観音菩薩と蓮の生き方

最近、聖観世音菩薩や千手観音菩薩とのご縁が深まりいろいろと思いを廻らせています。もともと、私の家は代々、十一面観音菩薩に守護していただいているもので長谷寺をはじめ、気が付くと観音様をお祀りする寺院に参拝することが多くありました。また八十八ケ所霊場が故郷にあり、幼いときから観音菩薩を拝む機会がとても多かったように思います。

大人になって鞍馬寺でご指導いただいているときも、千手観音菩薩を拝んでおりました。この観音菩薩とのつながりやご縁は気が付くとずいぶん遠いむかしから今も私は結んでいることがわかります。

音は聞くものと思い込んでいますが敢えて音は観るものであるとしています。世の中の音というのは、音色というようにあらゆる色が含まれています。そしてそこには感情や心があります。人の心の模様をその時々に適して最も相応しい手を差し出せるとき、人は音のもつ不思議な調和の徳に気づくものです。

音を観てあらゆるものに変化するとされる観音菩薩は三十三観音をはじめ、あらゆる姿として描かれています。あらゆる姿に変化していく観音様ですからその中心として聖観世音菩薩として変化の前の姿を表現されます。その聖観世音菩薩はよく「未敷蓮華」(みぶれんげ=蓮のつぼみ)を持つ姿で表されます。

もともとこの蓮華は、仏教の教えや悟りに近いイメージがあるとして中国から日本に伝来したといわれます。蓮華は泥の深くに根を伸ばし、成長した後も泥に汚れることなく綺麗な花を咲かせます。そこから、穢れた環境のなかでも清々しく美しい純粋な花を咲かせようとたとえたのでしょう。菅原道真公の梅の花にも同じものを感じます。蓮は仏教誕生の地であるインドの国花ですから、仏教には古くから特に深い関係があったのでしょう。

先ほどの聖観世音菩薩がもつ未開敷蓮華は蓮のつぼみで悟りを開けば開敷蓮華(かいふれんげ)と呼びます。またそのためには5つの徳を積むことを蓮華で語られます。

私の解釈ですが、一つは、「淤泥不染の徳(おでいふぜんのとく)。」どんなに濁って穢れた環境下であっても純度高く美しい花を咲かせること。二つ目は、「一茎一花の徳(いっけいいっかのとく)。」自らの天命を信じて己にしかない唯一無二の道を歩んでいくこと。「三つ目は、花果同時の徳(かかどうじのとく)。」これは花と種が同時に実ることで、常に循環や縦軸を持っていること。4つ目は、「一花多果の徳(いっかたかのとく)。」一つの花が咲くことで周囲の豊かさや喜びの種をたくさんつけていくこと。自他の喜びを徳にし、その花が人々の仕合せに結ばれるということです。そして五つ目は、「中虚外直の徳(ちゅうこげちょくのとく)。」ただひたすらに真摯に無我の真心で歩み続けるという生き方です。

聖観世音菩薩とはそのような人物であったのだろうと思います。私たちは自然の生き物やいのち、その生き方から深く尊敬をし自らのいのちも同じように充実させていきたいと願い、その植物を尊敬することで憧れたのかもしれません。

純粋な心で純度を磨いて自らの魂を高め徳を積む。

先人の遺徳を思いながら、子どもたちのために道を清々しく歩んでいきたいと思います。