一日一善~開墾と播種~

人は誰しも人生の中で自分との仕合を続けていくものです。

それは単なる競争の勝ち負けではなく、自分自身に克つかどうかを行っているものです。自分の克った結果として事物は顕正してきますから常に真実は自分に正直であったということです。

では具体的に己に克つとはどういうことをいうのか、そして礼に復えるというどういうことか、それを二宮尊徳が分かりやすい例えで自らの実践を説いている文章があります。

「孔子曰く。己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰すと。私欲身より生ずる。之を己という。猶ほ蔓草田畝に生ずるごとく也。力を極め私欲を圧倒す。之を克と謂う。猶ほ角力勝を制するごとく也。之を開墾に譬う。己に克つは、闢荒也。礼に復るは、播種也。天下は広く之を言ふのみ。猶ほ闔荒と言うごとく也。仁に帰すとは、闔郊皆秀実穀粟と為るを言ふ也。」

(意訳ですが、孔子は言っている、「己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す」と。常に私欲は自分自身から生ずるもの。これを「己」という。たとえばつる草が田んぼに生じ覆いかぶさるようなものだ。それを自らの力を極めてその力をもって私欲を圧倒する。これを「克つ」という。たとえば相撲のように自らを自分自身で心身一如に修めることで制し「克つ」というのと同じようなものだ。これを私なりに農の開墾に例えてみよう。つまり「己に克つ」とは、ひどい荒地を必死に開くことだ。「礼に復る」というのは、そこに根気強く丹誠を籠めて種をまくことだ。「天下」は広い世の中に対してということを言っているだけである。それはありとあらゆる荒地に対してと言うようなものだ。「仁に帰す」とは、まるであたり一面に豊穣の穀物が皆よく実っているということを言うのだ。)

自分から常に道を切り開きそして幸せの種を蒔く。これは私の仕事でいえば、自分から進んで社會のために荒れた人々の心の救済や、子どもたちのためにと人々の力になり、そして自分の信じている世界や信じた理念の種(商品等)を一粒一粒丹誠を籠めつつ拡げていくということに他なりません。

自ら開墾もせず種も蒔かなかったらそれは己に負けて礼を失したということになるのでしょう。常に思いやりを優先する実践とは、「開墾と播種」ということに他なりません。世の中に対して自らが行動してこそはじめて思いやりに満ちた世の中にしていくことができるのでしょう。

世の中が荒れているからと荒れたせいにし自分は何も動こうとはせずに言い訳ばかりをし、種も蒔こうとはせずに家の中に置きっぱなしにしていたら目の前の荒れ地はもっと荒れ果てていくだけでしょう。人道というものは、自らがせっせと草取りや草刈りをし、自分の中に生え続ける私欲を同じように取り除き続けて、常に刻苦勉励、人々のために労苦を惜しまずに頼られ力になっていくことを言うのでしょう。

人生は、常に自分の仕合をしたかどうか、自分の仕合ができたかどうかが勝敗を決めます。自分の仕合とは生き方のことですから、今日一日、どんな生き方であったかを振り返ることしかできません。

自己管理というものの本質は、己を出し惜しみなく出し切っているか、そして真心を籠めて誠実に遣り切っているか、自分の志に恥じないような人生であるかと自問自答の対話を続けていくということなのかもしれません。

一流というのは条件に左右されずに、常に一に止まることができます。一流の仕事とは何か、それは常に自ら切り開き自ら種を蒔き続けている人物の仕業ということなのでしょう。

常に「開墾と播種」、つまりは業を営む実践を行うことが克己復礼なのだということを忘れずに一日一善につとめていきたいと思います。

 

 

 

 

本物の実践

「本物は続く、続けると本物になる」は、東井義雄さんの遺した言葉です。

実践をしていく中で何度も励まされる言葉です。

人は初心を忘れたり、日々に向き合わずに内省を怠るとすぐに流されて実践が甘くなっていくものです。自分の遣りたいことや好きなことを遣っているはずですが心がついてこず、頭でっかちにやった気になればそのうちルーティン化した業務のように実践を勘違いしてしまいます。

本来は何のためにそれをやるのか、何のために働くのかを決心していたはずのものが覚悟が定まらず迷走しまた流されるというようにブレナイ自分を練磨研鑽するには長い年月がかかるものです。

