暮らし方と生き方

日々というのは小さな所作の連続で過ごしているものです。起きてから寝るまで、私たちは「暮らし」の中に存在しています。そしてその暮らしは全て小さな所作から成り立っていることに気づけるものです。

例えば、朝起きてどのように過ごしているか、そして日中はどのように過ごしているか、夜中はどのように過ごしているか、その過ごし方の中にその人の日々の生活があり、その生活を通して人は毎日を生きているとも言えます。ある人は、朝起きてお湯を沸かしご飯を炊き味噌汁をつくる。太陽に向かって御祈りをし、その日一日の予習と準備をし心を整えて清々しい笑顔で挨拶をし丁寧に思いやりで一日を過ごし夜に内省をして就寝する。またある人の一日は、朝寝坊してバタバタとしご飯もコンビニで済ませ準備で散らかったままに仕事に出ていき忙しくし、夜は飲み会に出てお風呂も入らずに就寝する。もちろん同じ日ばかりではありませんが、同じような日を何度も過ごしているうちにその人の「暮らし」が習慣になってしまうものです。その暮らしの習慣が暮らし方であり、暮らし方がその人の生き方です。

暮らし方というのは、日々のその人の生き方のことです。心の余裕を持ち、心を穏かに心静かに生きていこうと決めている人の生き方と、心を失い心を亡くし、心せわしく生きてしまっている生き方があるとして、人生は一日一日の集積のことを言いますからどんな人生を送ってきたかは、その日一日の過ごし方が決めてしまうのです。

その人が人生で大切にしている優先順位は、いともたやすく暮らし方によって崩れるものです。日々の暮らしの中の小さな所作は自分が優先しているものを確認する大事なチェックポイントであり、その小さな所作の中にその人の初心が維持できているかを確認できるのです。そして丁寧に丹精を籠めて生きている人は小さな所作を決して蔑ろにすることはありません。掃除や食事、睡眠や日記、身のまわりのお世話をする意識を片時も外すことがありません。なぜなら「いのち」が生き方だからです。

この「いのち」というものは自分が大事に扱えば大事に扱われるものであり、自分が粗末にすれば粗末に扱われるものです。だからこそいのちを大事にするというのは、小さな所作を大切にしていくということです。

どんないのちとも触れ合っている状態を維持するためには片時も心を手放せません。心を手放さずにすべてのいのちを活かそうとする真心の中にこそ小さな所作が活かされます。

暮らしの中にある一つ一つのことに真心を籠める実践を通して、暮らし方を観直していきたいと思います。

透明な信条

佐藤初女さんの透明な生き方は、多くの人たちに日本古来の暮らしを考え直す機会になりました。本来の暮らしは何か、何をもって暮らしというのか、そのおむすびを握る丁寧な所作、万物をもったいないと活かそうとするいのちの扱い方を観て暮らしの本質を直感した人はとても多かったように思います。

今の時代はスピードや効率を優先し、大事にしてきた日本の心が次第に失われているようにも思います。何でも粗雑粗末にし、荒っぽく薄っぺらい行動をしていのちを傷つける人が増えたように思います。何でもいのちをただのモノのように雑に扱い周りを傷つけても平気な人が増えたように思います。そしてそのただのモノと同じように扱われていることにマヒし、周りにも同じように身勝手に利己的にふるまい乱暴であることにも気づかない人が増えたように思います。不親切や思いやりのないことがあたりまえになってしまうことで心は貧しくなり、そしてその人生もまた独りよがりのさみしいものになっていくようにも思います。

本来、日本人は心が豊かな民族でありそれは日々の丁寧な暮らし、もったいない心と共にあったように思います。初女さんの後ろ姿には、連綿と受け継ぎ大切に重んじられた大和心を感じます。その初女さんはこの粗雑粗末にかかわる話にメンドクサイという言葉が如何に美しくないかということをこう語ります。

『私、“面倒くさい”っていうのがいちばんいやなんです。ある線までは誰でもやること。そこを一歩越えるか越えないかで、人の心に響いたり響かなかったりすると思うので、このへんでいいだろうというところを一歩、もう一歩越えて。ですからお手伝いいただいて、「面倒くさいからこのくらいでいいんじゃない」っていわれると、とても寂しく感じるのです。』

