思考の罠

仕事を観察していく中で、よく気づくことに新しく考えて進めなければならないことを「またいつもの癖で」とか「また同じように」などといって毎回あまり変わり映えのしない結果になる事がある。他にも、いつも何かをやった後に次はこれをしたいといつも「何かをやることの方ばかり」をいつまでも考えている人がいる。

これは以前の仕事で身に着けた指示を遂行するという「習慣」で仕事をしている人のことを言う。

これは別の例にたとえれば、日常の中での生活でも髭剃りや歯磨き、シャンプーなどいつも通りの流れにそって無意識に体を動かし取り組んでいるのと似ている。そういうことをするときはいちいち考えていないし、では次は歯磨き、では次はうがい、次は手洗いなどと、動作的なことを考えても本来の意味はもう何も考えてはいないけれど体は動く。

仕事も同じように単なる習慣の惰性でやっている人がとても多い。これは考えてから取り組んでいるのではなくて、取り組むことを考えていることになる。

本来、仕事とは考えてなければ生産性も効果も効率も善くならないものだし、さらに言えば責任を持つ仕事はどれも考え抜かれたものでなければ最終的に望ましい成果が出るということもない。

つまり、私はこの「考えながら動く」ということはとても大事なことだと思っている。

もう一つ念のため例えれば、営業の仕事があったとする。これも考えてますと言って何を考えたかと尋ねればスケジュールやトーク、段取りなどのことばかりを話されることがある。しかし当然考えたかというのはそういうことではないのはお分かりになると思うけれど、本来考えるとはそういう動くことを考えるのではなくそれ以前に何のためにということを考え抜いたかということを言う。

では考えながらとは具体的にはどのようなことかいくつか紹介すれば、私ならそれは本当にこれをやることは全体のためになるのかを持ち続けること、この今、取り組んでいるものは本当に全体にとって最優先のものなのか、これは自分にしかできないことか、さらにはいつまでにどのようにやり遂げることがもっとも価値のあるタイミングなのかということなど沿考え抜くことを言う。

それの共通理解を図るものに企画書があるし稟議書がある。

他にも考えながらには、根本のビジョンや理念に沿っているかや相手や周囲が心地よく感じているか、独善的ではなく総合的に取り組めているか、先々の展開はこの方向で間違いないかなど、「考えながら」は非常に多岐に及ぶ。

それを社員一人一人が考え抜き会社全員で侃々諤々とディスカッションをし、納得がいくまでやっているからはじめて考えながら仕事をしているといえるようになるものだ。

しかし通常は、人はそういうことをしたくないから怠けるしいつまでも考えようとはしないもの。過去の習慣でやった方が直近の一応の結果も出せるし、何もしないよりはましだと妥協している方が何かと必死にやれたという実感もあるし一応の評価ももらえる。

その陰に潜む一時的な楽に乗っかれば、実は思考の罠に陥ることになり、そうなればいつも習慣で惰性で働くことが癖になってしまうので注意がいる。常に考えないで仕事をいつまでもやっていたら本当に価値がある最高の成果を出すことは永遠に不可能であると私は思う。

早めに自分のその思考の罠ともいうべき、「考えない」癖を直す必要がある。

では具体的にどのように直すのかと言えば社員一人一人が真剣に考えることだけれど、日々ではまず言われたことだけをしないことだったり、本質的に取り組めているかを常に確かめながら進めたり、プロセスに責任を持つことや、経費よりも数倍以上の価値の高い成果を出すことや、会社の問題を自分の問題にすることなど、これもいくつかあるけれどシンプルに言えばサボらず怠けずちゃんと「考えればいい」だけなのである。

サボりや怠けは、動くことを言うのではない。努力の方法とは、ただ闇雲に必死にやりましたというのは正しいやり方ではない。本来、サボりや怠けとは会社のことを考えないことを言い、努力の方法とは、如何に本質的に効果がある方法で取り組んだか、つまりは創意工夫するこが正しい方法なのだ。

会社も仕事も年々、変化していくし進化していく。昔の習慣ばかりを使って流されていては同じく年々考える力が衰え、気が付くと無機質に繰り返しているだけの指示を待つ作業員になってしまう。

一番恐ろしい思考の罠は、以上のように動くことのことばかりを考えていることを考えていると勘違いし本来、その前にきちんと仕事とは何かを考えてから動くということすら麻痺し意識することもなくなることであろうと思う。

常に現場は変化想像を繰り返しているし、時代のニーズも転々と変わってくる。会社は、いつもそういう変化の中で成長し続けなければ永続的な発展をしていくこともできない。

そして会社は生き物だからこそそれを全社員の一人一人が意識して取り組まなければ、大切な自分の生きる場所であり自らの道縁で得た無二の環境や本来の価値を守ることもできないと私は思っている。