しかしそれでも続けていれば、次第に何かの機会を切っ掛けに質が高まり心が着いてくるように思います。心が育ってくればくるほどに様々なところが削り取られていき円みを帯びてきます。実践とは実績のことですからやればやるほどに積み上がった経歴や経過が今の自分を存在させますから毎日は死して後已むまでずっと真剣勝負だということです。

そして実践の心を伝える東井義雄さんの「小さな勇気」という詩があります。

「人生の大嵐がやってきたとき

それがへっちゃらで乗り越えられるような
大きな勇気もほしいにはほしいが
わたしは小さな勇気こそほしい

わたしの大切な仕事を後回しにさせ
忘れようとさせる小悪魔が
テレビのスリルドラマや漫画に化けてわたしを誘惑するとき
すぐそれをやっつけてしまうくらいの
小さな勇気でいいからわたしはそれがほしい

もう五分くらい寝ていたっていいじゃないか
けさは寒いんだよとあたたかい寝床の中から
ささやきかける小さな悪魔を
すぐやっつけてしまえるくらいの
小さな勇気こそほしい

明日があるじゃないか
明日やればいいじゃないか 今夜はもう寝ろよと
机の下から呼びかける小さな悪魔を
すぐやっつけてしまえるくらいの
小さな勇気こそほしい

紙くずが落ちているのを見つけたとき
気がつかなかったふりをしてさっさと行ってしまえよ
かぜひきの鼻紙かもしれないよ
不潔じゃないかと呼びかける
小さな悪魔をすぐやっつけてしまうくらいの
小さな勇気こそわたしはほしい

どんな苦難も乗りきれる
大きい勇気もほしいにはほしいが
まいにち小出しに使える小さい勇気でいいから
わたしはそれがたくさんほしい
それにそういう小さい勇気を軽蔑していたのでは
いざというときの大きな勇気も
つかめないのではないだろうか 」

自分を変えていくということは、自分の全身全霊を発揮していくことです。本当の自分らしさというものは、全身全霊で自分を誰かの為にと真心で生き切り遣りきるときに自ずから自然に出てくるものです。

あの植物や動物、虫にいたるまで自分で計算して自分らしさのだし引きをするものはありません。人間は甘い環境の中で自分を甘えさせられることができる生き物ですから、あの野生の動植物のようにそのものらしくはなくなってきています。

そんな時こそ小さな勇気が必要ではないかと私は思うのです。

日々の実践というものは、頭で行うものではなく行動で示すものです。行動は頭よりも先に動きますから心が先に動いてきます。心が動き頭が着いてくればそれはもう実践がものになってきている証拠なのです。頭ばかりが先に動いて心が亡くなってしまうような人生はまるで道に入って道を歩かないような虚しいものです。

「本物は生きるのを已めない、活き続ければ本物になる。」

一度しかない人生なのだから自分と向き合い、自分を高めていくのが人生の醍醐味なのかもしれません。色々と誘惑や欲が多いのはどの時代でも同じようです。その自分の誘惑や欲の種類は人それぞれに異なりますが、小さな勇気を発揮してそれを凌駕するような本物の勇気の心、本物の実践を積み上げていきたいと思います。

樹霊~偉大イチョウ~

樹霊を深めていく中で、種の不思議な力を再発見します。

世界には巨樹というものがたくさんあります。それは数百年から数千年をかけて、長い年月で育ち存在する木々たちです。あらゆる時代の風雪に耐え、あらゆる困難を乗り越えて大地に根をはりその土地を見守りつづけています。

先日、樹齢200年の銀杏の巨樹を眺めていたらその前で頭を下げて通り過ぎる人たちを見かけます。人間は、御蔭様に気づくとき何があるのかわからないけれどいつも見守ってくださっている存在に御礼や感謝をしたくなるのかもしれません。

ただ立っている木にどうしても頭を下げたくなるのは、そこに棲む鎮守の使命感に感謝の心が感応しているのかもしれません。

私はこう思うのです。

一番最初にその種を蒔いた人がいたこと。その人がどのような願いを籠めてその種を蒔いたのか、そして稚樹から育て花をつけ実り、それを毎年毎年繰り返し見守っていく中でその樹は見守る存在になったのではないかと。