もう少しだけのところに、利己的が利他的に転じる境目があるように思います。いのちの移し替えと同じく、透明な心に移るかどうかの極みで一歩が越えられない。この一歩こそ、実践の一歩であり、自分の決心した生き方を貫くかどうかの信念や志であろうと思います。

これは特別な大きなことをしなくても日々に大切にしたいと決めた生き方を優先し、自我に打ち克ちもしも理念を実践するかどうかのことです。人は思いはしても言葉にしても実際にその優先した理念を「実行」することが出来ないものです。敢えて実行すること、言行一致することこそが実践であり、その実践を行う心に「面倒だから」という思いは一切入ることはありません。

結局、独りよがりというのは、利己的であるということです。みんなが自分のことしか考えず、自分のことばかりを優先してしまえばそこに思いやりはありません。思いやりのある社會は、周りの人のことを配慮し、そのために「独りでも誰も見ていなくても自分の生き方や暮らしを周りのために粗雑粗末をしまい」という生き方を優先することです。丁寧な所作や丹精を籠めた行動は、その真心の為す業であろうと思います。また初女さんはこのようにも言います。

『何かにつけて、自分と言うものが先になっている。実践ということまでいかないで
考えるということに留まっている。言葉はたいへんに貴重なものだけれども言葉を越えた行動が伝えてくれることが非常に大きいのです。だから、私は、なるべく言葉を越えた行動をしたいと思っている、と。』

言葉を越えた行動をするというのは、「実践を優先する」ということであろうと思います。本当に思っているのなら、本当にそうしたいのなら、「実践」することだと仰っているように私は思います。私の定義している実践も初女さんと同じく、言うのならまず実践しましょうということです。そしてこの実践は全て身近な小さな行動で実現できるものしかありません。

最期にこの初女さんのこの信条を遺訓として受け止め綴りを締めくくりたいと思います。

 

『言葉を超えた行動が心魂に響く』

 

ご冥福をお祈りするとともに、透明ないのちを受け継ぎ私たちは私たちの道で子ども達のためにその大和心・大和魂を実践していきたいと思います。

 

 

透明の磨き方

透明さというものは、穢れを祓い清め洗い清める中で磨かれていきます。その透明さを磨くのに私はよく「遣り切る」という言葉を使います。この「遣り切る」ことは一期一会を大切に出し切ることであり、常に心徳を高め魂やいのちを輝かせるための磨き方のように思います。

人は本気になり真剣になればなるほどに明るくなります。この明るさは単なるマジメのもつ深刻な感じから出てくるものではなく、真剣で本気だからこそ出てくるものです。出し切るというのは何を出し切るのか、遣り切るとうのは何を遣り切るのか、それは「本気を出し切り、真剣を遣り切る」ということに他なりません。

佐藤初女さんは、透明さを磨き切った方でした。その磨き方が本人が語る言葉の中に遺っています。

『私はどんな時も自分の都合を優先せず、その人が求める形で出会いたいと思っています。何かに取り組む時、ある限界までは、誰でもできることだと思います。けれども、そこを一歩越えるか越えないかが、大きな違いになると思うのです。そして1つ乗り越えると、また限界が出てきます。そのように限界を1つずつ乗り越えることによって、人は成長しますし、その過程は生涯続くものだと思います。確かに、このような生き方は大きな犠牲を伴いますし、私は時々自分でも厳しいなあと感じる時があります。『忙しい』という言葉を、私はなるべく使わないようにしています』

最期まで一期一会に遣り切るというのは、最期まで「我」を優先しなかったということです。真心を盡して盡し切ったかということが、御縁に向き合う至誠であるように思います。自分よりも誰かのためにと見返りを求めずに真心を与え続ける人生というのは、常に犠牲を伴います。しかしそれでも真心や思いやりを盡していくことが透明さを磨くということになっているのです。あと一歩で諦めてしまう人や、あともう少しの努力でやめてしまうのは真心までいかないからです。人事を盡して天命を待つという言葉もありますが、人事を盡していないのに天命は待つことはできません。この真心までいくかどうかに、感謝で生きる道もまたあるように思います。

