自分らしく自然体で場を調える

自分らしく生きるというのは、自分の心の声に従って生きていくことに似ています。今は心の声や魂などというと、非科学的なものや宗教とかいって嫌いな人もいますが実際には自分というものとの対話は生まれてから死ぬまでずっと行われるものですからそれを否定するのは難しいものです。

この自己との対話を続けていくと、現実と精神世界のような二元的な話になることがあります。しかし実際には、自分のあるがままや自然体でいるというのはある意味では心のままであり魂のままであるから現実も精神世界も一致したありのままの姿に近くなるということでしょう。

そういう意味では、自然界のすべての生き物たち、特に人工的に人間が関与していないいのちたちは自然体そのものであり霊的そのものといえます。

朝になれば、鶯が綺麗な声で鳴いています。そして朝陽をあびてキラキラと光輝いています。これはまさに霊的なものです。ほかにも、雨上がりのあらゆる植物たちが朝露と光で眩く揺らぎます。これもまた自然体であり魂のままあるがままです。

子どもたちも生まれたばかりの赤ちゃんや幼児期のころまでは、自然体で魂のままです。三つ子の魂とも呼んでいるものです。その自然体である子どもたちが、安心して自己との対話ができるように見守ることは、自然の中で循環する幼いいのちたちが自然体であれるように余計なことをせずに環境を調えることに似ています。

本来、人類は万物の霊長と呼ばれるように自然体であるいのちを見守る役割を持っていたように思います。それは上下の関係ではなく、知識や知恵を持つからこそあえて自然のままでそれが壊れないようにと自分たちを律して自然を調和するように努めてきました。

特に縄文期のような時代には、それが果たされ長い年月、地球の調和や平和が保たれていのちが自然体で謳歌していたように思います。今の時代は、自己からも離れ、迷走するばかりです。

大事なことを忘れない、そして忘れていたものを思い出すのは、目覚めに似ています。魂の目覚めともいうのかもしれませんが、自然体ということがどういうことかを気づくところからがはじまりかもしれません。

子どもたちが安心して暮らしていける世の中になるよう、場を調えていきたいと思います。