トップダウンとは一見、とても強固な組織に見えるけれどその実はそうではない。誰か優秀な一人に依存しているというだけでありそんな優秀な一人に頼るようではその人次第でどうにでもなってしまうということでありそれは企業文化とは言わない。

本来、主人公は社員一人一人であるのだから一人一人みんなが本気で自ら考えなければ会社は正しく運営していくことはできないというもの。

常に、自分が考えているのかどうか常に自問自答しそして自分はどうするのかを明確に持つことこそ動く前の準備であることを知るべきだと私は思う。

ルーティンワークこそ考えて動いているものとそうでないものは長い積み上げにおいて結果がまったく変わってくるから特に注意しなければならないと思う。

どの職場でも起きやすいことだろうけれど、私たちカグヤはそういう会社ではないので特に一人一人がやってから考えるようなことにならないよう、考えながら動くことを重んじていきたい。

思考の罠に気づき、すぐに自らを刷新してほしいと思う。

リラックス

力むということがある。力むというのは、どこかに力が入っていることを言う。体のどこかにいつも力が入っていれば、どこかに無理をしているのだから思うようにコントロールすることができなくなったりするものだ。

以前、中学で私はバレーボールでとてもサーブが上手だと言われていた頃、いつも自分の体の力が抜けて無駄な力が入らない状態で打つことでどの場所へもどの方向へも正確に打ち込むことができた。

これも同じく、完全に肩の力を抜いて信じきっている状態であり自分の体と心と技術を併せて安定させる方法がもっとも自分を発揮できると自覚した思い出がある。

いつも良い状態を維持するとは、いつでも肩の力を抜くことができることを言う。

もっとも自分を信じて最高の自分を発揮できるようにしておくことこそ、日頃の練習と鍛錬のなせる業であろうと私は思っている。

しかし病気などになると、日頃、無意識に力んでいる場所が体調の悪化によって力めなくなることでその部分がはっきりとむき出しになっていくのがわかることがある。

日々、忙しくしていればリラックスする暇を忘れて没頭してしまうもの。休息の取り方が正しくなければ疲れるのは当然ということになる。

どこか無理をしているというのは、どこかに力んでいるのであり無意識だけれど無理にでもそこを何とか強くしようとしているのだろうと思う。

そう考えてみると人は心も同じく弱い部分は意識の力で日頃は必死に守っているのであろうとも感じた。

体調を壊してみると、三位一体のバランスが同時に壊れるからその心の動きや体の動き、そして感情の動きなど非常に複雑な葛藤を体験することができる。

ほとんどがその弱さの部分であったり、強さの部分であったりを自覚するものでもある。その順序も、節々の痛みも、不安も、日頃よほど力んでいるのだということを正確に知ることができる。

人間は弱さを隠すというのは、強がりともいわれる。そして弱さをさらけ出すことを、強さともいう。

ここであるがままをさらけ出すといっても、それは単に脱力無気力とリラックスとは異なるのは当然だけれど、この強い弱いという話だけではなくそういうものが心技体においてすべて存在しているということがあることは確かだということはよく理解できた。

では、どうやったら病気にならないような身体にしておけるのか。

日頃から素直に、ありのままのものを受け容れ、力まず無理をせず、鍛錬を積み上げていくことであろうとも私は思う。

心が弱ると、他人の暖かさや真心が心に沁みる。体が弱ると、日頃健康である有難みが実感できる。そして感情が弱ると、なんでもない日々がなんと美しいことかと感謝の念にかられるもの。

そういう体験を通して、無駄な力を抜いていくことを学ぶのだろう。

リラックスとは大切なこと。

心を開き、素直に健やかに、毎日の生活を楽しんでいくスローな感性を養っていきたい。子ども達にも、時間や感情、社会の軋轢に疲れ切らないよう、肩の力を抜いて生きることを示せるような自分でありたい。

心壁

相手のことを思いやるとは、相手の立場でものが考えることができるということでもある。いつも自分のことで器をいっぱいにしていたら相手の立場になって考えることなど到底できはしない。

自分本位の人とは、いつも自分の感情が優先され素直になれないから感性が鈍り相手のことよりも自分の心の壁が壊せず苦しんでいるのだろうとも思う。

何とかしてあげたいと周りがいくら思っても、その心の壁が強固であるためなかなか人の話を聞きはしない。特に忙しくなったりすると自分の感情だけで自分を満たし客観的に自分を見れなくなり引きこもり自分勝手な行動をし周囲に迷惑をかけていくようになる。そうしているうちに次第に孤立してまた頑なになって壁は厚くなっていく。

次第にエスカレートしていく迷惑も周囲への甘えも周囲への依存もすべては素直でないから起きることであり、素直でないというのは相手の立場や相手の助言を素直に受け入れようとしないから悪循環するものであると思う。