また初女さんは、こう言います。

「『私、苦しいんです』と訴える人に対して、頭であれこれ考えて解決の方向にもっていっても、それは本当の解決になっていないです。『そう、苦しいね。でも、もっと苦しまなくちゃ』って伝える時もあります。『初女さんは苦しいと思われることはないのですか?』という質問を受けることがあります。もちろん、私も活動を続ける中で、どうすることもできない心の葛藤が生まれることがしばしばあります。そんな時、私は苦しみを否定せずに、自分の心をまっすぐ見つめます。そしてどんな時も、苦しみを感じきることを大切にしています。苦しんで苦しんで苦しみ抜いて、もうどうにもならない、というところで『神様へおまかせ』に入るんです」

私の言葉では「選ばない」ということです。逃げないと選ばないは同じ意味であり、全てを御縁の尊さで感じ切る、いただいている御縁に感謝しているかという祈りの実践でもあります。そして人事を盡し切ったならもうできることはないのだから後は天にお任せしようと祈り待つ境地しかないのです。それが「遣り切る」ことだと私は思います。

人間は誰しも出会いによって人生は変化していきます。

そして出会いをよくよく感じて内省するとき、その御縁や出会いは向こうから発見してもらって呼んでくださっていると感じるのです。つまりは「選ばない」ことの背景には、それは向こう側から自分を選んでくださった、自分にこれをやるようにと教えてくださった、自分にもっとも相応しいものをいただいたと自覚しているからこそ「選ばない」のです。

天命というのは探して得るものではなく、受け容れて得るものです。四十になって実感するのは、四十にして惑わずではなく、四十にして天命を選ぶのを已めたということです。天命を選ばないから惑わずになるわけで、人はその天命を選ばずに受け容れることでその後の人生の意味をしっかりと学問していくことができるように思います。

初女さんの生き方が、とても透明に徹しているのはこの人生への正対の覚悟、また一期一会に生きる決心の強さのように私は思います。

かつて東京で初女さんの講演を拝聴する中でもっとも強く印象に遺った言葉に『私はメンドクサイという言葉が大嫌いです、どんなことも決して面倒くさいと言ってはいけません』と静かに厳しく仰っていたことが今でも忘れられません。

真心や思いやり、本気や真剣さはこのメンドクサイの反対側にある言葉です。一つ一つを丁寧に丹精を籠めて生きていくことがその透明さがより磨き研ぎ澄まされることになっていくように思います。

追悼を籠めて書き綴っていますが、初女さんの偉大な後ろ姿に改めて学び直すことばかりです。子ども達のためにも、こういう方が遺してくださった真心を子どもたちに伝承していきたいと思います。

透明な実践

引き続き佐藤初女さんのことを書いていますが、「透明さ」というのは心が澄んだ真心の生き方のことをいうのだと私は思います。心が澄んだ真心の人は、作為もなく計算もなく、ただ思いやりに従って行動していきます。その思いやりによって行動することを私は「祈り」と呼びます。このような「祈り」こそが祈りの実践であり、澄んだ真心で丹精を籠めて丁寧に行動したことは相手の心を癒すように思うのです。

最初に佐藤初女さんを知ったのは、地球交響曲ガイアシンフォニーに出演していたことです。映像の中で、おむすびを握る姿の中に無心で相手を思いやり行動する祈りの姿を感じました。

その初女さんの話の中で、自殺しようとしていた青年の話があります。ある青年の両親が話を聴いてほしいと青年を森のイスキアに送ってきたといいます。ずっと傾聴していましたが泣いてばかりでご飯も食べず、もう遅いのでとそのまま休んでもらったそうです。一晩たって帰る際に、朝からおむすびを握ってそれを持たせたそうです。青年がその帰り電車の中で、タオルに包まれたおむすびをみてこんな自分のためにここまでしてくれる人がいる、信じてくれる人がいるのかと感動しそれからパッと人生が変わってしまったという話です。

