水の流れ~自然技術の妙~

自然農園の田んぼに出てみると本当に沢山の虫たちに驚きます。

稲の周りには、トンボやクモたちをはじめ、水中にはゲンゴロウにエビやカニワナ、数えきれないものたちが生活を一緒に営んでいます。不思議ですが、4月まではそこには水中生物ではない生きものたちの棲家であったものが今ではすっかり別の生きものたちに入れ替わっています。

環境が変化するということは、そこに棲まう生きものたちも変化するということです。

如何に環境が大切なのかということを実感します。

またその環境を左右するのが水であることは明白です。この水というものは、如何に生物たちに多大な影響を与えているかが分かります。水の流れというものを通して、光や風を感じるのが生命です。その水は生命を活かすのです。水が澱むことで腐敗をうみ、水が通ることで発酵をうみます。つまりは水を如何に通すか、水が如何に流れるかが大事ですがその水も適量な水量と適切な水流がいるのです。

田を学んでいると如何に「水」というものがキーワードになっているのかが分かります。あまりにも当たり前すぎて見過ごすところですが環境を学ぶのにこの水の流れというものの自然の技術の習得が必要なのでしょう。火や水、土や木、光など自然を使って技術化したところに人間文明の進化発展してきた真実があるのでしょう。

学びははじまったばかりですが、山から流れてくる清らかな水に心も体も研ぎ澄まされていきます。水は流れているときに水の徳性が顕現するように思います。流れる水に心を澄ませ、自然の技術を会得し祖神たちの恵みと智慧を復興していきたいと思います。

逞しく生き切る~いのち~

先日、ある植物が虫から葉を食べられないようにするためにその虫が食べたがらない成分を体から出して撃退するという記事を読みました。これは植物を観察し育てたことがある人は分かると思うのですが植物は健康で免疫力が強いと虫がなかなか寄ってきません。しかしそれが弱ってくるとたくさんの虫たちが集まってきます。

例えば、冬に強い野菜が間違って夏にまで残っているとそこには大量の虫たちが集まって食べています。また時にはある虫だけが大量発生してしまい、大部分の葉を食べられてしまい弱るものもあります。他にも、地力が弱り日照りが弱れば体が弱まりますから病気になったり簡単に風で倒れてしまったりするものです。

健康であるというのは、自分の免疫機能を発揮させているということでもあります。

その免疫は「逞しさ」に象徴されるように思います。

この逞しいというのは生命力のことですが、その生命力が真っ直ぐに元気であるということです。

「逞」という漢字を調べてみると、之繞(しんにょう)と、まっすぐ差し出すという意味の「呈」とで、突き進んでいく姿を為しています。またよく使われるときは、身体が逞しいことよりもその意志の強さや活力があり頼もしいというときに用いられるように思います。

つまりはこの逞しさというのは、健康で元気が善いということになります。そして自然界における健康で元気というのは「挫けない」ということです。困難や障害に遭遇してもそれを乗り越える信(芯)の強さ、それをはねのけていくぞとい意志(心)の強さがあるということです。

もともと甘やかされるとなぜ弱るのかといえば、これらの逞しさが減退していくからのように思います。強く逞しく生きていくとき、人間は生命力が溢れていきます。困難で大変なことがあってもそれを強い意志で乗り越えようとするとき、元気は漲りそして根性が出てくるのです。

身近な植物を観察していても、身近な虫や魚たちを観察していても自然界の厳しい環境の中であらゆる事件に挫けずに立ち上がり真っ直ぐに生き切っていこうとしています。ちょっとしたことがあってもそれを成長の糧にして学びを深めて生命の道を正直に歩んでいきます。

そう考えてみれば「いのち」というのは、挫けずに諦めず挑戦するときに活性化し、逃げたり避けたり諦めたり投げ出したりするときに停滞衰退化するように思います。

どんなことがあってもそれを丸ごと善いことにしようという強い意志が生命力を高め自他を活き活きと逞しくしていくのでしょう。自分自身があらゆる困難と立ち向かって乗り越えていくことが子孫を繁栄させていくことにもつながるのです。

