人のために動く~働く幸せ~

先日、日本理化学工業を見学するご縁に恵まれ、大山会長から「皆働社會」についてお話をお聴きすることができました。

そもそも「働く」という字は、人の為に動くと書かれています。この字は日本語であると仰られ、他人の御役に立つという意味で用いられるのが本来の意味であると教えていただきました。

昔の日本人というのは、暮らしそのものが働くことだったと言われます。西洋のようにバカンスもあるわけではなく、休みも週休2日かだったわけではありません。日々に御日様が昇りご挨拶をしたら社會のために自分のできることでお役に立ち、日が沈めはみんなでまたその日一日の仕合せと御蔭様に感謝し御休みするという繰り返しの中で助け合っていました。

今では個人主義が蔓延し、朝から仕事をして夜寝る前まで黙々と行うことが増えているように思います。時には徹夜で休みもとれず仕事に追われるような日々を送っている人も多い時代です。

そのうち何のために行うのか、これは何のお役に立つのかを思うのではなく終わらせることが目的になって疲れはてている人も増えてきました。人間というものは、自分のできることが誰かの御役に立つ実感がでるときその疲れもまた清々しいものになるものです。しかしそれを思わずに、ただ遣ることがメインになれば疲れもとれず楽しくなくなってしまうものです。

仕事を楽しもうと無理に楽しんでも、それは一時的な娯楽のような楽しみは感じられても長続きする愉しみにはなりません。よく仕事で疲れたからと旅行にいってみても、帰ってきたらどっと疲れるということがあります。本来、仕事の疲れというのは、仕事でしかとることができないのに、仕事以外のことで疲れをとろうとするから楽しくなくなってしまうともいえます。

長続きする真の愉しさというのは、働くことで得られるものです。それはただ業務を遂行することではなく、誰かのためにお役に立ち、そのことでお役に立てる実感を自らが味わっているとき働く幸せを感じて愉しくなるのです。

仕事が楽しくないというのは、業務そのものが目的になってしまい本来何のために行うのか、誰かのために自分が親切であったかというのが関係しているのです。

私も日々に忙しくしていますが、どんなに忙しくても自分の存在や自分が一生懸命に取り組んだ仕事が誰かの御役に立っていると実感するとその疲れも吹き飛んでいきます。自分が他人のために動くとき、働ける有難さ、働くことの幸せを実感できるのです。

心の豊かさと心の貧しさというのは、働くと仕事の違いに似ています。西洋でもwork とlaborという言い方で単語が分かれているそうです。言われたことをちゃんとできるのが仕事に対し、言われていなくても他人のために動くのが働くということです。

毎日、自分を存在させて有用に活用してくださる組織や社會に対して、どれだけ自分が御恩返しをしているか、どれだけ自分から困っている人たちの力になれているか、そういうことを探して自分を用立てていくことがみんなで働くということなのでしょう。

社會とは本来、みんなで働けるという意味が本質のように思います。

他人の御役に立てる有難さがあるから、自分が幸せになるというのは人間は本来周りと一緒に豊かになっていくための存在であるということなのでしょう。一人で仕事ができるようになることにあまり意味を感じません、それよりも多くの人たちと働くことができるような人になることを自立といいその中で自分が役に立った実感が得られることが自己実現というのでしょう。

仕事から考える自己実現は自分勝手で我儘なものですし、それを得ても本当に周囲が幸せかどうかは微妙なものです、それよりも働くことから考えた自己実現は思いやりにあふれ自他もみんな一緒に豊かで幸せになるのが分かります。

どちらに生きるかも、その人の生き方、そして働き方次第です。子どものモデルになるような生き方働き方を見つめていきたいと思います。

天才~いのちの法理~

人間には誰にも天与の才能があります。

これは天は、あまねく人々すべてに何かしらの役に立つ才能を与えているということです。一見、何の才能もないように感じることもありますがそれは役に立てるように才能を使っていないだけで何か必ず役に立てることがあるのに出会っていないだけともいえます。

人はその天与の才能があることを忘れて、才能を私物化しようと様々な能力を求めます。しかし実際に与えられている才能は人それぞれ異なり、それを活かすことの方がいのちも歓ぶのです。

