのランカマキリは、蘭の花と共生関係を結びますから蘭の花から離れることはありません。そのあまりにも擬態の卓越した姿に弓の名手紀昌の「不射の射」の話を思い出しました。

昔、趙の都・邯鄲に住む紀昌が、天下第一の弓の名人になろうと志を立て、当今弓矢をとっては及ぶ者がないと思われる名手・飛衛、次いで飛衛をしておのが技は児戯に等しいと言わしめる仙人・甘蠅に師事して「不射の射」を体得する。 真の名人となった紀昌の心は弓への執着からも離れ、ついには弓そのものを忘れ去るに至るという話です。

これは道を究め盡して自他一体が極みに至り、弓矢そのものになってしまったがゆえに弓矢そのものの存在を思い出せないほどになるという故事です。

あの映像の中のハナカマキリを観ていたら、まるで蘭の樹そのものになってしまっている姿に進化と発展の本質を学び直した気がします。ハナカマキリは、まるで蘭の花そのものに擬態します。蘭の花が蜜で虫をおびき出すように、ハナカマキリも蜜と同じフェロモンを出します。また紫外線を反射するように花びらと同じように自分の身体も紫外線を反射します。その動き一つ一つも花びらが動くかのように揺れながら歩きます。蘭の花が虫たちを呼び出す仕組みをほぼ完全に真似をすることができているのです。

ここに自然の不思議を感じます。もちろん、ハナカマキリは蘭を尊敬した結果近づいていったのでしょうが果たしてこれはハナカマキリだけが蘭を真似てこうなるのかということです。蘭の方も近寄り何かしらの関係を結びその中から互いに同じ生き方を選んだのではないかということです。

昔から互いに必要としあうものは互いに似てくるという考え方があります。これはもともと似ているのか、のちのち似てくるのかはどちらでもいいのですが自然には「似たもの同士」という一つに同化する境地があるように思います。

私には、道の中で歩む方々、同じような目標を持って生きる方々、芯や根に同じものを持っている方々はやはり似ているように思うのです。何を尊敬しているか、何と一緒に生きるのかはその人の判断ですが自然界を観ていたら多様化することの意味を深く感ぜずにおれません。そして気が付くと彼我の境目を超えて自他一体になっていきます。

これを私は同化の法理と名付けます。

身近な自然の中に、あらゆることの真理が隠れています。

身近な自然から学び直していきたいと思います。

からだ

「からだ」というのは、もっとも身近にある自然そのものです。昔から「からだの言うことを聴く」という言葉があります。自然に回帰するためには、別に外側の自然に近づけばいいわけでもなく、この自分のからだこそ地球の一部ですから「からだ」そのものの声を聴けば何が原点なのかが自明するものです。

今回は「からだ」の言うこととは何かと気づいたことを書いてみます。

「からだ」というのは、体調が乱れてバランスが崩れると様々なことを言ってきます。それは感覚で伝えてくるものですが、寒気や頭痛、または冷えや肌の色、口の中の渇きや熱、痺れや疲れ、だるさなど、ありとあらゆることを症状という言い方で伝えてきます。

その言ってきたことに対して、どう聴くのはその人の生き方ですがちゃんと聴けば何が起きているのかが分かります。例えば、寒気や熱はこれから免疫が作動するから休みなさいという声ですし、疲れやだるさというのはからだが無理したのだから少し回復までじっとしてなさいという声でもあります。

反対に今の社會のように、自分のからだよりも周りを優先して仕事をするような時代だとからだの声をどう打ち消すかという薬の使い方をしたりします。回復を手伝うというよりは、頭が痛いのは頭痛薬でしずめ、疲れやだるさは栄養ドリンクでごまかし、熱は解熱剤で無理に下げたりします。

現代人はひょっとして本当は病気にしたいのだろうかと思うほどに、「からだ」の声を無視してはその声が出ないようにと抑え込みます。痛いのを抑えたい衝動に脳が負けてしまうのでしょうが、そもそも痛い理由がなぜかとは考えないのかもしれません。対処療法と根源治癒と言い方をしますが、実際は素直さや正直さが根底にないと「根から」にはならないように思います。

話を戻せば、「からだ」の声というのは日々に声をかけてくれています。どんな小さな声でもそれが聴けるのならばその人は自然の声も聴ける人です。

自然の声が聴ける人は謙虚な人ですから、その自然の声を聴く人はバランス感覚もまた優れている人たちです。世の中は、一歩外に出ると様々なストレスの中で歩むことになります。それは不自然極まりない状況の中で、様々な執着が蔓延っています。その中で如何に泰然自若に過ごすのかは内省の質に由るように思います。

自分の心の声を聴き、肉体の声を聴き、魂の声を聴き、からだに従う。

黎明の時間に一人慎むことができてはじめて、「からだ」になるのかもしれません。

「健全なる精神は健全なる”からだ”に宿る」(A sound mind in a sound body.)があります。これはローマの詩人ユベナリスの詩、「大欲を抱かず、健康な身体に健全な精神が宿るようように祈らなければならない」の訳です。

やっぱり自分を知ることが何よりも大事で、その自分の代表者でもある「からだ」の声を聴けるようになってはじめて、人は素直さや謙虚さが分かるのかもしれません。

学びを忘れないように知るし、事あるごとに振り返っていきたいと思います。

希望とは何か

昨日、サミエル・ウルマンについて深める機会がありました。私が20歳の前半のときに詩集の「青春」にめぐり会い、大きな勇気をもらったことを思い出しました。松下幸之助氏の著書の中で自分の座右の銘として紹介されていたその時の詩の印象から青春の真価を再確認したことを覚えています。

