相性相応

私は辰年辰の刻生まれなので、いよいよ干支も三回転したことになる。

この動物を用い四季や自然と融合した学問に風水がある。

私は正しく風水を習ったことはないけれど、方角を観て何かが棲んでいると感じるのはその場所その場所に相応しい気力であったり場力、間力などというものが存在しているからでもある。自分のもっとも相性の善い場所にそれ相応の時に尋ねる事で、身体の気の循環のようなものも自然に調和すると実感するときもある。

つまりは、四季の中で自らの気を感じるためにも各方位に意識をあわせていくことは大切なことであろうとも思います。水場には水場、火場には火場、土場には土場、木場には木場、というようにその場に相応しいものがもっとも相性が良いということになるのだと思います。

それ相応の理があり、私も昨年まで学びましたがこの相性や相応というものはとても大切でそこでいくら無理をしても自然の理に適っていない場合は誰がどうしてもうまくいくことはないのです。それは人間関係であっても相性相応があり自らを善く知ることでその相性というものを理解し、それを善く活かそうと思えばそれ相応の場に着く必要があるのだとも思います。そうすることで、より自他の相性より鋭敏に活かすことができるようになるからだとも思います。

風水には、そういう相性というものを理解することで自然に逆らわないことを法則にしていて、それを具体的な都市の配置設計で活かされています。昔は今と違って、自然への畏怖を忘れずに人間の棲家を鳥瞰的に観て正しく設計していたのでしょう。

「南方の池は神様の姿を写すであろう、北方は人々の騒がしい生活を阻むであろう、東方の高く聳える城郭は猛族の進入を阻むであろう、西方にひろがる林は暴風や火災を防ぐであろうからこの場所は神を祀るに最もふさわしい場所なのである。」とあります。

このような思想から、かの平安京の都は東に鴨川、南に巨椋池、西に大路、北に北山と四神相応の地につくられています。一度、その知に足を運びましたが自然豊かで安寧に満ちた場所であったと感じます。人間の猛威までは予測はできないようですが、自然界の中では今でも安心できる場所であるのではないでしょうか。
こうやって自然の理を、霊獣に例えて祭りさらにそれを生活に活かしたのは自然の智慧であるのだと思います。動植物たちも、その地場が移動するのにあわせて変化を繰り返し長い間、自然環境の中で自らの性を活かすために智慧を働かせてきたのです。
風水思想には、私たちが自然と永続的に共生していくための智慧がちりばめられています。それは自然の中で暮らしていく中で本来身に着けてきた私たちの叡智でもあるのです。
最後に、こういう言葉に出会いました。
「東方を守護する青龍は川に棲み、南方を守護する朱雀は池に棲み、西方を守護する白虎は道に棲み、北方を守護する玄武は山に棲むとされていますので東に川、南に池、西に道、北に山で囲まれた地こそが四神に護られた地、すなわち四神相応の地である。」
その中心にいることを忘れず、相性というもの相応というものを正しく理解し今年はまだまだ未知の学び直しを続けていきたいと思います。

2012年のテーマ

昨年も無事に様々な新しいことを学び挑戦した一年になりました、これも皆様とのご縁により生まれているのを覚えると心からその一期一会の出逢いに感謝しています。

全ての出逢いには学びがあり、それを尽くしていくことで互いに成長していくのだと思います。
人は命は全てのものとの繋がりの中で活かし合っていくのだと改めて確信を覚えます。

一見意味のないような関わりに観えても、そこには隠された意図がある。
心と心の対話、つまりは裸になっていくことで自分の存在が明らかになっていくのでしょう。
心を澄ませて対話をする日は、思っていた以上に素敵な邂逅を与えてくださいました。
続けていける日までの道中ですが、これもまたご縁とし味わっていこうと思います。

また今年も師より新たなテーマを戴きました。

毎年、学問を通じて道中を同行できる歓びは最高の贅沢であり、師には長生きをしてほしいと願うばかりです。実践を通じて学びあい分かち合う日々は、それほど偉大な感動と感激に満ちているということを学べるのも師がいるからこそであろうと思います。