巨樹というのは、それだけ長い時間、人々の願いや祈りを共にしてきた存在なのです。

あの巨樹も一番最初は小さな種からはじまり、それがあれだけの偉大な存在になっていく、そこに願いに生きること、祈りを信じることの大切さを伝えている気がするのです。私の願いもあの大イチョウのように人間を信じたいと思うのです。

そのことからその大イチョウの種を分けていただき今では私の傍で芽生えてくれています。その幼い姿に自分の境遇を感じて、心を励ましてくれています。樹霊のはじまりは、その種に気づくということなのでしょう。

最後に私の好きな先生の一人、東井義雄さんの「大イチョウ」の詩があります。

「校庭の、天にそびえる大いちょうも、昔は一粒のいちょうの実だったんだ。一粒のいちょうの実に、あんなにすばらしい大いちょうになる力がかくれていたんだ。君の、あなたの体の中にも、すばらしい未来をつくる、不思議な力がこもっているんだよ。それらが、芽が出たい、芽が出たいとウズウズしているんだ。めでたい、めでたいと叫んでいるんだよ。今年は、その芽をぞんぶんに伸ばしてみせる年にしようではないか。さあ、どんなすばらしい芽を出させてみせてくれるか、楽しみでしょうがない」

これは子どもたちにお年玉としてイチョウの種に顔を書き、その中に添えた手紙の抜粋ですが今ではその種が樹霊となり偉大なイチョウになってこの国のあちこちに芽生えてきています。

私の信念も理念もまだまだヨチヨチ歩きの幼児のようですが、その心には人間を深く愛する真心があります。いつの日か、長い年月を耐えうるような根を持ちたいと願い日々に向き合うのみです。

『子どもから おとなが生まれる 子どもから 新しい日本が生まれる 子どもから 新しい世界が生まれる 子どもこそ おとなの父』(東井義雄)

世界の巨樹は必ずたくさんのいのち、子どもたちの未来を見守り続けてくれています。どんなに他人が自分を分かってもらえなくても気にせずに子ども第一主義を信じて一歩一歩の道を前進していきたいと思います。

 

樹霊から思うこと~祈りに生きる~

樹霊という言葉があります。

これは大辞林には「老木に宿っている霊」と書かれていますが、数百年から数千年の老木には霊が宿っているような様子があり、神道では神の依代として崇められてきました。それを樹霊があると呼んだのでしょう。

先日から樹木について深めていますが、銀杏の巨樹の新芽を見守りつつ学び直しています。

以前、宮大工の西岡常一さんの著書や映像の中で法隆寺の木について語る場面がありました。千年生きた木だからこそ千年の建物ができる、千年の木には千年の釘がいるといって和釘の重要性を説いていました。

その際、千年生きた木には何か千年生きた霊が宿っているのではないかと直感したのを覚えています。それは木に限らず、石なども同じです。以前、偶然に拾った石英の石を鑑定していただいときにここまでくるのに1億年といわれました。そこには1億年の石霊が宿っているように私には実感して感動したのを覚えています。

人間はこれらの長い年月の霊と寄り添うときにだけ、永続してきた今を実感できるように思えます。

今の時代はそういう長い年月の霊を大切にせずに、現代文明の知識の方がさも優っているかのように軽々しく破壊していきます。宿っているものの価値を感じず、ただの物体としてしか感じられなくなっているところにいのちを感じる感度も、それを見守り大切に伝承していこうとする民度も喪失してきたように思えます。

司馬遼太郎が「樹霊」という著書の中でこう語ります。

「人間の暮らしから樹霊の連り添いと樹霊への崇敬の心をうしなったときに、人間の精神がいかに荒涼としてくるかをうすうす気づいて、おびえるような気持でいる」

人間以外の生き物がいないと思い違いをし、人間だけが生きているのだと周りの生き物をエサかのようにいのちを蔑ろにし、それだけ生きながらえようとすることへの気持ち悪さ。いのちをいただくのではなく単なる食べ物、感謝で大切にするのではなく単なる道具と化していく心の貧しさを実感するのです。

人間は人間だけで生きるものではなく、色々な生き物の中に人間がいるだけです。心が亡くなってくれば人は、そこに宿る霊を感じることもできなくなるのかもしれません。

伝承してきたものは実はそのものに宿った霊(魂)こそにあるのかもしれません。八百万の神々という思想は、心が優しく思いやりに満ちた社會を存続していくための先人の智慧の結晶だったのでしょう。

