真の深さ

植物を観察していると不思議なことに気づきます。

植物には感情がないといえば私から観ればそうではありません。

長い日照りの後の雨には喜び、長い曇りの後の陽射しにも喜びます。
また周囲の蝶や蜂に花を咲かせているときも楽しそうに思います。
これは植物に限りません、関係性を持つとき、そものものは相手との心と響き合うのです。

いのちというものがあるこの世界の存在はすべて響き合う心の音を持っているからです。

他にも植物を観察していると色々と共通するものを感じることがあります。

例えば、新芽の時は大地から大きく養分を吸って 伸びているように思います。
そして枯れてしまえば養分は吸っていないように思えますがそうではないのです。

枯れるとき、植物は子孫を残すためにもっと多くの養分を種に蓄えていくために枯れるのです。
その時の方がより多くの養分を凝縮させて一点に集中しているのです。
広く生きていくことから、深く生きていくことへと生の転換があるのです。

全てのいのちは、その一生の四季に応じて生を転換していくものなのです。

非科学的かもしれませんが、自然を観ていると不思議なことばかりに気づくのです。
教科書には書いていないことを知ることは、自らよく観て深く学ぶことのように思います。

大切なことを自分の頭で考えず、他人の答えに依存していたら真実は観えません。

同じものを何度も観て深めていくうちに、気づきという奇跡に出会います。
決してそれに飽きてはいけないのは、それが考えるということだからです。

考える事をやめるのは、学ぶのをやめるときだと思います。
学び直しは、日常ですが常に深さからの真の深さとは何かを実践しようと思います。

ものの観方

人は今の社会構造や仕組みなどを盲目に信じる傾向があります。

なぜこのような制度なのか、なぜこのような法律なのか、なぜ社会はこうなのか、なぜ時代はこうなのか、なぜ自分がこうしているのか、そういうことには特に疑問を感じていないのです。

生まれてきてから誰も疑問に感じていないものは疑問と思わないのです。
しかしよく考えてみるとおかしいことに気づくのです。

もし自分が子どもだったらと思ったら、この世はおかしくて不思議に満ちています。

なぜ電気をつくるのに原発でないといけないのか、なぜ人口がこんなに増えているのか、なぜ都会に住むのか、なぜ学校にいかないといけないのか、なぜ働かなくてはならないのか、なぜ常識が必要なのか、素朴な疑問から複雑なものまで本当はたくさんのなぜがあるのです。

そういうことを誰も教えないままに暗黙の了解というものを持ってしまうことがあるのです。

本質を自らで深めていないのに、日々を過ごしていたら何の疑問も感じないロボットのようになるのかもしれません。

この世の中には、ものの観方というものがあるように思います。そのものの観方こそが、一度自分で深めてみるとガラッと変わるように思うのです。

例えばリスクというものを観てもいいでしょう。

人口は多いことは果たして安心なのか、資本が大きいことは果たして安全なのか、人気があることは善いことなのか、国家や会社の運営にしても経営でも、それはその人のそのものの観方の問題だと思います。

観方を変えれば、人が少ない方がメリットがあり、資本はちゃんと身の丈が善かったり、本質的であるほうが永続するかもしれません。人口などもここまで増えてしまったら、急な気候変動に対応できるはずもなく食糧は賄えません。人口を減らして食糧を備蓄することが、急な気候変動に対応できる対策のように思いますが少子化を止めることに各国は躍起です。

そう考えれば、その人の思想次第でいくらでもこの世界の観え方は変わってしまうのです。

同じ場所に居ても、同じことが善いわけではありません。

本質的な人には、この世界は周囲の人とまったく異なって観えるのです。
変人と呼ばれようが、そうにしか観えないのだから仕方がないのです。

目には見えないものを観るには、心の眼を養う必要があります。
そしてそれを私の言い方では、本質を正しく捉えるということと同義語なのです。

自分の眼で真実を観ることは子どもの素直の眼を持つことです。
この世界の新しい広がりは、子どもの感性である好奇心と勇気であろうと思います。

面白くしていきたいと思います。

お手伝いから

人類は今までさまざまなルールの中で社会を構成して集団を維持してきました。

現在の人の悩みのほとんどは人間関係にあるともいうように、それだけ集団でいるというものは御互いのストレスがかかります。違いを認め合っていくというのは、違いがもともと合っていいと思う社会があるからできるわけで今のように違ってはいけないと誰かによって抑えこまれているから余計に苦しくなるのだと感じます。