なぜ才能を私物化してはならないかといえば、不必要なものを生んでしまうからです。誰か一人が完ぺきに才能を持ち、ありとあらゆることを自分で完結してしまうならその時、必要と不必要が発生します。

できる人は必要でできない人は不必要になります。みんなが一斉に同じことができるようになれば、それができない人たちは要らないということになってしまいます。たとえば、極端ですがお米以外の作物は必要ないといってしまえば、どの野菜も全部お米のように改良するとします。そうであれば、お米以外のものは人間には必要がない、不必要だから邪魔な存在になるのです。

実際に、人間の都合や自分の都合で要るとか要らないとかを分別するほどにこの世から不必要なものを排除しようとしているのです。都市を観てもわかるように、人間社会に要らないものは置こうともしなくなっています。

本来は、八百万の神々がいるこの日本は、すべてのものには何かしらの神様が宿ると信じられてきました。ゴミと西洋では呼ばれるものでさえ、私たちの国の神話ではそこに必ず神様の名前があり、それを尊び守り重んじ大切に祈りを捧げてきました。

私たちの祖神、先祖たちはこの世には一切の無駄はなく、一切の無用もない。すべてが神様の化身なのだからそのいのちを大切に使われていただきますという姿勢でいのちを活かしてきた民族だったのではないでしょうか。

今のように循環しない、ゴミや無駄や不必要に溢れた世の中になったのは天与の才能を人間に都合がよい才能だけにしてしまおうという傲慢さの現れではないかと思います。

あの雑草と呼ばれる草にも、害虫と呼んでいる虫たちにだってとても大切なお役目があります。その御役とは、天才があるということです。みんな生きているこの世のすべての生命は、天与の才能が与えられているのです。

その才能が適材適所に配置されるとき、この世はまるで楽園になったかのように幸福な世界が顕現するのです。

才能を無駄遣いしないというのは、自分にしかできないことをやることです。言い換えれば、自分の天才を活かすことです。天才は、何でもできることがいいわけではなく、自分のままでも世界の御役に立てる方法を自らが発見発明していくことです。

そして真の教育者とは、そういう天才の徳を見出し、その徳を活かすために配慮し、環境を用意しその発育や成長を見守り「いのちの働き」を活かすものだと私は確信しました。

今の時代は、知識を教え込み、天才を無能にしてしまうようなことを刷り込みます。しかしそのことからいのちが悲しみ嘆き、自分は何者なのかと苦しみ病気になる人たちが増えています。働くことで仕合せを感じていたはずが、マニュアルによって仕事ができるようにさせることでより一層いのちの使い方を間違い、そのことからさらなる無駄と不必要をつくり、それを解決するために膨大な資金や労力を使わせています。

先祖たちはいのちの法理を知っていて、この世には一切の無駄がない、神々がいる世界にこの世を近づけていたのです。それをこの100年程度の西洋の文化がすべてにおいて優っているという思い違いが氾濫することで、私たちが先祖代々、何よりも大切にしてきたいのちの法理をも忘れてしまうのは本当にもったいないことだと思います。

私の志す、かんながらの道にはいつも八百万の神々がその見えざる姿、聞こえざる声によって自然を通じて何が大切かを親切に手ほどきをしていただきながら教えてくださいます。自然から学び直していると、自然は一切の無駄がなく一緒につながり絆を育みながら共生しあい貢献しあい、あるがままにそのままに天才を活かし仕合せを生きています。

子どもたちにはそういう世界を譲っていきたいと切に願います。

三つ子の魂の救済を、ご縁と支えられている皆様への御恩返しとして自らの天才を存分に発揮しつつ実現させていきたいと思います。

今問答

人は物事に取り組むとき、答えから探そうとする人と問から導いていこうとする人がいます。

もともと学校では、答えがあって答え合わせをし、適切な手段で答えを出したことで合格になるように教え込まれてきました。そのためか結果よりも手段が大事であり、手段が間違っていると思えば答えが出る前に諦めてしまう人が増えたように思います。