真心を籠めて行動したことが祈りになり心に届く時、心が透明になりそれまでのいのちがいのりによって移り変わる、、私にはそう思います。私も透明な心や透明ないのちを実践していく中で、如何に相手がどうこうではなく自分が「真心を盡したか」どうかを重要にします。

人は相手に合わせて自分を盡すことが大事なのではなく、常に自分の心を省み真心を盡していくことが何よりも祈りそのものになるからです。

相手の心に寄り添うということは、相手の苦しみに寄り添うことです。相手の苦しみをじっと受け止めて、自分の苦しみとして受け容れることはまさに苦を楽にし福に転じる妙法であろうと私は思います。

なぜなら人は一人では苦しみになりますが、一緒になら幸福に転じるからです。人生の妙味はこの中庸の中にあり、人生の醍醐味は調和の中にあるように感じます。

引き続きかんながらの道、透明な実践を精進していきたいと思います。

透明

自然のことを学び直す中で、あらゆるもの透明さを知り純粋であること、真に澄むことの大切さをいつも感じます。身近な光や陰、火や水、風や土、木や石などあらゆるものが融け合い混ざり合い一つになる瞬間はいつも透明ないのちを感じます。

この透明ないのちとは、「解け合う」ことで姿を顕します。そしてその瞬間が観えているかということが真心のままであり、その瞬間を捉える感性が直観のことであろうと思います。私のかんながらの道はいつも此処に存在します。

自然が磨いてくださるいのちの尊さの中に、その透明感はいつも存在します。透明なものを感じる感性は自然の心のままに心に寄り添い、自然体で心をおもてなす日本古来の精神の鑑です。天照大御神より八咫鏡を授かってから私たちは透明な鏡に心を照らして自己鑑賞し常に心の穢れを祓い清め、心を磨き続けることを大切にしてきました。透明さというのはこの鑑の心であり、鑑の心は常に自他一体に切磋琢磨、相手と自分を解け合うことで磨き合うものだと私は思います。

佐藤初女さんは、この「透明」であることを大切にされた生き方を貫かれた方です。私も透明であること、いのちを磨くことは人生の一大事だと考えており、その生き方や生き様には本当に沢山の影響をいただきました。

改めて初女さんの文章を拝読していると、日々の暮らしの中で透明さを磨いていた様子が遺っており私自身も改めて学び直していきたいと思います。その初女さんにこんな言葉が遺っています。

「調理の間はいつも意識を集中させていないと、食材のいのちと心を通わせることができないですね。例えば野菜を茹でている時、火のそばを離れずじっと見ていると、野菜が大地に生きていた時より鮮やかな緑に輝く瞬間があります。その時、茎を見ると透き通っています。その状態をとどめるために、すぐに火を止めて水で冷します。透明になった時に火を止めるとおいしくて、体の隅々まで血が通うお料理ができるんです。素材の味が残っているだけでなく、味が染み込みやすい時でもあるんですね。野菜がなぜ透き通るかといえば、野菜のいのちが私たちのいのちと1つになるために、生まれ変わる瞬間だからです。ですから私はそれを「いのちの移し替えの瞬間」と呼んでるの。蚕(かいこ)がさなぎに変わる時も、最後の段階で一瞬、透明になるといいます。焼き物も同じで、今まで土だったものが焼き物として生まれ変わる瞬間に、窯の中で透き通り、全く見えなくなるそうです。いのちが生まれ変わったり、いのちといのちが1つになる瞬間に、すべてが透き通るのかもしれませんね。透き通るということは、人生においても大切だと思いますね。心を透き通らせて脱皮し、また透き通らせて脱皮するというふうに成長し続けることが、生きている間の課題ではないでしょうか」

これは調理のことを語っているのではないことはすぐに自明します。これは透明になることを語っているのです。

生きている間の課題として、如何に心を透き通らせて脱皮するかと言います。私の言葉では心を如何に研ぎ澄ましていくかということと同じです。心を研ぎ澄ましていくことは、人生において何よりも大切なことです。なぜならそれは人生とは魂を磨くことだからです。この世に私たちが来たのは、魂を磨き心を研ぎ澄ますために体験をしているとも言えます。