自分が負けず嫌いなのも元気な証拠であり、自分が諦めがわるいのも生命力が漲るからなのでしょう。

「日々に逞しく生きているか」、その自問自答が自然界で生き残るためには何よりも大切なことです。あの身近な生きものたちを見習い、天に対して正直に素直にいのちを生き切っていきたいと思います。

主体性~丸ごと信じる~

人は主体性が出てくると信じることができるようになります。

それは信じるという行為は、誰かにやらされているのではなく自分自身の体験で真底から納得することで醸成されていくことだからです。そしてこの納得というのは、何度も体験し味わい尽くしたあとに自分自身が「丸ごと善い」と実感することに似ています。

例えば、人生というのは無駄が一切ありません。かつての経験が今に活きていますし、今があるのはすべて過去の体験の集積によって存在しています。自分の生き方というものは、今までどのように生きてきたか、そしてかつてどのような体験があり、それを乗り越えて味わってきたかでできあがっているともいえます。

つまりは人生というのは、自分自身の主体的な体験によって彩られているとも言えるのです。時には自分自身がやりたいと思っていなかったことでも、きっとこれは何か大切な意味があるのだろうと主体的に楽しく自分から取り組んでそれを味わい学び掴んでいたことが、将来のやりたいことを支援する大切な力になっていたりするのです。

人生とは奥深く、寄り道したことも大切な寄り道であり、その寄り道があとで絶対不可欠になる能力を育ててくれたり、その道草が後になって絶対に必要なご縁を導いて下さることが多いのです。

だからこそ何でも嫌々ながらやるのではなく、自分から主体的に楽しんで行うことでそのことの本意があとになって活きてくると思うのです。今に集中して今に真剣に生きている人は幸せな人とも言えるように思います。

その人は主体的であることを実感し、主体的であるからこそ今を生き切るのです。今を生き切るからこそ誰のせいにもせず、言い訳もしない、今を満足していくことができるのです。不平不満というものは須らく、将来のことを心配したり、過去のことにくよくよしたりと今から離れるときに起きるものです。

それは体験をしていないという意味にもなります。どんな体験であれ、必ず今の体験は後で生きてくるのだから無駄にしない、勿体なく味わい尽くしていこうとするところに人生の妙味があるように思います。

主体性というものは、主人公ということで自分自身の人生を遣り切っているということです。どんな人生があったにせよ、主体としての性、つまり自分自身のことを信じるということや、相手や周囲のことを丸ごと信じる、そして人生を丸ごと信じる、世の中のことを丸ごと信じる、自分の今を丸ごと信じるということです。

信じようとしないのでは主体性は発揮されることはありません。

人生は客人としてきたのではないのですからあくまで主人として生きるということでしょう。そしてそれが丸ごと信じ切るということなのです。やらされることになっていることすべては客人のままということです、自分からやりたくてやっていてはじめて主人となしえるのです。主人であることが信であるということです。

見守るの道を弘める以上、信の実践は何よりも欠かせない大切な徳目であり訓戒の一つです。しっかりと精進していきたいと思います。

日々に蒔く種

人は毎日一生を送っているとも言えるように思います。朝になり昼になり夜が来る、これはどれも人間によって振り分けたものですが日が昇り日が沈むことで地球も一回転し、自分たちの一生も一回転してまたゼロからはじまります。

人間は朝起きて一生がはじまり、夜就寝して一生が終わります。つまり一生とは、生きていること一に止まるということです。

その人がどういう毎日を過ごしたかが、その人がどういう人生を過ごしたかということでもあります。自分がどんな人生なんだろうと思いを寄せてみれば、どんな一日を過ごしているのだろうと省みれば自分の人生を俯瞰することができるのです。

日々は毎日変化して已みません、同じように繰り返しているようでも同じ日々は一度としてありません。その中で自分の人生を歩んでいる実感は、何のために自分が生きるのかを忘れないことのように思います。それを忘れてしまっていては日々は消化試合のように過ぎ去ってしまうからです。どんなに忙しい時でも、どんなに暇な時でも、何のためにを忘れていない人は必ず其処に意味を観出し実践につなげていきます。