しかしよく考えてみると、手段というのは刷り込まれた常識のことで本当にその通りにいくわけではありません。実際の人生を振り返ってみても、最初の入り口はマニュアルが必要でも応用はまったくマニュアル通りにはなりません。手段とは、あくまで最初の段階であり目的に対して本質かどうかが結果に対しては重要だと私は思います。

そもそも結果というのは、結果が先ではなく体験して挑戦したことの現れとしての結果が出てくるだけのものです。その結果をどう受け入れ改善し、次の挑戦につなげていくかで体験そのものが善いことになるのです。

世の中は答えが出ているものをわざわざ探求しようとする人はいません。それは常識というものと同じです。常識は変えられないものだと信じ込んでいたり、世の中はそうなっているものだと疑問にも感じないようになればそれはもう考えていることをやめているともいえます。

考えるというのは、常識を疑うことを言います。それは自分自身の中にある常識に「?」を持つことです。本当にそうだろうか、自分が思い込んでいるだけではないか、実際の世界は自分の思っているものではないのではないかと、自問自答を繰り返して行く中で自分の中にある真実を見極めていくのが学問です。

それを誰かがいつも答えを持っていると、答えさがしばかりをしていたら体験したことを活かすよりも体験せずに先に手に入れることの方を優先してしまうものです。体験の尊さというものは、その人だけのかけがえないのものです。

その人の体験は、必ず誰かの御役に立つのです。これは人類だけではなく、動植物から昆虫にいたるまでそれぞれの個性にそった人生を生き抜くことで環境の変化、時代の変化に順応していく種を次代へとつなげてくことができるのです。

またその体験の中にこそ、ご縁や一期一会、御蔭様や有難さ、勿体なさも感謝も真心も全てがそこにあるのです。体験をしても体験しない人もいれば、体験をしようとしていたのに体験をしたがらない人もいます、これこそが常識に縛られている証拠なのかもしれません。

当たり前ではない日常にどれだけ本気で味わい尽くすか、当たり前ではない今にどれだけ真摯に向き合っていくか、仏陀が言う通り人生は四苦の生老病死のみならず、八苦の愛別離苦、怨憎会苦、五蘊盛苦、求不得苦があります。

しかしそのすべての体験こそが自らの魂を磨き、そして心を鍛え、精神を高めていくのも事実です。体験を避けて過ごす一生もまた一生、体験を味わいながら痛快愉快に歩むのもまた一生。

全てを善かったことにしていくためにも、体験の意味を味わい、その体験をさらに人の御役に立てていくことで人生の花もまた咲いていくように思います。

日々は学びの連続ですから、学ぶのを已めないことこそが体験を尊ぶ生き方なのかもしれません。疲れや忙しさという甘えに己が負けないように、あれこれ思い煩わず体験を優先しそれを味わい反省する面白い今に邁進できるようになりたいものです。

二度とない今問答だからこそ、今しかできない有難き今の感謝の心のままにご縁を歩んでいきたいと思います。

王道は正直

今の世の中は、何でも簡単便利に効率よくというものが人気があります。

販売されている商品も、負担を減らすためにという言い方をしつつもより楽をしようとするあまり反って本質から外れて忙しくなったり、初心や目的からズレて仕事を増えたりしているものです。

制度なども同じく、制度を作った方が便利だと用意したけれど結局はその制度のせいで思いやりが欠けたり、柔軟な対応ができなくなり硬直したりと、安易に即効性のあるものはその後は長続きせずに形骸化しそれが変革の邪魔になってしまったりするものです。

本来、学び方も教え方でも同じことですが「サプリメント」を与えるようなものを簡単便利だからと優先すればそのサプリメントで乗り切れると勘違いする人たちを増やしてしまうのです。コンビニで売られているサプリメントや薬の類は、結局は根本治癒をするものではなくその場しのぎを増やしていくだけでより状況は慢性化し悪化していくだけです。

根本治癒をするには、時間をかけてゆっくりと内省しつつ対話によって解決していくしかありません。それは結果さえよければいいではなく、そのプロセスをどれだけ大事にしているか、それは教えるのと同じで教えてできるのではなく、自分で考えて行動して自らが気づき答えを出していくということを何よりも大切にするということです。

