慢心

古に思いを馳せれば馳せるほど、人の心の様相の変化を感じます。私たちは知識をつけては進化しているように思っていますが、その実、全てにおいて古の心には敵いません。それは、知識を得て慢心し人は自惚れていくことに他なりません。

不易と流行というものがあります。心の世界は変わることがなく、そして時は流れていきます。焦りと油断が慢心を産み、自惚れと過ぎたる自愛が慢心を助長します。そのうち、流行だけが先行して不易が失われていくように思います。

そもそも慢心しないというのは、人を見下さないということです。それは別に比較しないというわけではなく、自分を特別視しないということでもあります。人は油断をするとすぐに自分が分かったかのように錯覚します。分かった気にならないと戒め続けることよりも、分かったことで分かった気になり知識によって得た安楽によって錯覚するものです。しかしその時、分かった気になった故に慢心が生まれ分かっていないという謙虚さを失うのです。

実際の世の中は、自分が知っている範囲などほんのわずかなものです。ほとんど全てのことは知った気になっているだけで知ったわけではありません。そして知るということはできません、なぜなら変化せず、已むものはこの世にまったく存在しないからです。

万物は変化し続けているからこそ、かつて知ったことがずっとそのままであることはありません。しかし知った気になってしまうと、その変化していることを忘れてしまうのです。慢心が油断であり、油断が大敵なのです。その油断しないようにするには、自分の慢心をいつも戒め続けなければならないように思います。

どんなに悟った人であっても、どんなに膨大な知識をもって努力している人であっても、慢心は誰にもあります。慢心しませんということ自体も慢心であり、慢心していると思っていることであれ慢心です。慢心とは、絶対的に人間が放すことができないものであり、それは聖賢と言えども聖人と言えども、誰しも取り払うことが難しく一生かかったものだからです。

二宮尊徳の遺誡に、「予が足を開ケ、予が手を開ケ、予が書簡ヲ見よ、予が日記ヲ見よ、戦々恐々深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」があります。

ここにも常に慢心を恐れて謙虚に向き合い続けた姿があります。自信と自惚れは百害あって一利なしです。古に学び直し、古の心を師として分かった気にならず真摯に精進していきたいと思います。

  1. コメント

    「慢心」には、『七慢』(慢、過慢、慢過慢、我慢、増上慢、卑慢、邪慢)あると言われます。酷い場合には、自分の回りにいる先輩、同僚、後輩一人ひとりに対し「負けまい」と必死で比較していたりします。また、「自分はもうそんなレベルじゃない!」という自負心も危険です。早く悟りたいという欲が拍車をかけるのかもしれません。「ベテラン意識」や「今さら意識」、あるいは「もう卒業意識」など、改めて注意したいと思います。

  2. コメント

    分かってるつもりを改めて調べてみると、新たな事実を発見しました。敵を知り己を知れば…ではないですが、知った事実で自分をどう変えていくかが大事なのだと感じます。そもそも何のためを忘れずに行動していきたいと思います。

  3. コメント

    以前は当たり前のように「教える」という意識があり、相手の分かる言葉で相手に分かりやすく伝えるため、自分がよく分かっている必要があると思っていました。ですが最近は一緒に学ばせていただく、自分の方が学ばせていただくという意識を大事にしたいと思っています。意識自体を変えようとするよりも、それを忘れない努力をしていきたいと思います。

  4. コメント

    体調を崩してみると、自分の身体のことが、全く分からない事に気が付きます。食べた方がいいのか、食べない方がいい、厚着して汗をかいた方がいいのか、無理には汗をかかせようとしない方がよいのか、過去の知識から決断しますが、大切なのは今の身体のことを良く知ろうとし、過去の事例に囚われずに最善を尽くし、実践し、学ばせてことだと感じました。そもそも、体調を崩したのも慢心の表れでもあるので、日頃の働き方、生き方をまた改善する機会へと変えて行きたいと思います。

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