信頼と覚醒

私が運営するBAというのは、ブロックチェーンアウェイグの略です、これは訳すと「ブロックチェーンの目覚め」という意味です。

そもそもこのブロックチェーンとは何か。

これは一般的には、取引や記録のデータを「ブロック」という単位でまとめ、それを時系列に鎖(チェーン)のようにつなげて管理する分散型のデータ管理技術だといわれます。しかし、この技術は何を中心に使うものなのか、それは人と人の信頼の絆を結ぶことであることは間違いありません。畢竟、事業も人、すべては人が創るものです。人が創るからこそ技術も産まれ新たに活かされます。何のためにこの技術を使うのかもまた人なのです。技術だけを見るのではなく、人を観ることがすべてのはじまりです。

そしてアウェイクニングとは何か。

これは「本質に氣づく」ことや「目が醒める」ことをいいます。人は覚醒し意識が目覚めると世界がとても透明に観えます。それは本質や真実に氣づくとそれまでの視野がまったく変わるということです。人間は真の自我に目覚めると、今まで何をやっていたのかというくらい環境に流されていたことに氣づきます。本当の自分を生きることに目覚めた人は自分だけの物語を生き切っていきます。それは宇宙や自然の循環のなかで使命を生きるという喜びです。

つまり「ブロックチェーンアウェイクニング」のBAは、この「信頼と覚醒」を実現する場ということになります。

では何が信頼なのか。

例えば、昨日私たちのBAでブロックチェーーンのイベントの懇親会がありました。食べるものから置いてあるもの、人、そして実践、取り組みなどすべてオープンで透明性があります。集まった人たちもみんな正直に使命や志を語り合い、心を開きます。気づいたらもうこの町でITを活用して心を結ぶ活動を同志は27年間以上続けてきました。その結果として、今のブロックチェーンの取り組みがこの場所で発展繁栄しています。

信頼は、いつも人の生き方や取り組み、その継続や思いの切磋琢磨、そして心の交流により育っていくものです。時間をかけて醸成してきた本物の実践や継続だからこそ心の信頼そのものを強くしていきます。昨日の参加者の一人から、心のブロックチェーンを創るという発信がありました。嬉しい宣言でした。人が人と心を結び一緒に何をするか、それが事業の面白さです。

この場所があるということ、そして人がいるということ、それを支える技術もあるまち。私たちが目指しているブロックチェーンアウェイクニングは、本来の人間性や徳といった技術と人の和の本質を追及していくものです。徳積循環経済をブロックチェーンを活かして実現していきます。

来年もまた変化挑戦の多い一年ですが、こうやって場に一同で集まれて仕合せでした。故高橋剛さんの魂もBAに留まっています。新たな仲間たちとまた一緒に未来を創っていきたいと思います。

老舗をつくるとは何か

ブランドというものは、何かと考えてみるとそれは「信頼」であることがわかります。信頼は商売のすべての根源であり根本です。老舗と呼ばれるすべての会社が、長い期間を経て得ているもの、それが信頼であるのは間違いありません。

その信頼をブランドと私は定義しています。この信頼を育てるというのは、生き方を磨いて生き方を貫くということです。生き方を貫いているから、周囲はその人を信頼します。そしてその目指す目的を絞り、その絞った目的に向かって全社員で取り組んでいるからこそ会社もまた信頼されます。

つまりブランドというものは、長い期間をかけてお客様をはじめ社員、および周辺の人々と自分たちの取り組む生き方を通して感情的なつながりを築き形成されるものです。

そしてブランドが失墜する時というものは、その信頼が壊れる時です。どのような時に壊れるかといえば、一つは短期的なものばかりに囚われ長期的な目的を蔑ろにする時。または目先の利益ばかりを追いかけて、本来の目的を忘れる時です。老舗で信頼がある企業は、不易流行をよく判断し、何を変えていけなくて何を変えていいかがよくわかります。さらに言えば、不易というのは長期的な理念であり流行は世の中のニーズやシーズに合わせて自分たちの持ち味を活かし、全体が喜ぶような仕事にしていくということです。