人間を信じるということは、その人は必ず気づき覚るであろうと信じることかもしれません。

すぐには気づかなくてもじっと待っていれば、その時が来ると念じていればその日が訪れるのです。祈るようにその人の気づきを待ち、自分自身が実践を已まずに道を歩んでいればご縁の妙に導かれて必ずその人の気づきが訪れるのです。

それがいつになるのかは分かりませんし、自分が生きているうちにはこないかもしれません。しかし私自身がそうであるように、師から諭された言葉も気づくまでには何度も挑戦し、内省を繰り返しながら数年から十数年でハッと気づかされることが多いからです。

道には王道があり、王道を志すならば正直が一番です。

人に求めて焦る気持ちが出てくるときは、自分の足で自分の道を歩むことをお座なりにするときかもしれません。日々の脚下の実践を怠らず、克己の工夫を探求し子ども第一主義を深く掘り下げていきたいと思います。

 

脳を裏切る、行動が習慣を創る

人間は行動せずに脳だけで処理を行うと、あたかもそれをやっているかのように感じ始める生き物です。実践が実践ではなくなるのも、やっている気になるからであり、分かったことが分かった気になるのもそれは脳が関係しているのです。

事故で手足を失った人が高確率で、四肢があるかのような感覚を持ってしまうという話があります。これは脳が思い込んだものが現実にあると勘違いしているのです。また見た目が善い食べ物を食べてもいないのに美味しいと思い込むのも同じく脳が先に味をつくってしまうのです。

これと似たことを常に脳は行います。たとえば、日々にやっていないことでもちょっと習慣がついたと思えばそれをやっているように思いこむのです。言い換えれば脳が見せかけを用意し、その見せかけによってあたかもやっているかのような体験を仮想するのです。知識のみが豊富に偏れば偏るほどに脳は体験を仮想補填してしまいます。

私はよく脳を裏切るという言い方をしますが、脳が嫌がることを敢えて行うことで脳の思い込みに騙されないようにしていくのです。

これは習慣の持つ仕組みの一つで、脳が嫌がる行動をすれば脳が行動により思い込みを取り除くのです。思い込みが取り払われれば見せかけが消えますからはじめてそこに実相がありのままに顕れてきます。

そこで脳が思い込みを捨てる方を選べば、そこに心の力が動かされていくのです。心が強い人は脳に左右されませんし思い込みが少ないものです。

これは脳が嫌だと感じる前に、心が動き、行動がはじまりそのことで脳の思い込みを持たせる時間を与えないからです。これらの刷り込みは、教えられる弊害であり、このことより子どもの好奇心を失うことで病魔のように脳が仮想を次々に生み出すようになり不安からさらに目が曇り始めます。

実際の現場では起きてはいないようなことをまるで起きているかのように錯覚したり、実践をしていなくても悟ったかのように勘違いします。知識を得て、世界を仮想化するのはできても現実世界は思い込みで成り立っているだけで実際は自分をも変えることができなくなるのです。

自分を変えるには、まずこの脳の思い込みを捨てる努力が必要です。

そのために数々の習慣をものにして、脳が嫌がることを敢えて行う訓練をして自分自身のコントロールを正しくできなければなりません。現実は常に現実として目の前に顕れます、受け入れがたいこともあるでしょう、そんなときは変えるチャンスだと思います。

自分を変えたいと強く願うからこそ、実際の行動の方から自分の脳を裏切り、脳が嫌がることをたくさんしてでも信念や理念を貫いていくことで、自分の人生は刷り込まれない正直な場所でいられるのだと思います。

行動による疲れは、脳の仮想をつくらせる余地を与えません。心地よい疲れというものは、心が地についた疲れということです。変に考えすぎるよりも、心が思いやりを優先するほうに従って自らの習慣を育て上げれば立派に自分の人生の道を切り開く人になると思います。