こういうことを繰り返して麻痺してくると、一番怖いのは無意識に思いやりに欠ける自らの言動行為で人を深く傷つけてしまっていると感じなくなることであろうと思う。自分の大切な人や身近な友人たち、自分を心底心配してくれている大切な理解者をなくしていくのもこういうことをやっているからなのだろうと思う。

人の話を素直に聴けるというのは、自分の感情よりも相手がなぜそういうことを言ってくださるのかと相手の心に寄り添うことをいう。相手が困っているから何とかしてあげたいという心に対し、困っていることに助力を惜しまず支援して下さる有難い存在だと思うことが人の話をちゃんと聴いているということであるとも私は思う。

自然のことを感じるときも素直な感性がいる。

風を感じるのも、海を感じるのも、山も太陽も星星も、向こうをあるがままに感じるには素直な心が必要なように、そこに自分の心が相手に向かって開いていなければあるがままに受け入れることも受け取ることできはしない。

太陽の暖かさ、海の冷たさ、風の心地よさも、すべては素直に相手を感じることからはじめて受け取ったといえるのだ。それが自然体ということだ。

循環するというのは、その不自然な心の壁を取り除き心を開いていることをいい、自分の感情で自分の欲求を満たすのではなく相手の立場にたって相手を素直に受け入れることで自分の器を大きくしていくということなのだ。

拒否し拒絶し、外界を遮断することではなく、共感し受容し、内界を開いていくように人のことを自分のことのように、自分のことを人のことのように同時にしていくことをいうのだと私は思う。

弱い人がさらに弱い人を傷つけ、強い人がより強い人を傷つけるというのはおかしなことで、本来は弱い人はより弱い人を助け、強い人はより強い人を助けるという人を思いやる循環があれば人はみんな素直になっていくのではないかと思っている。

心の壁がある人に拒絶されることを恐れてはいけない。

それ以上に、素直でいることの素晴らしさ素直でいることの素敵さを感じて自分がすべてから見守られていることを感じることを大切にしていくのだと思う。

その心の壁は、相手はきっと困っているだろうと素直な感性を開き心配し、相手がどうしたらもっと自然に素直になれるかを考え、真心をもって自分から変わっていくことを大切にしていきたい。

相手にあわせて壁に対して壁で対抗するのではなくその人を尊重し自分自身は素直なままであるがままで自然のままに過ごしていきたい。私自身はいつものように一期一会を感じながら、奇跡の日々を楽しんでいきたい。

一人ではできない

人はなんでも自分ひとりの力でできると勘違いするものがある。特になんでも遣り切れず誰かのせいにして生きていると、これは自分ができたのに何かのせいでできなかったと言い訳をしていると自分ひとりではできないということに気づくこともない。

何でもそうだけれど、自分がその自分ひとりでできると勘違いし、自分ができないということを受け容れないと自分ひとりでやろうとしてしまい周囲に迷惑をかけてしまうものだと思う。

周囲に迷惑をかけないとは、自分一人ではできず周囲のお力をお借りしているから自分はできるのだと謙虚になることを言う。

周囲に迷惑をかけっぱなしになるのは、そういう謙虚さがないからであり自分が一人でやっているのだと勘違いしているからである。そういう人は自分ばかりで責任を負い、自分ひとりでやったのだと思いたいだけの自己満足の世界に浸ってしまうものもある。

若さというのは、自分はどこまで通用するのかを試したいし、自分の力をもっと伸ばしできることを増やしたいということもある。しかしある程度まで遣り切れば、どうもこの成果は自分が出したものではないのではないか、これはどうも何か周囲の不思議な力や人々の親切や協力の御蔭だったのではないかと気づくものである。

そうなれば、みなさんの御蔭なのだから自分がやったのではなく自分がやらせていただいたとなり役割というものを周囲と明確に持つことができる。その自覚をしたことを迷惑をかけないということであり、その先に自立と貢献というものがあるのだ。

よくなんでも自分が結果を負うばかりに、自分だけがそれを遣れば何とかなると視野狭窄になる人もいるけれどそれだって会社の経営資源を使われていただき、会社で留守を守る人がいて、会社を今まで助けてくださったお客様や先人たちまたはその周囲には銀行から顧問、国家に至るまで様々な方々のお力添えがあったから今自分がこういうことをさせていただくのだ。

それをまず自覚することがもっとも自然に理に適ってくるのだ。

自分の人生においてまで、自分がこれまで生きてこれたのはまず両親の御蔭、そして周囲の方々のご支援、学校、病院を含めた社会から国家、など当然そのお力をお借りして今は生きている。