もともとこの集団に、独自の縄張りというものが生まれ自然を誰かが独占しようとしたところからの課題なのかもしれません。もともと自然界では誰かが何かを独占しようとすることはできず、あくまで自然にあるものは分け与える事で成り立つような仕組みになっています。

今のように、富を独占しようとしたり、何か自分の都合を優先しようとすれば、共生できなくなりその歪を戻すためにまた歪むという悪循環に陥るのも自明の理だと感じます。

自然界で集団を形成する理由を考えてみると、「手伝う」というものがあります。

最初は今のようにお金のためにや、ルールがあるからと働いたりはしていませんでした。

生きていくために、共に支え合い助け合うためにも自分から手伝うという選択をしたのです。
困っている人たちのために自分から手伝うとき、はじめてコミュニケーションは通じます。

自分から手伝おうとしないで、人と共に生きていくことはできません。
また今の時代は手伝ってもらおうと依頼することも苦手になってきています。

それだけ今の社会のシステムが、そういう当たり前のことをおかしくしているのだと思います。
もともと手伝いたい、助けたいそう思う心が私たちが対話をする理由です。
そして助けてほしい、手伝ってとお願いするのも共に生きようと対話をしようとしているのです。

少し離れただけで協力できなくなったり、日頃から対話ができなくなるのは、手伝うことの本質を忘れてしまっているからだと私は思います。

自分を活かすには、自分が得意なことで誰かのお役に立たなくてはなりません。シンプルに考えれば御互いの違いを認め合っているからこそ得意を活かそうとしたのだと私は思うのです。

そうして人は人間関係を思いやりのある豊かなものへと換えていったのでしょうしそうしていくことでいのちを紡いで繁栄してきたのだと思います。

権力やシステムで画一的に個性を埋没させ人を抑えて用いるのではなく、もっと自由に活かしていこうとする方が御互いを尊重し助け合うことができるようになるのです。

手伝うというのは自分の得意なことでその人の役に立とうと思うことからやればいいのです。

フラットでオープンな関わりは「お手伝いから」であると実感しつつ、対話を楽しみ、子ども達のためにもその見本になるように努めていきたいと思います。

 

自然との共生

先日、NHKスペシャルの「ヒューマン なぜ人間になれたのか?」を見ることができた。
かねてより色々な方から善い内容だったとお聞きしていたので楽しみにしていました。

話の流れは、人類の歩んできた軌跡を通じてどのように今に至るのかという一つの歴史の旅がテーマになっているようでした。様々な研究者や、作者の思想も織り込みながら私たちが信頼することや共生するということの気づきからその大切さを説いていました。

もともと人間は、覚えていないだけで数々の危機を乗り越えて今を生きているともいえます。

過去に学んだことから、私たちはどのようにしていくことが生き残る道であるのかを自覚したものなのでしょう。自然現象の中で、絶妙なバランスを維持しながら紡いできたいのちであるようにも思います。

気候が厳しい時には、厳しい中で一番大切なものが何かを考えてきました。
そして気候が緩やかな時は、緩やかな中で一番大切なものを考えているのです。

人間が人間であるのは、どんな状況下でも大切なものは何かを忘れないことだろうと私は思います。何万年も前のことをいまだに忘れないでいようとする心、これから数千年の未来のためにも今を生きていこうとする心、そういった心こそが偉大なのではないかと私は思うのです。

地球というものや自然というものを理解しようとしたということは、私には尊く感じます。

今、会社でも自然から学ぶ取り組みを増やしていますが今まで知らなかった大切な叡智に出会い、さらに自分がどうしていくことがもっとも自然体であるのかなどを自明するに至ります。

そう考えれば、私たちの素晴らしさは自然との共生にあるのではないかと思えるのです。

その自然との共生とは、別に自然を大切に自然を残すだけのことを言うのではありません。自然との共生とは、何が自然かに気づきその自然と渾然一体になっていくことを言うのです。