常に自分の心をで信じた方を優先する生き方を示していきたいと思います。

自分自身になる~揺るがない自信~

人間はお互いの信頼関係を築くのに自分との信頼関係を先に築く必要があるように思います。信頼関係の本質は、他人の評価から測るのではなく自らの自信によって育まれるものだからです。

信頼というのは、自分自身のありのままを受け容れることのように思います。それは認めるということです。自分という存在がどういう存在であるのか、現実を含めてすべて丸ごと受け容れます。そしてそのような自分を受け容れてくださっている周囲のことを丸ごと受け容れます。そうすることで次第に今の自分を認めることができていきます。

自分はこれでいい、自分はこのままでいいのだと自分自身を認めつつ、自分が信頼できる自分になろうと自分の甘えに打ち克ち続けていくことで自分自身との絆も深まり、同時に周りからも信頼されるようになるのです。

自分が決めたことや自分がやろうとしたことは自身で実践していくしかありません。それを観て周りもその人は信頼できる人かどうかを判断しているのです。いくらその人の見ている前だけや表面上だけを取り繕ってみても、自分自身が決心したことはその人にしかわからないものです。

自分が決めたことができない人を周りが励ますのは、その人が自分=自身になってほしいと応援しているのです。あるがままのその人になるとき、人は美しく個性豊かに主体性が発揮されていきます。その人がその人らしくいるとき、自分自身を見出し、その自分自身が社會の一員になるとき、世の中は平和で楽しい未来を創造していくことができるからです。

お互いに信頼し合うというのは、常に自分自身が自分で決めたことができるように頼れ信じることができる関係がその人自身にあるということです。

よく考えてみると、信じるというものは常に自己内省が必要です。自分が自分(己)を振り返ることで、信じた自分をやれたかどうか、信じたように取り組めたかどうかを自分自身で確かめるのです。

そしてそれができていなければ自分が改善し、自分が修正し、自らを助けていくのです。自分を認めることができてはじめて人は責任が持てる人になります。それは自分自身を信じることができるようになるからです。言い換えればそれを「自信」というのです。

いつも自分のことをもっとも身近で助けてくださっているのは誰でもない自分自身です。

そのことを忘れず、自分を認め、自分に感謝するとき、人は自分を信じはじめるのでしょう。自分を好きになるということは、自分を大切にするということです。

自信がある人は、信頼されます。信頼される人は、自信に裏付けされた自分自身が自立しているのです。なにが自分にできて何が自身にできないかを正しく認識することができることではじめて頼ることの素晴らしさ、仲間の存在の価値に気づくように思います。

自分自身と仲よくすることで仲間はできます、その仲間を大切にすることで周りの仲間が増えてチームはできます。お互いがお互いを信頼し合い仲間になっていく中で、自分自身というものにも出会います。みんな自分自身との関係づくりのなかで苦労したからこそ人に共感でき、その人を応援して励ましたくなるのです。

一期一会のご縁がある人たちと一緒だからこそ、絆は結ばれてかけがえないのない信じる仲間がある世界に生きることができるように思います。

ひとりひとりの存在価値が光り輝く昴のような集団を目指していきたいと思います。

 

遊び心~画一ではなく個性尊重を大事にするということ~

今の日本社会や組織の問題を見つめていると、画一化という教育とは何かというのが観えてきました。ほとんどの場所では、同じことを周りと同じように平均的に行うことが良いと教えられ、それを目標に刷り込まれてしまうと他とは異なるということをあまり良いことだと思わなくなります。

周りと同じであるかというのが平均ということで、その反対が独創というものです。

人と異なることを行うにはユーモアが必要です。これを日本語では遊び心というように思います。そしてユニークな個性が必要です。これを日本語では自分らしさというように思います。

日本人はもともと独創性をあまり重視せず真面目に周りと合わせていく中で困難を乗り越えようとしてしまいます。これがマジメすぎてアソビを失う原因ではないかと最近感じるのです。

以前、オランダに訪問した際、ある子ども主体の教育のコンサルティング会社の代表者より私が大変ユニークだと褒めてもらったことがあります。人と異なることを行い、それを愉しんでいるからという理由だったのかもしれません。そしてそれが我々が目指す子ども像だとも付け加えられました。