私はよく法人を人格として観て、理念のある会社を一人の人間として捉えその会社が喜ぶかということを純粋に取り組みます。これは、理念が喜んでいるかともいえます。理念が喜ぶために何をすることが最も効果があるのか、そして長期的に観て何を取り組むことがその理念を最も喜ばせることができるのかを考えます。それに気づいた人たちやその仕事に携わる人たちが近い将来、必要とするであろう長期的で必要な目的に取り組むのです。

それを世の中ではブランディング戦略とも呼ばれたりします。つまりブランドは、目先の短期的なものに左右されず長期的な目的に従っている時にこそ醸成され周囲に認知されるということでしょう。

ブランドを持っているものと持っていないものの違い、信頼されるものと信頼されないものの違い、長く積み上げていくこと、積み重ねていくこと、研ぎ澄まされていくこと、盤石な基礎を固めていくこと、それがブランドを創るということでしょう。

一見、利益にもならない、儲からない、あるいは手間暇もかかり面倒で趣味や道楽だといわれるようなものでもよくよく洞察するとこれが長期的な信頼であると御旗を掲げて歩んでいることがわかります。

長いからこそ理解できず、純粋性で高い理想や理念に対して思いが透徹しているからこそ老舗としての初心が育ち、それが養分となり大樹になっていく土が醸成されるのでしょう。

ブランドは土づくりととても似ています。収穫を考えず、ただ只管に土をよくするためにいのちを懸ける。しかしその懸けた土があれば、その後にどのような作物の種を蒔こうとよく育ちます。それを私は「場」とも言います。場を育てるというのは、土をつくるということです。

農の本質は、国造りであり人づくり、そして未来のための土づくりです。

そろそろ集大成、遺言のようにこの文章を刻んでいきますが後を託す人たちのために自分にしかできないことを遣りきっていきたいと思います。

侍の精神

昨日は日本の「天下の三大揃え」の一つ、秋月の鎧揃えに法螺貝役としてお役目をいただき勤めてきました。秋月和紙の侍、井上さんとのご縁で参加してからはや五年目になります。

もともとこの鎧揃えは江戸時代の秋月藩における年中行事の一つであり、寛永14年(1637年)の島原の乱に際して初代藩主「黒田長興」(黒田長政の三男)が家中に命じて正月三日に鎧揃え(軍事演習)を行ったことが起源です。

その後は明治維新とその後の廃藩置県で秋月藩は消滅し、残された士族たちによって細々と続けられていた鎧揃えも昭和20年代には一度途絶えます。それから60年余りの時が流れ、平成21年(2009年)に地元有志により『秋月鎧揃え保存会』が結成され現代に鎧揃えを甦生しました。

この鎧揃えが生まれた背景を調べてみると江戸時代に入り最後の関ケ原の戦いが終わってから38年ほど経ち、武士たちも平和が続き平和ボケしていたといいます。実践経験のない武士たちはとても弱く、島原の乱に対応できず実践経験がある古参の武将たちがその時、とても重宝したといいます。平和ボケした武士は戦おうともせず、鎮圧もなかなかできず、一揆などがおき反乱する状況になるまで初期の対応もしなかった藩にも問題がありました。

つまり平和に油断していたことで被害が大きくなったのです。

この鎧揃えの年中行事の目的は、易経、孔子の『 安くして危うきを忘れず(安而不忘危) 存して亡ぶるを忘れず(存而不忘亡) 治まりて乱るるを忘れず(治而不忘乱)』の意味もあります。

これは安泰な時であっても危機を忘れず、存続している時も亡びる事を忘れず、治まっている時も乱れる事を忘れないこと。どのような時でも、油断してはならないという先人からの遺訓であり智慧の一つです。

そう考えて観ると、ただ伝統は繰り返し行っているわけではありません。この本質を守り続けようとする意志を伝承したものが行っている大切な実践であるのです。

現代ではどうでしょうか?