そういうことを思わないというのは刷り込みであると私は思う。

まずは、心を周囲に開き周囲のお力添えにすべてを委ねていくことが協力を引き出すことであり自らも協力に参加していくことでそれが自然の共生である。

とにかく自分ひとりでできるという傲慢な考えをその間違いの刷り込みを捨て去らなければ、何をどう協力しようとしてもできはしない。どこかでそれを心で思っていたらやっぱり相手にやってあげたや自分はやっているなどとつまらない概念にさいなまれ人はそれを嫌悪するものである。

本当に偉大なことをしたいと思ったりすれば当然必要なことだし、人は自分だけの力では何もできないということを自覚すること。そしてどんな小さなこともすべては周囲の見守りの中でできているということを知り、自分の役割を果たすことに喜びを感じて繋がりを感じながら生きていくことが人生というもの。

一人でできるという刷り込みを捨て、最初からみんなの御蔭でできているとしそのお力をお借りするためにまずは自分からお手伝いをさせていただこうという謙虚な心でいることが自立したということだと気づくこと。

子ども達には、そういう自分勝手に生きることを大人が教えるのではなくみんなの御蔭で善かったねと声掛けをし一人ではないということ、いつも皆が見守っていることを伝えて安心できる社会を創造していきたい。

まだまだ刷り込みだらけのこの世界、自分のやるべきことは明確にある。

時点と時空

時というものを考えてみると、今という感覚をどう受け容れるかということにすべては繋がっている。

今の積み上げたものが未来となっているのだから今というものに真摯に生きていかなければ、過去や未来のために生きることはできない。

そう考えると、時と物語とはその時点を示すものでありすべては途切れず繋がっている道程なのだからその時々で過去の物語も塗り替えられると同時に、未来の物語も新しく塗り替えられていくということになる。

人間はつい、この今の時点や短期間だけを切り取って物語を作ってしまい、その時点時点でそれが最高だと勘違いしてしまうものだけれど、実際は幸不幸、最高最悪もすべてひっくるめた今こそが全体の一部だという感覚を忘れてしまうものだと思う。

そうしてしまうと、過去のある時点に戻ろうとしたり、未来のある時点に設定しそればかりに執着してしまうと今を感じるという感性や総合的に丸ごとあるがままにあるということが観えなくなるのだとも思う。

よく人はいつまでも昔のことを覚えていけないという、早く忘れるということは謙虚なことだということもある。また逆に、いつまでも未来のことばかりに囚われて執着してはいけない、足るを知り感謝をしていくことが大事なことだという言葉もある。

これはすべて今というものを受容して、今が調和していることを感じなさいという智恵のことをいうのだと思う。過去や未来は時点で区切ることはできても、今というものは区切れない。それは時が流れていて変化が已まないものであるからだ。

無為自然の境地とは、時点というものと時空というものを超えた空間の中にある感受性や神秘性の瞬間と永遠の狭間に存在しているものではないかとも思ってしまう。

植物でもそうだし、動物でも昆虫でもそう、生命が無限に循環する瞬間を感じているとそこに永遠性が見えてくるように自分の人生というものを時点で区切らずあるがままの今を受け入れれば自然であることがもっても価値のあるものではないかとも感じるものではないか。

いつまでも過去や未来にばかりとらわれず、本当の今をあるがままに受け容れて時を超越した今というものを味わいきっていきたい。

過去の亡霊や未来への妄想に苦しむことなく、今がもっともよいものとし関わった人たちやこれからの出来事を素直な心で受け容れていきたいと思う。

子ども達には、自らの体験を通して学んだすべてを受け容れるという本当の強さと優しさを示していきたい。

素心と迷惑

自分へ誠意や真心を持っている人でなければ、他人への誠意や真心を持てるはずがない。自分を騙している時点で、他人へ誠実であるというのは嘘になるからだ。

故事にもある「我が身に偽りある者は人の誠を疑う」というように、いつも自分を偽っている人は本当の人の真心を受け取れる準備ができていないとも言える。

だからこそ、本質的に自他というのは同質であり隠すことも誤魔化すこともできない。浅く短く広く付き合うにはいいけれど、長く深く厚く付き合えば必ずわかることでもある。

そして自分に潔癖というのも、他人にもそうしたくないから潔癖なのであることが多い。

たとえば、ある人が馬鹿にされているのを見るととても嫌な気持になる。本人は良いのだろうけれど、自分はそれをしたくないと思うからそういう話には付き合わないようにする。すると「何か自分は特別で汚れたくないのか」などと絡まれることはあるけれど、そうではなくて自分への誠実な心を守るためにできないだけである。

自分を大事にするというのは、自分の心を偽らないということでありそれは素心でいつもいるということでもある。他人と本音で話し合えるというのは当然、自分自身の心とも本音で語り合えるということでもある。

