逞しく生き切る~いのち~

先日、ある植物が虫から葉を食べられないようにするためにその虫が食べたがらない成分を体から出して撃退するという記事を読みました。これは植物を観察し育てたことがある人は分かると思うのですが植物は健康で免疫力が強いと虫がなかなか寄ってきません。しかしそれが弱ってくるとたくさんの虫たちが集まってきます。

例えば、冬に強い野菜が間違って夏にまで残っているとそこには大量の虫たちが集まって食べています。また時にはある虫だけが大量発生してしまい、大部分の葉を食べられてしまい弱るものもあります。他にも、地力が弱り日照りが弱れば体が弱まりますから病気になったり簡単に風で倒れてしまったりするものです。

健康であるというのは、自分の免疫機能を発揮させているということでもあります。

その免疫は「逞しさ」に象徴されるように思います。

この逞しいというのは生命力のことですが、その生命力が真っ直ぐに元気であるということです。

「逞」という漢字を調べてみると、之繞(しんにょう)と、まっすぐ差し出すという意味の「呈」とで、突き進んでいく姿を為しています。またよく使われるときは、身体が逞しいことよりもその意志の強さや活力があり頼もしいというときに用いられるように思います。

つまりはこの逞しさというのは、健康で元気が善いということになります。そして自然界における健康で元気というのは「挫けない」ということです。困難や障害に遭遇してもそれを乗り越える信(芯)の強さ、それをはねのけていくぞとい意志(心)の強さがあるということです。

もともと甘やかされるとなぜ弱るのかといえば、これらの逞しさが減退していくからのように思います。強く逞しく生きていくとき、人間は生命力が溢れていきます。困難で大変なことがあってもそれを強い意志で乗り越えようとするとき、元気は漲りそして根性が出てくるのです。

身近な植物を観察していても、身近な虫や魚たちを観察していても自然界の厳しい環境の中であらゆる事件に挫けずに立ち上がり真っ直ぐに生き切っていこうとしています。ちょっとしたことがあってもそれを成長の糧にして学びを深めて生命の道を正直に歩んでいきます。

そう考えてみれば「いのち」というのは、挫けずに諦めず挑戦するときに活性化し、逃げたり避けたり諦めたり投げ出したりするときに停滞衰退化するように思います。

どんなことがあってもそれを丸ごと善いことにしようという強い意志が生命力を高め自他を活き活きと逞しくしていくのでしょう。自分自身があらゆる困難と立ち向かって乗り越えていくことが子孫を繁栄させていくことにもつながるのです。

自分が負けず嫌いなのも元気な証拠であり、自分が諦めがわるいのも生命力が漲るからなのでしょう。

「日々に逞しく生きているか」、その自問自答が自然界で生き残るためには何よりも大切なことです。あの身近な生きものたちを見習い、天に対して正直に素直にいのちを生き切っていきたいと思います。

心掛けという実学~学びの実践~

人間に限らず、自然界にある全てのいのちは御互いから学び合って成長していく生き物です。

周りを見ては周りの生き方を見習い、周りのもので善いと思えるものを自分に取り入れて吸収していく力があるように思います。自然は素直ですから、御互いが自分の特性を伸ばし、その特性をより活かすことに憚ることがありません。

しかし人間は、自分が正しいという価値観を持つことで善いところを吸収する力が衰えてくるように思います。人のいうことを素直に聴けなくなるのも、自分が思い込んでしまっている正しいという狭い視野と価値観に囚われてしまっているからです。

「人皆我師」という格言があります。

これは全てが師、つまりは自分が他人の話を素直に聴けるかということですが、実際はほとんどが聴き洩らしているもので聴いているようで何も聞いていないということが多々あるのです。それは相手の心や思いやりを感じようとはせずに、自分を優先しようとする我が邪魔をするからです。

人の忠告や注意を聴かない心というのは、頭で分かっているからそれは知っているから言われたくないなどと思うのでしょう。しかしそれを言って下さる方が、どんな思いで伝えてくださっているか、どんなに真心で心配してくれているかを思わないのではあまりにも自分勝手で独りよがりになってしまうのです。

