同化の法理

先日、NHKの「ダーウィンが来た」という番組で「ハナカマキリ(ランカマキリ)」の特集が放映されていました。

もともとカマキリは、擬態をして稲の間に生きるものは稲の色になり、草草の中に生きるものは同じような緑色になっています。しかしこのランカマキリは、蘭の花と共生関係を結びますから蘭の花から離れることはありません。そのあまりにも擬態の卓越した姿に弓の名手紀昌の「不射の射」の話を思い出しました。

昔、趙の都・邯鄲に住む紀昌が、天下第一の弓の名人になろうと志を立て、当今弓矢をとっては及ぶ者がないと思われる名手・飛衛、次いで飛衛をしておのが技は児戯に等しいと言わしめる仙人・甘蠅に師事して「不射の射」を体得する。 真の名人となった紀昌の心は弓への執着からも離れ、ついには弓そのものを忘れ去るに至るという話です。

これは道を究め盡して自他一体が極みに至り、弓矢そのものになってしまったがゆえに弓矢そのものの存在を思い出せないほどになるという故事です。

あの映像の中のハナカマキリを観ていたら、まるで蘭の樹そのものになってしまっている姿に進化と発展の本質を学び直した気がします。ハナカマキリは、まるで蘭の花そのものに擬態します。蘭の花が蜜で虫をおびき出すように、ハナカマキリも蜜と同じフェロモンを出します。また紫外線を反射するように花びらと同じように自分の身体も紫外線を反射します。その動き一つ一つも花びらが動くかのように揺れながら歩きます。蘭の花が虫たちを呼び出す仕組みをほぼ完全に真似をすることができているのです。

ここに自然の不思議を感じます。もちろん、ハナカマキリは蘭を尊敬した結果近づいていったのでしょうが果たしてこれはハナカマキリだけが蘭を真似てこうなるのかということです。蘭の方も近寄り何かしらの関係を結びその中から互いに同じ生き方を選んだのではないかということです。

昔から互いに必要としあうものは互いに似てくるという考え方があります。これはもともと似ているのか、のちのち似てくるのかはどちらでもいいのですが自然には「似たもの同士」という一つに同化する境地があるように思います。

私には、道の中で歩む方々、同じような目標を持って生きる方々、芯や根に同じものを持っている方々はやはり似ているように思うのです。何を尊敬しているか、何と一緒に生きるのかはその人の判断ですが自然界を観ていたら多様化することの意味を深く感ぜずにおれません。そして気が付くと彼我の境目を超えて自他一体になっていきます。

これを私は同化の法理と名付けます。

身近な自然の中に、あらゆることの真理が隠れています。

身近な自然から学び直していきたいと思います。

  1. コメント

    カグヤさんらしいね、、と言うお言葉を頂いたりする事は昔も今もありますが、その実態が理念に近づいて行っているかは昔と今とでは大違いである事を感じます。夫婦も長年居ると似てくるとは言いますが、今の環境や状況の中で同化していくのではなく、共通の理想や夢の中で同化して行きたいと思います。

  2. コメント

    ランカマキリの画像を見ると白とピンクで一見可愛い印象を感じました。これまでに見たことのないカマキリで自分が知らないだけで自然界にはたくさんの生き物がおり、気付いていないだけでいてくれるからこそ自分という存在が成り立っているのだろうと感じます。そして以前、樹木研修の際に共生についてお話頂いた事を思い出しました。もし、どちから一方に何かあればきっと共に種は滅ぶのだろうと思います。心の拠り所にしている仲間を見失うと自分もきっと廃れてしまうかもしれませんが、誰かが諦めかけた時そこからもう一度一緒に歩んでいく自分でありたいと思います。【●】

  3. コメント

    自分の存在を主張しようとすると「自分という輪郭」ができ、そこにこだわり続けると、その「輪郭」は、ますますはっきりしてきます。彼我の境目とは、この「自分の輪郭」同士のぶつかり合うところをいうのでしょう。特別な自己を主張するのをやめると、自分がなくなってしまう不安に襲われるかもしれませんが、ほんとうは、そこにこそ真の自分の居場所があるのではないでしょうか。

  4. コメント

    昨日の一円対話でFTを務めさせていただきましたが、参加者の状態が自分の今の状態を映していることを実感しました。自分の中に同化を拒む異質なものがあれば、それに気づくことが出来る実践の数々をバロメーターとして大切に取り組んでいきたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です