他人との対話がうまくいかないのは、自分の感情を偽ったり、抑え込んだり、抑圧したり、逃避したりとしているからできていないということがほとんどでもある。

人間関係は、特に自分本位でしか考えない人では円滑にコミュニケーションをはかったりすることができずにいつも問題を起こし周囲に迷惑をかけることがある。何でも自分の殻に閉じこもった判断をすると、近視眼的になり、さらには視野狭窄になり必ず周囲に迷惑をかけてしまう。

福沢諭吉に下記がある。

「自由と我儘との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。」
「行為する者にとって、行為せざる者は最も過酷な批判者である。」

これは、エゴで我儘を通す際は必ず自分以外の誰かに迷惑をかけてその人たちの自由を妨げているからおこるということである。自由とは、全体を優先しそのために自分から進んで協力を惜しまないことでより思いやりと調和を築き上げるいくことをいう。

また下段は、みんなで決めていることを実行しているものたちにとって最も邪魔をし反抗をし批判的であるのはそういうことを破り、いつまでもみんなで決めたことも実行しない思いやりに欠けた人をいうという意味になる。

つまりは、こうなってしまうと周囲の忠告には耳を傾けず自分を責めることや自分ばかりや、自分がやるべきなどとを繰り返し、一向に周囲に心を開かなくなる。

それでは、どうしようもないのがこの「人間関係」なのであると私は思う。良き友人も、兄弟も、家族も、師弟も上司部下も、築き上げることができないのだ。

人は決して一人では生きていけない、多くの人たちが全部存在しているから自分がいることができる。自分にとって都合の良い人たちだけが必要でそうでない人たちは不必要ということでもない。

だからこそ、「人に迷惑をかけてはいけない」と祖父や祖母からもよく言われたようなことができないといけないのだ。これは本当に大事な言葉だ。

自分はどうせ迷惑ものだからとふてくされているけれどそれは間違いで、すべての人たちはみんな違ってみんないいのであり、「神様が創ったものに不必要なものは一つもない」とも言うように、万物すべてが必要だからこそ、とにかく「迷惑をかけないような人になりなさい」と愛情深く私たちを丸ごと包んでくれている存在を感じることができたのだと私は思う。

人は、子どものような素直な心、素の心のままに、自他に誠意がなければ周囲との関係がおかしくなってしまう。自分の心に誠実であれば素直でいられる、そしてそれだけをしっかりやっていたら周囲に自分に指摘をしてくれる優しい仲間や有難い恩師が現れいつも正しい方へと導いてくれる。

だからこそ、心はいつも素のままで清らかに澄ませているために自他を思いやり誠実に周囲へ心を開いたままにしていることだと私は思う。それは、他人に迷惑をかけないような人になりなさいという思いやりのある言葉で語り継がれていくようなもの。

今の時代は、間違った個人主義や画一教育の弊害もあるのでより苦しんでいる個人がたくさんいる。私たちは社業を通して今の時代の大人としての実践を大事にしていきたい。

カグヤでは、これからも子どものたちのために誠意や信頼の基盤を優先し変化を楽しんでいきたい。

温故知新

以前、長野県の善光寺に参拝した際にお戒壇巡りというものを体験したことがある。その道すがら暗闇の中で本物の秘仏を自覚し、秘仏に出会うという言い伝えがあるようにとても荘厳な雰囲気を味わうことができる。

人は、五感というものを通して様々な物事を自覚し感受し物事を善く観ることができるようになる。一概に言葉や目でばかりを追っていかなくても、自然に心を研ぎ澄ましていけば離れていてもその様相を感じることはできるのだと思う。

感情と言うものがあり、人はその感情があるから判断を迷うことが多い。

義理と人情や論語と算盤ではないけれど、どちらだけでは生きられず、様々な矛盾を受容しつつ、本物の境地や本質でいるには日々の修養と精進の為せるわざであると知りつつも喧騒に流されるままに何もできずに煩悶することがとても多い。

この暗闇というものは、主に目に観えない世界を言う。

その戒壇でも、漆黒の闇の中、最初に目を開いていると次第に闇が深くなっていく恐怖に心が奪われる。そこで開き直り、目を閉じてそれ以外の感覚に身体をあわせていけば次第に心が研ぎ澄まされてくる。指先や肌、そして小さな音、空気の様子や香りなど、次第に心が自由になっていくのを感じる。

そして始めも終わりもなく、ただ闇だけがあることに不思議な安心感を覚えてくる。私はせっかちだから、早く早くと思うのだけれど一度闇を受け容れればそんなに早くとは思わず静寂にいることの心地よさなども感じることができた。

とても長いようで短く、浅いようで深いその漆黒の闇は、様々な心に捉えている出来事を走馬灯のように蘇らせてくる。色々なことを考えていることから、心が虚空ではなくなりざわついているから他の感覚が鈍くなっていく。