今年のテーマは、

「一呼吸おいて物事を観ること」

これは間や遊び心といい、虚空よく物を容るではないですが呼吸と呼吸の間での阿吽からよく学びこむということではないかと今は認識しています。 認識はあくまで認識ですから、学問とかんながらの道を通じて今年もまた実践し丁寧に掴み取っていこうと思っています。

最後に人間の一生には自然と同じく四季があります。

もっとも動いていないで停滞しているようなときこそ、冬の寒に耐える時期であろうと思います。自然は知っています、寒い時期にはどうすればいいのか、そしてよく観察すれば根は確かに地中奥深くにしっかりと根付いています。動いていないときこそ、強い気を蓄えているのも傍に寄り添ってみるだけで感じることができます。

これが春が来て、新たに種から種へと循環する中で偉大なエネルギーに受容されながらまた一つの役割と生涯を果たしていくのだと思います。私たち生命は、地球がまるで呼吸中でその胎内を巡りながら輪廻していくようなものです。新しいステージを迎え、新たな呼吸の間を感じつつ、いよいよ今までの冬の忍耐が次の春への元気の源になり自発していくのだと思います。

その季節季節を心から楽しみながら融通無碍に円満に日々を暮していきたいものです。
子ども達が憧れるような世界を創造するために、勇気を出して今年を切り開きます。

今年もよろしくお願いします。

体得すること

時代が変化し価値観が多様化する時代というのは、知らないことが増えていくということでもある。それは言い換えれば昔は知っているつもりだったものが時代の変化と多様化によりその定義が異なって本質からいつの間にかズレて間違えになっていくということでもある。

特に、時代が形成した誰かによって意図的に強いられた価値観が正しいことになってしまっているとそういうものに気づくのには大変な時間がかかるものでもある。目から鱗が取れるような体験がなければ一生涯気づかないなんていうことも往々にして起きるのである。

例えば、教育とは何か、社員とは何か、健康とは何か、食べるとは何か、遊ぶとは何か、そういうひとつひとつの質問をその人に投げかけていくだけでもその人がどの時代の価値観のままにそれを定義しているかがすぐに分かる。

新しい世代や、刷り込みのない人は、それを常に自らの頭で考え抜くことで自らで明確に本質的な定義を持っているものである。しかし今やITを使った情報化社会で安易に知識をすぐに得ることができるから自分がまるでそれを知っているかのように錯覚し、実体験からの体得しようとすることを怠り、本質が分からないままで横滑りする人が増えているのである。

学校の勉強と同じく、知ってはいても分からないという愚をおかしていつまでも知ったかぶっているだけでそれ風に見せるようなことがまるで当たり前であるような風潮さえもある。知っている人が偉いとなったら、それは誰でもすぐにちょっと知識と暗記ができれば偉い人になってしまう。そんなはずはあるわけないのです、そういうことを当たり前にしているからいつまでたっても知らないことを知ろうともしないでただ闇雲にズレていることに気づかないままになるのです。

うまくいかないのは、知ることで終わらせているからであり知ろうとし続けて体得するまでやってみようとしないからです。知ればやらなくていいことが前提で、何かを自らの頭で考えることなどはできません。そういう楽して何かを得たような高揚感は、まるで麻薬中毒のようなものと同じなのです。

知らないというのは、体験しようと思うことであり、体験を通じて数々の失敗から自らで考え抜くことで人ははじめてその意味が本当は違っていたこと、知らなかったことに自らの理解で本質に気づくのだと思います。

他人から又聞きしたものをきっとこうだろうと鵜呑みにするから刷り込みにやられてしまうのです。体験してもいないことを知識だけで得ようとしますが、そんな楽な方法では体得することなど誰にもできないのです。

教えるということはとても難しいことで、単に知識などの頭では理解できないことを教えなければなりません。昔の職人さんや師弟関係は、現場を一緒に共有しその中で伝授したり以心伝心に理解を促したりしながら本来の一番理解しなければならない本質や実相、その仕事のコツとも言える地味なことをすべて体に教え込んできたのだと思います。