政治の無関心や先送り、そのうちなんとかなるだろうと何も主体的に動くことがなく、忙しさとお金儲けや目先のことで精いっぱい、誰かがやるだろうと他人任せにしては油断していないでしょうか。

今、もしも食糧危機が来たらどうするのか、もし近隣の戦争に巻き込まれたらどうするのか、もし大災害や金融危機が来たらどうするのか、ちゃんと対策はできているでしょうか。

私は暮らしフルネスの実践を通して、いつも危機に備えた暮らしをしています。自然と離れずに循環の中で食料や燃料やお水を確保し、徳を中心に据えた講のコミュニティをつくり、伝統の智慧を継承し、古民家を甦生しています。そして子どもたちの主体性を見守る環境をつくり広げ、最先端技術を温故知新しています。それでも油断してないかと色々と挑戦をしています。

武士道とは何か、商人道とは何か、日本人が大切にしてきた精神を守ることが治に居て乱を忘れずという実践ではないでしょうか。

引き続き、子孫のために志士たちの真心を紡ぎながら侍の精神を守り続けていきたいと思います。

特殊詐欺

昨日、はじめて特殊詐欺の電話を受けて危険な体験をする機会がありました。誰かが同じことに遭わないように報告します。これはちょうどお昼時に、大阪府警からと連絡がありちょうど前日に大阪にいたので何かあったのかと思い耳を傾けたところからはじまりました。

少し長くなりますが簡単に整理すると、私の楽天銀行のキャッシュカードが資金洗浄に使われたとその容疑のための捜査協力の依頼という具合でそこから振り込み詐欺という流れでしょうか。

手口はとても巧妙で、守秘義務を要求し周囲に誰もいないかどうかを確認。少しでも情報漏洩あれば罪になると脅し、電話を切られないように圧をかける。一人目が生活安全課が事件の規模が大きいために操作を手伝っているとまるで市役所の窓口のような対応に似せて淡々と捜査の流れを説明。そのあと、今すぐに署に来れないのなら遠隔捜査の協力をするようにと丁寧に依頼される。その後は捜査二課に繋ぐということでlineで映像確認をしたいといい事件番号をいいそれでline接続。繋いだ映像では刑事の警察手帳と顔を映し本物の警察であるといい、権威を信用させる。

またこれが本当にいそうな刑事の雰囲気、テレビでもありそうな声、実際には過去に警察で刑事をしていたのではないかと思うような雰囲気でした。これも架空映像かもしれません。そして録音してもしも一つでも虚偽あれば裁判で不利になると脅し、容疑者に加担したことがないか、嘘をついていないかと執拗に何度も圧をかける。国家権力をかさにきて冤罪をかけるかのような勢いで疑っては、緩急つけて取り調べをする。相手がやっていないと話しても、あらゆる方向から疑いをかけ心を折れていくのを確認するように次々と容疑をかける。そして今のままでは、証拠がないから容疑者として逮捕されると脅し検事に金融調査手続きを本人が希望すればやりますよと脅す。ここで本当に何もしていないなら容疑者から被害者になれますよとアドバイス。検事につながると本人の強い希望ですかと同意を求め、その上で金融調査するので仮想通貨の取引所の開設、イーサリアムで入金を自己口座に移すことで確認できるといいやり方を指導しそこからクロージングという流れです。検事につながる間にも逮捕状や守秘義務違反罪、1年8ケ月の資産凍結などの文章を自認の確認のためと全文章を三枚ほど音読させられるのも特徴でした。これで刑事の取り調べは終了としますが、取り調べの中にいる雰囲気はテレビで見る以上の強烈な体験です。