瞑想することも、静かに自らを内省することも、それは感覚を研ぎ澄まし、広大で深遠な自分というものに帰りそこから本質を捉えていくということであるのだと思う。

長い歴史が在る中で、人々がこの仏に出会いたいという切なる思いを大事にしてきたことがこの御寺が多くの人々に深く愛され続ける由縁であろうと実感することができた。

こういうことを、様々な体験を通じて仕組化し人々に思い出させていくというのも今の時代では切に求められてくるのかもしれないと私は感じている。

今、カグヤでは様々な研修を通して、もっと子どものことを思い出し、子どもの心に回帰していく取り組みをコンサルティングを通して行っている。そしてそこにはどうしても目には観えないものを伝えていくことも必要になってくる。

そのためには変だと人に言われても、独自の表現を使い伝えていく必要がある。余裕やゆとりでもそうだし、共感や尊重なども口で言って分かるものではない。そしてそれは単にテクニックでできるものでもない。

昔あったものを新しいものに変える温故知新は、決して単に今の時代にあわせて新しくすればいいというのではなく、古きものの中に味わい深くある最先端のものを、今の時代の最先端のものとお見合いさせ、その両方の価値ある部分を重ね合わせて刷新するということが必要なのだと思う。

つまり、古いものはそのままに探究し極め玩味し、新しいものもそのままに探究し玩味する。つまりは、同時に古新の最先端を追い究め尽くすことこそが温故知新ではないのかと私は感じた。

偏って一方だけの観点からでは本当のことは分かりはしない、その時代、その時代に生きてきたものが其処に在る。だからこそ、今の時代、そしてこれからの時代に生きているものがその両方を究め、そこに真の文化を継承していくことが本筋の道であると思う。

心が荒廃する時代は、仏教や神道、儒教、そして欧米の知識やIT技術、さらにはマネージメントや科学などをすべて融合した新たなツールが必要とされていく。

私は私の立っている場所から、その方法を編み出し、子どもたちが安心して暮らせる未来と社会の礎を用意したいと思っている。カグヤのツール全てはそこから発案されているといっても過言ではない。

私にとっての一つのこととは、そういうものを大和魂で生み出していくこと。そこには人や物など全ては不問であり、ありとあらゆる自然の根源的な部分を具備したものであるべきままにあるがままにとしていかなければならない。

これからも、子どもという神秘な存在に寄り添っていくのだから私たちは社業を通じた実体験と実践を以て未来の子どもたちとともに温故知新の道楽を究めていきたい。

病気

今、風邪をひいていて長引いているのでせっかくの機会なので周囲の方々のこともあるのでこの病気ということの本質を考えてみることにする。

病気とは気が病むと書いて病気と書く。

もともとこの気というものは、流れているものであるし陰陽無双原理ではないけれどそもそもこの自然界は全てに水に然り、風に然り、気温に然り、万物全てが調和の中で躍動し流れて止まらないという性質を持っている。

その気が何かによって滞ることにより、そこに沈殿したり累積したものが溜まってしまいそれが凝り固まってくるからそれをまた元通りに流そうとして病気になるのだとも思う。

どこかに無理をしているものを治そうするために病気は起こる。
そしてそのプロセスを経ているうちに調和を探していこうとする。

私の場合などは、気が前に出過ぎていて無理をするので余計に長引いてしまうのだろう。色々な意味の中で、どうやったら無理のない休みが取れるのかと言うのは私の場合は責任感と真面目さ、潔癖さもあるので本当に難しい。

ともかく病気は現代人とこの不調和に偏る世界に於いて自然現象であるからして、これを自然治癒するとは陰陽の大極にてバランスを取っていくことを言う。

そうやって心も体もそして気の流れも時代時代にあわせて、どのように自分を運ぶのか合わせるのかがその時々の自らの在りようであり生き方なのだと思う。

科学的には日々の生活の中で私たちは自律神経により統合され、その中でも大きく二つの司令塔である交感神経や副交感神経というものがあると言われている。

まず交感神経は、昼の神経と呼ばれ起きているときやハードに働いている際にに頭で全体を管理し自らを周囲に順応させていこうとする理性の力、そして副交感神経は夜の神経と呼ばれ寝ている時やリラックスする際にも全体を管理し自ずから周囲に順応させていこうとする本能の力とでもいうのだろうか。

人はその理性と本能の境目にあわせながら周囲の変化に対して自らの身体やその心を調整することで、自分と言うものを環境に順応させていくのだと思う。つまりは環境や周囲の中で生きていて生かされるから自律する必要がある。