またそれが学ぶ事だということがはっきりとあったのだと思います。

しかし今は、何でも言葉だけや知識だけで詰め込んで人を動かしてそれっぽくしてきたから本質を自らで掴もうとはせず頭ばかりを働かせて身体を動かさず智慧も働かないということになってしまい、まるで知識中毒になってしまっている人たちも増えているのです。

知識を得ることは、やってみたいことがあったり、やることがあるから参考にするだけであってそれは原則や真理の学び、言い換えば自然との出逢いのために行っているとも私は定義しています。しかしそれを単に楽をしたいことが前提でやるというのはいつまでも知らないことに気づくことがないことを意味しているのは、森という説明は知識でできるけれど、森に入って森を理解することがないということと同じことなのです。そんなのは、まず森に行き、森から学べばいいのです。森に行く前に知ろうとするのは、自分の体験をショートカットして楽をしたいところからきているのだと考えればいいのだと思います。

人は失敗を通して学んでいくし、分からないからこそ知ろうと挑戦するのだと思います。そして真の楽しみとはそういう体験していく中で充実感とともに得られるのだと思います。

多様な価値観と変化の時代は、常に自らの体験で本来の意味を学び直す必要があるのです。本質を自らで掴む力が今、一番衰えてきています。だからこそ子ども達にももっと体験できるように見守り、ゆっくりその本人の実体験を深く味わって本質を自ら掴んでいけるようなゆとりのある時間を用意してあげることだと思います。

自分の体験して掴んでいないものを安易に分かった気にならないことは学問の本義であろうと思います。まずは身近なところからその大切さを忘れないためにも、日々に新しいことにチャレンジして実践を楽しんでいこうと思います。

世代交代

すべての生命には世代交代というものがある。それは時代が変わり、新しいものが生まれるのは流れが循環する中で時も一巡して新しく環境が変化していくことを意味している。

場所が同じところであっても、時間が経てば廻り回って戻ってきたときには少し変わっているのだから、時とともに新しいものに対応できるように歪をなくすためにも生死があり、古きものが新しいものになることで調整していくのであろうとも思う。

歴史を観ても同じく、時代の変わり目は節目というものは全てにおいて世代が切り替わっているのであり、昔の世代が終焉を迎え、新しい世代の時代になっていくから国も変わり、倫理観も変わり、ありとあらゆるものが変わってしまうのであろうとも思う。

しかしその時代の節目には、自分を否定されたと思ってしまう前の世代が必死に自分たちの遣り方をいつまでも固守しようとし頑固に頑張り続けるから新しい世代にスムーズに切り替わることができず、いつもトラブルを起こしてしまう。新世代の人たちは、自分たちを信じてもらえなくなることで自由にさせてはもらえず教育や過去の価値観の押し付けや洗脳等によっていつまでも先の世代での遣り方に従い維持していこうとなってしまうのであろうとも思う。

特に先の世代の時代は必要とされて認められていた価値観を新しいものたちから否定されることほど古い世代にとっては辛いものはない。その時の頑張りがあったからこそ今があるというのに、今の世代にそれが間違いだったと言われることは自分の生い立ちを否定されたかのように勘違いしてしまうものだからである。

しかしそれをもう一度よく深く洞察してみると本当は認識違いで新世代は旧世代を決して否定しているのではなく、時代が単に変わったのだと伝えているだけなのに対して、旧世代が自分の役割がまだまだ終わっていないと自分の居場所に固執しているだけという構図になっていることが多い。

特に親子関係でもそうだし、会社でも役員交代でもそうだけれど自分がいつまでもそこに居座っていたら後に来る人たちはどうしても自分たちのやりたいことを自由に取り組もうとはできなくなってしまうものなのです。

本来は、新世代は先代が築き上げてきたものを正しく壊し正しく作り直すという役割をもらっているのだからもっと信頼して挑戦させてあげることを繰り返すことで畢竟、それぞれの世代の役割を正しく果たすことができるのだろうとも思います。