子どもたちに遺した先人の思いやりや願いは今を生きる私たちの実践する姿の中に宿っています。いつまでもその霊魂を感じられ、霊魂を入れられる祈りを大切にした生き方をこれからも選んでいきたいと思います。

 

伝導士~道を切り拓く~

昨日、ある保育園で新理念研修を行いました。

この園は、すでに12代園長が交代し脈々と歴史を積み重ねた上に今の姿があります。その今をもう一度、再確認し味わうことで私たちにとっても理念を新たに学び直す善い機会になりました。

そもそも時間や歴史というものは、地球の土の層が積み上げられていくようなものです。氷河期には氷河期、温暖期には温暖期、それ以外にも様々なその時代の背景によってその土も異なってきます。しかし今があるのは、それまでに積み重ねてきた歴史があるからこそ今はその上に成り立っているのです。

以前、樹木の生態系のお話をお聴きした際に「今の樹木は4億年の自然淘汰の結晶で成り立っている、今の森の姿は4億年の積み重ねの上で出来上がってきた森なのです」ということを知りました。

これを同じく、私たちの今の姿も先祖代々から積み重ねてきたいのちの歩みが成し遂げた発達なのです。

そしてそれは「道」であるように私は思います。

どのような足跡を遺してきたか、どのような歩み方をしてきたかは振り返ればそこに確かに遺っているのです。いい加減なことはできず、自分がちゃんと歩んだかどうかは子孫や後人を歩む人たちの心に刻まれていくのです。

そしてそれが文化というものです。

この文化は、一緒に歩んだ軌跡なのです。ここまで連れてきてもらった、ここまで来れた、それは一緒に歩んだ人たちの努力の御蔭でしかありません。一人ではここまでこられなかったものが、たくさんの人たちの協力や支援の御蔭で今があるのです。

道を切り拓くというものは、自分の足で歩むということです。どんなにそれが茨の道であったとしても、それがどんなに厳しい道であったとしても、一緒に歩んでいくからこそ愉しい道になっていくように思います。

道を味わい、道を噛締め、道を活かす。

そういうものをみんなで一緒に確かめることが理念研修の本質なのです。今の時代は、スピードがあがり早く早くと結果ばかりを求めようとします。そういう教育を施されれば道を切り拓く大変さよりも簡単便利に手に入る結果に一喜一憂したくなるのかもしれません。

しかし人生は脈々と文化を継承し、子子孫孫、子どもたちがそのあとを歩んでくるのです。だからこそ自分たちの責任を自覚し、自分たちがどのように歩んだかを遺すのかが今の時代を生きる私たちの使命なのです。

責任を果たすというのは、使命を果たすということです。そして使命を果たすというのは、自分自身を精いっぱい生き切るということです。そして生き切るとは道を切り拓いていくことなのです。その生き方が子どもを信じ見守る先導、つまり伝導士なのです。

一緒に歩む仲間がいるだけで道を歩む愉しみが倍増します。これから新しく歩む道の先がワクワクします。引き続き、切磋琢磨しながら研鑽に励み、道を先導できるよう精進していきたいと思います。

いのちをありがたく活かします~感謝の心~

感謝というものを思うとき、いつもいただいてばかりで申し訳ない気持ちになります。

誰かの為にと思いやり、自分の使命に従って行動しているだけですがそれがまるでやっているとは思わずにどうしてもやらせていただけていることに気づくのです。

それはまるごとのことであり、やらせていただける上にさらに費用をいただき機会をいただき、ご縁をいただき、学びをいただき、感動をいただき、そして感謝をいただけるのです。

こんなにいただいてばかりで大丈夫かと心配になるくらいに御蔭様をいただいている自分に驚くのです。そう考えていると世の中のすべてのものは、「いただきもの」であることに気づきます。

いただいたものを感じるとき、同時に「活かされている」ということにも気づきます。

活かされているのだからもっと周囲を活かしていきたい、感謝しているのだから感謝を返したいと思えるのです。自分がいただいていると思えば思うほどに、何かに御恩返しをしなければという気持ちになっていきます。