そんな態度では何も学べず、そして一度そうなってしまうと、学びというものは単に自分だけのちっぽけな世界で学んだ気になっているだけで本来の自分を変革するような学びに到達することはありません。学が実学にはならないという意味です。

基本の姿勢が相手の仰っていることを相手の真心で受け止めてそのまま味わう素直な心を持つ必要があるように思います。

相手の言って下さることを本当に聴いているかは、言われたことをただやればいい意味ではなく、言われたことを言って下さる人の心を遣ればいいということなのです。

頭でっかちになってしまい心を優先しないような生き方をしていたら道場に居ても道場に居ず、実践しているようで実践していないということになりかねないのです。

心を入れるというのは、全ての基本ですがそれは心がけを決めるということです。それは論語の「己に克ち礼に復る」ということに尽きるということかもしれません。

もう一つの格言、「人のふり見てわがふり直せ」があります。

常に自分自身の姿勢を省みて、教えてくださっている真理をひとつひとつ丹誠を籠めてものにしていくときに相手への感謝が示せると思います。感謝も頭ですることではありませんから、感謝するのなら変わってみせていくのが本質的に感謝ができたということなのでしょう。

心を鍛えていくというのは、心がけを優先するということでしょうから実践を丁寧に積み上げていくことしかありません。まだまだ自分も礼に欠けるところが多く、本当に反省することばかりです。

日々の心掛けを積み上げられられることに学びを実らせ歩んでいきたいと思います。

主体性~丸ごと信じる~

人は主体性が出てくると信じることができるようになります。

それは信じるという行為は、誰かにやらされているのではなく自分自身の体験で真底から納得することで醸成されていくことだからです。そしてこの納得というのは、何度も体験し味わい尽くしたあとに自分自身が「丸ごと善い」と実感することに似ています。

例えば、人生というのは無駄が一切ありません。かつての経験が今に活きていますし、今があるのはすべて過去の体験の集積によって存在しています。自分の生き方というものは、今までどのように生きてきたか、そしてかつてどのような体験があり、それを乗り越えて味わってきたかでできあがっているともいえます。

つまりは人生というのは、自分自身の主体的な体験によって彩られているとも言えるのです。時には自分自身がやりたいと思っていなかったことでも、きっとこれは何か大切な意味があるのだろうと主体的に楽しく自分から取り組んでそれを味わい学び掴んでいたことが、将来のやりたいことを支援する大切な力になっていたりするのです。

人生とは奥深く、寄り道したことも大切な寄り道であり、その寄り道があとで絶対不可欠になる能力を育ててくれたり、その道草が後になって絶対に必要なご縁を導いて下さることが多いのです。

だからこそ何でも嫌々ながらやるのではなく、自分から主体的に楽しんで行うことでそのことの本意があとになって活きてくると思うのです。今に集中して今に真剣に生きている人は幸せな人とも言えるように思います。

その人は主体的であることを実感し、主体的であるからこそ今を生き切るのです。今を生き切るからこそ誰のせいにもせず、言い訳もしない、今を満足していくことができるのです。不平不満というものは須らく、将来のことを心配したり、過去のことにくよくよしたりと今から離れるときに起きるものです。

それは体験をしていないという意味にもなります。どんな体験であれ、必ず今の体験は後で生きてくるのだから無駄にしない、勿体なく味わい尽くしていこうとするところに人生の妙味があるように思います。

主体性というものは、主人公ということで自分自身の人生を遣り切っているということです。どんな人生があったにせよ、主体としての性、つまり自分自身のことを信じるということや、相手や周囲のことを丸ごと信じる、そして人生を丸ごと信じる、世の中のことを丸ごと信じる、自分の今を丸ごと信じるということです。

信じようとしないのでは主体性は発揮されることはありません。

人生は客人としてきたのではないのですからあくまで主人として生きるということでしょう。そしてそれが丸ごと信じ切るということなのです。やらされることになっていることすべては客人のままということです、自分からやりたくてやっていてはじめて主人となしえるのです。主人であることが信であるということです。