それをやろうとする新世代のことを思えば、新世代が好きなようにしていくことを受け容れることが自分たちがやってきたことをちゃんと認めていくことになるのであろうとも思います。自分が今までやってきたらこそ、ここで新しく壊す必要があるということを受け容れるということなのです。

自分がやってきたことを正しく役割交代することが、世代交代の意味なのです。

それはまるで子どもが成人になるまでに大人が変な教育で自分たちの価値観を一斉に押し付けて刷り込もうとするのではなく、子ども達の世代なのだから子ども達の自由にさせてあげよう、そしてそれを温かく見守ろうとするのに似ているのです。

私の定義では、もう子どもが大人になったら世代交代の時期であると思っています。

いつまでも大人が社会に居座らないで、子ども達が子ども達の社会を子ども時代に創っていくのを見守る役割になったのだと私は思っています。

子どもの自由を奪う権利は大人にはなく、当然その世代を謳歌した人たちはもうすぐに譲り渡す準備をするべきであろうとも思います。子ども時代が奪われたからと子ども時代を取り返そうとするのではなく、そういう思いをしなくていいように子ども時代を与えてあげればいいのです。

時代はこれからも永遠に変化し続けていきます、これは誰にも止められません、止めれば自然の摂理で無理がきて崩壊するだけです。それを考えれば、子ども達、その新世代にこの世界を任せていくことの方がより無理なく自然に役割を果たし自分たちの命の繋がりも譲っていくことになると思います。

いつまでも自分の居場所をばかりを求めるのではなく、次に訪れるものたちのために席を空けておくこと、世代交代は役割交代なのです。

私自身、今の子ども達の新世代のために早々に子どもを見守る側に正しく入っていこうと思います。

 

自分らしくとは

人生を丸ごと受け容れることは、天に従い任せてそれを素直に受け取り気づくという生き方を感じる事である。

人は様々な自分の思い通りにいかないことがあり、それは感情という曇りによってさらに迷いが増幅していくものである。そのことを振り払おうと外の世界に文句を言ってもそれで何かが変わるということはない。

生き方というのはそれだけ頭では考えられないものであり、そもそも自分が何が好きかやどんな夢があるかというところまで掘り下げなければ捉えることもできないものであろうとも思う。

自然に生きていけば、人はあまり他人の評価のことに影響を受けないのだけれど教育により知識を覚え、様々なことを分かった気になっていくことで固定概念というものが染みついていくものであろうとも思う。

そういう固定概念があることを知り、もう一度最初から学び直そうとするところから生き方というところへ入っていく人が多いのだろうとも思う。

今の日本の社会でそういうご縁や機会を持てる人は一体どれだけいるのだろうか。

自分に正直に生きようとすればするほどにすぐに自分らしくいることが難くなるではないか、それは今の社会は周りを過剰に気にして周りのことにあわせることばかりを優先することで本音と建て前を使い分けていたり、本当と嘘を使い分けていたりする社会に自分が置かれてしまうからである。

例えば子どもには良いことを言ってそれをやらない大人たちや、お金のために自分なら嫌だ思うことを平気でやったりすることは暗黙に了解されていたりする。

ゴミを捨ててそれを拾っている人を創るような仕事をわざわざ創りあげそれがリサイクルだなどという人もいる。そもそも捨てず拾わないよう皆が大事にすればいいだけなのにそうはしないのはお金にできないからだという。

本末が顚倒する社会に生きるということは本質的であればあるほどに難しいのである。

しかしそれでも自分らしくいたいなら誰が何と言おうと自分が正しいと思ったことや、自分が信じたことをやることである。

それが生き方を問うことなのである。

何かのために我慢をしたり誰かのためにあわせたり、固定概念に縛られたり、目先の我欲に揺れ動いていると本来の生き方へ転じることができないから苦しいのである。

自分らしく生きるということは、もっと自分の本心や本体を信じる事である、つまり正しいと思ったなら自分を最期までちゃんと信じてあげる事である。

そしてそれをするには自らの心に自然の流れを感じていくことであったり、心を自然に溶け込ませることであったり、心のままに自然であるということを意識するだけでいいのである、つまり「これでいいのだ」と信じてあげることである。