そしてそれは直接では返せず、なんとも申し訳ない気持ちになりますからその分は精いっぱい自分を生き切ることで皆様にお返ししたいと願うようになるのです。

豊かさというものは、器量や財力、能力や容姿などを言うのではないと思います。真の豊かさというものは、「いつもいただいているのだからありがとうございます」と感謝を実感できる人がもっとも心の豊かさに活かされるように思います。

いただいた機会に感謝しているか、いただいているご縁に感謝しているか、いただいている存在に感謝しているか、そしてそのすべてまるごとの見守りにありがとうございますと生活できているか、ここでの生活とは全身全霊で生き切っているかという自問自答のことです。

何かされた分だけをやるとか、何かいわれたことだけをやるなんていうのはそこに貧しさがあるように思います。言われていないことができるのも、言われたこと以上をできるのも、そこに確かな豊かさを還元しようとする生き方が存在しているように思います。感謝の言葉であるいただきますというものの本質は「もったいなくいただいたこのいのちを有難く活かします」ということなのでしょう。

「自他を活かすというのは、全身全霊で自分を生き切るということでそれが感謝なのです。」

目には観えませんが確かに存在している感謝の心を、自分の生き方を通して世界へ御恩返ししていけるよう日々の一期一会を噛締めながら自分にしかできないかんながらの道を歩んでいきたいと思います。

悔しさの本質

昔から悔しい体験が人を成長させる、悔しさをバネに人は伸びると言われます。

この悔しさを実感したことのない人は吸収していくことができません。学び方というのは学校でただ知識を吸収していくような本だけを読めばいいという勉強だけで成長したとは言えません。確かな体験を自分で経験に昇華しつつ、それを心技体に刻んでいくかのように実力をつけていくのです。

実力というのは、どれだけ結果がでるものばかりを選ぶのではなく結果がでないような難しいことに挑戦しているかが関係しますから大した努力もなしに実力が具わることということはないのです。

話を戻せばこの悔しい体験とは何かということです。

これは一言でいえば、「楽をしない」ということです。人間は自分にとって楽を選べばその時点で自分に負けてしまいます。楽を選ぶ人は悔しがるわけではなく、周りの同情をあつめたり、甘えてばかりで自分の力のなさを嘆くばかりで努力をすることはありません。どうしてもやる気がでないとかやりたいとは思わないとかに陥りますがこれは自分が楽を選んでいる証拠なのです。

人間は楽を選べば悔しくなく、苦しいほうを選ぶから悔しいのです。

その苦しみというものは、大変だと分かっていてもそれでも自分に負けたくないと挑戦するから悔しいのです。「たら、れば」という言い訳を排除し、何がなんでも実力をつけたいとプロとして謙虚に学ぶからこそさらに自分の人格を高め、人間としての成長があるのです。

成長するには苦しい体験、つらい体験、苦々しい思いをたくさんして伸びていきます。甘えて楽して簡単便利に手に入るような結果ばかりを追っていたらそのうち自己嫌悪になり湿った木炭のようになっていきます。

植物の世界であっても、根が張るのはもっとも苦しい時です。いつも水を与えて湿りきっていたら根腐れして枯れるのが自然の道理です。根腐れしないコツは吸収したいと強く願うことです、いいかえれば成長したいと願うことです。

そしてそれは自分に打ち克つような体験すること、つまり悔しい体験をすることです。

一流というのは、「克ちにこだわり」ます。それは己に克つことを望んでいるからです。楽を選ぶような人に一流はいません、常に楽ではない方を選んでできない理由を撥ね退けて限界を超えて奇跡を創りだしていくのが一に止まる人物の流儀でしょう。

せっかく若いのに成長しないというのは何よりももったいないことです。若いうちの苦労はかってでもせよというのは、若い時は苦労して自分に克つ体験をたくさんしなさいという先人の思いやりなのかもしれません。若い時こそ実力が着いてこないのだから、その時こそ体験をさせてもらえることに感謝して苦しくても何でもやってみることです。苦しい時の一歩こそ勝利を呼び込む鍵なのです。