別に経済や今の文明社会、都市化したものを否定するのではなくすべてのものにはいのちがあると心の淵源にて気づき日々に自らが変わっていくことだと私は思うのです。

私の求めるかんながらの道でもそうですが、この世のあらゆる全てのものにいのちがあると気づき覚れれば自ずから自然との共生ということの本質を悟る事と思うからです。様々なものたちの中で、私たちは繋がり合って存在していることの尊さ、偉大さはあまりに自然な姿すぎて透明なセンスがなければ気づけないからなのでしょう。

もっと身近にある見えていない大切なものに気づく魂の感性を磨いていきたいと思います。
子どもの頃に感じたあの世界を思い出して自然との共生を楽しんでいきたいと思います。

遊び心

真面目(まじめ)というものと傾く(かぶく)というものがあります。

真面目というものをgoo辞書で調べれば、( うそやいいかげんなところがなく、真剣であること。本気であること。また、そのさま。 真心のあること。誠実であること。)と書かれています。また、傾くということを調べてみれば(かたむく。頭をかしげる。勝手な振る舞いをする。奇抜な身なりをする。)と書かれています。

人はもともと誠実であるから、何の疑いもせず今のこの世の中の仕組みの中で生きているともいいます。もともと生まれてきた世界が、今の目に映るものであったのならば最初からその中にいればそれを疑うということはしないものです。

しかしそのような常識を敢えて疑ってみてみると、実際は本当にそうだろうかという頭を傾けるようなことに数々出会います。

例えば、一度広い世界に出てみれば自分の国との違いから今までの自分の人生の価値観では常識だと思っていたことが一変して覆されるようなことに出会うこともあるのです。今までは当たり前と思って気づきもしなかったものは、実はそれは当たり前ではなかったと気づくようなものです。

これは別に目に見える世界だけに限ることではなく、心で観える世界にも通じる事です。

今までは当たり前だと思っていたことが実は当たり前ではなかったということにです。それに出会ったら人はどうなるのでしょうか。そうして出会い、気づいてしまったら、いくら元に戻ろうにも戻れない感覚になるのです。観えてしまうということでしょうが、目から鱗が取れるのです。

人は生きていて、何かに気づく人と気づかない人がいます。

それは本質を生きようとするのか、それとも長い物には巻かれた方がいいとあるのか、それはその人の自由の選択の中にあるのです。しかしもしもその当たり前がおかしなことになっていて苦しんでいる人がいたらどうするのでしょうか。

あまりにも真面目になっていようと囚われると、そういう当たり前に気づきにくいともいえます。

例えば、アメリカの人達が、痩せたいからとダイエットコーラを飲んで、健康だからとベジタブルバーガーを食べ、栄養素を確保したいからとサプリメントを大量に摂取し、疲れた体を癒すためにエステやジムに通う。

そういう話を聴いてとても不思議に感じる人はすぐに感じるものです。

もともと痩せたいのにダイエットコーラという発想自体が、バカなほど真面目に取り組んでいるときっとそうのようになるのだろうと思ったのです。本来、もともとどうであったか、本質とは何かがわかれば以上のような発想にはいきません。そこには既得権益として様々な業界の仕組みや政治制度が複雑に絡み合い、何がどうなっているのか分からなくなっているのです。

しかし真実というものは、気づける人には気づけて気づかない人は一生気づかないのです。

如何に自分たちの常識が非常識で、自分の常識がもっとも真実になるのか。
それは自らの刷り込みの脱却にこそあると私は思います。
そしてそれを東洋では中庸であるということだとも思えます。

今の時代は主軸をしっかりと持って多少は傾いていかないと世の中には伝わらないものです。
その主軸とは、思い込まないで決めつけないで素直にいることだと思えるのです。

今は青春のように楽しみに満ちていて、ワクワクドキドキがいっぱいです。

あまりバカ真面目にならないように、遊び心を大切に子どもと共に傾いていきたいと思います。

 

心の養育

目というものは色々なものを思い込むものです。

以前、見た目と違う味を演出する料理をあるレストランで食べたことがあります。
こちらはトマトのスープだろうと飲んでいたら違和感があるのです。
それはトマトの色はしていましたが、全く別の野菜を使ったものでした。

何度も味わっているうちに何の野菜かが分かってきて、どの野菜か確認してからもう一度ためしてみるとはっきりとその味が分かるのです。この体験から、食べるというものは舌で味わっているわけではなく目で食べていることも知ったのです。