これは言い換えれば、朝起きて何のために生きるのか初心を思い返し、そして就寝する前にどういう初心で一日を過ごしたか、そしてどのように初心を顧みて眠るかということでもあります。

人間は寝ると忘れるのは、死ぬと忘れるということに似ています。身体の細胞も代謝して生まれ変わり、意識もまた生まれ変わりますから、日々は毎日忘れたところからはじまっているとも言えるのです。

だからこそ日々に積み上げていく大切さ、魂を研鑽して高めていく重要さに気づけるものです。日々怠らないということは、初心を忘れないということです。初心をどれだけ心奥深くに鎮め、日々の行動を慎むか、自分自身の人生を周囲の喧騒に流されず本物にしていくには初心を研鑽していくための人生道場であるという心がけが必用なのかもしれません。

何のためにを何度も思い出せることが初心を忘れないことの実践です。忘れていないと思うのではなく、忘れるのだから忘れないでいようと心に刻んでいくことが揺らがないということなのでしょう。それは習慣という天性の御力をお借りして、実践をしている最中に初心に触れ続けて初心を大切に自分から守り通していこうという真心の発露でもあります。

日々の心掛けが積み重なって将来の成果ですから、正直に蒔いた種が育つように、どのような初心で種を日々に蒔いていくのかを忘れないで周りの勇気や元気になるような日々の実践を丁寧に進めていきたいと思います。

日記伝~真心の伝承~

二宮金次郎正伝(モラロジー研究所)という著書がある。これは二宮尊徳の子孫で総本家の現当主が金次郎の人生の軌跡を再現したものです。

もともと二宮尊徳は死期に及んで「余が書簡を見よ、余が日記を見よ、戦々兢々として深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」と日記に書き記しています。

実際の人生は、周りが解説したり政府が勝手に解釈したものを編纂したりしたもので理解できるものではなく、金次郎の日記にこそ真実が書かれているということでしょう。同じことを論語、大学を記した曽子が臨終の際に弟子に語ったのがこの「予が足を啓(ひら)け、予が手(て)を啓け。詩に云う、戦々兢々として深淵に臨 むが如く、薄氷を履(ふ)むが如しと。而今(いま)よりして後、吾免(まぬか)るるかな、小子(しょうし)。」があります。

どれだけ必死に道を守り通してきたか、どれだけ真摯に信念を握り続けてきたか、その軌跡に実感するのです。どの時代であっても、理想の政治が誰にしろ受け容れられるわけではなくギリギリの状態で取り組んできたのがわかります。

君子もとより窮すと論語にもありますが、そもそも苦しい状況の中を歩んできたのです、死してのち已むという心境はようやくここまでで尽きるといった道の厳しさを説いているようです。歩んできた人にしか分からない境地がそこにはありますし、それは道を歩み切った方々が臨終が近づくについて実感できる境地なのかもしれません。

人は必ず死を迎える日が来ますから、それまでどのように生きたかというのは死に顕われるものなのでしょう。後世の人が改ざんしていいところ取りをしていきますが、本来、手に取るべきものはその人の日記にこそあるのかもしれません。

以前、慈覚大師円仁の日記を拝読し感銘を受けた時も同じ感覚でしたし、高杉晋作の日記の時も同じでした。実際に周りが評価している人物像とはかけ離れたものがその日記にはあり、道を歩んだ人の心に近づくには日記を読み解くことが大事なのでしょう。

その二宮金次郎正伝の中に素晴らしい言葉と出会いました。

「本来君ありてのちに民あるにあらず、民ありてのち君おこる。蓮ありてのちに沼あるにあらず、沼ありてのちに始めて蓮生じるものなり。」

意訳ですが(本来は君主があってから民衆があるのではない、民衆があってのちに君主がおこってくる。蓮があってから沼があるのではなく、沼があるからこそはじめて蓮が生まれてくるのだ。)という意味です。

