徳が循環する経世済民

自然には自然の快復力というものがあります。多少破壊されてもそれが時間をかけて快復していき元通りになっていくということ。これは人間の身体と同じです。

人間の身体にも自然快復力があります。これによって病気になっても休養していれば快復していきます。例えば、怪我などで傷めても時間が経てば快復して戻通りになります。

しかしもしもこの快復力を超えてさらに傷めたり、無理をさせると恢復が追いつかずにさらに悪い結果になっていくことがあります。つまり自然の快復が好循環なのに対し、身体も悪循環になっていくのです。

自然界は、この循環によって全体最適を実現しています。循環が乱れればそれを元の循環に快復しようと全体最適を自然がみんなで行います。多様ないのちや生き物たちも協力しあって自然の循環が澱まないよう、妨げられないように変化していきます。山から海、流域や地球などをよく洞察して対応していくのもこの全体快適かどうかを見極めていくことに必要です。

しかしもしも部分最適を優先し、病気だけをみて工事をし多様ないのちや生物を排除してしまえば自然の循環が滞り快復が妨げられ、さらに悪化していき崩壊に進みます。費用も嵩み、人工物だらけでさらに自然の循環が働きにくくなるのです。

そしてこの自然の循環がどのようになっているのかで民が安んじることができるかを洞察したのが熊沢蕃山です。そもそも、治水と治国は同質のものです。お水が安んじるような循環をすれば、国も同様に人々が安んじることができるというもの。

なぜ水害や洪水が起きるのか、根本的な原因を突き止めたのです。

例えば、山が荒れれば、川が荒れる。川が荒れれば、田畑が傷む。田畑が傷めば、人々の暮らしが苦しくなるという具合です。だからこそ熊沢蕃山にとって治水とは、川だけを治すことではなく、山、川、田畑、生業、暮らし、そして政治までを、一つのつながりとして調和させようとしました。

しかし今の時代と違って、一浪人が国家の政治を語るなど不遜であると幽閉され発言の自由をも奪われていきました。これは吉田松陰とも同じです。政治は権力と結びついていますから危険思想となりました。

時代を経てその後の歴史をよく推察すると、結局は自然を破壊して快復できなくなり現代の環境問題を生みました。対処療法の限界値を超えて、現代は打つ手が次第に失われてきています。温暖化をはじめ、公害、宇宙ゴミなど始末に負えません。

一部を豊かにするために、別の場所へ負担を押しつける、今を豊かにするために、未来を犠牲にする。これは部分最適をし続けたことで発生した人類の選択ミスとも言えます。だからこそ、今こそみんなで全体快適に取り組む必要があると思います。

それを一人一人の暮らしから見直すというのが、私が提唱する暮らしフルネスの実践です。環境問題は人が起こしていますから、一人一人の意識を変えていくことで解決していくというものです。自分が全体快適な暮らしをしていくことで、世の中全体も好循環をつくりだしていく。

自然から遠ざかるのではなく、自然と近づき共生し、少しでもいのちや全体が好循環するように小さな日々の暮らしを調えていくということです。私も中江藤樹と同じように、あまり政治や権力には興味がなく日々の小さな実践こそ大切だと感じています。

極端な取り組みは、その反対をつくります。結局それを繰り返していたら、同じ穴の狢のようになってしまいます。仕合せではなく、競争や比較になって自分を見失うこともあるものです。

自然の循環やいのちのリズムに合わせていく方が偉大な螺旋の影響をいただき大河のような流れを味わい安心するのも自他一体の境地です。

引き続き、徳が循環する経世済民を目指し色々と学び直していきたいと思います。

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