見守るの道を弘める以上、信の実践は何よりも欠かせない大切な徳目であり訓戒の一つです。しっかりと精進していきたいと思います。

相互扶助の精神

昔のことを調べていると、如何に昔は皆が一緒になって協力していたかが分かります。

稲作もそうですが一人だけでお米を育てていたわけではありません。多くの人達と協力しては手伝いをしながら収穫をしお祭りをし人手を合わせて助けあってきました。他にも一人だけで責任を持つような仕事の仕方はしておらず、皆で力を結び合わせて協力していくことで生き残ってきているともいえます。

そもそも人類が生き残ってきた智慧の一つが、相互扶助という仕組みです。

御互いが大変な時に御互いに助け合い、御互いが物々交換をし、御互いを大事につながってきたことで御互い様の御蔭様で生き延びてきたのです。飢饉や飢餓のときも、自分の食べ物を相手に譲り、また逆の立場になったときは食べ物を分けてもらい、御互いに支え合って生き延びきてきました。

何時そんなときが来るかもしれないからと、常日頃からみんなの力になっておこう、徳を積み重ねていこうと精進してきたように思うのです。それが明治以降くらいから西洋の考え方が入ってきては間違った個人主義が蔓延し、今のような働き方も今のようなお金を頼るような生活スタイルも今までの自分たちがやってきたことと異なる方へと傾いてきたように思います。

もしも飢饉がきたらどうするかということなど平和な時代は考えなくなっていくのかもしれません。本来、私たちは一人でできる仕事などありません。相手があってできることですし、社會があって成り立つものです。それを私物化して自分のものにしようとしても、それはできるはずがないのです。

だからこそ相手と社會と一緒に取り組んでいこう、敢えてみんなと一緒に取り組んでいこうとするのが人間の智慧であり、また誰かのために生きられるという幸せと歓び、そして共に困難を乗り越えていこうとする励ましと勇気になるように思います。

皆様の御蔭でここまで来れましたや、皆様の御蔭でこんなことができましたというのは、いつも一緒に働いてくれていたと自分自身が実感するような意識があるということなのでしょう。まるで機械の歯車のように部品としてその責任だけを果たし、その部品が壊れれば交換されるというようでは安心して一生懸けて取り組んでいくことはできません。

どんなことでも協力し合えば、徳性に合わせてその時々で御役に立てることがあると信じているのが仲間であり組織であると思います。組織を創る一員か、組織を壊す一員かはその人の意識にあるように思います。

常に一員意識をもって私物化を戒め、一員意識で相互扶助の精神を大切にしていきたいと思います。

日々に蒔く種

人は毎日一生を送っているとも言えるように思います。朝になり昼になり夜が来る、これはどれも人間によって振り分けたものですが日が昇り日が沈むことで地球も一回転し、自分たちの一生も一回転してまたゼロからはじまります。

人間は朝起きて一生がはじまり、夜就寝して一生が終わります。つまり一生とは、生きていること一に止まるということです。

その人がどういう毎日を過ごしたかが、その人がどういう人生を過ごしたかということでもあります。自分がどんな人生なんだろうと思いを寄せてみれば、どんな一日を過ごしているのだろうと省みれば自分の人生を俯瞰することができるのです。

日々は毎日変化して已みません、同じように繰り返しているようでも同じ日々は一度としてありません。その中で自分の人生を歩んでいる実感は、何のために自分が生きるのかを忘れないことのように思います。それを忘れてしまっていては日々は消化試合のように過ぎ去ってしまうからです。どんなに忙しい時でも、どんなに暇な時でも、何のためにを忘れていない人は必ず其処に意味を観出し実践につなげていきます。

これは言い換えれば、朝起きて何のために生きるのか初心を思い返し、そして就寝する前にどういう初心で一日を過ごしたか、そしてどのように初心を顧みて眠るかということでもあります。