本来は組織も同じく、スタッフの方々があってこそリーダーはおきます。リーダーさえいえばスタッフがあるわけではありません。同じく民衆があってこそ政治があり、政治があるのは民衆の安寧が先だということです。

あの藩政を優先して一部の方々が利益を独占していく時代に、孔子と同じく理想の政治を説き、そし具体的に荒廃を癒し復興改革する心田開発の技術を持ち、私達に一円融合する生き方を示してくれた聖人、それが二宮尊徳です。

私たちは今、世界を含めて大変危険な状況に陥っています。世界人口増加、貧富の差の拡大、消費が生産を上まわり、生きものたちの絶滅速度は急激に広がっています。このままでは、欲があらゆるものを呑み込み止められなくなってしまうかもしれません。文明が崩壊していくとき、いつも同じことで乗り越えられずまた同じことを繰り返してしまいます。

同じことが起きるのは今度こそはという人類の文明実験であるのは論より証拠です。その今度こそに二宮尊徳の思想と技術は私たちが子孫繁栄するための要になると私は信じています。

最後に尊徳の言葉で締めくくります。

「天つ日の 恵み積み置く 無尽蔵 鍬でほり出せ 鎌でかりとれ」

天地自然の恵みは無尽蔵なのだからそれを掘り出すのも刈り取るのも自分次第なのでしょう。日記が続いていることを忘れずに、心の希望を勇気に換えて、その徳の無尽蔵を自らが掘り起こし、取り出して子どもたちや多くの方々にその真心を伝承していきたいと思います。

自然の視野

視野の広さというものがあります。

視野が広い人は全体や丸ごとで物事を観察することができますが、視野が狭いと自分の価値観によってしか物事を観察することができなくなります。視野にはその人の観念がありますから、その差がその人の生き方ともいえます。

先日、ある動物が絶滅するからと別の島に運びそこで種を増やすということが報道で流れていました。また植物の種が絶滅するからと氷の下で保存しているという話もあります。それが良いとか悪いとかではなく、どの視野でそれを考えて行っているかに視野の差を実感するのです。

生きものが絶滅するにも理由がありますし、生き物たちが増えすぎるのも理由があるものです。時代や自然の流れにしたがい、あるものは減りあるものは増えるのです。それを人間がどうしようかといっても、それも自然の流れでもあります。

自然の流れに逆らわないという言葉もありますが、正確には自然の流れには逆らえないという方が本質なのでしょう。人間は自然に逆らうことができるという視野と、自然に逆らうことができないという視野があるのです。

前者は西洋文明が発展してきた理由であり、後者は東洋文明が長く存続してきた理由でもあります。

自然に逆らえば、人間の知恵が自然を凌駕すると勘違いします。実際は植物がなければ空気すらなくなりますし、菌類がいなければ何も栄養が吸収できないほどですから凌駕できるはずはありません。

自然に逆らわなければ、受け入れることをはじめどこまでが許されるのかを自覚することができるように思います。それは自分たちが許される分限分度を理解するということです。

視野というのは、その人の内面が顕れるものです。どこまで遠くを観ているか、どこまで丸ごと観ているか、どこまで広く観ているか、どこまでつなげて観ているか、どこまで深く観ているか、どこまで時空を超えて観ているか、そういう視点がその人の心胆力とも言えるのでしょう。

物事を深めている人たちの視野はみんな同じような視野の広さで測るモノサシを持っています。これからどう生きるのか、これからどう歩めばいいか、未来を譲るためにどうあるべきかを見通します。

視野に限界はありませんから常に自然の視野に広げていきたいと思います。

自然明

自然と農を実践していく中で、風が様々な生きものたちに大きな影響を与えているのを実感します。

例えば、風は気温、気配、香り、水分の量、その音、そのリズム、通り抜けてきた場所の感じなど様々な情報を伝達していきます。植物はその枝や幹の肌、または葉によって風に揺られながら情報を入手していますし、動物は身体の毛を揺らしながら皮膚や匂いや呼吸を通して情報を入手します。