言い換えれば、目を介してイメージが食べているともいえるのです。

こういうことから 一般的に人は、イメージで何かを思い込んだり先入観で無意識に囚われていたりとしていることがほとんどそうではないかと知ったのです。

こうやって刷り込みの中にいるのなら、ほとんどのものを本当にどんな味なのかわかっていないままに過去のイメージで食べているかもしれませんし、本来は何が材料なのかを勘違いしていることもあるのではないかと思うのです。好き嫌いも子どもの頃に食べたままの味がずっと残っているから今になってもまだ食べられないというものもあるのです。

人は自分の経験から、記憶としてその情報をインプットします。それがまったく異なる真実を目のあたりにしてもそれが目には正しく映らないのはこのように過去のイメージを常に追って映しだしているからとも言えるのです。

昔の体験からきっとこうだろうとイメージしたものであるはずだと思い込もうとしているのです。

人は同じように食べものだけではなく、様々な人も見た目で判断していくものです。
今のその人がどうかを味わうのではなく、過去のイメージがどうだったかで見るのです。

これでは真実は捻じ曲げられ、その歪から様々に正直ではない事象に悩むことになります。だからこそ、そのものをそのままに見るということは自分が思い込まずに見る必要があります。

言い換えれば、過去のイメージを捨てるという行為がまず必用だということです。
昔の記憶で相手を見たり昔の事象を見るのでは、 今がどうかを気づけないということです。

この今に気づくことは、今の自分に気づくことでもあり、この今に気づくことでもあるのです。
今に生きるということは言うことは簡単ですが、実践は少し大変なことです。

それは刷り込みを取りつづけ、常に素直な心で本質や実相を観続ける心の養育だからです。
何を養い育てていくか、それはあるがままでいることを如何に大切にするかということです。
そのために人は常に考え続けることを止めずに、刷り込みに対峙していくのです。

子ども第一主義の本質を常に探求しつつ、今を大切に気づき学んでいきたいと思います。

体験の集積

体験を積んでいくというものがある。

この体験というものは、新しいことに挑戦し取り組む中で得られる叡智ともいっていい。
自分の実体験から気づいたことを積み上げていくことではじめて実力が備わってくる。

つまり実力というものは、体験の集積というものであるのです。

その体験をしていても、一向に成長しない人と日々に目まぐるしく成長する人がいます。
それは体験というものの本質を理解しているかどうかにもよるのです。

体験というものは、頭で考えて行うような仮想の世界で取り組んでいくことはありません。それに過去に体験したからと体験が頭に残っているものを知っているだけでいるだけでは体験を積んでいるとはいいません。このどれもが、体験というものはやったことがあることだと認識しているだけでこの今こそが体験になることが分からなくなってしまうのです。

本来の体験とは何でしょうか、それは日々に新しくなっていくことをどれだけ新鮮に気づくことができるか、つまりは全てのことが新しくなっていくような体験をしているかとも言います。

つまりは、どんなことでも自主的に自覚的に主体的に自分から全部遣ろうと、自ら体験を積んでいこうという姿勢で取り組まなければ新しいことに気づくことができなくなるのです。

もともと体験とは頭で考えるようなものではなく、全身で感じて動いて気づいて獲得するものだと私は思います。それは自分が体験をしよう、何でもやらせてもらってそこから気づこうとする自分が創りあげていくものの中にこそあるとも言えます。

自他を含めて、誰かの指示や命令に従うことでは新鮮な体験することはできません。
体験はそれを自分が遣ろうとするときはじめて心が入り新しいものができあがっていくのです。

古いものにいつまでもしがみ付いたり、カタチに囚われて取り組んだり、過去の自分の実績に依ろうとするのはまだまだ体験の尊さ、その本質にに気づいていない証拠でもあります。

今まで遣ったことがないことを行うことほどワクワクドキドキしていくことはありません。
やったことないことだからこそ考える前に行動することを決めるのです。

はじめて登る山だからこそ、登ってみてから考える。
これが私の生き方で、怖いならばもっと高い山を目指せばいいと思っています。

なぜなら体験が如何に尊いかを学ぶことが私は活きる事、活かす事と信じています。
そしてそれは理屈抜きでワクワクドキドキと子ども心に火が着きます。

どうなるか何なのか知らないことで、冒険心が湧いてくるのです。

怖いけれどやってみたい、不安だけど挑戦してみたい、そんなワクワクドキドキする新しいものができる方が、人生の面白さに気づけて心が躍動する機会を得られると私は感じています。