生きている修行というのは、結果が云々ではなくこの間にどのように生きたかというそのものが問われるように思います。自然界の生き物たちやいのちのように生きていくことが仕合わせであり、彼らと同じように日々に暮らしの中で自然の砥石で心魂が磨かれていくことがいのちを輝かせていくことだと私は思います。

人間の中においては御互いに思いやり真心を盡していくことで心魂は磨かれ高まりより透明になっていきます。透明な感性をいつも持ち続けることは、自然と解け合い直感のままにいて自然体になることです。

憧れた人に近づけるよう、私も持ち場で日々に精進していきたいと思います。子ども達に譲っていく透明ないのちを受け継いでいきたいと思います。

深さとは何か~直感~

物事には深さがあり、深さを持つ人はその深さを人に伝えていけることができるように思います。同じ話をしても、自ら刻苦勉励し体験を通して苦心しつつも掴んだ人の話は同じ言葉を並べても伝わり方が異なるものです。知識と体験との違いは、知識によっていくら文字を並べてもそれは単なる文字遊びにしかならず体験によって得た智慧や知識により文字が並ぶとそれは実行するためのヒントになります。

昨日、かねてから尊敬していた森のイスキアの佐藤初女さんがお亡くなりになりました。講演で一度だけお話をお聴きしたことがありますが、その時の御話もまた深さがありました。子どもがお菓子ばかりを食べて困っているという質問には、「ご飯を美味しく作ればいいのです。」とただシンプルに回答するのですがその言葉の間には真心を籠めて子どもを育てることや、食に命を懸けて取り組むことの大事さなど言葉の背景に膨大な暗黙智慧が語られている深さがありました。

この方もまた日本古来の大道をこの世に受け継ぎ、次代へ繋ぎ紡いだ有り難い道徳人でした。魂や大義は失われず、人々の心の中に生き続けて実践によって伝承されていくと思います。瑞々しい透明な心を通じて出会った有り難いご縁をいつまでも心に刻み忘れません、ご冥福を心からお祈りしています。

話を戻せばこの深さというのは、その人の体験によって深まっていきます。深さを持てる人とというのは常に理想を求めて一生懸命に苦労を厭わずに努力精進していくことで深まっていくように思います。深さの中には、つまり理想までの距離のようなものがあるのかもしれません。自分の目的や志の高さに対して今の現実があり、その間が深さになっていくように私は思います。

深さを持てる人になるためには、まず理想を定めて自ら覚悟決心する必要がある様に思います。そして自問自答し、本質は何かを求め続ける胆力や道を歩み続けて内省し続ける継続力も必要です。

求めている理想が大きければ大きいほど、世のため人のための祈りが広ければ広いほどその深さはますます奥深く深淵な深さになります。またその深さは五感や全感覚を通して感じるもので、到達している深さは観えないほどですから互いの直感でしか感得しえません。西洋ではそれをシンクロニシティともいいますが、本当の深さを求めている人はいつもご縁によって導かれるように思います。ご縁の世界に生きる人々は深さを持ちます、そしてその深さは直感と導きと道中の閃きによって開拓されていくのでしょう。

日々に何を最も優先するのかを忘れずに、自分の持ち場を掘り下げて道を歩む人たちに恥じない背中をみせられるように文字遊びを戒め深く精進していきたいと思います。

 

場と場所

日本の古来からの文化に「場・間・和」があります。これは心の世界を表現する三文字であり、日本人が常に大切にしてきた真心が此処にあるとも言えます。一つ一つは全て日本の伝統文化を顕しており、歴史を観ても、身近な文化の中にも息づき入り込んでいるものです。

今回はその「場」を深めてみようと思います。

場とはただの場所のことではありまん。場所というのは、その指し示す環境一帯のことでありそこに営みがあるかどうかはあまり関係がありません。しかし「場」となると、そこには確かな営みがありそこに集う人たちの思いや願い、心が存在します。

場が発生してくるというのは、そこには場を創ろうとした人の理念や初心があり、そこに集うものたちはその思いによって引き寄せられて集まる仲間たちです。これは例えば、山林にある雑草が生え人が全く手入れをしていなかった休耕田があるとします。そこに一つの思いをもった人が自然農法を行おうと独りで田に立つのなら次第にその田には野菜や作物、稲をはじめ虫たち、動物たち、周りの人たち、そして思いを共にする仲間たちが次第に集まってそこに「場」が産まれるのです。