もともと自然の生き物たちは、風の音色をよく聴いては自然のリズムを体感しているのかもしれません。もちろん風の音色だけではなく水、火、土、石、様々に自然は音を奏でますからその音色を感受するアンテナが高いからこそ私たちのように知識を使わないともいえます。

現在は、そういう直感的に理解するものがあまり評価されない時代になっています。さも考え抜かれたもの、理論的に優れたものが価値があるかのように勘違いしてしまいます。自分がそもそも刷り込まれた知識の中にいて、その中の価値観から抜け出すことをせずに、自分だけが正しいと思い違いをしているのが人間なのかもしれません。

自然は正直で素直ですから、そのまま感受することができるのでしょう。

自然の言葉というのは、昔から職人さんたちが使う言語の中に入っていたように思います。職人さんが「あまり勉強ばかりしているとバカになってしまう」ということをよく話すのも似たようなものでしょう。

自分の中にあるものをどう引き出し、どう体得していくのかというのを自明と言います。自明とは、自らが然るがままに明らかにしていくということです。自然明ともいうのでしょうが、それは自分の中にあるものの感覚を高めていくしかありません。

それは善く気づき、善く学び、善く遊び、善く味わい、善く覚るということを続けていく中で自分の内面の奥深い自然観を高めていくことだと私は思います。

私が自然農を行う理由も自然に学ぶ理由もすべては、一度学びこんだものを如何に忘れ去るかということを大事にしているからです。一巡している学びを同時に消化しながら前に進むというのは、自らで然るがままに会得することを重んじているからかもしれません。

元来、文字がなかった時代は何から学んでいたか、言葉を使わなかったときは何から学んだか、人間は思い違いをして真実を見失っているのかもしれません。

自然には音色がありますが、人間にも音色があります。それは心や感情が研ぎ澄まされることでよりアンテナは鋭敏になっていきます。自然は風音によって伝えます、人間は言霊によって伝わります。

発信することも受信することも、それは自分の中の自然明に由るのが最善なのでしょう。

学ぶことが愉しいのは、体験できたり実践できる幸せを生きるからかもしれません。同時に学ぶ楽しさは譲る歓びですから、子どもたちに生き方が遺せる可能性があるということが幸いなのでしょう。日本の麗しい風土に恵まれ、その優美な風土に育ててもらって大人になっているのだから、御恩を忘れず自然の言霊を謳歌しながら自然明の生き方を子どもたちの傍に広げていきたいと思います。

いつも新鮮な学びは、かんながらの道の中です。

積算の法理~いのちの熱~

先日、徳について深めているとある発見がありました。

生きものというものはその体内に徳を有しているものです。その徳は、四季に影響を受けているものです。人生を四季に例えるのも、またその徳の流れによるものです。いのちは周囲と共に発達し発展しますからそのものだけで生きることはありません。知らず知らずに受けているのが周囲の恩徳ということです。

これを少し自然界を用いて説明してみます。

生きものというものはすべてにおいて積算温度というものがあります。今、身近で育っている烏骨鶏でも卵を孵化するのに約21日以上の積算日数がかかります。同じく変温で生きる昆虫も卵が孵るのにはそれぞれに積算温度が要ります。これは植物でも同じく、冬から春にかけ、また夏の暑い時期に成長していくために必要な積算温度があるのです。

言い換えれば「熱」というものですが、この熱は地熱、太陽、いのちの熱ですがそういうものを体で受け取りそれを代謝することで生き物たちは活動することができるのです。

人間も10月10日間、母体の中での積算温度があります。そして母体から出てきてからも、周囲の温かい真心や周囲の体温によって育まれていくのです。

いのちの全てには「積算」という考え方、つまりは「積む」という概念が存在します。そしてこれは一体何を積んでいるかということなのです。

自然界ではこれを「徳」と呼ぶのでしょう。人間は徳を勘違いしていますが、私にはこの積算温度が徳であるのを実感するのです。

私たちが共に生活するこの地球には温度があります。

その温度の恩恵を受けて私たちははじめて生きられますから、生きている以上温度を感じないということはありえないのです。温度があるということは、その熱により活かされているということです。