もともとこのサミエルウルマンは、ユダヤ人でアメリカで活躍した実業家です。その当時、社会的弱者でもあった孤児、女性、黒人、労働者の救済運動に生涯を捧げた方だったそうです。この詩は、サミエルウルマンが80歳の誕生日に自費出版した詩集の中にあったものです。

日本でこの詩が翻訳され広がったきっかけは、アメリカの連合国司令官だったマッカーサー氏が座右の銘にしていた詩で、執務室に掲げられ日々に内省していたものを日本フェルト工業統制組合専務理事の岡田義夫氏が感動してそれが友人ずてに伝わり松下幸之助さんが紹介して今に至るようです。社会的閉塞感の中で、心が病んでいる人たちがたくさんいる今の時代だからこそ、もう一度この詩の必要性を感じました。ちょうど、この詩が広がったときも終戦後の暗くつらい時代でした。

「青春~YOUTH~」

「青春とは人生の一時期のことではなく心のあり方のことだ。

若くあるためには、創造力・強い意志・情熱・勇気が必要であり、
安易に就こうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない。

人間は年齢を重ねた時老いるのではない。
理想をなくした時老いるのである。

歳月は人間の皮膚に皺を刻むが情熱の消失は心に皺を作る。

悩みや疑い・不安や恐怖・失望、これらのものこそ若さを消滅させ、
雲ひとつない空のような心をだいなしにしてしまう元凶である。

六十歳になろうと十六歳であろうと人間は、驚きへの憧憬
夜空に輝く星座の煌きにも似た事象や思想に対する敬愛
何かに挑戦する心
子どものような探究心
人生の喜びとそれに対する興味を変わらず胸に抱くことができる。

人間は信念とともに若くあり、疑念とともに老いる。
自信とともに若くあり、恐怖とともに老いる。
希望ある限り人間は若く、失望とともに老いるのである。
自然や神仏や他者から、
美しさや喜び勇気や力などを感じ取ることができる限り、
その人は若いのだ。

感性を失い、心が皮肉に被われ、嘆きや悲しみに閉ざされる時、
人間は真に老いるのである。

そのような人は神のあわれみを乞うしかない。」

希望とは、心の持ち方を変えることです。そして心の持ち方を常に変えることができる人は、人生において一生涯好奇心を捨てることはありません。最初は光輝く子ども心も、社會の中で次第に曇りそのうち光らなくなっていくものです。それを磨き続けていくことで、光り輝く心を取り戻すことができる。

それを私は「希望」と呼び、「青春」と定義しています。

人生において絶望とは、生き方を見つめる最大の転機です。その転機に関われることこそ教育の醍醐味ではないかと改めて実感しました。これから、新しい道に同行しますが面白くワクワクするご縁をいただけたことに感謝しています。

私もその一人として絶学を継ぎ、心の世界を創造し青春を謳歌しつつ希望の詩を仲間と一緒に唱和していきたいと思います。

姿勢

先日、姿勢について考える機会がありました。姿勢というものは、全ての基本であり、その基本姿勢を知っている人は変化が早く、体験を素直に吸収していくことができます。

そこで姿勢の善さとは何かということを書いてみます。

姿勢という言葉は、姿勢よく座る、姿勢が美しいという単に見た目の姿かたちだけでで使われるのではなく、心の姿として、姿勢が問われる、どのような姿勢で臨んだのだろうかというような使われ方をします。

からだでいえば、姿勢が善い人は健康であるし、こころでいえば、姿勢が善い人は素直で正直ということになります。これとは別に身体が歪むと不健康になり、心が斜に構えると不正直になります。

結局は、からだも心も自分の姿勢次第であるということがその人の姿勢の善さで自覚できるのです。姿勢を正すという言葉は、その元になっている基本の姿勢をまず直してからすべてははじまるということを示す言葉です。

何を学ぶにしても、姿勢が悪ければ何をやっても中心が身につかずフラフラしてしまうように思います。では姿勢が正しいという姿勢とは何かということになりますが、これはまず基本の姿勢が何かを知っているかということになります。

からだでいえば、姿勢が善いと言われるためには姿勢の善いモデルを知っていなければなりません。美しい姿勢で立つと言われても、そもそも美しい姿勢を知らない人では姿勢を正すことはできません。同じように心も、姿勢を直せと言われても心の姿勢として素直で正直というものが何かを知らなければ美しい心の姿勢にすることが分からないからです。

姿勢というものは、基本のことです。

何を基本にするか、その考え方や意識から変えることで姿勢ははじめて正すことができるように私は思います。何が自然であったかを知る人は不自然が分かりますが、何が自然かを知らない人では不自然も自然も分からないのです。

姿勢が善い人とは、自然体を知る者です。

自然体を知る者は、原理原則を自覚できる人です。刷り込みや強い自我欲によってつくりあげてきた自分の歪みはそう簡単には直りません。しかし、周囲にそれを指導し直してくださる人がいたり、もしくは自分が憧れ私淑する生き方のモデルになる人を見習いながら直していくことができる人は仕合せです。

素直や謙虚、そして健康を学ぶには周囲の仲間たちの実践から身に着けていくことが学問の歓びでもあります。道を共に歩み、その基本の姿勢を知る沢山の仲間に恵まれている機会に深く感謝し、常に自ら自立する基本を自然に学び直していきたいと思います。