この場が産まれれば、そこには空間が産まれます。この空間の「間」とは、時間を超越した間合のことです。間とは心のないところには産まれず、忙しさとは時によって行われるものですから忙しくない時、つまりその時そのものが無くなって「間」は産まれます。これを無の心ともいうのかもしれませんが、間合の中には時を超越した心が存在します。

そしてこの間があるところに「和」が存在します。この和とは、言葉で表現するのなら全てが調和し中庸になっているということです。和になれば心が安住する居場所が産まれ、居心地が善い場が誕生するということでもあります。これは次回、事例で深めて書いてみようと思います。

話を戻せばこの場と場所の違いは、理念を持った人がいるかどうかに由ります。そして理念を共にする仲間たちがいるかどうかに由ります。場と仲間というものは、常に隣り合わせであり、仲間づくりをしようと思えば場づくりをしようとなるのです。

今年は「場」の面白さに気づき、その場を子どもたちの環境の中に広げていきたいと思っています。場から学び直し、和の持つ有り難さを味わっていきたいと思います。子どもに一つでの譲り遺せるものを日本の文化から発掘し開発していきたいと思います。

正論の刷り込み

先日、正論について考える機会がありました。正論とは、正しい意見、道理に適った言葉といい、確かに正確に物事を言い当てるものです。特に教える仕事をしている人たちは、この正論を吐くことで周りを説得したり納得させようとするものです。

しかし正論をいくら聞いてもその正論通りやってもうまくいかないとなることがほとんどです。正論は実際に現場で実践することができず、正論通りにやったからといってそれが納得されるかというとほとんどそれはありません。

例えば、ある人が問題を抱えていてそれがうまくいかないと相談にのっても共感もしていないのに正しいか間違っているかだけを見て答えてもそれは問題の本質を解決するわけではないからです。

人は時として、問題を解決しなくても共感しているだけで解決していくことがあります。

以前、村でニコニコと笑いながら頷いている御爺さんが村人の悩みを解決していくという御話を聴いたことがあります。村の人から尊敬されている御爺さんが亡くなり、はじめてその御爺さんが聾唖の方だったと知ってみんなが驚くという話です。その御爺さんが隣でじっと話を聴いてくれてニコニコと頷いてくれることで相談者はみんな自分で問題を解決していったという話です。これは江戸時代末期の名僧「良寛さん」にも似た話がたくさん残っています。喋らず黙って、相手の言うことに耳を傾けるだけで相手が自然に気付いて変わっていったと言います。

学識の比較競争刷り込みの中で、刷り込まれていると勝ち負けや正否に囚われ肝心な共感するということを怠ってしまう人が多いように思います。それはきっと机上では人の心までは共感できないからです。本来、正論よりも優先するものは常に思いやりであり、思いやりがあるから人間はその思いやりによって助け合い認め合うことができるように私は思います。

正論を述べては相手を打ち負かし、自分の正しいことを証明してもそれで現場が何か変わるわけではありません。かえって相手の自信と自己肯定感を奪っているだけで、その教える人は有名になって優越感を持てても実際困っている人たちはそれで解決しましたとはならないことがほとんどです。知識の持つ刷り込みに気付くためにも、あまり自分を特別視せず知識を用いて人を上下で見ないことが何よりも正論の刷り込みを打破する方法ではないかと思います。

二宮尊徳に「至誠と実行」がありますが、思いやりを行動することが何よりも現場の問題を解決するといいます。そしてそれはまず「傾聴」することや「共感」することが何よりも優先されると私は感じています。

自分を後回しにしてでも相手の話を聴いている人や、自分のことは気にせずに相手のためにと行動する人は「至誠と実行」している実践者の風格を感じます。世の中の刷り込みに巻き込まれて頭でっかちに頭ばかりを働かせようとせず、心で動いて頭で考えるように思いやりと行動を大切に日々を精進していきたいと思います。