私の場合は、申し訳ないけれど信用できないのでせっかくならその携帯の入金の操作は大阪府警本部で一緒にやりましょうと伝えたら今すぐに来れるかといわれすぐに新幹線のチケット取っていくので連絡先を教えてくださいといって電話を切る。かけ直すと使われていない番号といわれ、大阪府警に電話したらそれは特殊詐欺ですと言われ、よくそこまでいって気づきましたねと褒められて終了。あとはLINEの報告とブロック後、友人、知人に気をつけるようにお知らせしてあとはこのブログで報告という流れです。詐欺師は最後まで詐欺師を貫き、途中で電話をきったりしませんでした。

不思議なことですが、詐欺師というのは本人は嘘をついていると思っていないのではないかと思うほどに巧妙です。私は人の話をよく聴く方なので疑問に思ったことは丁寧に確認しました。振り返ってみても、悪いとも思ってもなく罪の意識もないのではないかと正確無比の返しをします。多分、詐欺は騙される方が悪いと思っているのかもしれません。しかしその時点ですでに真の詐欺に騙されているということに本人も気づきません。

また私も国家権力や権威は、普段から信用している方です。銀行もですが、嘘をつくような存在とも思ってはいません。しかしよくよく観察するとそこにも大きな嘘はたくさんあります。だからこそ、何が本当で何が嘘かというのは曖昧でもあります。小さな嘘は犯罪で大きな嘘は正義だったりもします。だからこそ日頃から騙さない騙されないと慎重に身を守る術も身に着けていくしかないのかもしれません。環境として社會が透明性を失っているときこそ、このような欺瞞詐欺が蔓延するのかもしれません。

今回のような特殊詐欺の場合は、具体的には不用意に知らない番号の電話は取らない。もし受けても、一度切ってからかけ直す。一人で受け応えするような環境を避ける。まずはここで防ぐことできます。そして、遠隔捜査などは受けない、現地に行くのでと現地の住所を聞いてから現地の警察に連絡をして確認する。あとは、どんなことがあっても口座やお金の話になったら怪しいと疑うなどでしょうか。

こういう体験は、心も傷つきますし時間も浪費します。しかし体験してみないとわからないことがあり、詐欺が如何に運気を下げるものかということも学び直しました。自己に嘘をつき、他人を騙すという行為は信頼や人間関係を破壊していくものです。徳が循環することもありません。

人はお互いを信頼しあうことで安心し、助け合うことで生き延びていくことができました。騙し合い裏切り合いも歴史を見ればよくありますが、実際に生き残ったのは信頼と助け合いを続けてきた人たちの方です。長い歳月を生きていく仕組みは、素直さや正直さや誠実さに由ります。幸運や運気というのものも、助けや信頼の中で発揮されていくものです。

この先も詐欺はなくなりませんが少しでも自分のこの体験がご縁のある誰かのお役に立てるように願います。

いのち宣言

昨日は、大阪万博のいのちの宣言に参加してきました。今年の2月、いのち会議が飯塚の聴福庵とBAで開催されてからそのご縁でこの貴重な機会をいただきました。人のご縁によって導かれていくというもの、まさにこれも「いのち耀く」仕組みであると私は感じています。

そもそも日本人の暮らしの中の神様は「八百万の神々」といい、そして仏様は「山川草木悉皆成仏」といいました。つまり一神教ではなく、すべてには「いのち」が存在しているという「いのちのつながり」の中ですべてのご縁と物事を感受してきたということでしょう。

その証拠に大和言葉や日本の言霊は、自然の中で繋がりながら生きているからこそ産まれたものであり西洋のように自然と人を分けたり、神と人を分けている意識では誕生することもありません。雨にも色々な雨があり、黒にも色々な黒がある。日本人の使う美しい言葉はこのいのちの象徴です。

世界ではこの分けるという便利な思考方法によって様々なものを分類してきました。その結果、思い込みや刷り込まれたものをを真実のように勘違いをしては現実から目を逸らせてそれぞれが本質的ないのちを生きることを忘れて元氣がなくなってきました。ますます世界から元氣は失われているように思います。