人と異なることをしないというのは画一化ということです。それはみんなを正解に従ってその答えになるようにコピーしていくということでもあります。そうやってコピーされていたら、マジメにやれるようにはなってもふざけたことはしなくなってしまいます。

特にふざけたことをすれば常識外れだと罵られたり、変人だと蔑まれたりしていればそのうち誰もそういうことをしない方がいいと思うようになっていきます。

しかし本来、一人一人の人生は別物であり同じことはありません。他人の人生は参考になったとしても同じ人生など歩めることもありません。だからこそ自分は自分なりに独創性をもって事に挑み、新たな道を常に切り開き続けていかなければなりません。

その時の正念場は、周りと同じことをしないということです。

そのためには、きっとこれで合っているといった固定概念に縛られないことだと思います。常に新しい発見と発明を繰り返しては、それを試行錯誤する。その中でユニークさもユーモアも磨かれていくように思います。

硬直した組織は必ず遊び心を失っていますし、硬化した人間関係も同様に遊び心が亡くなっています。

世紀の大発見も、時代を揺るがす大発明もすべては遊び心から産まれるものです。それはもっとも自分らしい姿から誘発されるものです。マジメでもフマジメでもなく、遊び心満載のふざけた生き方が硬直硬化した自分自身を解放してくれると思います。マジメそうにしてサボっていることの方がフマジメだと思いますから、いい加減にみえても本気であることの方が自分らしいと私は思います。

大人になるというのはサボらないこと、そして周りをコピーすることだというのはあまりにも虚しいものです。いつまでも子ども心を大切に一度きりの人生なのだからもっと遊んで愉快に道楽を歩んでほしいと思います。子どもたちにはいつもいつまでも愉快痛快に個性尊重し生きる自分の背中をみせていきたいと思います。

一日一善~開墾と播種~

人は誰しも人生の中で自分との仕合を続けていくものです。

それは単なる競争の勝ち負けではなく、自分自身に克つかどうかを行っているものです。自分の克った結果として事物は顕正してきますから常に真実は自分に正直であったということです。

では具体的に己に克つとはどういうことをいうのか、そして礼に復えるというどういうことか、それを二宮尊徳が分かりやすい例えで自らの実践を説いている文章があります。

「孔子曰く。己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰すと。私欲身より生ずる。之を己という。猶ほ蔓草田畝に生ずるごとく也。力を極め私欲を圧倒す。之を克と謂う。猶ほ角力勝を制するごとく也。之を開墾に譬う。己に克つは、闢荒也。礼に復るは、播種也。天下は広く之を言ふのみ。猶ほ闔荒と言うごとく也。仁に帰すとは、闔郊皆秀実穀粟と為るを言ふ也。」

(意訳ですが、孔子は言っている、「己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す」と。常に私欲は自分自身から生ずるもの。これを「己」という。たとえばつる草が田んぼに生じ覆いかぶさるようなものだ。それを自らの力を極めてその力をもって私欲を圧倒する。これを「克つ」という。たとえば相撲のように自らを自分自身で心身一如に修めることで制し「克つ」というのと同じようなものだ。これを私なりに農の開墾に例えてみよう。つまり「己に克つ」とは、ひどい荒地を必死に開くことだ。「礼に復る」というのは、そこに根気強く丹誠を籠めて種をまくことだ。「天下」は広い世の中に対してということを言っているだけである。それはありとあらゆる荒地に対してと言うようなものだ。「仁に帰す」とは、まるであたり一面に豊穣の穀物が皆よく実っているということを言うのだ。)

自分から常に道を切り開きそして幸せの種を蒔く。これは私の仕事でいえば、自分から進んで社會のために荒れた人々の心の救済や、子どもたちのためにと人々の力になり、そして自分の信じている世界や信じた理念の種(商品等)を一粒一粒丹誠を籠めつつ拡げていくということに他なりません。

自ら開墾もせず種も蒔かなかったらそれは己に負けて礼を失したということになるのでしょう。常に思いやりを優先する実践とは、「開墾と播種」ということに他なりません。世の中に対して自らが行動してこそはじめて思いやりに満ちた世の中にしていくことができるのでしょう。