人間は寝ると忘れるのは、死ぬと忘れるということに似ています。身体の細胞も代謝して生まれ変わり、意識もまた生まれ変わりますから、日々は毎日忘れたところからはじまっているとも言えるのです。

だからこそ日々に積み上げていく大切さ、魂を研鑽して高めていく重要さに気づけるものです。日々怠らないということは、初心を忘れないということです。初心をどれだけ心奥深くに鎮め、日々の行動を慎むか、自分自身の人生を周囲の喧騒に流されず本物にしていくには初心を研鑽していくための人生道場であるという心がけが必用なのかもしれません。

何のためにを何度も思い出せることが初心を忘れないことの実践です。忘れていないと思うのではなく、忘れるのだから忘れないでいようと心に刻んでいくことが揺らがないということなのでしょう。それは習慣という天性の御力をお借りして、実践をしている最中に初心に触れ続けて初心を大切に自分から守り通していこうという真心の発露でもあります。

日々の心掛けが積み重なって将来の成果ですから、正直に蒔いた種が育つように、どのような初心で種を日々に蒔いていくのかを忘れないで周りの勇気や元気になるような日々の実践を丁寧に進めていきたいと思います。

日記伝~真心の伝承~

二宮金次郎正伝(モラロジー研究所)という著書がある。これは二宮尊徳の子孫で総本家の現当主が金次郎の人生の軌跡を再現したものです。

もともと二宮尊徳は死期に及んで「余が書簡を見よ、余が日記を見よ、戦々兢々として深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」と日記に書き記しています。

実際の人生は、周りが解説したり政府が勝手に解釈したものを編纂したりしたもので理解できるものではなく、金次郎の日記にこそ真実が書かれているということでしょう。同じことを論語、大学を記した曽子が臨終の際に弟子に語ったのがこの「予が足を啓(ひら)け、予が手(て)を啓け。詩に云う、戦々兢々として深淵に臨 むが如く、薄氷を履(ふ)むが如しと。而今(いま)よりして後、吾免(まぬか)るるかな、小子(しょうし)。」があります。

どれだけ必死に道を守り通してきたか、どれだけ真摯に信念を握り続けてきたか、その軌跡に実感するのです。どの時代であっても、理想の政治が誰にしろ受け容れられるわけではなくギリギリの状態で取り組んできたのがわかります。

君子もとより窮すと論語にもありますが、そもそも苦しい状況の中を歩んできたのです、死してのち已むという心境はようやくここまでで尽きるといった道の厳しさを説いているようです。歩んできた人にしか分からない境地がそこにはありますし、それは道を歩み切った方々が臨終が近づくについて実感できる境地なのかもしれません。

人は必ず死を迎える日が来ますから、それまでどのように生きたかというのは死に顕われるものなのでしょう。後世の人が改ざんしていいところ取りをしていきますが、本来、手に取るべきものはその人の日記にこそあるのかもしれません。

以前、慈覚大師円仁の日記を拝読し感銘を受けた時も同じ感覚でしたし、高杉晋作の日記の時も同じでした。実際に周りが評価している人物像とはかけ離れたものがその日記にはあり、道を歩んだ人の心に近づくには日記を読み解くことが大事なのでしょう。

その二宮金次郎正伝の中に素晴らしい言葉と出会いました。

「本来君ありてのちに民あるにあらず、民ありてのち君おこる。蓮ありてのちに沼あるにあらず、沼ありてのちに始めて蓮生じるものなり。」

意訳ですが(本来は君主があってから民衆があるのではない、民衆があってのちに君主がおこってくる。蓮があってから沼があるのではなく、沼があるからこそはじめて蓮が生まれてくるのだ。)という意味です。

本来は組織も同じく、スタッフの方々があってこそリーダーはおきます。リーダーさえいえばスタッフがあるわけではありません。同じく民衆があってこそ政治があり、政治があるのは民衆の安寧が先だということです。