この元氣というのは、自然あるがままのことです。そしてそれをかつての日本人は「かんながら」と呼びました。これはいのちの道ともいい、いのち耀く生き方を実践するという意味です。

いのち宣言ではそれぞれの発表するいのちの話をたくさん拝聴してきました。ちょうど、その前日、私は「いのち輝く」を理念にしている鞍馬寺にて2日間過ごし、本堂にてご祈祷と法螺貝奉納をしてきました。鞍馬山はお山の場にいるだけで元氣が湧いてくる。まさに鞍馬山は太古のむかしから今も「場」によっていのちを顕現している信仰の実践道場です。

そして私は現在、九州の霊峰、英彦山の宿坊を中心に法螺貝をつくりその法螺貝を吹き、一人でも多く覚醒していく人を増やすいのちの甦生活動をしています。この10年で500人と定め、場を調えて暮らしを実践しています。

人類は、思い込みや刷り込みからどのように目覚めていくか。謙虚というものは、実践のただ現実の真っただ中にこそ存在します。かつて古代中国の殷の湯王が「苟日新、日日新、又日新」と洗面器に刻み毎日、顔を洗って実践をしていたことが礼記に書かれていました。徳を磨き続ける覚悟があってこそ、いのちは輝き続けるのかもしれません。

私にとって徳を積むというのは、いのち耀くということと同義です。

引き続き、神仏といのちのご縁とお導きに感謝しながら謙虚と素直の両輪でかんながらの道を歩んでいきたいと思います。

ありがとうございました。

 

先人の初心

人は何かを行動するとき、その目的や初心があります。ただユニークだからやっているのではなく、その理由の原因と結果がそこに存在するということです。初心を大切に磨いている人は、プロセスの中に常に実践があるものです。

規模が大きいとか小さいとかはあるかもしれませんが、本来は規模は関係がなく大切なのは意識の純度ではないかと私は思います。

純度の高い人は、丁寧に経過に初心を籠めます。何のためにこれをやるのかという理由がちゃんとあるのです。忙しかろうが、大変であろうが、やるべきことは欠かしません。諦めずにコツコツと丹誠を籠めて取り組みます。その判断力は揺らぎません。

私はここ数年、老舗というものを深めてきました。

老舗の意味は「代々続く古いお店」「先祖から続く家業を継ぐこと」です。この代々や先祖から続くというのは、一体何が続いているのかということです。

それは先人の初心が続いているということです。

そして先人の初心とは何か。

これは今もその先人が生きていたとしたら今はどうするかという試行錯誤、挑戦を已まないで実践しているということでしょう。

私がとても尊敬する老舗はどこにも先人への畏敬の念と謙虚さを持っています。時代の変化の中でも初心に照らして温故知新を続けています。そこに老舗の風格のようなものを纏います。

現在、私は老舗の古民家甦生に取り組んでいますが何よりも大切にしているのが先人の初心を最も大切にすることです。もしもご先祖様が今、生きて老舗をするなら何を大切にしただろうか。

一つは、お水を守る事、一つはお米を守る事、一つは田んぼを守る事、一つは素材を守る事、一つは美味しいものを守る事、一つは人の喜びを守る事、一つは誇りを守る事、一つは人を守る事。等々、大切なことが湧いてきます。

ご先祖様に恥ずかしくないように、今の代が心を籠めて生き方を磨いていくのです。

今日も老舗を学び直すために、滋賀まで向かいます。

先人の初心を忘れずに、最期まで丁寧に取り組んでいきたいと思います。

法螺貝の甦生

現在、英彦山で法螺貝を甦生していますがせっかくなので甦生の特徴というものを整理してみたいと思います。

まずはじめに、法螺貝を持つためには法螺貝とのご縁が必要です。基本的には、法螺貝の甦生はすでに法螺貝をお持ちのご紹介者を通してか直接、英彦山に来てお話をさせていただく方しか受け付けていません。その理由も、顔や波動を観てご縁を確認してから理想の法螺貝を探していくからです。またすでに何らかの理由で法螺貝とのご縁がありお持ち込みの方も受け付けています。ただし、他の方が手掛けたものは甦生できないものもありお断りすることもあります。