これが自律していないとなっていると、チームワークでもそうだけれど無茶苦茶になりバランスも取れず病巣に悪玉菌やウィルスなどが溜まっていき、身体では癌などになってしまう。体内も体外での出来事も本質的には同じで、病気にもならないような人というのはどこかバランスが壊れていて危険な状況になりやすいというのはそういうことも言える。

そしてこれは個々だけの問題だけではなく例えば世の中も閉塞感の時代は、「楽しむや遊ぼう」などの言葉が主流になり、逆に世の中が開放的になると「真剣にや本気で」などという言葉も出てくる。

これは世間の風潮に心を順応させていこうとするバランスを保とうとする一つのニーズを捉えている方法だとも思う。しかしそれも時代時代に於いて、気の流れによって全体と調和するためにそれは変わっていくのものだ。

しかし本質や大極を観れば、いつの時代もそれと調和するには偏らず柔らか素直に受け容れるということだと思う。素直にいるということは大切なことだというのはここでもいえる。

すべての出来事を受容するというのは、本当に難しいバランスの布置点であり純粋であることが必要になる。天真一体でいるとはその点より新しい世界へ転換していくことをその都度行っているということであり心と頭との転換があり、心が頭になり、頭が心になるという、中庸の流れと一体となった場所に自分をそのまま据え置きゆらゆらとしていることが必要になる。

そういうゆらゆらするには、竹のように根はしっかりとはりつつ、風に吹かれても元通りというような、しなやかな生き方が必要なのだとも思う。

カグヤでは竹をモチーフに、ロゴマークを展開しているけれどこのようなしなやかさとタフさ、そのバランスの素晴らしさに感動したものからでもある。

この辺で今回はまとめるけれど、病気の時こそよく自分のことが客観視することができる。無理をすることも無理をしないこともなく、健やかにしなやかに流されるけれど流されずいつも元通りというバランスを保つような心と体のことを覚えていきたい。

大切な子どもたちを見守るれるように、私はこれからも強くて優しい竹のような生き方をしていきたい。

平安

吉田松陰の弟子に久坂玄瑞がある。

京都の禁門の変で自刃してこの世を去った志士の一人だけれど、その周囲を慮り、一途に決心したことを貫く生き方にはとても共感できる。

松蔭がその玄瑞の人柄をこう解釈する。

「実甫(玄瑞)は高らかに非ず。且つ切直に逼り、度量窄し。然れども自ずから人に愛せらるるは、潔烈の操、これを行るに美才を以ってし、且つ頑質なきが故なり」

これは私なりの解説になるけれど、皆とともにいても何か驕るわけでもなく、また何かあるとそれはいけないとしあまり周りに寛容な感じではない。しかし、人からとても愛され慕われるのはその自らを奮い立たせて立志立命しようとする潔い信念と、これを実行するのにとても叶う力量を持ち合わせ、さらに柔軟性をあわせもっているからだという。

吉田松陰の末妹と結婚し、師匠亡きあと、高杉晋作とともに師の志を引き継ぎ、国のために、過去の私たちの民族の未来のために、今に生き切った生涯を歩んでいく。

人は色々な人たちの遺志を受け継ぐことで、自分を超えて真の意志を持てる人物に変貌していく。その真心を正しく受け取るためには、その魂に心底共感し素直に純粋に師の言うことに感激したことで自分が変わっていくことを実感するものだけが身を捨ててでもというあの境地に出逢えるのだろうと思う。

その瞬間がいつなのかは、その人たちの死生観によりものだけれどそれは天が決めることなのだから人はやはり生きているのならば何よりも日々を真摯に生きることなのだろうと思う。

その久坂玄瑞が、あの坂本竜馬を決意させ、高杉晋作を動かし、さらには西郷隆盛を感動せしめたのだからやはり意志を継いだ者たちの命懸けの志が時代を揺り動かしたのだと思う。

結果だけを観れば、成功した人たちが何か事を為したように言われるけれど実際に事を為すには暗闇の中で光る星星の姿を感じることによる。

あの空に、満天の星空が見え、月が照らし、雲がなびく。
そして、宇宙の風が吹いてきて、海原の彼方から暁の空がまた出でてくる。

そうやって日夜私たちは時代の変わり目に美しく透明な世界を感じることができることが、記憶として今の自分たちを躍動する生命へ駆り立ててくる。

あの移り変わりの寂しさや哀しさ、そして愛しさや悲しさになぜ生き物は感動するのかはそこに何か透明な心が映し出されるからではないかといつも思う。

暁の空に観えるのは、悠久に光輝き終わることがない命の道標。

時はまだまだ来ないけれど、実践は已むことは知らない。

最後にこの久坂玄瑞が20歳の頃、自分を戒め啓発するために書いている言葉を紹介する。

「自分は意志が弱く、何かことをなすような人間ではない。
 しかしそこで自分を駄目だと思ってあえて何もしなければ、
 すなわちできることもできなくなってしまう。
 一時の平安に身を任せることを日また一日と重ねれば、
 ついには畳の上で老死するだけである。」

