日々に蒔く種

人は毎日一生を送っているとも言えるように思います。朝になり昼になり夜が来る、これはどれも人間によって振り分けたものですが日が昇り日が沈むことで地球も一回転し、自分たちの一生も一回転してまたゼロからはじまります。

人間は朝起きて一生がはじまり、夜就寝して一生が終わります。つまり一生とは、生きていること一に止まるということです。

その人がどういう毎日を過ごしたかが、その人がどういう人生を過ごしたかということでもあります。自分がどんな人生なんだろうと思いを寄せてみれば、どんな一日を過ごしているのだろうと省みれば自分の人生を俯瞰することができるのです。

日々は毎日変化して已みません、同じように繰り返しているようでも同じ日々は一度としてありません。その中で自分の人生を歩んでいる実感は、何のために自分が生きるのかを忘れないことのように思います。それを忘れてしまっていては日々は消化試合のように過ぎ去ってしまうからです。どんなに忙しい時でも、どんなに暇な時でも、何のためにを忘れていない人は必ず其処に意味を観出し実践につなげていきます。

これは言い換えれば、朝起きて何のために生きるのか初心を思い返し、そして就寝する前にどういう初心で一日を過ごしたか、そしてどのように初心を顧みて眠るかということでもあります。

人間は寝ると忘れるのは、死ぬと忘れるということに似ています。身体の細胞も代謝して生まれ変わり、意識もまた生まれ変わりますから、日々は毎日忘れたところからはじまっているとも言えるのです。

だからこそ日々に積み上げていく大切さ、魂を研鑽して高めていく重要さに気づけるものです。日々怠らないということは、初心を忘れないということです。初心をどれだけ心奥深くに鎮め、日々の行動を慎むか、自分自身の人生を周囲の喧騒に流されず本物にしていくには初心を研鑽していくための人生道場であるという心がけが必用なのかもしれません。

何のためにを何度も思い出せることが初心を忘れないことの実践です。忘れていないと思うのではなく、忘れるのだから忘れないでいようと心に刻んでいくことが揺らがないということなのでしょう。それは習慣という天性の御力をお借りして、実践をしている最中に初心に触れ続けて初心を大切に自分から守り通していこうという真心の発露でもあります。

日々の心掛けが積み重なって将来の成果ですから、正直に蒔いた種が育つように、どのような初心で種を日々に蒔いていくのかを忘れないで周りの勇気や元気になるような日々の実践を丁寧に進めていきたいと思います。

  1. コメント

    森信三先生は、「一日は一生の縮図」であり、人の「一日の終わり方は死に方を現している」。一日の予定を完了しないで、明日に残して寝るということは、人生の最後においても、多くの思いを残して死ぬということである、と言われます。まず、今日一日の大安眠を得るような充実した生き方をしなければいけない、ということです。まさに「一日一生」という生き方ですが、豊かな人生を送りたいと思いながら、今日をおろそかにする矛盾に、早く気がつかないといけません。これは、「世間」と「目の前の人」を分けて捉えているように、「人生」を「今日」とは別のものと捉え、「そのうち」という漠然とした期待でごまかしているからなのではないでしょうか。

  2. コメント

    一日の過ごし方がそのまま10年後の過ごし方になる。
    一日の過ごし方が変わらなければ、10年後も年は取るが生き方は変わらないのだと改めて感じます。希望の種を蒔いているか、笑いの種を蒔いているか、どこでも区別なく蒔いているか、正しいことよりも、幸せや楽しい種を蒔いていける人間になりたいです。
    そのプロセスが自分らしい正しさや信念、そして人を幸せにする働き方に結びつくということを背中や生き方で語れる人間になる。
    想いを強く持って生きたいと思います。

  3. コメント

    「種を蒔く」これまでもイメージとしては理解していましたが、改めて感じていることとして種にも様々な種類があること、それも信頼度数に応じて伸び、それにこの種は自分自身が何のためかを見失わなければ蒔き続けられるのだと感じています。心の土壌を豊かにしていけるよう内省と実践を繰り返していきたいと思います。【○】

  4. コメント

    何のためにを忘れて日々に流されていれば、振り返っても何も残らないことを感じます。ついているテレビをダラダラと見て聞き流すような味気無さを、一日や一生というスケールで味わってはたまりません。小さな事から大きな事を、近くの事から遠くの事を分けずに捉えていきたいと思います。

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