それが次第に天に任せるた天に委ねる、天命に従うという言い方になるのである。

しかしそうはいっても私を含め生き方に向き合うのは難しく、人間は当たり前のことをすることがもっとも困難なことであり、この当たり前ができれば一人前に自立しているといってもいいのであるのではないかとも思う。

人生道場にて天と一体になるや自然に溶け込むという思想は、あるがままという道を楽しんでいるのである。道は眼には見えないからこそ、自然の中に顕現してくるものでそしてそれを感じるときが自分らしくいることであるのだと思います。

私も人生の道の中で矛盾や不可解なことばかりが起きますが、自分に正直にいる方を優先していきたいと思います。子ども達の未来にはそういうことが認め受け容れられる社会を創造していきたいと思います。

正しいこと

人は信念を持って歩む時、誰しも正しいことを行おうとする。

それは澄んだ自分の心に従い、自分に与えられた天命を尽くしていくことだけれどその行程はずっといばらの道で在ることが多い。

例えば、理想を掲げて理想を歩もうとすれば周囲にはなかなか理解してもらえない。それは、あまりにも理想すぎてできるはずがないと思われるからでもある。

それに一般的には大衆は自分にできそうにないことに対しては、それをやろうとしている人を変人扱いし哀れみの眼差しすら向けるものである。

成功した後などは、周囲の態度も変わるけれどまた時が流れれば次第に変人だとされ理解されないような日々を送ることになるのである。

そう思えば、誰に憚らずとも自分の信じた道を貫くことが何より素晴らしいことなのである。

特に、理想が高く自分の中に定めた大義に生きるならいちいち周囲の雑音に耳を傾けるのは時間の浪費であるのである。そんなことは分かっていてもなかなかできないのは自分に自信がないからでもある。

自分に自信があれば本当の強さを発揮する。

そうやって自分の信じた道を歩むには本当の強さというものがあり、その強さとは正しいことを遣り切る強固な心、そして正しいことを遣り切る柔軟な心、この正しいというのはその全てを併せ持つ中ではじめて実践していくことができるのである。

誰かの顔色や周囲の偏見にすぐに自我が影響を受けて迷っていたら、何をやるにも中途半端になるのである。

まだまだ私は周囲のことが気になってしまい本来の自分のあるべき使命に専念するのに足元を見て迷うことがたくさんあります。

論語に四十にして迷わずとありますが、しっかりと今までの刷り込みを払しょくするために言葉も思想も再定義しつつ自分の強みを真に活かして今の社会に世界に貢献していこうと思います。

まずは自らをそのままに知るところから観直していこうと思います。

バージョンアップ

人は新しい価値観や、今までになかったことを得ようとするとき新たなステージとも言うべき場所へ自分を移行する必要がある。

人間的な成長と、現実的な世界の成長はリンクしていてその両面を同時にブラッシュアップするために人は自分の立ち位置を変えていく。

その感覚は、ある臨界期を超えて瞬時に抜けるというように囚われていたものから解放されるという感じでもある。

それは変わろうとして苦しみを感じているやり方だけではなく、気楽に好奇心を感じているときの方が肩の力がすとんと抜けるのと同時にブレークスルーするときもある。

または、具体的な今までとはまったく異なるアプローチを試そうとチャレンジを繰り返すことで突然ハッとして抜けることもある。

とにかく今までのやり方や在り方を一度見直すことができるかということが重要なポイントになるのである。

人間はある時を起点に、その昔の記憶を主軸に自分を変えたとか変えていないとかを語るけれど、その過去のものを基準にしていてはいつまでたっても変わることはできはしない。

昔の自分、過去の蓄積された知識などと比較して変える変えないとしたとしてもそれは過去から変わったというだけで、新しいステージに変わったということではない。

新しいステージとは、新しい力が必要なステージ、つまりは新世界の住人になるかどうかということである。今までの自分がどうであったかというよりも、まったくそういう過去を捨てて新しい自分に生まれ変わるということなのである。