それが初心者の基本姿勢、「克ち癖」をつける訓練ということです。

苦しいから楽をしようではなく、苦しくても遣り切ることで悔しくても愉しい方を選ぶ生き方の実践を子どもたちを励ましつつ背中で伝えていこうと思います。

自信を切り開く

先日から自由のことを深めていく中である学校が行う自己評価というものを拝聴し、もう一度自己評価とは何かと考え直しています。

他人は評価というものをします。もしくは評論というものをします。人間は自信がないと自分のことを誰かに評価してもらいたい、自分の評論を通したいと思うのものです。

結局は、自分の自信というものは自分のことを自分で評価できる物差しがないといつまでたっても自分に自信を持つことはないように思います。これを自己評価といいます。そしてこの自己評価というものは、自分の決心や覚悟と関係するのです。

そもそも自己評価というものは、自分との信頼関係が築くものです。もっとも身近な自分が自分のことを信頼するかということがあってまず自信が産まれます。たとえば決めたことを守っているか、自分が決心したことを応援しているか、自分の真心に嘘偽りがないかと常に正直に取り組むことで周りの環境が変化しようが人から失敗だといわれようがその人の中の自分はいつも自分を励まし応援を已めないのです。

自信というものは外から得られると勘違いしてしまうと、結果次第で自信が着いたりつかなかったりとしてしまいます。しかし実際は、自分が信じたのだからそれでいい、自分がそうしたいと思ったのだからこれでいいと自分自身のことを信じてあげるために努力をし真摯に生き切ることで自信はより強く育っていくのです。

自信がない人は他人の自信を奪います。自分の言動や行動の中で、すぐにネガティブな評論を展開したり、すぐにあきらめて文句を言ったりしていると、それが周りの自信を奪っていきます。楽になりたいと思えば思うほど他人の評価を求めてしまうのかもしれませんが、どこまでいっても自分を信じるのは自分というのは、もっとも身近な自分を信じるというのは自分のたった一つの人生を信じるということにつながっているからです。

自分への信頼というのは、楽を選ばずに苦労の中にある楽しみを選択して本心が望む自分に従って勇気を出して挑戦するときに伸びていくものです。天が与えた機会なのだから、それを全て感謝に変えてご縁を活かそうとするときに信頼はより強いものになるのです。

自分で考えるということや、自分で向き合うということは、自己評価です。考えないことへ逃げないということが自己評価の本質なのかもしれません。

自己との対話が素直にできるようになるには、自己との折り合いをつけなければなりません。本音本心を優先してあげるような真心の生き方を信じてあげなければなりません。

嘘をつくから自分自身に自分が言い訳するのですが、それでは自分+自身というコンビを組んでいる双方の相方の信頼が得られず関係がギクシャクして歩めなくなります。

そうではなく、自分に自信を持つために楽を選ばず苦労したって愉しい人生を自らで道を切り開き、その際に自分を自分で励まし、自己発奮して自分の真心と行動を一致させていくことで自分を評価できる正直な自分、あるがままの自分にしていくことです。

自信を切り開く人たちはいつも周りの人たちに自信を持たせてあげることができます。逆に自信を切り開こうともしない人は他人の自信を奪ってはそれで満足して何もしようともしなくなります。

「他人の道は他人の切り開いた道でしかなく、自分の道は自分で切り開く道なのです。」

人生は一度きりなのだから、自分の道は自分で切り開くということを大前提に生きるということを常に自らが忘れないでいてほしいと子どもには願います。自分にしかできないことをやり遂げて、最幸の人生を味わい尽くしていけるよう日々に情熱と挑戦と行動と実践に満ち溢れた充実しきった活きた背中をみせていきたいと思います。

 

幸運の人生

人生を思いかえれば、ほとんどは計画していない出来事によって構成されているのに気づきます。言い換えれば、行き当たりばったりということです。これを辞書で調べると、計画をせずにその場その場のなりゆきに任せることと書いています。

そもそもこの言葉は、無計画や計画の甘さで使われるようになっていますがもう一つ別に意味が潜んでいるように思います。

それは出会いを大切にしているということです。

人は人に出会うことで人生の岐路が大きく変化します。思い返しても、あの時、あの人に出会わなければと思うと、計画していなかったことばかりに運命が導かれていることを実感するのです。

同じ行き当たりばったりでも、感情に左右されたくないから考えたくないのか、それとも信じているから考えないのかでは天と地ほどの差があるのです。

世間の行き当たりばったりは、感情に呑まれてしまいたくない嫌悪感からそういう生き方を選んでしまいます。本来、ちゃんと段取りをして配慮しているからこそ行き詰まることもありません。何かあったらどうするかを常に考えるのは、問題意識と危機意識、役割意識の自覚が高いからです。これは確かに怠ると周囲に迷惑をかけてしまいますから、行き当たりばったりではいけないというのは分かると思います。