あの藩政を優先して一部の方々が利益を独占していく時代に、孔子と同じく理想の政治を説き、そし具体的に荒廃を癒し復興改革する心田開発の技術を持ち、私達に一円融合する生き方を示してくれた聖人、それが二宮尊徳です。

私たちは今、世界を含めて大変危険な状況に陥っています。世界人口増加、貧富の差の拡大、消費が生産を上まわり、生きものたちの絶滅速度は急激に広がっています。このままでは、欲があらゆるものを呑み込み止められなくなってしまうかもしれません。文明が崩壊していくとき、いつも同じことで乗り越えられずまた同じことを繰り返してしまいます。

同じことが起きるのは今度こそはという人類の文明実験であるのは論より証拠です。その今度こそに二宮尊徳の思想と技術は私たちが子孫繁栄するための要になると私は信じています。

最後に尊徳の言葉で締めくくります。

「天つ日の 恵み積み置く 無尽蔵 鍬でほり出せ 鎌でかりとれ」

天地自然の恵みは無尽蔵なのだからそれを掘り出すのも刈り取るのも自分次第なのでしょう。日記が続いていることを忘れずに、心の希望を勇気に換えて、その徳の無尽蔵を自らが掘り起こし、取り出して子どもたちや多くの方々にその真心を伝承していきたいと思います。

自然の視野

視野の広さというものがあります。

視野が広い人は全体や丸ごとで物事を観察することができますが、視野が狭いと自分の価値観によってしか物事を観察することができなくなります。視野にはその人の観念がありますから、その差がその人の生き方ともいえます。

先日、ある動物が絶滅するからと別の島に運びそこで種を増やすということが報道で流れていました。また植物の種が絶滅するからと氷の下で保存しているという話もあります。それが良いとか悪いとかではなく、どの視野でそれを考えて行っているかに視野の差を実感するのです。

生きものが絶滅するにも理由がありますし、生き物たちが増えすぎるのも理由があるものです。時代や自然の流れにしたがい、あるものは減りあるものは増えるのです。それを人間がどうしようかといっても、それも自然の流れでもあります。

自然の流れに逆らわないという言葉もありますが、正確には自然の流れには逆らえないという方が本質なのでしょう。人間は自然に逆らうことができるという視野と、自然に逆らうことができないという視野があるのです。

前者は西洋文明が発展してきた理由であり、後者は東洋文明が長く存続してきた理由でもあります。

自然に逆らえば、人間の知恵が自然を凌駕すると勘違いします。実際は植物がなければ空気すらなくなりますし、菌類がいなければ何も栄養が吸収できないほどですから凌駕できるはずはありません。

自然に逆らわなければ、受け入れることをはじめどこまでが許されるのかを自覚することができるように思います。それは自分たちが許される分限分度を理解するということです。

視野というのは、その人の内面が顕れるものです。どこまで遠くを観ているか、どこまで丸ごと観ているか、どこまで広く観ているか、どこまでつなげて観ているか、どこまで深く観ているか、どこまで時空を超えて観ているか、そういう視点がその人の心胆力とも言えるのでしょう。

物事を深めている人たちの視野はみんな同じような視野の広さで測るモノサシを持っています。これからどう生きるのか、これからどう歩めばいいか、未来を譲るためにどうあるべきかを見通します。

視野に限界はありませんから常に自然の視野に広げていきたいと思います。

顕彰の証

陰ながら善行を積み上げてくことを陰徳といいます。

顕彰という言葉がありますが、あれはその人の陰ながらの功績や善行、真心を忘れないという意味で使われます。彰という字は、明らかになるという字で、同じく顕という字もはっきりと明らかになるという意味です。

これは何が明らかになるのかといえば、目には見えないけれど偉大な恩徳が明らかになっているという意味です。

吉田松陰は、自分が正しいと信じて実地実行するのならば誰が分かってもらえなくても後の世に同じ聖人の道を志すものたちがいつかは自分のことを分かってくれるから気にせずに突き進めと弟子たちや自分を叱咤し善行を積むことを優先した人物でした。