生まれるとは、一度死ぬことを意味している。

それは今までの自分ではなくなるということなのであり、それは今までの自分のことを忘れてもいいと一つの生き方を卒業することを意味するのである。

人間は何度でも生まれ変わることができる、それは心があるからである。

心が新しく生まれ変わる決意をしたときから、人は第二の人生を歩むことができるのである。過去にしがみ付き、過去に囚われ、過去に生きようとすることはすべてどうしようもない過去への自我の執着なのである。

過去に生きれば、今、周りにいる人たちを大切にしなくなることにもなる。

大切なのは、今、ここでどう生きるのかという決意なのである。

人生とはすべてにおいて決意で満ちている。

過去よりも今、ここが人生の主戦場、それぞれに一度しかない人生だからこそ自分自身が納得のいく人生を歩むことが自分の今の生と周囲の生を最大限活かしていくのだ。

まだまだ、共生や貢献の意義を刷新することを楽しんでいけるように日々をバージョンアップしていこうと思います。

行事の在り方

人間は本質が何かをまず考えなければどんな業務も増やしていくことになる。

例えば、学校行事などでも本質を深める前に、昨年評判が良かったからと行事を追加していくだけで今までのものを減らしていなければ増え続ける業務の中で忙しくなりたくさんやれば質が上がるなどと本末転倒なことを言っている人もいる。

忙しいのだろうけれど、いつも忙しいと言い訳を頭に掲げて同じことをやっていたらいつまでも忙しいままだろうとも思ってしまう。そうならないように他人は知恵を使って創意工夫していくことで改善していくしかないのである。

これは学校行事とはそもそも何か、本当は何のために行っているのか、そのはじまりはどのような理念であったのか、そういうものをよく知らないやよく分からないままで指示された通りに動こうとしたり、目先の期限ばかりに追われていたら忙しさというものはなくなることはない。

目先に姿ばかりを追っかけてみては思い込みで育てようとすることがより「深く考えない」環境を構成していくものだと思う。

目先には心は入ることはない。
心の余裕というものは、常に本質から考えたから生まれているのである。

そして話を戻せばこれは学校行事に限らず、何のためにやるのかというこを主軸に、そこから外れないようにと自問自答した後、皆で取り組めば温故知新に古いものは整理され新しいものが上書きされるというように変化に準じていくことができるのである。

つまりは考えればいいだけであり、何でも深く考えることで済むのである。
考えるために対話をし、考え切るために学問の修練があるのだ。

もう一つの例では学校でいえばすぐに危ないことや危険だからや不安だと、子どものことか自分の保身かがすり替わっていることも多いけれど弱体化していく子どもにあわせてさらに弱体化する環境を用意するというのは、自分が弱くしておきながら弱くなったからもっと環境を弱いものにあわせないととしているということになっていることに気づかないだけである。

弱体化の悪循環はこのままずっと考えないことによる弊害を受けることになる。反応的になにかをやっていたって、問題はいつになっても解決しないのである。

大人が何かを意図するのであれば、当然、その理念を先に立てるまで徹底して納得する心の時間をとるほうがいい。何の経営でも、スタッフが納得しないものを上から降りたからとただ従うという組織こそ思考停止し、全体の営みの質を下げていくものです。

まず私たちは自分たちの実践を通じて、深く考えて掘り導き出せるような関係性をより学んでいこうと思います。子ども達に本質的なものを考える環境を用意していきたいと思います。

向き合う

人はどれだけ深く物事を掘り下げることができるかというのに、自分自身との正対というものがある。

自分の心に正直に、自分が一体何をしたいのか、自分とは何か、そしてその自分が参画している社会や組織に対して、本当はどうなのかということを考え抜き考え切るということは、相手の反応を見て右往左往するのではなく自分自身との向き合い方そのものが堀り下がっているということになる。