流れは下記のようになります。

① 霊峰英彦山の守静坊にて吉日を選び法螺貝を安置し地下から湧くお水で清め光を当てて龍音によりご祈祷をする。

② 丁寧に洗い法螺貝の先端を切断し削りその貝の個性を見定めて螺旋の息が通るように調整する。

③ 手作りの唄口を天然の地下水と麻炭を使い石膏でつくりこむ。

④ 唄口を法螺貝に取り付け調律をし、その法螺貝の唯一無二の音を確認したらそれを立てて天地に調和する。

⑤ 完成のご祈祷をし、木の中に安置する。サイズや重さ、証明書と手引書を用意する。

⑥ 英彦山の守静坊にて法螺貝を磨きお手入れをし息を吹き入れ音と和す儀式をする。

⑦ 希望者には法螺貝の網袋の講習を実施し、英彦山遊行や法螺貝講習、仙螺講への登録をご案内する。

⑧ 定期的にメンテナンスをして、法螺貝の成熟を見守る。

ここまでで法螺貝を甦生したことになります。

この法螺貝の甦生とは単に音がなる楽器をつくったのではなく法螺貝が新たないのちを得て独立自尊し、一期一会の主人と調和し結ばれ、日々の暮らしを通して寿命をのばし幸運をもたらす存在になることを言います。ただのモノではなく、新たないのちの法具として人の一生を円満に見守る存在になります。

また時には修繕や供養も行います。修繕は、お手入れをして法螺貝の成熟に合わせて調えていくこと。供養は長く大切にしてきた存在の魂を慰め労い癒すこと。法螺貝の甦生とは別に、手掛けた法螺貝のお手入れや追善をします。

講習会では、お手入れの仕方をはじめ法螺貝の吹き方、法螺道の実践事例などもご案内します。時にはお山に一緒に入り、三省をし六根清浄をしながら法螺貝を立てます。また時には、法螺貝の網袋づくりを通して瞑想や見守り、寄り添いなどの心の在り方を学び合います。宇佐の大仙龍(大先達)の立螺師にも定期的に来ていただき、法螺貝の具体的な指導や講習会もあります。

お支払いは、法螺貝の仕入れ原価、唄口と石膏、加工の原価をいただきます。それ以外は、徳積循環のご喜捨とお布施を「徳積帳」というブロックチェーンを使って開発したシステムにて奉納いただきます。

納期は約1か月ほどいただいていますが、吉日次第では納期がかなり延びる可能性もあります。大量生産はできませんので、丁寧に一つひとつ甦生していきます。

現在も、制作中ですが一生の御守りや魔除けになり音がその人の波動を磨き、唯一無二の光の存在になっていくように手掛けていきます。

最後に最も大きな特徴は「調和」を何よりも優先して法螺貝を甦生しているということです。私が手掛けるものは調和の法螺貝です。それをご理解いただく方のみ、ご連絡をいただきたいと思います。

立志の人

昨日、来客がありその方は吉田松陰先生を尊敬しておられ萩に古民家を借りて勉強会などを開催しているとのことでした。久しぶりに吉田松陰先生繋がりのご縁があり、懐かしい不思議な感覚になりました。

14年前に、似たような出会いがありその方と意気投合して私のメンターになりそれから一緒に会社の運営をお手伝いいただきました。気が付けば、もう私もそろそろ50歳を迎えます。人間は年齢ではありませんが、役割交代といって若い人たちに色々な経験の智慧を伝承したり、見守ったりする季節に入ってきたのかもしれません。

以前、私は吉田松陰先生に憧れ先生が29歳で亡くなる歳まで同じように生きようと、毎年先生のその歳で書いた書物や文章から学び精進していました。卓越した情熱と成熟した精神と人間性に強く惹かれ、一つの目標にして同じように自分に挑戦していました。しかし、自分が29歳を迎えたときの留魂録を最期にその書物も終わってしまい、この後何を参考にしたらいいかと真剣に悩みました。