新しい人たちと仕事をすること、新しい仕事をすることは、過去の自分の掘り起しではありません。新しいというのは、常に体験を通じての発見の日々を楽しんで生きていくことだと思います。

長くなりましたが、この体験の集積とは、好奇心の集積であると私は思うのです。

さらなる自分に出会える発見の喜び、新しいことを一緒に取り組める楽しみは、人生を味わう上では格別なものです。

もっと気づきたい、もっと体験したいという向上心と好奇心を常に高めて新しい体験を積み重ねて澄ませていきたいと思います。

信の日々

人は目で見て脳で判断をしてしまう生き物です。

目は、様々な自分の判断を通して見て自分との関係を探っています。
昔から百聞は一見に如かずではないですが、目で確かめて疑いを解くのです。

しかし目で追いだすと、ずっと見ていないと不安になっているような心境に陥ります。
そして一度追いはじめれば自分の不安が募るその証拠を確認するようになってしまいます。

どんな小さな諸動作であっても、振る舞いも、表情も、自分がまず信じたいから確かめようと疑いから入っていればそれは疑いの答えを探してしまうからなのだと思います。そんな気がなくても、相手から疑われていてはその人は次第に周囲の目を気にするように変わっていくのです。

見てはいけないものを見るというのは、自分の中の迷いや不安を増大させていくのです。
この目で見るというのは、目だけで見るというのと、心を通してから観るのとは異なります。

信じるの反対は疑うではなく、信じるの反対は刷り込まれることだと私は思っています。
そして刷り込みとは、以上の話で言えば心を通すことができなくなることをいいます。

つまりは本来の自分自身のことが分からなくなるということでもあるのです。

あまりにも周囲を目で追えば、本来、観ているはずだった今の心が刷り込まれるのです。

自分自身にいつも素直になれば、人は今の心に映る天を観て、自らの道を感じながら穏やかな平安の中で日々を歩んでいくのだと思います。そしてその時、いつも自分が見守られていること、言い換えれば自分を絶対的に信じるということを感じるのです。

このかんながらの道も以上と等しく、自ら信じて歩んでいく道とも言い換えることもできます。
つまり活かされているという当然の事実を直観するのだと思うのです。

人は不安になるのは、目が刷り込まれるからです。

日々に刷り込まれないように生きることは信の実践とも言えますがこれは生涯続けていかなければ道から外れてしまうのです。心の実践ともいうのでしょうが、目に入ってもそれを別に追わなくてもいいのだと気づくことです。

先人たち、聖人たちはみんな自分の人生を、その道を「信」で遣り切ったからこそ刷り込みのない自分らしい人生を生き抜くことができたのではないかと私は思います。怖いと思うこともあったでしょうし、囚われてしまう日もあったでしょうが、それでも日々に信に取り組んだのです。

実践していくことは日々だと肝に銘じて、分かった気にならないように精進しようと思います。

平均化の嘘

何でも均一化し、画一化し、平均化していくというものがある。

作物でも同じく、違う形のものを市場では販売せずに同じ大きさ同じ味、同じ見た目を重要視し、そうでなければ販売を認めないといったものもある。

スーパーマーケットにいけば、同じ形の野菜や果物ばかりであるのもそういったものでなければならいといった設定されているルールがあるから成り立っているのです。

学校の勉強でもスポーツでもそうですが、皆と同じことができるようになるまでとことん居残りや宿題をだしつつも勉強をしないといけませんでした。何か得意なことがあるだけでは認めてはもらえず、それ以外の教科が平均的な状態になるまでは先生と言われる人たちや周囲も必死です。

卒業するまでには、平均化したものになっていなければちゃんと育ててあげられなかったと悔いたりもすると聞いています。田畑の作物も同じく、同じ形にならなければ不作であり不毛でありお金にもならないというように農家も嘆くのです。