よく深い人や浅い人という言い方があるけれど、深い人とは常に自問自答をしながら悔いのなきような決断を連続して決定して納得いく人生を歩もうとしている人が多く、浅い人とはその場の雰囲気に流されたり気分次第で意見をコロコロ変えたり、つまりはいつまでも優柔不断に決断を避けるという言い訳や他人のせいにしいつまでも自分と向き合おうとしないで逃げる人であることが多い。

人生はそのまま何もしなくても日々に時間と同じく流されるものである、だからこそただ流されないようにどんな些細なことでも自分が決定していこう、納得していこうとする日々が真に充実している日々だということになる。

忙しいという業務のせいにして、考えないというのはそもそも考えたくないから忙しくしたいだけであることが多いのである。

つまりは向き合いたくない、不安だからこそあえて流されようとするのと、自分で決めて納得しているから流れようとするのでは、その人生をどれだけ自分のものになっているかどうかの差が出てしまうのである。

人生の幸福とは、自分の人生を自分で納得するように自分らしく生き切ることであると私は定義している。

向き合うということは、深掘ることであり、逃げないというのは、正直で素直でいることであり、正対しているということは、本質であるということである。

色々なことが起きると、考える時間がたくさんある。

浅く広く流されるのではなく、その一点その一心を深めていくことを大切にしていくことだと思います。

若気の至り

若さゆえに分別がつく前に、激情に任せて誰にも負けない情熱を傾ける元気や活力が湧いている状態に血気というものがある。

思い込みや先入観から行動力と好奇心が何か一つのものに集中するとき何か不思議な高揚感というか充足感が出てくるとどうしても向こうみずに真っ直ぐに意気に任せて取り組もうとする。

そしてそれでいいと思ってしまう、けれどそれが次第に傲慢になり、多くの人たちの犠牲に繋がり、一人で全てをやるということは実は通用しないと分かったとき、周囲の有難みに気付き、それが若気の至りであったと反省してから人は本物の強さや優しさというものに目覚めていくのであろうとも思う。

無知というのは、やったらどうにかなるというような根性や意気だけで何とかしようと勘違いすることであり、そういう無分別な行為は周囲の仲間一人ですら守れない弱い力である。

本当に仲間や大切なものを守りたいと思うのなら、正しく自分の力を自覚して周囲と協力し助け合っていく本物の強さを持たなくてはならない。

私たちの国の神話に、国津神と天津神というものがある。

国津神の力と意気だけでは、国は治まらず、天津神の和合や思いやりの心が欠ければ平和が続かないとし、常に全体のバランスを保つことの大切さを創始理念としてこの国のカタチを子孫たちが実践して今がある。

無謀で強大な力だけで何とかしようとする先に、自国の正義という自分側に偏った利益を守るために戦うといつまでも戦争はなくならないのである。国々の神話や歴史を遡れば遠い過去にすでに実証済みでそれは不可能であることは心の奥底で私たちは知っているのである。

世界の国々はまだ歴史が浅く、そして若い。

そしてリーダーと呼ばれる、国の指導者たちも人生が短く目先のことに右往左往してより悠久の流れを感じれず世界はまだまだ平和に治まる気配もない。

この先はすべての力を一度失ったとき、もともと眼にはみえないけれど広大無辺に包まれている愛や思いやりを見出し、和合の持つ真の力に目覚めるのであろうとも思う。

人間は自然を支配できるなどと誤解するのではなく、自然の本質に気付き周囲のお力の御蔭で自分は力を出せているのだと全体調和から自分を見つめるとき、はじめて自分というものの限界や自分というものの本当の力を自覚することになるのであろうとも思う。

孫子にある、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」は、己の力を過信せず、過小評価せず、正しく力そのものを理解し、相手を同じように知れば、すべての物事を平和に解決することができることを意味しているのではないかと私は解釈をする。

力に魅せられているのは若い証拠である、まだまだ地球の歴史は若く浅い、これから様々なものを学び平和の意味を学ぶのであろうと思う。

子ども達には、出来る限り先人たちの教えを伝承し、その伝承から正しく気付けるような環境を用意していきたい。気付いたものから変わることで、世界はまだまだバランスを保つ余地を残している。

心を育てて、道をしっかりと絶やさず遺していきたい。