その時から吉田松陰先生を見ることはなくなり、吉田松陰先生が観ていた方を観るようになりました。そこできっぱりと先生は外側に存在する憧れの人ではなくなり、共に目指す理想や志を分かち合い共に歩む同志になったのです。

私は他にも様々なメンターがいます。今では亡くなった人もいて、困難な時、問題意識をもって深めるとき、その人がもし生きていたらと思う時もあります。きっとこういっただろうなという具合で空想で対話をします。例えば自分がその人だったらどうするかとその人の理想や志から考えます。そのうち一体になって自分そのものがその人になります。同志は私の志の一部になり今も生きているのです。直接話すことはできなくても、一緒に歩んでいるのです。

昨日の方は、吉田松陰先生の大河ドラマを見てあるシーンに感銘を受けて傾倒していったそうです。どこですかと尋ねると、「あなたの志はなんですか、君はどうしますか?」という問いのシーンだったそうです。まさにこれが自分の人生で志と正対するということだったのでしょう。自分はどうしたいのかと自分と向き合う。「覚悟を決める」ことの真価を直観したのでしょう。

私は思えば、今、この瞬間も、自分の初心は何か、そして自分はどうするかと自問自答を続けています。これを会社の理念経営にも活かし、日々の暮らしフルネスにも活かしています。

畢竟、人は覚悟があるのみです。覚悟さえあれば理想は失われません。常に自分に志を問うことが理想を生きることです。

でも人間はそんなにも強くありません。覚悟が揺らぎそうになることもあります。そんな時、前を歩んでくれた理想の聖賢や偉人、あるいは尊敬する先達がもしも自分ならどうするかと生き方を問うのです。そして生き方を磨くのです。そして志からブレなくなり志が堅固になり自立する。それが志を立てるということだと私は思います。それによって唯一無二の自分の人生の道が拓き、その人の一生がその人にしかない一期一会の光になって輝くのです。それがきっと松下村塾の教育方針だったのではないかと私は直観します。

だからこそ吉田松陰先生は、すべては志を立てることこそが万物の根源であると断言します。

つまりあなたは道を歩んでいますか、道を実践していますか、ちゃんと道を内省していますか、と途中を自分に問うのです。まさに仏陀の自燈明法燈明の境地と同じです。

純粋な心、素直な心、精錬な心、誠の心でもしも自己を省みるなら自分はどう行動するのかと、そしてそれこそが真の學問であるとしたのではないでしょうか。學とは、問うことだとしたのです。

私が吉田松陰先生を好きな理由は、この自分の志を立てようと純粋無垢に精進し続ける學問の姿勢。そして至誠を盡し、神人合一に今を生き切りいのちを完全燃焼させた生き方に憧れたのです。

もう先生が亡くなってから20年以上私は長く生きています。もしも先生が今も生きて今の歳になっていたら、どうなっているでしょうか。時代も環境も、そして周囲の仲間も国の状況も異なりますがきっと変わらない覚悟で理想を追いかける青年のように「立志」を生きているのでしょう。その安心感こそが後人を見守ってくださっているのでしょう。師友たちはみんなそれぞれの場所で育っています。

これからも一緒に道中を味わい、初心や目的を忘れずに覚悟を内省し、一期一会の今の季節を過ごしていきたいと思います。

ご縁に感謝しています。

徳を調える

色々な生き物は毒を持っているものがあります。この毒を持てるのは、その生き物がその毒を上手に使う熟すからです。毒はもともと薬であり、薬は毒です。重要なのは、その匙加減であり、塩梅、適量であるということです。

生き物の中では、自分の毒で自滅するものもあります。また毒によって元氣になるものもあります。この毒と薬というものの正体は一体何かということです。これを少しだけ深めてみようと思います。