農業では、積算温度計といってその積算温度から逆算して収穫を測ったり、虫たちの発生を予測したりするそうですが、人間も同じくその熱を測ればどの時期に開花するのか、実をつけるのかもある程度予想できるのかもしれません。

だからこそ徳を積むという考え方は、徳によって活かされているという言葉になるのです。徳に報いるというのは、その熱をいただいているからこそその熱をより周囲への熱に転換していこうとする自然の生き物の「ハタラキ」なのでしょう。

生きものたちは地球の温度とリズムに対して絶妙に熱を測ります。その熱の中でどの時期に産まれればいいか、どの時期に出てくればいいかを知っているのです。たくさんの生き物たちが出てくるときに出てくればいいのです、易経では潜龍といいますが、潜龍もその熱を感じて昇龍の時機に合わせて徳を積算していくのでしょう。

徳の積算とは、熱の積算です。
言い換えれば熱の伝導とは徳の伝導なのです。

積み重ねていく日々をその温度を感じながら弛まずに怠らず成長を味わい、その熱を周囲へと伝導し、未来への子どもたちへと徳を譲り渡していきたいと思います。

子ども第一主義の旅~貢献~

樹木についての共生は運命共同体だと書きましたが、貢献についてここでもう一度深めてみます。

そもそも樹木に限らず、すべての生命は自分たちの種を遺すことを使命にしています。自分たちが今まで生きているということは、かつて様々な気候変動や環境の変化の中で生き抜いてこれた変化があったということです。

その変化は今の時代でも続いていて、常に生き物は変化に対して適応していかなければ子孫を残していくことができないのです。温暖化や寒冷化でもそうですが、その時代時代の変化の中で命を懸けて真摯に真心で生き切ったものが、次の子孫に突然変異をもたらし次代の環境に適応させていくのです。

例えば菌類などもそうですが、常に生まれ変わる中で変化をつくあげていきます。何世代も何世代も生死をめぐり繰り返す中でもっとも環境に適応する種を創り上げていくのです。

共生も同じく、そのものの種を遺すために、その環境や人物と調和していこうとする力、種を遺すために共存共栄していこうとする意志がいのちの中には存在するということです。共に歩む者たちが似てくるのも、共に必要としあう物たちが近づいてくるのも、同じく共存共栄の定理に沿ってのものです。

そして貢献というものは、自然界ではどういうことかといえば生きている過程で大きな無駄を発生させていくことです。

例えば、樹木でいえばドングリなどもそうですが何万個の種を地面に落としてはほとんどすべてが何かしらの生き物たちの食糧になります。その中から1本以上の木が実をつけることができればそれで繁栄できるのです。ほかにも、果実を持つ樹木もたくさんの果肉を提供しては種を飛ばしてもそのほとんどは人間からみれば無駄を発生しているように感じるものです。

しかし発展と繁栄というものは、その無駄多きことの中に存在しています。その無駄はそのものにとっては無駄であっても、周囲にしてみれば決して無駄ではないのです。

人間は軸足が自分にだけ向いていると、その無駄を嫌うようになるものです。自分の物差しで価値を判断し、自分にとって利益があるかないかでその無駄を測るのです。しかし実際は、その一見無駄とも思える中に他への貢献があります。だからこそ自然は、貢献を重んじるのです。

「自分が一生懸命に真心で生きればそれが誰がのためになる、自分の実践が誰かの勇気や元気になる」という言葉も貢献を志す言葉です。貢献したいと願う理由は、そこに確かな子孫繁栄への道筋が存在しているからです。

貢献していくための無駄というものは、その人物にとっては無駄でも、決してそれは全体にとっては無駄ではありません。如何に周囲のために自分を使い切っていくか、如何に全体の為に自分を遣り尽くしていくか、その行動と実践、それが人事を尽くすということです。