世の中が荒れているからと荒れたせいにし自分は何も動こうとはせずに言い訳ばかりをし、種も蒔こうとはせずに家の中に置きっぱなしにしていたら目の前の荒れ地はもっと荒れ果てていくだけでしょう。人道というものは、自らがせっせと草取りや草刈りをし、自分の中に生え続ける私欲を同じように取り除き続けて、常に刻苦勉励、人々のために労苦を惜しまずに頼られ力になっていくことを言うのでしょう。

人生は、常に自分の仕合をしたかどうか、自分の仕合ができたかどうかが勝敗を決めます。自分の仕合とは生き方のことですから、今日一日、どんな生き方であったかを振り返ることしかできません。

自己管理というものの本質は、己を出し惜しみなく出し切っているか、そして真心を籠めて誠実に遣り切っているか、自分の志に恥じないような人生であるかと自問自答の対話を続けていくということなのかもしれません。

一流というのは条件に左右されずに、常に一に止まることができます。一流の仕事とは何か、それは常に自ら切り開き自ら種を蒔き続けている人物の仕業ということなのでしょう。

常に「開墾と播種」、つまりは業を営む実践を行うことが克己復礼なのだということを忘れずに一日一善につとめていきたいと思います。

 

 

 

 

本物の実践

「本物は続く、続けると本物になる」は、東井義雄さんの遺した言葉です。

実践をしていく中で何度も励まされる言葉です。

人は初心を忘れたり、日々に向き合わずに内省を怠るとすぐに流されて実践が甘くなっていくものです。自分の遣りたいことや好きなことを遣っているはずですが心がついてこず、頭でっかちにやった気になればそのうちルーティン化した業務のように実践を勘違いしてしまいます。

本来は何のためにそれをやるのか、何のために働くのかを決心していたはずのものが覚悟が定まらず迷走しまた流されるというようにブレナイ自分を練磨研鑽するには長い年月がかかるものです。

しかしそれでも続けていれば、次第に何かの機会を切っ掛けに質が高まり心が着いてくるように思います。心が育ってくればくるほどに様々なところが削り取られていき円みを帯びてきます。実践とは実績のことですからやればやるほどに積み上がった経歴や経過が今の自分を存在させますから毎日は死して後已むまでずっと真剣勝負だということです。

そして実践の心を伝える東井義雄さんの「小さな勇気」という詩があります。

「人生の大嵐がやってきたとき

それがへっちゃらで乗り越えられるような
大きな勇気もほしいにはほしいが
わたしは小さな勇気こそほしい

わたしの大切な仕事を後回しにさせ
忘れようとさせる小悪魔が
テレビのスリルドラマや漫画に化けてわたしを誘惑するとき
すぐそれをやっつけてしまうくらいの
小さな勇気でいいからわたしはそれがほしい

もう五分くらい寝ていたっていいじゃないか
けさは寒いんだよとあたたかい寝床の中から
ささやきかける小さな悪魔を
すぐやっつけてしまえるくらいの
小さな勇気こそほしい

明日があるじゃないか
明日やればいいじゃないか 今夜はもう寝ろよと
机の下から呼びかける小さな悪魔を
すぐやっつけてしまえるくらいの
小さな勇気こそほしい

紙くずが落ちているのを見つけたとき
気がつかなかったふりをしてさっさと行ってしまえよ
かぜひきの鼻紙かもしれないよ
不潔じゃないかと呼びかける
小さな悪魔をすぐやっつけてしまうくらいの
小さな勇気こそわたしはほしい

どんな苦難も乗りきれる
大きい勇気もほしいにはほしいが
まいにち小出しに使える小さい勇気でいいから
わたしはそれがたくさんほしい
それにそういう小さい勇気を軽蔑していたのでは
いざというときの大きな勇気も
つかめないのではないだろうか 」

自分を変えていくということは、自分の全身全霊を発揮していくことです。本当の自分らしさというものは、全身全霊で自分を誰かの為にと真心で生き切り遣りきるときに自ずから自然に出てくるものです。