そもそも私たちの空気の酸素も生きていく上で必要ですが大量に濃度を上げて摂取すると猛毒になります。酸素があることで私たちは身体の薬になるようにリフレッシュをしたり、治癒を促進しますが過剰であると死んでしまうのです。また酸素によって呼吸し身体は活動しますが活性酸素というものがそのうち2パーセント毒になって身体をむしばみ続けます。

つまりこの宇宙の法則として、必ずすべての存在は薬であり毒であるということです。言い換えれば、生と死は一体であるということです。別の言い方では、病と老も一体なのです。

そもそも一体だからこそ、私たちはその加減を絶妙にして寿命を伸ばし健康を保ちます。この加減の妙を知るからこそ、調和して元氣を保つことができているのです。

この世の中は、そう考えてみるとすべては加減と調和によって運ばれています。自然環境にしても、あるいは人間の幸不幸にしてもすべてはこの加減と調和です。

現在、薬草やデトックスを深めていますが結局はいのちそのものの真理の妙を調律したり調整することをやっています。法螺貝の波動も同様に、この世は振動数の加減も含めて手入れと手加減でどう調えるかということです。

調えるには、調えるということが分かっていないと調えることができません。場を磨き、徳を調えていきたいと思います。

風通し

風通しという言葉があります。これは家で考えてみるとすぐにわかりますが、風通しが良いところはカラリと乾いていてすっきりしています。その反対に、風通しの悪いところはジメジメとして黒カビなどが生えてきます。お風呂場など水場は特に風通しがよくないとそこから色々と家が壊れていくものです。

これは人間の体でも同じことが起きますし、職場の雰囲気でも同じことが起きるものです。風通しがよいと、安心して暮らしていくことができます。私は場の道場といって、場を深めていますが風通しはその中でも全体を観察するのにいつも重要視しています。

場所によっては、水気が多く風通しがよくないところもあります。例えば、その土地そのものが水が大量にある場所、そして奥まった場所などです。英彦山の宿坊も、周囲がすべて小川で土地も地下水がよく流れていて常に水気に溢れています。洗濯物がほとんど乾かず、普通に外に干していても水気の多い風によっていつも湿っています。しかし、風は光との相性もあります。光がよく差し込む場所は、風通しもまたよくなります。言い換えれば、風通しは光通しでもあるということです。

明るい場所というのは、雰囲気もよくなるものです。明るくするには、陰湿な環境にならないようによく開いていかないといけません。閉じる開けるというのもまた、通しの技術です。

しかしそんな完璧な環境があることはほとんどありません。季節的な相性があったり、あるいはその関係する人物の性格や置かれた運命などでも変化します。大切なのは、比率でもあります。全体のどのくらいまでがジメジメした環境でも快復可能なのかを見極めないといけません。

例えば、炭火であれば火が起きている炭でも一緒にくっつける量が同じなら消えてしまうものです。3対1、あるいは4対1と火が熾っているいる炭の量が多ければ自然に残りの炭も火が移っていきます。この逆ならすぐに消えてしまいます。

バランスを善く観ては、炭の配置や距離、そして時には息を吹きかけては調整しないといけません。つまり、場づくりというのは日々の微細なお手入れによって行うことです。これは掃除にも通じていますし、風水などにも通じています。

環境は常に変化して已みません。どのような状態かをよく観察しては、みんなで環境を保つ努力が必要になります。そして同時にそれは個々人の努力だけではなく、仕組みが必要です。

仕組みとは、例えば対話をする場の設定、オープンになる設定、感謝が循環する設定、色々とあります。場が調うように、日頃からどれだけ気を付けているか。これは地味な作業ですが、実際の生産性に大きな影響を与えますし、病気のように病んでしまえば快復が大変です。

風通しというのは、組織に限らず人生全般にも通じる真理です。

丁寧な暮らしを通して、場の道場ではその辺を実践と提案していきたいと思います。ご興味ある方は、お知らせください。