自然農をすると、それぞれが同じになるということはないということにすぐに気づきます。

ある大豆は虫に喰われ、ある大豆は風になぎ倒され、ある大豆は他の雑草に埋もれ、またある大豆は小さく、またある大豆は葉の色の薄く元気なものだったりもします。それはその大豆の与えられた生育環境と生来の生きる力に差があるのだから同じにならないのです。

そして出来上がった実は、それぞれの生きざまやその生き方、その経過がぎっしりと詰まったものを味わうことができるのです。言い換えれば、いのちを感じることができるとも言います。

しかしもしも、同じ形でないものは排除されるとしたら鶏のブロイラーのようにまったく平均化されるような環境で同じ卵を同じ内容で産ませるというようになるのです。同じでなければならないという生き方は、違いを認め合っている関係ではなくそれは苦しいものです。

御互いを認め合うというのは、平均の力が備わっているかどうかとは本来無縁なのです。

平均かどうかであるよりも、そのものであるかどうか、そのものを尊いと思う考え方です。
そのものがそのままで皆が尊いと認めたらどれだけ自分を肯定し信じていけるでしょうか。

こんな自分なんてといって精神がやんだり、さらには自分の身を殺めたりする人がいます。
これをその人のせいにする前に、自分たちの社会を一度見つめ直していく必要があるのです。

どんな社会が子どもたちにとって相応しいか、権力や経済を優先せずにです。

まだまだ自分の中にも平均化の刷り込みは色濃く残ってもいます。
まずは自らの刷り込みを取り除いていきたいと思います。

言葉を磨く

言葉というものは、使う人によってその定義が異なります。

実際に実践しながらそこで感じている言葉と知識として頭で咀嚼したものとは異なるように言葉の意味も用い方も人により個々に異なっているともいいます。

なのでブログでもそうですが、確かにそういうものの観方をしてみるとそうかもしれないと思えるほどにしかここでは書くということはできないのだと思います。

ダーウィンが一生かけてミミズの研究をして気づいた進化や変化というものと世の中の一般的に使われている進化と変化というものは異なるはずです。一生かけて真摯にミミズの観察を実体験を通した中で得た気づきというものは、そこには積み重ねられた言葉にその密度があるからです。

つまり言葉というものは、その人の人生体験の質量、集積密度によって語っている言葉が同じ音であっても単語であってもその中身はまったく異なって飛び交っているということになるのです。

以上のことからもこの言葉というものは、文字でも書けるし喋りもできますが通じていないということもあるのです。つまりは同レベルの体験同士でしか語り合うことができないともいえ、仲間や同志はだからこそ共にいることで体験の気づきを分かち合うことができ幸せなのです。

この通じないという関係をどう通じ合うかというのは、一般的には共通理解を時間をかけて理解しあっていく必要があるようにも思います。しかし時間がスピーディに流れていくなかで、そういう理解を深める時間が取れなければ通じ合わない話を何時間も続けてしまうようなことにもなりかねないのです。

言葉というものは、その定義している価値によってその意味が異なるからこそ一緒に同時に実践を行う中で通じ合っていくようにも思います。

人が言葉だけでは伝わらないと感じるときは、共に体験をしたいと思う時なのです。言葉というものを正しく理解するには、立場が違っても同じように感じる力を伸ばすことが大切なことであろうと思います。

だからこそ言葉には力があり、人々がその言葉を聴いてそうなりたいと思うかどうかはその言葉を使う人の実践、つまりは生き方が左右するのだと思うのです。

今は共感力とでも言いますが、言葉は頭で認識するのではなく、心で感じるものなのです。

当たり前のことかもしれませんが、なぜこういうことを書いたのだろうや、なぜこういう言葉を使うのだろう、なぜこの話を選ぶのだろうと、相手に心を通じているときにこそ本当の言葉が伝わってくるのだと思えます。

言葉に触れることで、人はその人の観ている世界に憧れることもあります。
私もそうですが、私も憧れる人がいてその人たちの語る言葉にいつも心が感動し痺れます。

いつの日か、そういう言葉の世界を自らの世界に創造できる日がくるのを楽しみに、もっと素直に他人の言葉も丁寧に聴き、自分の使っている言葉も同じように素直に丁寧に語れるように、言葉を磨き感性を高め、日々に学び直していきたいと思います。

有難うございました。