しかしもう一つの行き当たりばったりは、そもそもの自分の人生を信じているのです。運命というのは、天が与えた性に正直であるほどその人の運のままに流れていくように思います。無理をせず無為自然に運に任せて運が善いというのは天が与えた自分の人生を信じているからです。

信じているからこそ、「これで善いのだ」と判断でき、行き当たりばったりの直感に従って自分の人生を味わい楽しめることができるのです。時として計算していないのですが、その分、一つ一つの出会いを大切に真剣に生き切っています。

世間的な安定も安心もそれは周囲の評価や常識の中で計算されたものです。しかしそういうものではく、体験した後に自分はこういう人生だったのだと振り返れる幸福の今を生きているといっても過言ではありません。

どうせ人間はいつかは死ぬ日が訪れるのですから、精いっぱい生きようとするのは自分のたった一つの人生を信じているということです。

出会いを大切にしていく生き方というのは、来たものを選ばないということです。そしてそれは自分の思い通りではなくても、思い通り以上のことが起きていると信じているということです。天に任せて人事を尽くすという「最善」を実地実行する至誠の生き方です。

運の善さというのは、一期一会に人事を尽くす人に着いてくるのでしょう。

大人のように計算高くなるとそのことで正直ではなくなります、子どものように正直に計算をしていなくてもその時その時を一生懸命に生き切る童心を大切に守り育てていきたいと思います。

タイミング~一期一会~

種にも蒔き時、収穫時があるように物事にもタイミングというものがあります。

いくらこちらが都合よく計算していても、天候や周りの雑草、土地や気温など様々な環境、そのもの自体の育成の状況によって異なっています。

本来、タイミングというものはお互いの関係性によって育まれていきます。

つまりは、お互いが準備していなければタイミングもお互いに合わさないということです。

この準備をするというところにお互いの信頼関係という絆があるということです。

たとえば、植物でいえばいつの時期にどのようなことが起きるのか、その時、自分がどうするのかを予め予想しておきます。そうすることで、よく全体を観察し微妙にズレてしまう自分の方のタイミングを微細に調整しつづけることができます。

これは仕事でも同じです、タイミングが合うというのはいつも相手に合わせて自分の予定を調整しているからできることです。これは単に合わせているのではありません。これは積極的に自分の方からその仕事に取り組むのです、言い換えれば準備しているということです。

よく突然ほかの予定が入ったのでという言い訳や、急に出来事があったのでという言い方でタイミングが合わないといわれることがあります。しかし人間、どうしても何とかしたいと思うのならば準備を徹底的に行い、その時のタイミングがズレナイように工夫するのです。

それでも思い通りにならないのが自然ですが、自然に合わせるようになるのならば全体のために自分をもっと使い、それが徹頭徹尾すべて準備であるということを実践することで近づいていくように思います。

準備には、事前準備、今の準備、事後の準備というものがあります。

これは常に準備を怠らないという意味で、いつもタイミングが間違わないように創意工夫して努力しているということです。そしてそれは全体への気配りと配慮、つまりは思いやりを欠かさないということです。

たとえば、もしも生き物の世話をするのならこちらの都合で世話はできないものです。動物でも昆虫でもそうですが、きめ細かくそのもののいのちと接して、心で対話をしていくのです。それは思い込みや決めつけというものを乗り越えて、傾聴、共感、受容、感謝しつつ心を全体に合わせて気持ちを離さないということです。

意識は離れますが、心は思いやることで離れません。
意識は顕在意識ですが、心は潜在意識です。
この潜在意識は心が動かしますから、頭で計算しなくても心は全自動で働くのです。

心を遣うということは、相手のことを自分のことのように感じるということでしょう。これができないからタイミングがなかなか合わなくなるのでしょう。タイミングというのは、「一期一会」のことです。

奇跡のような時を過ごしながら、その時を無駄にしてはいないか。

今しかできないことに生き切っているかは、その人の生き方であり死に方です。生きていても頭で計算ばかりして生きた屍のような時間を無駄にするような人生にならないよう、自己一心の実践を大切にしていきたいと思います。