そうしていえば、天や自然が必ず善いことにしてくれるということを生き物たちは直感しているのでしょう。進化というのは発達と発展であると私は確信していますから、その発達と発展とは、共生と貢献であるということです。

自然は当たり前の真理を私たちに思い出させてくれます。知識ばかりが多くなって、シンプルな本質も分からなくなっているようでは刷り込みに負けてしまうのは当然です。

最後に種は旅をするということを教えていただきました。旅とは古くは、タベ(たまわれ)とかタビ(他火)という語源が示すように旅は苦行ともされていたそうです。生業を旅まわりともいうように旅を通していのちは無限の生長を已まないということでしょう。

旅そのものが学びであり、旅そのものが人生なのだから、旅を通して浄化し刷り込みを取り払い、常に苦しいながらも楽しむこと、その進化と変化そのものが愉しいというような一期一会の「子ども第一主義の旅」を味わっていきたいと思います。

共生とは何か

昨日、社内研修にて森林インストラクターの方から樹木の話を拝聴する機会がありました。

樹木の世界はとても奥深く、少し触れただけですが私たちよりもずっと前からこの地球に存在し、今までどのように生きてきて、今どのように生き残っているのかをお聴きすると同じいのちを持つものとして尊敬します。

今も生き残っているということは、今までの環境の変化の中で適応してきたということです。言い換えれば、今生きているのはたくさんの恩徳の御蔭様であり、またその生き物があらゆる環境下において助け合って生き残ったという証でもあるのです。

種が残るということは、後に譲っていくということであり、自分の変化そのものが子孫を守るということですからこれは本当に先祖の偉大な丹誠と徳恵をいただいたことに気づきます。

これからいくつか樹木についての発見をまとめていきますが、共生についてまず深めてみます。

例えば多くのイチジクの仲間(クワ科イチジク属)は、イチジクコバチ(類)と呼ばれる小さな蜂をポリネーター(花粉の媒介者)がいるそうです。そして、イチジクの種類ごとに異なるイチジクコバチがいて、お互いに繁殖するために共生関係を結んでいます。

お互いに進化することでお互いが進化する、イチジクが変化すればコバチも同じように進化するという関係が存在します。しかし強い共生関係は強い繁殖を産みますが、お互いのどちらかが絶滅してしまうと同時にそのペアの相手も絶滅してしまうそうです。まさに運命共同体です。

自然界はこのようにお互いが活かしあえるのならば、助け合おうとという関係はイチジクだけに限らず、多くの植物と昆虫の間にも見られます。

同時に人間と植物、人間と虫や動物との関係もあります。たとえば、ツバメと人間であったり、蜘蛛と人間であったり、稲と人間であってもそうです。お互いに長く生き残っていく中で互いに互いのことを必要としあって共生してきました。

不思議ですが、自分が生きているということは一緒にいきていた運命共同体がいたということです。その運命共同体がいなくても生きていけるように改良されたり、改造されたりしていますが、必要としなければ絶滅しますから種が減ってくるというのは互いに活かしあう関係が断裂しているともいえるのです。

自然界の絶妙な共生関係を崩してしまうのが人間だとしたら、この人間に適応するために動植物も大変な変化を強いられていることを実感しました。進化や変化は地球の気候変動に左右されるものですから、何があっても生き残れるように工夫してきた種が断絶してしまうということはそれだけ私たちが生き残る戦略も減っていくということなのかもしれません。

先祖たちはそういう大事なことを知っていて、だからこそ杜を守り育て生き物たちがたくさん生存できるような環境を遺してきたのかもしれません。環境に優しいとか色々と今は言われていますが、本来はそういう人間側の都合で語られるものではないことを直感するのがこの共生の原理です。

共生とは運命共同体のことです。

運命共同体=共生であることを決して忘れずに、どうあるべきか自分たちの生き方を見つめ直していきたいと思います。子どもたちや子孫のために、自然とご縁を結び直し絆を深め、一つでも多くの運命共同体を遺していきたいと思います。