それは留魂録にも、生死を度外視というものの中に確かな徳を積むことの価値を述べています。そしてそれはやはり死して彰かになっているものであり、後の世の志士たちに顕かにされていくのです。

表彰というものは、その陰徳を顕かにしていくものです。

その人が自分が信じた正しい道を踏み固めるとき、誰がわかってくれなくてもどんなに評価してもらえなくても、それを観ているものがあることを全体に伝えること。決して目立たなくても、決して覚えてもらえなくても、その人が積み上げたことが後の世に偉大な功績を遺したことをはっきりと明らかにすることが社會をよりよくしていくことにもなるのです。

今の時代は、表彰というとすぐに人を操作したりとか動かすためにとかいいます。しかし本来はそういうものではありません。

祖先や古人たちは、善いことがいつも観えていました。心が澄み善行や陰徳を常に観える目がありました。だから人が陰ながらやっているのを察して讃えて、常にそういうものを見つけよう、そういうものを育てて守っていこうとする真心や思いやりがありました。

今ではそういう陰徳を観ようとはせずに、見た目や結果がよかったものだけを褒め称え、その陰で目立たずに地味に世の中のことを憂い、平和な社會のためにと徳を積む人たちに気づかなくなってきました。

昔、「木を植える男」という絵本を読んだことがあります。その絵本にはある荒れ果てた村を、一人の男が生涯を懸けてどんぐりの種を植え続けて後世にその村が豊かな森林や水に溢れ、たくさんの家族が移り住み幸せに平和に暮らす村になった話です。

あの絵本にも、表彰や顕彰という意味が籠められています。

そういうことを忘れてしまう組織や社會というものの中に欲や悪行を蔓延らせる何かが潜んでいる気が私にはします。

これから考えようとしてしている私たちの顕彰の仕組みは、子どもたちにそういう陰徳を忘れてほしくないという祈りと願い、そしてそういうものを私たち大人が何よりも大切にしていきたいという覚悟です。

出会いはいつも私に有難い贈り物をいただけます、ご縁こそが御蔭様でありそれが顕彰の証ですからしっかりと受け止めていきたいと思います。

社會徳

ここ数日、社會に関することを書いていますがそもそも社會をつくる仕事とはどういうことかということを掘り下げてみます。

そもそも社會というのは、人間が一人以上存在する中で成り立つものです。もし無人島に一人で生活するのなら、別にそこに社會は必要ではありません。当然、生きていくためには人間以外の生き物たちといきていきますから広義でいえばそこにも社會はあるとしますが今回は人間社會ということにします。

つまり人間が一人以上になれば社會を形成しますから、社會を形成するというのは人格を形成するということです。人格を形成する必要があるのは、そこに道徳がなければお互いを尊重し合うことができなくなるからです。道徳とは自然の一部である自覚のことです。

先ほどの無人島であっても、人間がもしも道徳から外れるならば島にあるものを全て殺傷し搾取し、あっという間に島の生物たちが死滅してしまいます。そうするとその人間も終には死んでしまいます。そこに人格が形成されれば、社會を活かそうとし周りを助けて自分も共に生きて貢献する道を選んでいくはずです。そうすればお互いに長くその島で幸せに暮らしていくことができます。

このように社會を形成するというのは、その人格を形成するということです。そしてこの人格形成というものが私にとっては教育の本義です。教育とは社會を形成していく人材を育てていくために行うものでしょう。つまり見守る=保育に対して、人格=教育というのを根底に持つのが本来の日本人の民族性からの言葉の意義でしょう。

それを忘れていくら難しい議論を戦わせても、結局は欧米文化の枝葉を揺さぶっているだけで自分たちの持っている日本人の精神を活かしているわけではないのです。

話を戻せば、社會というのは道徳によって行われるときもっともお互いを尊重し合う平和で豊かなものになります。そのためには、人間から道徳をどう引き出していくか、道徳をどう高めていくかということが基本になるように思います。