ここでの若き玄瑞の平安とは、甘えた心のままに日ごとに流され受身になることを言うのであり、そういうではなく甘えを断ち切り主体的に命を立てて尽力していくのだという発奮であると思う。

本当の平安とは、万物一体になりその天地創造の心と繋がり人として怠らず真摯に勤めることを言う。これはまさにこの時代の学問の主柱にあった朱熹にある、「少年易老学難成、一寸光陰不可軽」の心境でもある。

私自身、焦る心と憤る義にまだまだ真の平安までは程遠く、思えば思うほどにその師の背中と足跡から学びその脚下の実践を怠らず歩もうと誓う。

暗黙の了解という無責任

昨日、岩手県からとある法人で抱えている職場の環境や人生のことについてなどを相談をしに来社された。

通常は、こういう相談は自分の本来やるべき使命を優先して調整したりしないのだけれど今回の課題が理念についてなどやマネジメント、その他、変化、改革についてなどであったこととその熱意に感動しお会いすることにした。

そこでの、問題は本質的には自分の在り方が重要で環境に左右されずに本当に自分がやりたいことを決めることであり、その決めたことを実践することにより提案し感化していくしか周囲も含め変える方法はないのだけれど、それまでに出来上がった集団的無責任の職場環境が保守的であり大変なことになっているのもあった。

もともとなぜ集団的無責任になるかというと、そこに暗黙の了解というものがある。誰も何もしないことが守ることであり、皆が何もしなければ誰かがやってくれると盲目に信じることにこそ守れると勘違いしているということ。

無責任であるとは、自分が持ってしまうことで失敗するのではないか、自分がやってしまうことが周りの迷惑になるのではないか、自分が自分のせいにしてしまったら最終的には守れないのではないかという思考回路であるのだと思う。

何かのことを誰か任せにするというのは、自分の人生を自分で決めないことでもあるだけではなく、協力しあって自分から主体的にやろうとはしないという決定を自分がしているということになる。

最終的には強烈なリーダーに頼もうという他人本位の考え方であり、自分たち一人一人が守なければと思わず、カリスマ的なリーダーの登場ばかりを望む依頼信や依存心のことである。

平均的にはこういう職場は公の仕事をしている人やサラリーマンに多いのだけれど、部署も変わるし、町長も変わる、みんな移動するのだから最期まで責任を持てないのだから先述したリーダーに周囲に仕向けられないように自分という私をどれだけ入れずに要求をするかに躍起になるのが仕事になっている人がいる。

そういう組織は向上心で責任を持つことをとても怖がる傾向がある。もしもリーダーになったら自分の無責任と同じくしていた周囲の集団的無責任のすべての負担を背負わされると思うからかもしれない。

しかし本来、何かやりたいことに皆で力をあわせて協力するとは、自分がどうしたいか自分が自分の意志でその目的や理念に「責任を持って参画する」ことであり、自分がその一部を担い背負うことではじまっていくのだと思う。

それぞれがそういう責任を自覚し正しく担うことが、皆の負担を取り除くことであり、自分が決めて自分が行うことでやり遂げるという意志自体が集団に対して提案していることであると思う。

これが単なるクレームや、何もしないということや、日和見や受身になるとそれ自体は提案でもなく単なる言い訳か周囲への自分勝手な要求となる。

自分で決めないということは何もしないよりも悪いということ。

流されるというのは、誰かにひっついていくということであり、自分の足で着いていくとはいかないからだ。人は自分の足で立たないといけない、自分の心で取り組まないといけないのだ。

最終的には、その方も自分で決めてやり切ると決めて郷里に戻られた。

自分が誰にも左右されずに、自分で決めるから人は柔軟性を持つことができる。素直になって正直になるにも、周囲のせいにすることもできず、自らの天命を信じて自分のやりたいことに必死に誠を貫けばそこに道が開けると思います。善いチームもそこから生まれてくると私も信じています。

そしてそういう集団的無責任の人たちは自信のなさや自己肯定感の低さからくるものであったり、数々のトラウマや不一致、刷り込みやしがらみの中で立場立場で自分を押し殺して無理をして辛い思いをしているものです。

しかし、大事なのは自分はどうあるべきかということであり、素直に純粋に大切にしたいことを自分が決めて実践していけば必ず周囲は変わっていくと思うし、その刹那、自分も変わっていると思います。

離れていますが、志を高く持ち、大義に行動することに勇気を頂きました。
お互いに立志天命を信じて、日々を大切に過ごしていくことだと思います。

今後の発展と初志貫徹を祈念しています。