変化の美

経年変化の美について書きましたが、経年劣化という言葉もあります。年月が経つということは、ある意味自然消滅していくものですから自然劣化していくものです。同時に、劣化せずに味わいが出てくるものもあります。それは道具に関わらず、人物においても同じように劣化と味わいというものは付き纏います。

例えば、齢を経ても美しさが変わらないとか、齢を経れば経るほどにその価値に磨きがかかりより一層美しくなるものもあります。いつまでも変わらないものを維持しているというのは、いつまでも大切にしているものが変わらないということです。

そもそも経年というのは、単に年月が経つことですが変化というのは自らが変わり続けることです。時代が変わっても、その時代の価値にあわせて変化を已まないでいることは常に温故知新を続けているということです。そしてそこには主軸になる理念があるように思います。

人は時代に左右されずに自分の信念を貫く人や、いつまでも理想や夢への情熱を失わない人も「変わらない人」と言うことがあります。そういうものを失ってしまった人のことを「あの人は変わった」とも言うこともあります。これは生き方のことを言っているのであり、見た目の変化のことではなく内面のことを言っているようにも思います。

人は理念があり、その道を歩み、研鑽を続けて精進をするのなら経年は変化の連続ということになります。変化の連続をするものは経年劣化とは言わず、経年変化というように思うのです。

道具も同じく、使われ続けたものは経年劣化とはいわず大切にその道具を用いる人がいるのなら経年変化になると思うのです。経年変化の美とは、変化の美のことであり、この世にいていのちが活きている証とも言えます。

いのちを輝かせ、いのちを活かし、いのちを盡していく日々が経年の持つ味わいを深いものにし、美しさを高めていくように思います。

古の道具に再び呼吸を取り戻すのも、こちらの姿勢如何です。かつての思いやかつての願い、そして理念と共に歩める仲間たちが増えていくことで場が生まれ、物語がはじまります。

変化を共にする仕合わせを大切に、子ども達に変化の大切さを生き方で譲っていきたいと思います。

慢心

古に思いを馳せれば馳せるほど、人の心の様相の変化を感じます。私たちは知識をつけては進化しているように思っていますが、その実、全てにおいて古の心には敵いません。それは、知識を得て慢心し人は自惚れていくことに他なりません。

不易と流行というものがあります。心の世界は変わることがなく、そして時は流れていきます。焦りと油断が慢心を産み、自惚れと過ぎたる自愛が慢心を助長します。そのうち、流行だけが先行して不易が失われていくように思います。

そもそも慢心しないというのは、人を見下さないということです。それは別に比較しないというわけではなく、自分を特別視しないということでもあります。人は油断をするとすぐに自分が分かったかのように錯覚します。分かった気にならないと戒め続けることよりも、分かったことで分かった気になり知識によって得た安楽によって錯覚するものです。しかしその時、分かった気になった故に慢心が生まれ分かっていないという謙虚さを失うのです。

実際の世の中は、自分が知っている範囲などほんのわずかなものです。ほとんど全てのことは知った気になっているだけで知ったわけではありません。そして知るということはできません、なぜなら変化せず、已むものはこの世にまったく存在しないからです。

万物は変化し続けているからこそ、かつて知ったことがずっとそのままであることはありません。しかし知った気になってしまうと、その変化していることを忘れてしまうのです。慢心が油断であり、油断が大敵なのです。その油断しないようにするには、自分の慢心をいつも戒め続けなければならないように思います。

どんなに悟った人であっても、どんなに膨大な知識をもって努力している人であっても、慢心は誰にもあります。慢心しませんということ自体も慢心であり、慢心していると思っていることであれ慢心です。慢心とは、絶対的に人間が放すことができないものであり、それは聖賢と言えども聖人と言えども、誰しも取り払うことが難しく一生かかったものだからです。

二宮尊徳の遺誡に、「予が足を開ケ、予が手を開ケ、予が書簡ヲ見よ、予が日記ヲ見よ、戦々恐々深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」があります。

ここにも常に慢心を恐れて謙虚に向き合い続けた姿があります。自信と自惚れは百害あって一利なしです。古に学び直し、古の心を師として分かった気にならず真摯に精進していきたいと思います。