孟子は、惻隠の情といって人間はもともと善であるという言い方をしました。この善は善悪の善ではなく、そもそも天が与えた天性と天命を持っているという意味での善であると私は定義します。

そういう天の化身が人間なのだから、天の真心を持つ人間から道徳を引き出していけばいい、政治はそうあるべきであると説いているように思えるのです。

だからこそ如何に道徳を引き出していくかは道徳を教えることではなく、その人を信じて見守りその人の善いところを認めて褒めて表彰していくことのように思います。

二宮尊徳は、徳に報いるという言い方をしました、報徳のことです。人間には誰にしろ必ずその心身に徳を享受されている。その徳を引き出し報いようとすることに社會の社會たる価値があるのでしょう。

如何に社會に徳を引き出していくか、ここからが新たな挑戦です。

個性の真価

人は自分の能力の如何で自分が役に立ったかどうかを自分で判別しているものです。能力が高いと一般的に言われるのは、他の人ができることが自分もできるということです。

しかしそれができない場合は、能力が低いと言われ自分が役に立てないと感じてしまうのです。先日も有能と有用の違いについて書きましたが、有能というものは能力があるということで有用は役に立つということです。

そして私は本来の有能も有用もそれは個性のことだと思っているのです。

人はその人らしさを発揮していれば自ずから有能が発揮され有用になっていくように思います。組織の中で、自分が周りと同じことがたとえできなくてもその人らしい個性が組織で存分に発揮されていればそれがもっとも価値があるのです。

例えば、明るくて楽観的で前向きな人はその人らしくいれば周りに元気ができる存在になります。他にも冷静で客観的で安定感のある人は、周りに的確な判断を与えられる存在になります。他にも慎重で丁寧な人、実直でコツコツの人、繊細で優しい人など、その人の個性そのものが周りを活かし豊かにするのです。

個性を発揮するというのは、自分がその自分の個性を認めその個性を積極的に発揮していく必要があります。周りと同じようになろうとか、周りと同じことができるとか、そういうものを能力だと勘違いせず、自分の個性そのものが周りのための有能さ有用さなのだと発想を転換することで自然に周りを活性化していくのです。

自然界というものも同じく、そのものがそのものらしく生きているだけですがそれだけで周りを活性化するものです。すべては自然の一部なのですから、その一部が発揮されれば全体が発揮されていくのです。

しかし人間は自然の一部であることを忘れて、自然から離れて自分で完結することを自立だとか勘違いしてしまいました。組織から離れて自分のことは自分でできることで迷惑をかけていないなどという人もいます、しかし本当にそうでしょうか。

迷惑をかけないというのは、迷惑をかけているという自覚であり、それは自分が全体の一部である自覚を忘れないということなのです。社會というものは自然と同じです。つながりの中で一部として存在しているのですから、つながりが断裂しないように常に慈しみ手入れをし、つながりの中で自分の個性を発揮させることでみんなの仕合せに貢献しようということが働くということでもあります。

仕事だけできるなら能力さえあればいいのでしょうが、仕事ができないのも能力のせいにしてしまうなど言い訳になります。そうではなく、働くというのは如何に自分自身の個性を発揮してみんなの御役に立つかを積極的に実践するということなのです。

これは私の確信ですが「自らの個性を活かす時、その存在そのものが誰かの御役に立つのです。」

自分の存在が役に立っていないなどと嘆き文句を言う前に、では自分の個性を発揮しているかと自分と正対し間違った考え方を払しょくすることのように思います。

自分が自分らしい時、それが有能であり有用なのです。

個性とは、天の命じたその人の一個の天性です。その天性を活かしなさいと天は私たちに与えたのです。それを私物化して活かさなければ周囲から奪う存在になってしまいます。もしもその個性を周囲のためにと発揮するならば、それは天が与えたものを周りの人々へと与える行為になります。

奪う側か与える側か、これも生き方働き方、自分の積極的な心がけ次第です。

環境や状況に左右されずに発揮すべき真価とは「個性」なのでしょう。
自分らしく輝いているか、これは自立をテーマにする私たちの本義です。