あの植物や動物、虫にいたるまで自分で計算して自分らしさのだし引きをするものはありません。人間は甘い環境の中で自分を甘えさせられることができる生き物ですから、あの野生の動植物のようにそのものらしくはなくなってきています。

そんな時こそ小さな勇気が必要ではないかと私は思うのです。

日々の実践というものは、頭で行うものではなく行動で示すものです。行動は頭よりも先に動きますから心が先に動いてきます。心が動き頭が着いてくればそれはもう実践がものになってきている証拠なのです。頭ばかりが先に動いて心が亡くなってしまうような人生はまるで道に入って道を歩かないような虚しいものです。

「本物は生きるのを已めない、活き続ければ本物になる。」

一度しかない人生なのだから自分と向き合い、自分を高めていくのが人生の醍醐味なのかもしれません。色々と誘惑や欲が多いのはどの時代でも同じようです。その自分の誘惑や欲の種類は人それぞれに異なりますが、小さな勇気を発揮してそれを凌駕するような本物の勇気の心、本物の実践を積み上げていきたいと思います。

悔しさの本質

昔から悔しい体験が人を成長させる、悔しさをバネに人は伸びると言われます。

この悔しさを実感したことのない人は吸収していくことができません。学び方というのは学校でただ知識を吸収していくような本だけを読めばいいという勉強だけで成長したとは言えません。確かな体験を自分で経験に昇華しつつ、それを心技体に刻んでいくかのように実力をつけていくのです。

実力というのは、どれだけ結果がでるものばかりを選ぶのではなく結果がでないような難しいことに挑戦しているかが関係しますから大した努力もなしに実力が具わることということはないのです。

話を戻せばこの悔しい体験とは何かということです。

これは一言でいえば、「楽をしない」ということです。人間は自分にとって楽を選べばその時点で自分に負けてしまいます。楽を選ぶ人は悔しがるわけではなく、周りの同情をあつめたり、甘えてばかりで自分の力のなさを嘆くばかりで努力をすることはありません。どうしてもやる気がでないとかやりたいとは思わないとかに陥りますがこれは自分が楽を選んでいる証拠なのです。

人間は楽を選べば悔しくなく、苦しいほうを選ぶから悔しいのです。

その苦しみというものは、大変だと分かっていてもそれでも自分に負けたくないと挑戦するから悔しいのです。「たら、れば」という言い訳を排除し、何がなんでも実力をつけたいとプロとして謙虚に学ぶからこそさらに自分の人格を高め、人間としての成長があるのです。

成長するには苦しい体験、つらい体験、苦々しい思いをたくさんして伸びていきます。甘えて楽して簡単便利に手に入るような結果ばかりを追っていたらそのうち自己嫌悪になり湿った木炭のようになっていきます。

植物の世界であっても、根が張るのはもっとも苦しい時です。いつも水を与えて湿りきっていたら根腐れして枯れるのが自然の道理です。根腐れしないコツは吸収したいと強く願うことです、いいかえれば成長したいと願うことです。

そしてそれは自分に打ち克つような体験すること、つまり悔しい体験をすることです。

一流というのは、「克ちにこだわり」ます。それは己に克つことを望んでいるからです。楽を選ぶような人に一流はいません、常に楽ではない方を選んでできない理由を撥ね退けて限界を超えて奇跡を創りだしていくのが一に止まる人物の流儀でしょう。

せっかく若いのに成長しないというのは何よりももったいないことです。若いうちの苦労はかってでもせよというのは、若い時は苦労して自分に克つ体験をたくさんしなさいという先人の思いやりなのかもしれません。若い時こそ実力が着いてこないのだから、その時こそ体験をさせてもらえることに感謝して苦しくても何でもやってみることです。苦しい時の一歩こそ勝利を呼び込む鍵なのです。

それが初心者の基本姿勢、「克ち癖」をつける訓練ということです。

苦しいから楽をしようではなく、苦しくても遣り切ることで悔しくても愉しい方を選ぶ生き方の実践を子どもたちを励ましつつ背中で伝えていこうと思います。